マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

「火力発電所」がある大学

2011-01-29 18:02:07 | 日記
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 「ホームステイプログラム」で、学生を送り込んできたミシガン州立大学は、ミシガン州のちょうど真中辺りにある。
 東に行くと、自動車の生産で有名なデトロイトの街があり、西に進むとシカゴという大きな街がある。
 大学は、イーストランシングという小さな町にあって、閑静な住宅地が取り巻いている。
 秋になると、カエデの街路樹が、色ついてきれいになるが、やがて落葉して道を埋め尽くす。毎日のように取りのける作業をしないと、湿った葉っぱで車が滑って事故を起こしたりする。
 飲酒運転、窃盗、万引きなど、どちらかというと、初犯で、軽犯罪の罪にとわれた人たちが、「勤労奉仕」を命ぜられて、道の清掃をやっている。
 悪びれるでもなく、通行人に、「ハーイ!」とか、笑顔であいさつをしている。

 キャンパスは、広大である。
 どこかの学部に行く時は、ちゃんとした目的地を確認して行かないと、どこをどのように歩いていいのか分からないほどである。
 出来れば、目的地まで車を利用するか、自転車で行く方が便利である。
 あらゆる学部が網羅されていると言っていい。
 その中でも、産業心理学部は、全米一位のレベルの高さを誇っている。サプライマネジメントは、全米2位の評価を得ている。

 デトロイト近くのアンアーバーという町に、ミシガン大学がある。 この大学は、どういう訳か、私立であるが、州からの補助金も得ていて、「私立・公立」を併せ持つ大学である。
 学問のレベルは非常に高く、戦後日本からも、フルブライトの留学生がたくさん学んだところである。
 フォード大統領もここの出身で、有名人を輩出してきたところである。

 こちらミシガン州立大学は、スポーツで有名で、フットボールに至っては、全米カレッジフットボールリーグで、何度か優勝をしている。
 バスケットボールも強い。全国優勝をしたこともあり、常にトップレベルを保っている。
 アイスホッケーも有名である。
 したがって、どちらかと言うと、スポーツが強い大学と言うイメージが定着しているが、着実に学問のレベルを高めており、学部や研究機関を含めて、高いレベルを確保しているのである。
 日本人も、ここを出た人で、有名な人たちがたくさんいる。政治家、東北大学、神戸大学、慶応大学、同志社などで教えている学者、そのほか医学者など多士済々である。

 野外劇場で、聴いた音楽やシェイクスピア、テネシー・ウイリアム劇など、今でも心に残っている。懐かしい思い出である。
 キャンパスを縫って「レッドシーダー川」が曲がりながら流れている。
 川岸に両側に、並木のように木々が茂っていて、そばを散策するのは、心が和むように気持ちがいい。

 ちょっと変わっていると思うが、キャンパスには、火力発電所があって、大学の電気消費をこれで賄っていることである。
 立派なホテル、博物館、美術館、ホールもあるし、面白いのは、プラネタリウムがあることである。
 夏の時期、農学部の方を散策して、一面に咲き誇るお花畑を見るのは壮観である。

 イーストランシングは大学町であるが、町はずれに「オールズモビル」という自動車の工場があって、その近くにある住宅地には、恐らく工場で働いているメキシコ系ラテンアメリカ人がたくさん住んでいる。

キャンパス

2011-01-26 15:38:14 | 日記
                        (15)

 ホノルル空港からタクシーでハワイ大学まで来た日本人の教授がいた。
 タクシーに乗る時、
 
 「 University of Hawaii, please! 」(ハワイ大学まで!)
「 What street? 」(どの通りですか?)
「 University of Hawaii! 」(ハワイ大学に行ってください!)

