マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

ハワイ島ヒロの「ポストオフィス」

2010-07-31 16:16:41 | 日記

                     (12)

 ベトナム戦争が終わってしばらくしてから、テレビ、「タイム」、「ニューズウイーク」や新聞などに、「Post Traumatic Stress Disorder」 という言葉が出てくるようになった。
 「心的外傷後ストレス障害」ということのようだった。
 人間は、通常の生活をしていても、絶えずストレスは感じている。 これは、悪い意味ばかりではなく、適度に刺激を受けることで、むしろ、能力が開発されて、啓発され向上する原動力にもなるのである。
 適度のストレスであれば、「消去メカニズム」が働いて、後残りしないで、その都度、忘れ去られるようになっているようである。
 しかし、能力を超えた過度のストレスを受けると、自浄能力が、もはや、働かなくなって、その人の精神では対応できなくて、一種のパニック状態になるということである。

 阪神大地震のような自然災害に出会ったり、強盗に襲われたり、レイプされたり、戦争に巻き込まれたりすると、通常の神経ではまかないきれなくなる。
 そのようなとき、神経に変調が起こり、それに対処するために、周りの人たちに強力な加護を求めたり、薬物に頼ったり、アルコールに依存したりの現象が起こってくるようだ。
 ベトナム帰還兵の、30パーセントを超える人たちが、病院での継続的な治療が必要だったとされている。
 現実に、ほとんどの帰還兵たちが、何らかの、障害に悩ませれているとの調査結果があるのである。
 軽症の人たちも、何らかの方法で、たとえば、自分の家族や周りの人たちの理解や、支えで持ちこたえているとのことであった。

 症状としては、夜眠れないというのが一番多く、悪夢に脅かされる、攻撃を恐れて絶えず身構える、神経が敏感である、集中して仕事ができない、周りの人たちと会話ができない、引き籠るようになる、などさまざまな症状がが確認されているようだ。
 幻覚に脅かされて、思わず近くにいる人に先制攻撃をしてしまう、何でもない時に、パニックを起こして暴れる、というように、症状が外に出てきて、関係ない人たちを困らせたり、迷惑をかけてしまうようなことが起きているようである。

 マイクも、朝の食卓に出てこなくなってからしばらくたった。
 みんなで、食卓で、お祈りをしてから食事を始めるのが習慣だったはずだ。
 食欲がないというのもある。しかし、夜、一睡もできないのでは、彼自身、どうしていいのかわからなくなっていた。
 このころでは、家族と諍いを起こすなどということも起こっていた。。
 今までの、マイクでは、考えられないことだったのである。
 高校の時も、素直で、親思いで、休日には、家の仕事を手伝っていたのである。

 彼が、PTSDの初期の症状であることは、誰でも確認できた。
 この時期になると、さすがに、マイク自身も、自分に異常があることは認識できていた。
 「在郷軍人会」に電話をして、状況を説明して、助けを求めたのも、マイク自身だった。
 数日して、軍人会の紹介で、女性のカウンセラーがやってきた。
 2時間も、話をした後で、彼女の結論は、
 「病院での治療が必要かもしれない」ということだった。
 帰り際に、ウイチタの総合病院の精神科宛ての「紹介状」を手渡してくれたのである。

 数日おいて、今は、ラクロスという町に嫁いでいる、一つ年下の妹が、車でウイチタの総合病院まで連れて行った。
 「いますぐ、入院するまでもないが、取り敢えずは、定期的に治療に来るように」と言われた。それに、薬を処方された。
 それで、しばらく様子を見ようということになったのである。
 戦場で、あの過酷な状況の中で、神経を保ち得たのは、おそらく、想像以上に強力な注射と薬物のお陰だったのだろう。
 
 ウイチタの航空機会社で働きたいという希望も、もはや、消えかかっていたのである。
 決まった時間に、寝て起きて、食事をするという日常の「ルーティン」が、もう守れないのである。
 働ける状態でないというのは、自覚できた。
 何かの幻影に脅かされ、常に鬱状態で、イライラしていた。
 長男のマイクが、行く行くは、家の仕事を継ぐという心つもりでやってきた。
 しかし、今では、自分だけが浮き上がって、役立たたづの人間であるように思えた。
 「ばあちゃん」、両親、弟も、何か、恐々自分を遠まわしに、離れた所から見ているように感じていた。

 そのような時、かつての親友から一通の手紙が来たのである。
 分厚い封書だった。表書に、マイクの名前と差出人の「ケリー・ダグラス」の名前が書かれていた。
 懐かしい名前だ。ドイツにいた時、一緒に語り、遊んだ戦友である。
 しかし、この手紙の投かん先は、彼の故郷、オレゴン州ではなかったのである。
 住所が書かれてなく、ハワイのヒロという町の郵便局から差し出されていたのである。

