マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" A letter and cookies from Aunt Marion " ( マリオンおばさんから手紙とクッキー )

2012-02-29 17:00:25 | 日記

                     (9)

 部署は違っていたようだが、ボブと敏子さんは、同じフロアで働いていた。
 知り合った二人は、やがて言葉を交わすようになり、お互いを好ましいと思うようになっていたのである。
 ある時、敏子さんは、思い切ってボブを自宅に招いた。

  " Several days ago, Toshiko San asked me if I would come to her home for Sunday dinner "
   ( 数日前、敏子さんが、僕に日曜日夕食に来ませんかと自宅に誘ってくれました )

 終戦直後のことで、連合国軍人は、専用の一等車に乗ることができたのだが、彼は、日本人の車両に乗り、乗客で押し合いへし合いするなかを立ったままで横浜まで行った。
 駅には、敏子さんが出迎えに来ていた。
 駅から敏子さんの自宅まで歩きながら、途中の風景も細かく描写して母親に書き送っている。

 その日は、春といえ3月で、ミネソタ生まれのボブにとっても、まだ寒かったようだ。
 戦後間もないころのこと、家にエヤコンなどある家はなかった。
  部屋には、大きな陶器製の置物みたいなものがあり、それがヒーターの役目をしているようだった。

   " On the inside was the whitest sand I had ever seen, and in this, was imbedded hot charcoals; not coal.
  however.  I do not know what the source of heat for the room might have been, hot charcoals to suffice- what say! "
 ( 置物の中には、今まで見たこともないような白い砂が入っていて、その中に、石炭でなく、燃えさかる木炭が埋まっていました.部屋を温めていたものが何なんだろうと思いますが、何と言うか、赤々と燃える木炭は、十分に部屋を暖めていました )

 ボブが、火鉢を見たのは、初めての経験である。
 かなり大きな壺があって、その中に灰が詰められていて、真ん中に木炭が燃え盛っていた、と彼は表現している。
 お母さんに、こんな暖房器を想像できますか?と彼は、問いかけている。

 ベイシンガー家の夕食が終って、ひと段落していた時だろうか、夫人が、ぽつんと、
 " Toshiko San should have been our daughter "
   ( 敏子さんは、私たちの娘になる筈だったのよね!)と言った。
 " Our Bob died during the Korean War "
  ( 私たちのボブは、朝鮮戦争で死んでしまったの!)
 瞬間、時間が止まってしまった感じで、だれも何も言葉を発しなかった。
 遠い韓国から離れたこのアメリカにも戦争の犠牲者はいた。

 数日経って、トシが不在の時、長男が、紙袋を携えやって来たようだった。
 " Thisi is to Mr.Yamada from Mom " 
  ( これをミスターヤマダにあげてください!母からです )
 中には、ボブからの手紙のコピー、それにリボンのついた小箱が入っていた。
 小箱の方には、手製のナッツ入りのクッキーが入っていた。

  " Dear Mr. Yamada:

    Our son Bobert was in the American Army of Occupation when he wrote this account. 
    Our dear Bob has passed away in the war, but we still enjoy reading his letters and stories of his experiences in Japan-a country he loved, along with its people. 
   Toshiko San is now Mrs.Torii living in Yokohama.
   Should you ever find it possible to get in touch with her, she would enjoy hearing of your visit with us.    She calls me Aunt Marion. 
   We hope you'll enjoy this account of one of our son's " big memories in Japan". 
   Thanks for coming to see us!
 