 普通、「通り」と「番地」を告げてから、タクシーに乗るのだが、この方、日本式に「場所の名前」を言ってしまった。
 英語が、通じにくいと思ったのか、ドライバーは、大学の学長のオフィスビル近くで、彼を降ろしたのである。
 彼が行きたかったところは、「イーストウエストセンター」だったから、降りたところから、道を学生たちに尋ねながら、しばらく歩いてしまったのである。
 番地を言えば、イーストウエストセンターの前で降りることもできたのである。

 アメリカの大学のキャンパスは広い。
 ハワイ大学に日本から来た人が、
 「広いですね!」と言っていたが、彼は、キャンパスをすべて見たわけではないのである。
 マノアの谷の傾斜を滑り降りるように学部が散らばっている。
 一番裾の方には、フットボール場、野球場、陸上競技場、体育館がいくつか、テニスコートなどもある。
 その上の斜面にへばりつくように、法学部や音楽部などがあり、ビルの幾分かは、地下に填まり込んでいる。
 キャンパスを上がり続けると、一番先に、大学の印刷局がある。
 確かに広いと思うが、ペンシルバニア州立大学は、丁度、その広さはハワイ大学の10倍である。
 
 何処から何処までが、キャンパスかなど分かりようがないのである。塀で囲ったりはしていない。
 大学の中に、立派なホテルがいくつか、長距離バスのターミナル、貨物列車の終点、ゴルフ場、劇場、映画館、小さな飛行場もある、などなど限りがない。
 銀行、郵便局、散髪屋、書店、レストラン、マクドナルドやピザハットなどもある。
 日本の大学は、正門、裏門などがあり、そこから先は、大学の関係者だけが入っていくことになっている。門衛が立っていて、出入りの業者など、門鑑を示しながら、入門の許可を得ているところが多いのである。

 アメリカの大学には、一般の人も、学生と同様にいろいろな施設を利用している。
 大学は、学生たちのためだけのものではないのである。
 コンサートに来る人たち、映画を見に来る人、博物館や美術館にやってくる人、テニス、乗馬、水泳などにやってくる人たちもいる。

 博物館、美術館などには、本物のゴッホやゴーギャン、モネの絵がある。日本の浜田庄司、河井寛次郎、中里太郎衛門の作品もあった。 帝国ホテルなどを設計して有名なフランク、ロイド・ライトは、生まれたところが、ウイスコンシン大学の近くである。
 彼は、日本の浮世絵の収集家としても有名だが、200点にも及ぶ北斎や歌麿の絵が、ウイスコンシン大学に寄付されて、大学の美術館で見ることができるのである。

 春から夏にかけて、農学部の実験農場では、いっせいに花が咲き揃う。見渡す限り、色とりどりに咲き誇る花畑は、一見の価値がある。
 一般の人たちや観光客が、ツアーで見に来ていた。

「ホームステイ」の模様が新聞記事になる

2011-01-23 14:43:36 | 日記
              (14)

 思いがけず、ホームステイにかかわったことで、面白い体験をさせてもらった。
 何処で聞きつけたのか、テレビや新聞が取材に来たのである。
 毛色の変わった若者が、急に近所をウロウロするのだから、周りにいた人たちは、珍しいと思ったのだろう。何らかの形で、噂が新聞社などに届いたのだろうか。
 後で新聞を読んでみると、ホームステイの目的を訊ねるとか、学生たちが、どこの大学で、どのような勉強をしているかといったようなことは話題性に欠けるのか、女子学生が「茶会」に出ている時に、タイミングよくやって来て、そのことを大きな記事にしてしまうとか、柔道着を着て、日本人の有段者に段取りをしてもらっているところを記事にするとか、小学生を前に英語を教えているところなど、まさに読者を惹きつける話題性を狙ってやってくるのには感心した。
 