 

 


ホームカミングパーティ

2010-07-29 14:56:47 | 日記

                    (11)

 マイクの帰還をみんなで喜び合った。
 悪くすると、棺に入って帰って来たかも知れないのだ。負傷もしないで帰って来られたのは、幸運以外の何物でもなかった。
 今にして、自分が、こうやって故郷にいるのは、奇跡のように思えたのである。
 忙しい時期だったが、週末に、マイクの「ホームカミングパーティ」が開かれた。
 たくさんの人がやってきた。誰が誰か分からないくらいで、マイクは、あちこちで、「ハグ」されていた。
 大国アメリカが、ベトナムに負けて、世間は、政府のことを信用していなかった。同時に、ベトナム帰還兵に対しても厳しい目が向けられたのである。
 「お前たちは、何をしにベトナムまで行ったのだ!」と罵る人もいた。
 そんな中、故郷の人たちは温かかったのである。
 
 マイクは、ひと段落したら、以前の会社に再就職したいという希望を、かねてからもっていた。
 「軍籍」にあったものとして、再就職は有利で、自分から就職の心配などする必要がなかったのである。
 「そんなに急がないで、ひと月くらい、家でぶらぶらしたらどう?」というのが、家族の意向だった。

 ちょうど、忙しい時期でもあるし、農場の手伝いでもしようか、ぐらいに思っていたのである。
 そのころは、自分が何か問題を抱えているとの認識はなかった。
 ただ、夜眠れないのは困った。
 夜が明けて、窓辺のカーテンに朝日が差し込んでくると、初めて、ほっ!とした気持ちになった。

 休日に、妹の旦那に誘われて、湖にボートを出し、マスを釣りに行ったことがある。
 釣り糸の先が踊っていて、マスが食いついているのに、まるで気づかないように、マイクは遠くの水辺を見ていた。
 妹の旦那は、初めて、
 「マイクは、どうしたのだろう!」と感じた。
 母親が、マイクの部屋の掃除をしていた時、ウオークインクローゼットに、長靴の列に交じって、ウイスキーの瓶があるのに気づいた。
 「マイク!、お酒を飲んでいるの?」と訊くと、
 「うん、ちょっと眠れない時に、飲んだりしている」という返事だった。
 
 自分の部屋の、ふかふかしたベッドが、寝心地が悪くて、なじみにくいとは感じていた。
 夜になっても、寝付けないで、ベッドに座ったまま、暗闇の中で、朝方まで、じっとしていることが多かった。
 砲弾、銃弾が飛び交う戦場にいた時の方が、居心地が良かったとさえ思えた。
 戦場では、何かの場合、注射をしてくれたり、薬をくれたりしていた。
 そのおかげで、日々過酷な時間を凌いでいくことができたのである。
 しかし、ここは戦場ではない。近くに、飛び込んでいく「野戦病院」はなかった。
 縋りたいと思っても、助けてくれそうな人はいなかったのである。

 

 

 


ヒッチハイク

2010-07-28 15:13:11 | 日記

                    (10)

 ベトナム戦争が終末を迎えるころ、突然、軍の命令で、「後方基地」は撤収されることになった。
 アッ!という間で、何が何だか分からないまま、テントなどの施設は残したままの撤収であった。
 まあ、命からがらというか、一日の猶予もなく、この「作戦」は実行されたのである。
 戦局が、芳しくないことは、みんな知っていたので、あるいはという感じだった。

 撤収してから、軍艦で脱出したのか、輸送船なのか、あるいは、航空機だったのかは、マイクに訊いてないので分からない。
 取り敢えずは、なんらかの方法でグアム島に着いたのは確かである。
 戦争時、グアム島に来て休養をとり、ある期間を置いた後、交代要因として、再び戦場に帰ることはよくあった。
 それで、今度も、再び戦場に戻るよう、という命令が来るのではないかという、びくびくした不安が心の中にあったのである。
 事実、他の隊員たちも、
 「何時、戦地に帰るのだろうか?」と囁き合っていた。
 いつもは、スケジュール表が渡たされ、自分たちの次の任務が示されるのに、この度に限っては、それがなかったから、お互い、疑心暗鬼な気持であったのである。
 時間が経つにつれて、
 「もう、戦場に戻る必要はないのだ!」という確信みたいなものが、兵士たちの間に広がっていった。
 2週間も経っただろうか。
 身繕いを整えるよう、との指示があり、集合させられた。
 そこで初めて、次なる任務は、ベトナムに戻るのでなく、アメリカ本土に戻るのだという説明があったのである。
 今度は、民間の航空会社所有のチャーター機に乗せられ、米国本土のカリフォーニアの基地に向かったのである。