                                                          Dr. and Mrs. Basinger  

    ( 親愛なるヤマダ様:

   私たちの息子ロバートは、この手紙を書いた時は、アメリカの進駐軍にいました。
   私たちの可愛い息子は、戦争で亡くなりました。
    今でも、彼が愛した国、日本、それに日本の人々の中で体験したことを書き綴った手紙や物語を読んで楽しんでいます。
   敏子さんは、今は鳥居夫人になって横浜に住んでいます。
   もしできるなら、彼女にあなたのことを知らせて下さいますか、あなたが、私たちを訪問してくれたことを、きっと喜んでくれます。
 彼女は、私のことを、マリオンおばさんと呼んでくれます。
 同封した手紙は、息子の日本での”尊い想い出”です。この物語を読んでいただけたらと思います。
 我が家を訪問くださってありがとうございました!

                          ベイシンガー博士と夫人より )
   


" Mrs.Basinger " ( ベイシンガー夫人 )

2012-02-27 16:52:20 | 懐かしい人たち

                    (8)

 ベイシンガー博士は、穏やかな人で、いつもニコニコしている感じで、他の人たちの話に相槌を打ったり、自分から話に加わってくることもあった。
 いつもは、夫人と二人だけで、家の中は、そんなに活気があるようではなかったが、この時ばかりは違っていたようだ。
 夫人も、そんなにお喋りではないとのことだったが、久し振りにお客を迎えて、それにトシには、思い切り息子のボブのことを話せると思ったのだろう、饒舌になったようで、夫人のそんな姿を見て、何より博士がびっくりしてしまったほどだ。

 " She is unusually high-spirited and talkative, because you have visited us!"
   (あなたが来てくれて、彼女は、何時になく、明るく、それにお喋りになってしまって!)と博士が言った。

 食事は、旦那さんにベイシンガー夫人、トシ、それに一緒に行った奥さんの4人だった。
 テーブルには、鮮やかな色のナフキンが布かれていて、時代物と思われる皿やワイングラスが載っていた。
 " I think I worked with zeal today " (今日は張り切って準備したのよ)
 と言うように、いかにも心配りされた上品なメニューが準備されていたのである。
 
 今になっては、その時何を食べたのかは、よく思い出せない。
 話に夢中だったからかもしれない。
 庭で採れたという野菜のサラダが美味しかった気もするし、ターキーの燻製も格別だったような気もする。
 最後に出て来たチョコレートムースみたいなものが特に印象に残っている。
 当時の日本では、見たこともない高級菓子だった。それに、おいしいアイスクリームも出た。
 日本では、外食チェーンの「ロイヤル」が、アメリカの「ハワードジョンソン」と提携して、ようやく、それらしいアイスクリームを売り出していた頃である。
 あのテレビの世界旅行シリーズで有名な兼高かおるさんが、日本では手に入らないアイスクリームを、アメリカで箱詰めで買い込んで、日本に持ち帰った話は有名である。
 飛行機の機長に頼み込み、機内の冷凍庫に入れて貰って運び、日本に着いたら、即刻タクシーで自宅まで持ち帰っていたという、あのころのアイスクリームである。
 チョコレートムースは、夫人の手作りのようだった。
 「おいしいですね!」と言ったら、「また食べに来てね」「うちに来てもらえる理由ができたわ」と夫人は言った。

 一緒に行ってくれた奥さんも話好きで、よくトシを捉まえては喋るのに夢中になることが多かったが、この時ばかりは、控えめに聞き役に回った感じだった。
 ベイシンガー夫人は、食事をしていた時も、何かを話したそうにしていたし、ボブのことで心に溜まってきたものを吐露したい気持ちだったのではないだろうか。
 急に思いついたのか、「そうなのよ!」とか言って、奥の部屋からアルバムを持ってきて、見せてくれたりした。
 まるで、この機を逃すと、もう二度とトシに会えなくなって、ボブの思い出を語る人が去ってしまうと思っているかのようだった。
 別の部屋に移動する、ほんの10メートルぐらいの距離でも、自然にトシの手を握ったままだった。
 
 " Take a look at that!" (あれを見て!)と言って、窓辺の飾棚を指差した。
 " That must be a Japanese doll?" (日本の人形ですか?)
 " Toshiko San sent us" (敏子さんが送ってくれたの)と言った。

