今日もとしさんは、朝から出かけていました。
僕は、瞑想しながら留守番をしていました。
さっきとしさんが帰ってきました、褒めてくれたので嬉しいです。
23:30 「あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。」主の民が、主に従いそのみ言葉に従って歩むならば、主がその地の人々の敵となって、彼等をその地から追放して下さると語られました。そして、その地を彼等に与えて下さると告げたのです。主が所有される地ですので、それを彼等に与えて下さると言われたのです。しかし、その時に主が語られた事は、この偶像を礼拝するところの民を、即座に追放するということはされないと語られ、むしろ、徐々に彼等を追い出そうと告げられました。その理由は、耕す人がいなくなって土地が荒れ、また、野の獣が増えて危険にならないためであるというのです。つまり、彼等が定住する時に、ちゃんと生活することが出来るような手段を整えてあげようと、語っておられるのです。神様は、単に約束の地を与えて下さるということのみではなくて、そこにちゃんと住むことが出来るまでに、助けを与えて下さるというのです。神の下さる配慮です。
人の高ぶりはその人を低くし、
心の低い人は誉れをつかむ。 (箴言二九23)
箴言二九章は、上に立つ人・支配者・治める人について中心的に教えている箇所です。その観点からきょうのことばも考えてみると、よく分かります。今までに会った、ほんとうの指導者は、みな謙遜だったように思います。
そうです。人の上に立つ人は、謙遜でなければなりません。「出るくいは打たれる」で、自分を鼻にかけすぎると、必ずたたかれ、痛い目に会います。私たちは、自分を鼻にかける人をきらいます。最後までは従おうとしません。しかし、それだから謙遜にしていることが必要だというわけではありません。
似て非なる謙遜も、いろいろあります。コマーシャル的な腰の低さとか、いんぎん無礼とかがあふれる中で、あなたをほんとうに高くし、誉れある者とし、指導者とする真の謙遜さとは、どんなものでしょうか。
第一に、自分自身を知りきっているゆえの謙遜です。自分がどんなに弱く自分勝手な罪深い者であるかを神の前にはっきりと知っています。そんな自分をも愛しゆるし救ってくださる神の恵みを知った人は、人を理解し、愛するのです。これこそ、上に立つ人の不可欠の資格ではないでしょうか。
第二に、自分の能力・地位・成功のすべては、神が与えてくださったものであり、何一つ自分のものはなく、自分がやったと誇るものがないことを悟りきっています。頭がいい。――神の賜物です。めぐり合わせがいい。――神の配剤です。家柄も健康も容貌も土地財産も、何一つ、自分のかせぎ出した自分のものといえるものはありません。神が与え、神が人の上に立つ者として、人と仕事を管理するように任せてくださったと思う時、へりくだって恐れおののくのです。
水が低いほうに流れるように、神の恵みと誉れは謙遜な人に流れこみます。
(Ⅰコリント一五・四八)
頭と器官は同じ性質のものであって、ネブカデネザルが夢の中で見た大きな像のようなものではない。彼の見た像の頭は純金であったが、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土であった。キリストの霊妙なからだは、このように相いれないものの奇妙な結合ではない。器官は死すべきものであった。それゆえ、イエスは死なれた。栄光のかしらは不滅である。したがって、からだも不滅なのである。なぜなら、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」と記されているからである。私たちの愛するかしらとからだ、また器官の各部分は同じ性質をもつ。かしらが選ばれているなら器官も受け入れられ、かしらが生きているならば器官も生きているのである。もしかしらが純金であれば、からだのすべての部分も純金である。このように、同一の性質が、たぐいない密接な交わりの基礎となっているのである。
敬虔な読者よ。しばしここにとどまって思え。惨めなあなたを、御子の栄光との幸いな結合にまで高められた主のへりくだりを思う時、どうして喜びと驚きとを覚えずにおられよう。あなたが、自分のもつ卑しさと死すべき性質を思うならば、朽ちるものに向かって、「おまえは私の父だ」と言い、虫に向かって、「おまえは私の妹だ」と言わざるを得ないかもしれない。しかしキリストにあるなら、あなたは尊ばれ、全能の神に向かって、「アバ、父」と言うことができ、受肉された神に向かって、「あなたは私の兄弟であり、私の夫です」と言うことができる。
もし、由緒ある高貴な家系と関係のあることが、人々を何か偉い者のように思わせるとすれば、私たちは、それらのすべてにまさって誇りを感じるべきではないか。最もさげすまれる信者もこの特権に頼るがよい。怠惰によって、自分の光栄ある系図をたどることをなおざりにしてはならない。愚かにも現在のむなしさに引かれて、キリストに結合されているという栄光の誉れを忘れてはならない。