 ベトナムの戦争が、終結したことを初めて知った。
 「除隊を希望する者は許可する」という通達が出た。
 軍に残ることも出来たが、マイクの場合、除隊を申し出て、手続きをした。
 ほとんどのベトナム帰還兵が、除隊の手続きをした。
 除隊の日、マイクは、グレイハウンドの高速バスで、故郷に帰るつもりだったが、同じ方向に帰る同僚が、
 「ヒッチハイクで帰るつもりだけど!」「一緒にどうだろう?」と誘ってきた。
 「では」ということで、デンバーまで一緒に旅をすることになったのである。
 当日、上官が、ジープで、サンバーナディノの外れのハイウエーまで送ってくれた。
 「お互い、無事でよかったなあ!」と言いながら、抱き合った。「元気でな!」と上官が言った。

 彼らは、軍服、制帽にサングラスの出で立ちだった。
 それに、身の回りのものを詰め込んだドンゴロスの大きな袋を肩に担いでいた。 
 軍服姿がよかったのか、手を挙げると、割とスイスイ、乗用車、あるいは、トラックが止まってくれた。
 何度かヒッチハイクで、車を乗り継ぎ、デンバーまでたどり着いたのである。
 この時期、ちょうど農繁期で、故郷の方は、猫の手も借りたいくらいに忙しかった。
 そうでなければ、カリフォーニアまで家族が迎えに来るはずだった。

 軍に入隊してから、こまめに、故郷の家族には手紙を書いた。ほとんどは、手書きであったが、時に、施設のタイプライターで、長い物語のような手紙を書いた。
 故郷の方からも、しげく、手紙がやってきた。
 このたびの除隊のことをみんなが喜んでくれた。また、以前のように、みんなに会えると思うとうれしい気持ちでいっぱいだった。

 デンバーで友達と別れた。
 彼は、北の方向のノースダコタに帰って行った。
 デンバーのグレイハウンドバスディーポで、高速バスを待つ間、初めて故郷のことを思い、心が平和になってきた。
 戦火を逃れて、無事、故郷に帰れるのだという実感のようなものがふつふつと沸いてきたのである。
 アメリカの空は、あくまで青かった。
 砲弾、銃弾が、飛び交うこともなく、炸裂音も聞こえなかった。
 「なんと、平和なのだろう!」と心から、そう思った。

 

 


ドッグタグ (dog-tag )

2010-07-26 17:19:49 | 日記

                     (9)

 誰かが死んだとき、その「死体」が、誰のものなのかを判別する必要がある。
 判別をよりし易くするために、アメリカ軍兵士は、認識票を首に下げている。
 死体がバラバラになった時のために、戦時下では、足にもつけるようである。
 
 この認識票は、元はと言えば、犬用に作られたものである。
 狂犬病を防ぐための予防注射が、すでに終わっているかどうか、外から見ても、判別できるように犬に携行させたのである。
 これと同じものをアメリカ軍兵士が携行するようになったが、名前は、犬の場合と同じく、「ドッグタグ」 (dogtag ) と言われている。つまり、犬につける鑑札である。
 犬と一緒にされて、蔑まれた感じがしないでもないが、一般にも、ドッグタグとしてこの名前が通用している。
 つまり、「ドッグタグ」と聞けば、あれか、と誰でもが知っているということである。

 戦場で、完全な形で、死体が残っていればいいのだが、いつもそうだとは言えない。
 砲弾を受けたりすると、その近所の石ころのように、四方に散ってしまうのである。
 これは誰の手なのだろう、これは誰の足なのだろう、などと後になって判別が難しくなる。
 ドッグタグは、一番の鑑別法であるが、そのほかに、 
 兵士が自ら、体の各所に自分独特の「入れ墨」を入れて、それを写真に残して、軍の公式な記録として保存している場合がある。
 
 最近では、このドッグタグは、戦場ではなく、巷で、若者の間にファッションとして持て囃されているし、「刺青」も「タトウ」と言われて、身にまとう衣装のように、男女を問わず体のあちこちに散りばめられている。

 マイクは、戦死者や負傷者の搬送に立ち会い、そのあまりにもショッキングな場面を見てしまうことがある。
 パニック状態から、時に、嘔吐したこともある。
 目眩を起こしたこともある。事実、一度など、失神してしまい、気付いたら、ベッドの上に横になっていた。
 思い出そうとしても、どうしてそのような状態になったのか、前後の記憶がないのである。
 おそらく、強力な鎮静剤を飲まされたか、注射を打たれたかだろう。
 マイク、独りではない。一緒に配属になった同期の戦友たちも、例外なく、同じようなショック状態になるのはしばしばだった。
 そのようなとき、どのような処置がなされるかは、その都度見てきたし、自分がどのように処置されたかは、想像もできたのである。
 それぞれの戦友たちが、常習的に、薬に頼るようになっていた。自ら野戦病院に出向いて、薬の処方を申し出たりもしていた。
 