 ボブが亡くなった後も、敏子さんとの交流は続いているようだった。おそらく手紙のやり取りであろう。
 敏子さんが、実際にベイシンガー家を訪れたかどうかはわからない。
 戦後の時期では、一般の人たちが自由にアメリカを訪れることができたとは思えない。唯、敏子さんは英語ができたようだし、手紙での交流は可能だった。

 ボブが、横浜の敏子さんの家に招かれた時、家族全員が英語が出来ることを知ってびっくりしたようで、その時の感想を手紙でアメリカのベイシンガーさんに書き送っているのである。

  " They could all speak English but the baby, and the brother-in-law the best.  The mother spoke in the least fluently, but I know she enjoyed the afternoon, for she would ask me questions via Papa San and the answers were received by her likewise "
 ( 赤ちゃんを除けば彼らは、みんな英語が出来ました。中でもお姉さんの旦那さんが一番上手でした。お母さんが最も上手くなかったが、彼女も午後のパーティを楽しんでいるのは分かっていました。なぜなら彼女は、パパさんを通していろいろ質問してきて、同じようにパパさんを通して、私からの返事を受け取っていました)


" Letters from Bob " ( ボブからの手紙 )

2012-02-24 17:15:17 | 日記

                     (7)

 ベイシンガー夫人が、The Citizens という新聞を読んでいた時、Toshi Yamada (トシ ヤマダ)の記事を見つけ、自分が知っている人の名前 Toshiko Yamada (トシコ ヤマダ)に似ているのに、びっくりしたようで、ひょっとすると、二人が親類か何らかの関係がある人たちではと思ったようだ。
 漢字で書けば、『敏子』という名前は、トシの漢字とは全く違うのだが、ローマ字読みするとよく似ている。
 唯、ヤマダという名字は、日本ではありふれた名前で、どこにでもある。
 それに、彼女が住んでいるところは横浜で、トシは九州だから、距離的にも、かなり遠い。
 もとより、トシは、敏子さんを知らない。
 そのようなことを知って、ベイシンガー夫人は、がっかりしたようだった。

 ベイシンガーさんには、二人の息子がいて、長男は、ミネソタ大学の医学部を出て、この街で医院を開業している。
 二男のロバートは、第二次大戦では、従軍牧師として従軍し、戦後日本に進駐して、東京の連合軍司令部内にある Base Chapel (教会本部)に勤務していた。
 そこで、朝鮮動乱がぼっ発して、急きょ朝鮮半島の前線に駆り出された。
 戦闘は過酷で、毎日戦死者が出ていて、戦死者たちの弔い、負傷者の慰問、兵士たちの懺悔を聞いてやったり、説教をしたり、さまざまな宗教行事にかかわったり、その間にも、砲弾が飛び交い、それこそ命をかけた勤務だったようである。
 ある期間を務めると、休暇で、また仕事の打ち合わせ連絡などで、東京の本部に帰っていた。

 庭の花畑のことを話題にしていた時、「ボブが小さい時、庭の花畑でかくれんぼをしていたのよ!」とか、過ぎ去った昔を思い出すように話してくれた。
 ローバーとのことを、『ボブ』と呼んでいたようだった。
 「あの子はねえ!」とか、まるで今でも、そこにいるかのように懐かしみながら話していたのである。
 食事が終わってコーヒーブレイクをしていた時、「ちょっと見せたいものがあるのよ」と行って、隣の間のウオークインクローゼットのところにトシを連れて行った。
 そこには、箱がいくつか積み上げられていて、その中には、ボブから送られてきた手紙が、びっしり詰められていて、到着順に整頓されていた。
 いくつかを、取り出して拾い読みしたが、手紙と言うより、もう物語と言った感じだった。
 封筒の一つ一つが、分厚く、便せんではなく,A4の紙に、びっしりタイプの文字が書き連ねられていて、短いので5ページほど、長いのでは、10ページに及ぶものもあり、連綿とストーリが綴られていたのである。
 息子から送られて来た膨大な手紙は、大切に保存されていて、いつでも読めるように、図書館の書棚のように整理されていた。
 現に、今でも、ベイシンガー夫人は、もう数十年前に書かれたボブからの手紙を読み返すのが、楽しみのようだった。
 夫人は、ボブからの手紙を、『手紙』と言わずに、account  (お話) とか story (物語)と表現していた。