 ある大きな屋敷での茶会に女子学生が招待された。
 鮮やかな着物を着せてもらって、彼女は、すっかり舞い上がってしまい、一回転して格好をつけてみたり、鏡に自分の着物姿を映して、うっとりしたり、出かけるまでが大変である。
 周りで見ていた人たちも、
 「キレイだわねえ!」と感嘆しきりである。
 確かに、面長の顔に、白い肌が、鮮やかに着物とマッチしている。 パチパチと写真のフラッシュが光る。
 後で、出来あがった写真を見ると、「写真館」のショーウインドーに飾っておきたいくらい魅力的な写真になっていた。
 次の日の新聞に、きれいな着物姿で、お点前をしている彼女の写真と記事が載った。

 北九州のお医者さんの家でホームステイした男子学生は、病院に併設された柔道場に関心を持って、そこで練習をしている人たちを、毎日通って見ていた。ついに意を決して、
 「教えてください!」と言ってしまったのである。
 稽古をつけていた人が、すぐさま柔道着を着せて、柔道の基本を教えた。
 そのことが新聞記事になると思ったのか、やはり、ある新聞記者が駆けつけ記事にしてしまった。

 小学校に招かれて、児童の前で、身振り手振りでお話をした女子学生も、ちゃっかり、その模様が新聞に出ていた。

 「お客さんではないのだから、家の手伝いなどさせて下さい」と、予め伝えていたのだが、そのことを実行したのかどうか、ある病院では、受付に立たせて、お客の応対をさせたり、お母さんが診察室にいる間、待合室で、子供の面倒を見させたというのもあった。
 テレビの番組で、子供を、ひとりでお使いに行かせるというのがあったが、それた似たような話もある。
 メモを渡して、一人で、バスに乗って買い物に行かせたというのがあった。
 家の近くのバス停まで連れて行き、ドライバーに、
 「00スーパーマーケットで降ろしてやってください!」と頼んだ。
 渡したメモの品物を買って来させたそうである。
 マーケットの店員さんを巻き込んで、かなり混乱したようだが、なんとか買い物をして帰ってきたようだ。
 本人は、この小さな冒険が、いたく気に入ったということだった。

さて、彼らの「ホームステイ」は?

2011-01-19 09:44:28 | 日記

                      (13)

 「ホームステイプログラム」が、うまくいっているかどうかを確認するために、本部からの要請もあって、電話を各家庭にかけてみた。
 どの家庭も、困った問題はないようで、意外に電話の向こうの声は明るかったのである。
 受話器の向こうで、はしゃいだ大きな声を聞いたときは、ほっとした気持ちになった。
 「この前は、すき焼のパーティをして、親戚の人たちもやってきて、楽しかったわ」とか、
 「近くのお宮に一緒に行ったとき、彼は喜んでしまって!」とか、堰を切ったように、大声で話す人もいた。
 学生の中には、
 「初めて pin ball  (パチンコ)をしましたよ,癖になりそう!」などと、ふざけた者もいた。また、別の学生は、
 「近所の犬にちょっかいを出していたら、噛まれてしまって!」とか、おどけていた。
 「 『ママ』と庭で花を植えたのよ!」という女子学生もいた。
 近所の小学校に招かれて、皆さんの前でお話をした女子の学生は、
 「子供たちが可愛くて可愛くて」と言っていた。

  テキサスでホームステイをした女子高校生は、最初は、団体で講習を受けていたので、お互い日本人同士交流できて、淋しいことはなかった。
 しかし、その後、一人一人別々になり、ホームステイの家庭に引き取られて行くと、全くの一人ぼっちになってしまったのである。
 短い期間だと言っても、この女性は、淋しさに耐えきれなかったのか、ホームシックに罹ってしまったのである。
 打ち合わせの時、やたらに日本人同士、連絡を取り合わないようにと注意されていた。
 英語力が十分で無いこと、そのせいもあったのかも知れない。
 すっかり孤独感を味わうことになってしまった。
 海外短期留学に応募したのは、アメリカで英語に囲まれて生活してみたいという本人の希望であったのである。
 幼い時から、このような環境に順応する生活の体験がなかったのだろう。
 彼女の場合、失敗に終わってしまったが、このような例は、時に起こることで、似たような例をよく耳にした。

