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出エジプト記24章9-11節

2011年12月09日 13時08分29秒 | 聖書

24:10 「そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。」  彼等は、イスラエルの神を仰ぎ見たと語っています。イスラエルの神というのは、神様が特別に恵みを施して、その神の民としての祝福と恵みを、このイスラエルの民に与えて下さったので、このように語っているのです。  彼等はこの神を仰ぎ見たのです。もちろん、神様は霊ですので、人の目に見ることは出来ません。従ってここでは、その方の有り様を次のように語っています。すなわち、「足の下にサファイヤを敷いたようなものがあって透き通っていた。」と、このように語っているのです。サファイヤは青色であることが多いのですが、貴重な宝石として、当時用いられたものです。ここでは「サファイヤ」と断言していませんが、その透明さと青いことによる清さを示すことによって、神様がこのように、聖き所においでになられる、聖なる方であるということを知らせているのです。


◆預けられたサイン入り小切手帳

2011年12月09日 13時00分09秒 | 聖書

神のことばは、すべて純粋。
神は拠り頼む者の盾。       (箴言三〇5)

人のことばには、偽りもあれば、間違いや思い違いもあります。クロロホルムの発見者ジェームズ・シンプソン博士といえば、当時、世界中の学者から尊敬と信頼を集めた学者でした。彼の甥のエジンバラ大学教授シンプソンのところへ、エジンバラ大学図書館から、「あなたの伯父さまの本を点検して、今では不要になったものを別に整理したいのですが、ご指導ください」との連絡がありました。甥のシンプソンは、よく調べた上で、こう言ったといいます。「十年以上たったものは、みんな抜き出して地下室へ移してください。」人のことばは、最も正確を期したことばであっても、十年たつと古びて当てにならなくなるのです。
ところが、聖書は違います。何千年も昔の古い書物なのに、一字一句ゆるがせにされず、古文書として扱われてはいません。神の誤りのない生きたことばとして、今も何千万何十億の人々の生活を生かし、力づけ、正し、導いているのです。驚くほかありません。イザヤ書はこう言います。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇8)。イエス・キリストご自身は、こう言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(マタイ二四35)。
この私も、魂の苦悩やいろいろの悩みを通って、ある日、青天のへきれきのように、聖書のことばは「炉で七回もためされて、純化された銀よりも尊い、神の混じりけのない、きよい愛のことばだ」(詩篇一二6参照)と分かるようになりました。聖書は、私の魂を穴から救い出し、滅びから生かし、暗やみから光へ引き出し、私の偽善を両刃の剣のように鋭く映し出す、神のことばだったのです。それ以来聖書を、人生の教えの書どころではなく、神からそのまま預けられたサイン入りの小切手帳のように感じています。

 


◆それゆえ、

2011年12月09日 12時58分09秒 | 聖書

主はあなたがたに恵もうと待っておられ……。(イザヤ三〇・一八)

神はしばしば祈りに対する答えを延期される。聖書にはこの実例が幾つかある。ヤコブは、夜明けまで天使から祝福を得られなかった。彼はそのために夜を徹して格闘しなければならなかった。スロ・フェニキヤの貧しい女は、初めのうちは、一言の答えも得られなかった。パウロは「肉体のとげ」が取り去られるように三度も主に祈ったが、取り去られる保証は与えられず、その代わりに、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である」との約束が与えられた。
恵みの門をたたき続けても、何の答えも得られないことがある。なぜ力強い創造主が戸を開いてあなたを中に入れてくださらないのか。父なる神は、このように私たちを待たせられる特別の理由をもたれる。
その一つは、神の力と主権を示すため、すなわち、主は与え、主は取られる権利をもつことを人々に知らせるためである。多くの場合、遅延は私たちにとって益となる。神は、遅延があなたの願望をさらに強いものとすることをよく知っておられる。私たちはこれにより、自分の必要をもう一度明確に自覚し、さらに熱心に求めるようになり、恵みの尊さをいっそう身にしみて感じるようになるのである。
別の理由としては、あなたのうちに何か悪いものがあって、主の喜びを与えられる前にそれが取り去られる必要のあることが考えられる。あるいは、神の福音のご計画についてのあなたの考えが混乱しているためかもしれない。あるいはあなたが、単純かつ全面的に主イエスにより頼むことをしないで、ある程度自分自身に頼っているためかもしれない。そのほか、神は最後にご自分の恵みの富をさらにあなたに示すため、その答えをしばらく猶予しておられるのかもしれない。
しかしあなたの祈りは、天においてことごとく記録されていて、絶対に忘れ去られることはない。ただちに答えられないにしても、やがては必ず答えられて、喜びと満足をもたらすであろう。失望して沈黙することなく、熱心な嘆願を執拗に継続しようではないか。