 第二次世界大戦が終わった直後の日本では、世の中が混乱していて、郵便を出しても、まともに着くことはなかった。郵便事情は、極めて悪かったのである。
 ボブがアメリカ本国に送る手紙は、軍の専用特別便だったようなのだが、それでも混乱していたようで、彼自身の表現を借りると、” terrifically terrible ” (とんでもなくひどかった)ようで、宛先に届かないことも多く、時にテキサスまで遠回りして着いたり、時間をかけてアラスカ経由で、遅れてやって来たことあった。
 ボブは、手紙に必ず日付を書くようにしていた。
 時に後から出した手紙が先に到着することもあり、ある時は、13通束になって到着してこともあったようだ。

 お母さんは、息子から来る手紙を一つ一つ大事に読むのはもちろん、何度も繰り返し読み、息子から来る手紙と同じくらい返事を書き送った。
 彼からの手紙に、ある時から、Toshiko San という名前が出るようになった。
 敏子さんは、連合軍司令部に勤める日本人スタッフだった。
 同じフロアで仕事をしていたとのことで、何かのきっかけで、二人は話をするようになったようだ。
 手紙には、彼女をToshiko San (敏子さん)と書いている。
 
  San is the word for " Miss ", but I believe the same word can be employed for " Mr. and " Mrs.", so I call her Toshiko San.
 ( 『さん』というのは、英語の『ミス』に対する語です。しかし『さん』は、また『ミスター』や『ミセス』にも使われます。だからぼくは、彼女のことを『敏子さん』と呼びます )

 勿論、彼からの手紙には、敏子さんのことが細やかに描写されている。
 どんな顔をしているか、身長がいくらで、今日の服装、彼女とどんな会話をしたかなど細やかである。文章の一つ一つに、愛情があふれる感じなのだ。

 


" Toshiko Yamada " ( 敏子さん )

2012-02-17 18:44:35 | 懐かしい人たち

                        (6)

 高齢の方と言えば、ベイシンガー博士と奥さんのことは忘れられない。
 初めて、お会いした時は、ベイシンガーさんは85歳くらいで、奥さんは80過ぎたところのように見えた。
 もともとは、全く知らない人たちだったのである。

 ミネソタにいた時、何度か新聞でトシのことが記事になって、大きな写真も出たりして、そのためか街を歩いていても、知らない人に声をかけられたり、握手をしてくる人などもいた。
 小学生に、サインを求められたこともあったのである。
 そんな時、滞在していた家に電話がかかってきた。
 トシが不在の時で、その家の奥さんが電話を受けた。
 「今日、あなたにベイシンガー博士から電話があったよ」と言われたが、知らない人で、何でだろうと訝っていた。
 「お会いしたいので、週末に、ディナーに招待したいのですが?」ということのようだった。
 「『是非お会いしたい』と言っていたよ」とのことだったので、「お伺いします」と返事をしてもらったのである。

 ただ、一人で出向くのは、どうかという気がして、その家の奥さんに「一緒に行ってくれますか?」と頼んでしまった。
 車を持ってないし、迎えに来てもらうには、相手方も老齢で車の運転をしていないようだし、この家の奥さんに連れて行ってもらうのがいいように思えたのである。
 それで、「2人でお伺いします」と返事をした。
 