 日本人が、アメリカに行って英語の中で生活する、逆に、この度の「ホームステイプログラム」は、アメリカ人が、日本語の中で生活するということである。
 彼らは日本語ができない。いわば異文化の中に放り込まれて、当然戸惑いはあるだろう。
 風俗、生活習慣、物の考え方の違う環境、今まで経験したことがない環境の中に放り込まれたのである。
 さて、うまく行くだろうかの懸念はある。
 元々、アメリカ人は、日本人のようにはデリケートで無いのか、この点あまり心配する必要はなかったようである。
 物おじしない、おおらかな国民性が、戸惑いはあっても、そのことで、苦しんだり、悩んだりはしなかったようである。
 後で、読んだ、レポートやアンケートでも、彼らは、むしろ、好奇心の方が旺盛で、「何でも見てやろう、なんでも体験しよう」的な、彼らの対応力を強く感じた。

 


6人のアメリカ人学生

2011-01-16 19:53:08 | 日記

                       (12)

 担当教授の話では、トシの仕事というのは、6人のホームステイ先を探すこと、彼らの滞在中の連絡役をすること、問題が起これば、それに対処すること、受け入れ側の問題に対しては日本語で、学生側に何か問題が起これば、英語で対処するというものだった。
 6人を出来れば、九州の各地にバラバラに派遣し、日本人の生活を体験させて、彼らが出す体験レポートを読み、比較しながら報告書に纏めるということだった。
 
 彼らは、日本語が出来ないこと、しかし、日本の学生に英語で話しかけて、英語に興味を持ってもらうことに役立ちたいこと、出来れば、ホームステイの家庭に、中学生、高校生、大学生がいること、そうすれば、彼らは、学校で英語を学習しているはずだから、家庭内で、意思を通じ合えること、くれぐれも、お客さん扱いをしないこと、積極的に、日本人の中で、仕事などに参加させてほしいなどの要望があった。
 
 初めてのことであり、さて、どのように受け入れの家庭を探すかが問題だった。
 各地の公的機関にお願いして、推薦をしてもらうことにしたのである。
 余り遠い所は、何か問題が生じた際の連絡が難しいかも知れないと思い、熊本、佐賀までを範囲とした。
 幸い、多数協力をしてくれる家庭があって、びっくりした。
 しかし、ごく一般の家庭を心に描いていたのに、応募してくれた方たちは、いずれも「お金持ち」だといった印象で、この点、戸惑ってしまったのである。
 推薦してきた家庭は、お医者さんであったり、歯医者さん、工場の経営者、会社の役員だったりした。

 結局、熊本にひとり、佐賀にひとり、福岡に2人、北九州に2人のように配分した。6人のうち、2人は女子学生だった。
 事前に受け入れ側の人たちには、希望を聞いていて、それに沿うような形で、担当教授とトシの間で、振り分けをしていた。 その後、両方の側には、お互いを紹介する書類を渡した。
 会う前に、すでに手紙を出し合って、交流をしているいる人たちもいたのである。

 当日、新幹線で、6人の学生が小倉駅に降り立った。
 受け入れの家庭からも、出迎えが来ていた。
 新幹線ホームの上で、名簿を見ながら、6人をそれぞれ受け入れの家庭の人たちに紹介して、引き渡しをした。
 「どんな食事を出したらいいのですか?」などの質問を受けていたので、
 逆に、アメリカに行っても、日本人に合わせて食事が出るわけでないことを説明して、
 「家族が一人増えただけで、食事の量を、その分増やすだけでいいです」と伝えていた。
 家庭の人たちにも、ブリーフィングを行っていて、特別扱いをしないこと、食事も、毎日家庭で出されている、いつもの食事を共有すること、白ご飯、味噌汁、漬物、塩じゃけなどで構わないこと、積極的に、家事に参加させることなどをお願いしていた。