座間コミニティー

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レター・泉教会

2011年12月05日 11時18分05秒 | 聖書

(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)

結婚する二人は、こう言います。「愛しているから、好きだから結婚します」と。私は、「好きではなくなったら、どうしますか?」と、初めに、水を注すことにしています。愛には、3つの種類があることをお話ししましょう。第1が、結婚する人たちがよく言う「好き/だから」という愛。顔形、性格が好き、だから愛するというものです。しかし、もし病気でもすれば、顔は変わります。リストラに遭えば状況は変わります。同じように、変わらないと思っている、好きというこちらの感情だって、いつも同じというわけにはいきません。だからの愛は、好きという感情の上に乗った、不安定な愛といえるでしょう。2番目は、「もし」の愛。「もし、いい子にしていたら、ごほうびあげようね」「もしあなたが大学に入ったら、お父さんお母さん、どんなにうれしいことか」そういう条件つきで愛された人、期待を背負わされた人は、相手の喜ぶように生きる結果、余裕のない人生を生きるようになってしまいます。「もし」の愛で関係付けられた人は、相手を喜ばせようと、知らず知らずに自分らしさを失っていくしかありません。第3は、聖書が言う「でも」の愛。あなたが今、どういう人であっても、また将来、たとえ私の気に入るような人にならなくても、「でも」私はあなたを愛します。・・これは、神の愛、キリストの愛として、聖書が紹介する愛です。現在も将来も、私たちがどういう人であれ、「でも」あなたを受け入れますという、絶対無条件の愛です。カウンセリングの基本は受容と共感ですが、この神の絶対無条件の愛に近づけて、治療を試みるものだと私は思っています。しかし、神の愛はどのように人間が真似しようとしても出来るものではありません。神は、独り子キリストを投げ出してしまわれた。十字架によってその証拠を示して、絶対無条件に私たちの存在そのものを受け入れてくださるのです。この「でも」の愛の中で、私たちは、自由な人生を生きることができるのです。あなたも神さまの愛の中で、自由な生き方を生きてごらんになりませんか。


出エジプト記23章23-28節

2011年12月05日 07時52分14秒 | 聖書

23:24 「あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」  約束の地のカナンというのは、誰も住んでいない地ではありません。そこには、10に届くほどの、土着の民族が住んでいました。そして、それぞれの民は皆、自分たちの礼拝している神々を祭っていました。彼等は、それを自分たちの守り手、また導き手と信じて、礼拝していたのです。しかし、それらは人の手が作った像であったり、また、自然の力を崇めるにすぎないものです。単に、神のかたちをかたどった、偶像に過ぎないものです。彼等は、イスラエルの民のように、真の神のことを知らされていないために、こうした偶像礼拝に陥っていたのです。天と地を造られた神こそ、真の神であり、唯一の神です。その神を、イスラエルの民は恵みによって知らされ、礼拝することが出来たのです。従って、真の神を知らされた者として、神でもないものを神とすることは、厳しく禁じられました。主の民にとって、これは基本的な、また根本的な生活の姿勢であるのです。


◆根  の  生  活

2011年12月05日 07時39分06秒 | 聖書

しもべをことばだけで戒めることはできない。
彼はそれがわかっても、反応がない。(箴言二九19)

部下の中には知恵のある者もいようが、愚かな者もいて、ことばだけでは分からない。むちで、こらしめて教えなければだめだという意味かもしれません。
しかし、人の上に立つ者が、いやおうなく体験することは、自分の子どもにしても、部下にしても、兵隊にしても、口先だけの命令や教えでは、けっして動かないということです。昔、軍律のきびしかった日本の軍隊でも、戦場で味方の兵に撃たれたきらわれ者の将校があったと聞きます。上に立つ者として、人をほんとうに動員することができる、育てることができる、教えることができる、訓練できるようになるために、必要なものは何でしょうか。
それはその人のことばではなく、ことばを裏づける生活・いのち・心の実態ではありませんか。大切なのは、人に聞かせる口先のことばではありません。人に見せる行為でもないのです。イエス・キリストは、人に見せたり聞かせたりするためにパリサイ人たちが街頭で行った長い祈りや施しや断食をきらわれ、そんなことは人の見ていないかくれたところでしなさいと言われました。
そうです。人に見られない、私たちのかくれた生活、――実は、これが人生の根なのです。人の目に、根は触れません。この根のような生活の部分が、人生を支え、人生をつくりあげ、人生の力の源となっています。ですから、ほんとうに人の上に立ち、人を動かすことができるようになりたいと思うなら、このかくれた根の生活を大切にしなければなりません。人の上に立つ者の力の源は、ここにあります。
あなたの人生の根の部分は、どうなっているでしょうか。

 


◆求めなさい。そうすれば与えられます。

2011年12月05日 07時37分45秒 | 聖書

(マタイ七・七)

英国には、だれでも希望するならパンをもらえる所がある。旅行者はだれであろうと、セント・クロス病院の戸をたたきさえするならば、いつでもそこにパンが用意されている。イエス・キリストもこよなく罪人を愛され、同じようにセント・クロス病院を建てられた。そのため罪人は、飢える時にはいつでもただその戸をたたきさえすれば、その必要を満たされる。
イエスはさらによいことをされた。主はそのセント・クロス病院に浴場を備えられたのである。黒く汚れたたましいは、いつでもただその浴場に行って入浴しさえすればよい。その霊泉は常に満々とたたえられていて、著しい効力を発揮する。これに浴した罪人の中で、その汚れを洗い落とすことのできなかった者は一人もいない。深紅の罪もすべて消え去り、罪人は雪よりも白くなる。
なお、これでもまだ十分でないかのように、主のセント・クロス病院には衣装部屋がある。そして、単純に罪人として申し出た者には、頭から爪先まで新しい衣が与えられる。彼がもし兵士になることを望むなら、普通の衣だけでなく、足の裏から頭の先までの武具をも与えられる。剣を求めるなら、それに添えて盾も与えられる。彼にとってよいものは何一つ拒まれることはない。彼の生きている限り、必要な金銭も供給され、さらに主の喜びに入る時には、光栄ある永遠の資産を受け継ぐ者とされるのである。
もしこれらのすべてのものが、単に恵みの戸をたたくことによって得られるとすれば、私のたましいよ、今朝、強く戸をたたけ。そして、恵み深い主に大いなることを求めよ。すべてのおまえの必要を主の前にくり広げ、信仰によって、これらのすべてが満たされたという確信が訪れるまで、恵みの御座を離れるな。イエスが招かれるゆえにためらうな。イエスが約束しておられるのであるから、不信仰によって妨げられるな。このような祝福が与えられようとしているのに、なお冷ややかな態度をもってそれを見過ごしてはならない。