 奥さんが運転するビューイックでベイシンガーさんの屋敷に行った。
 着いてびっくりしたのは、ベイシンガーさんの邸宅は、かなり高級な一戸建てのマンションだった。
 一緒に行ってくれた奥さんも、この家には初めてやって来たようで、同じようにびっくりしていた。
 出かける前に、「今から出かけます」と電話をしていたためか、門前には、奥さんが、すでに出迎えていて、こちらに手を振っていた。

 門を入ったところに大きな庭が広がっていた。
 家に入って、中を案内して貰ったが、地下にいくつか部屋があるようで、以前は、応接間やリビングとしても使っていたということだ。 現在は、地下も2階も使ってないようだった。
 階段を降りたり上がったりは、もうできないのだろう。
 なるほど、二階に上がる階段には植木鉢が並べられていて、「通行止」のようになっていたのは、もう2階に上がることもないのだろう。
 生活の空間として、一階の部分だけで充分の広さだったのである。
 庭がきれいに整備されていたのは、庭師を雇っていて、一週間に一度か二度やって来ては作業をするとのことで、屋内も、定期的に掃除をしたり料理をする人がやって来るということだった。

 ベイシンガー博士は、ミネソタ大学の医学部の教授を長くやっていて、現役を退いた後、故郷のこの町に帰ってきたようだ。
 長男が、この町で、同じく医者をしていて病院を開いているということだ。
 博士は、ちょっとよぼよぼした感じだが、奥さんの方が、しっかりしていて動作も機敏に見えた。
 しかし、高齢の両親のことが不安なのか、日課のように仕事を終えた長男が立ち寄り、コーヒーを飲んだりしながら雑談をして、しばしの時間を一緒に過ごしている。
 長男の奥さんも、しばしばやってきて、車で母親をショッピングセンターに連れて行ったりしている。
 孫たちが学校からの帰りに、スクールバスを、この家の近くで止めてもらい、立ち寄っては、おじいさん、おばあさんと遊んだり勉強をみてもらったりしているとのことだ。
 子供や孫たちの心遣いが伝わってくる感じだった。
 
 長男の病院は、2マイルぐらい離れたところにあり、この辺りは、コロニアル風の木造の家ばかりなのに、この病院だけは、鉄筋コンクリート造りで、後になって何度か行ったことがあるが、屋上にプールがあり、夏になると、近くの子供たちもやってきて、泳ぎながら、水飛沫を上げキャーキャーと叫んでいる。

 わざわざ会いたいと言ってきた理由が分かった。
 次男が、朝鮮戦争で従軍牧師として派遣されていた。
 前戦のテントの中で、戦死者を弔ったり、クリスマスなどの宗教行事を行ったり、日曜礼拝や説教をしたりするのが仕事だったということだ。
 時たまの休暇で、東京に帰り心身を休めていた。
 お医者さんが多い家系のようだが、どうして彼は医者にならず牧師になったのかは訊いていない。
 本人にとっては、自分の人生の将来設計に、何か心に期するものがあったのかもしれない。

 新聞に「Toshi・Yamada 」とトシの名前が出ていて、これを読んだ奥さんが、自分が馴染んできた名前、「Toshiko ・Yamada」と何らかの関係があるのではと思ったようだ。

 

 


" Just after the World War Ⅱ " ( 終戦直後 )

2012-02-13 16:06:05 | 日記

                      (5)

 どう言うわけか、お年寄りについて書くことになってしまって、思い出しながら書き綴っていたら長くなってしまった。次いでだから、もう少し書いてみたい気がしてきた。

 ゲートボールの発祥の地は日本で、それも北海道だとのことである。
 終戦直後、誰もが貧しくて、学校の教科書など、上級生からのお下がりを使っていて、放課後遊ぶといっても遊具がなく、冬でも、素足で通学したりしていたのを思い出す人も多いだろう。
 子供たちの遊び場がない遊具がないなどから、屯した子供たちが不良化していくのを目の当たりにした人が、クリケットをヒントにお金がなくとも、単純に遊べるゲームを考えたということである。
 当初は、子供の遊びであったはずなのだが、いつの間にか、その簡単なルールが受けたのか、大人たち、特に高齢者たちが、好んで楽しむようになったようである。
 今や、この競技は、東南アジアを、更に欧米にもまで広がっているということである。