 絶えず、砲弾、銃弾が飛び交う、けたたましい轟音の中でも、夢 を見ることがあり、故郷の穏やかな風景の中で、母親と会話をしていたこともある。
 高校の時、父親の仕事を手伝い、トラクターを分解したとき、どうしても故障の原因が分からず、戸惑っていた時のことなど、「フッ!」と頭の中をよぎっていった。

 


エンバーミング ( embalming )

2010-07-24 16:51:46 | 日記

                     (8)

 マイクが、メコンデルタの後方基地に配属された時、直属の上司から、仕事の内容の説明があった。
 飽くまで、「後方支援」であって、前線で銃を持って戦うことはない、ということだったのである。
 マイクは、最前線で殺し合うのでないことで、「ホッ!」した気持であった。
 確かに、そのようで、マイクも、トシに、
 「ぼくは、人を殺したことはない!」  ( I didn't kill anybody! )と言っていた。
 ただ、戦場の間只中にいたのは間違いなく、絶えず、砲撃、あるいは、銃撃される危険はあったのである。予期しない交戦の場面に出くわすかもしれない。
 したがって、ショットガンやマシーンガンは、常に携行していた。
 
 後方基地から前線基地までの行き来は、たいていは、トラック隊が組まれた。
 周りを、2重3重に警護されながら、移動作戦は実行された。
 はじめは、前線に、食糧、水、緊急の医薬品、兵士の着替えの衣類、日用品などの補給、また、手紙を届けることもあったが、戦局がひっ迫して来ると、前線から戦死者、負傷者を野戦病院まで運ぶことも多くなっていたのである。
 時に、ヘリコプターによる移動作戦にも参加した。
 もちろん、厳重な警護に守られてはいたが、どこからか、隊列目掛けて襲撃されることも、多くあったのである。

 マイクと話をしていて、、
 「あの酷いエンバーミングだけは、我慢できなかったよ!」
 ( I just couldn't stand that messy embalming! )
  「エンバーミングとは、どういうこと?」
 ( What do you mean by 'embalming'?)
 「エンバーミング」という言葉は初めて聞いた。
 どうやら、「死体処理」のことのようだった。

 野戦病院の一角に、この「エンバーミング」の場所があった。
 負傷者は、野戦病院に運び込まれたが、前線から、戦死者を運んでくるのは、ここだったのである。
 死体と言っても、完全な形を保っているのはまれで、体の各部が、千切れ、散乱したものを集めて、とにかく、一緒くたに持ち帰ることが多かったのである。
 何かの荷物のように、番号札が括りつけらていたりして、メモ書きがなされていたりした。
 
 熱いところであるから、一刻でも早く防腐処理することが求められた。
 日本と違ってアメリカは、ほとんどの死者は、土葬にされる。
 戦死者は、あくまで、完全に近い形で、故郷の妻、両親、兄弟、親戚の人たちに送り届ける必要があったのである。
 手足が残っている死体ならば、処理も簡単だといえる。
 散らばったり、欠けてしまった死体に関しては、手や足を繋ぎ合わせ、縫合したり、原型の形に戻す「手術」が必要だったのである。この「死体処理作業」をする技術にたけた専門家が常駐していた。
 
 感染症を防ぐために、あるいは、長期保存を可能にするために、内臓が抜かれ、きれいに洗われ、ホルマリンなどの防腐剤を使っての作業がなされるのである。
 この話を聞いていて、ふと、かつて読んだことがある松本清張の「黒地の絵」を思い出した。
 確か、この小説の中に、「エンバーミング」のことが書かれていたように思う。
 朝鮮戦争時に、北九州小倉に「死体処理場」があったという噂を聞いた。
 はっきりしたことは分からないが、あるいは、遠賀郡芦屋の米軍基地内にそれが存在した、という噂もあったのである。
 当時、日本では、一日肉体労働をしても、日当が300円ぐらにしかならなかったのに、「処理場」のアルバイトは、7,000円にもなったそうである。
 しかし、この仕事をやった人は、2日も耐えることができなくて、辞めていったという話も聞いている。

 このメコンデルタ基地でのエンバーミングは、飽くまで、一時的処理で、死体を出来るだけきれいな形に仕上げ、防腐剤を施し、軍服を着せ、化粧して、棺に入れ、アメリカ国旗を纏わせて、故郷に送るためには、再度の作業が必要だったのである。