 しかし、最近は、ゲートボールを、近辺で、あまり見ることがなくなった。
 一時は、空き地や公園を占拠する形で、老人たちが犇めいて、子供たちの遊び場を奪っていたようなのだが、よくはわからないが、あれほどのブームが衰退しているのだろうか。
 文部省などが肝いりで、子供や若い人たちの間にも、この競技を広げようとしたらしいのだが、「老人のスポーツ」といういイメージが広く認知されてしまって、どちらかというと、他の人たちには、そっぽを向かれた感じである。

 ハワイ大学のバーシティ通の門を出て、音楽のデパートメントの建物を横に見ながら下っていくと、べレタニア通の交差点に出る。
 この辺りは、小さなレストランが軒を連ねているところで、インドレストラン、イタリアン、中華料理、日本料理など、おいしくて特色のあるレストランが多いところである。
 以前は、「さつまラーメン」があって、よく行っていた。ラーメンのほかに、餃子、カレーライスなどもあった。数字の5が付く日には、サービスで赤飯の小皿が出てきた。
 さつまラーメンは、ホノルルに4店舗あったが、そのどれも無くなってしまった。

 ある時、日本レストランのカウンターでビールを飲んでいたら、隣に座っていた人が話しかけてきた。
 見たところ、もう80過ぎくらいの人だった。
 顔の艶もよく、元気そうで、何より、いく分酔っ払っていたにしても、お喋りだった。
 ハワイ生まれの日系2世だということだった。
 初めは、英語で喋っていたが、途中から日本語でしゃべり始めた。
 「実は、ワイフと富山のゲートボール大会に出場して、帰って来たばかりですよ」とのことだった。
 「ハワイの人たちも、ゲートボールをするのですか?」と言うと、
 「最近は、ハワイでも、高齢の人たちがゲートボールを夢中でやっていますよ!」
 「だけど、私がゲートボールに出会ったのは日本なんです」
 「日本にいたのですか?」
 「そうです。『スガモ・プリズン』にいました」
 「へぇー?」と絶句してしまった。
 瞬間、この人は戦犯で、巣鴨の刑務所に収監されていたのかと思ってしまったのである。
 
 しかし、そうではなかった。
 彼は20代で日本に渡っている。戦勝国の将校としてである。
 終戦直後、彼は、2世で日本語と英語ができるという理由で、マッカーサー将軍に率いられ日本に渡った。
 彼の仕事は、巣鴨に収容されていた戦犯たち、それも、彼が言うには、死刑を宣告された戦犯ではなく、刑期を終えたら、出所する、比較的、刑の軽い人たちの面倒を見たり、米軍と彼らの間の連絡をしていたようなのである。
 戦犯たちが、書き綴る日記や書簡を英文に訳したり、戦犯の家族に会って近況を伝えたり、時には、彼らの心の苦しみを聞いてやったり、助言をしたり、言ってみれば、カウンセラーの役もしていたということだった。
 彼らとの長い付き合いで、心が通じ合い、心情的には、自分も日本人になってしまったとのことだった。

 「自分の人生を振り返ると、気付いたことがあります。私は、ハワイでアメリカ人として生まれ、教育を受け、軍隊に入り、その時は、まだ20代の初めで、日本に進駐して、その後は、ほとんど日本で暮らしました」
 「考えてみると、アメリカでの人生より,日本で暮らした年月の方がはるかに長いのですよ」
 「日本で、ワイフと知り合って結婚しました。ワイフは日本人なのです」と言った。
 今では、老後をハワイで過ごすため、戻ってきて、のどかに暮らしているようだった。