(7)
アメリカでは、ベトナム戦争当時、徴兵制度があった。
18歳から25歳までの男子は、徴兵制度に対しての登録義務があったのである。
マイクも、かつてのクラス友だちと、地元の郵便局で手続きを済ませていた。
何時招集されるのかは、運みたいなもので、いつ、どのように、というのは、はっきり言って分からなかった。
トシも、このことで、友達に訊いてみたことがあるが、
「くじで決めるのだろう!」と、何か無責任な答えが返って来たのを憶えている。
マイクは、一度は、ウイチタの町の航空機産業関連の会社に就職したのである。
もともと、機械には興味があり、会社では、日々、新しい知識を覚えることができて、楽しく、張り合いがあった。
彼としては、将来も、この分野の仕事を続けられたらと思っていたのである。
一年も過ぎたころ、ついに、招集令状が来た。
高校の同じクラスの男たちに、「ドラフトカード」(召集令状)が来たという噂を聞いていたし、いつかは、自分にも来るだろうと覚悟はできていた。
おそらくは、ベトナムに行くようになるというのは、他に召集令状をもらった人たちの例を見ればわかることだった。
会社の退職手続きをして、一度は、故郷のプラットに帰り、そこから出征した。
家族や親せき、友だち、町長までもが、壮行会を開いてくれて、にぎやかに送り出された。
ドイツでの訓練期間はあったが、飽くまで、最終の目的地はベトナムであった。
彼がベトナムで配属されたところは、いわゆる「メコンデルタ」にあった。
森林を伐採し、平地にして、急こしらえのテント村が、彼の勤務地だったのである。
迷彩色のテントが幾重にも並んでいた。
離れたところには、ヘリコプターの発着場があった。
ラジオステーションがあり、戦場との連絡が、24時間行われていた。
野戦病院が併設されていて、そのため、前線から戦死者、負傷した兵士が、絶えず送り込まれていた。
したがって、病院があるあたりは、常に、せわしなく人々が動き回っていたのである。
憲兵も常駐していたし、どういうわけか、牧師さんもいた。
リクリエーションのエリアがあって、食堂、ビリヤード場、映画館などもあった。映画館では、いつも何がしかの映画が上映されていた。
郵便局もあり、故郷に出す手紙などを、ここで投函した。また、アメリカから来た手紙なども、ここで受け取ることができた。
ちょっとした街という感じで、それなりに便利で、何も起こらなければ、楽しむこともできたのである。
しかし、常に、「ベトコン」と呼ばれる敵には脅かされていたのである。
砲弾や銃弾は、常に飛んで来ていたし、炸裂音は24時間こだまし続けたのである。
「ドン!ドン!」という爆発音、
「バチッ!バチッ!」という機関銃の炸裂音は、すぐ近くで、響き渡っていた。
安眠を貪るなどとは、到底できないことで、常に神経は張り詰めたままである。
当然、周りの警護は厳重だったが、 それでも、いつ何時、襲われるかもしれないという恐怖が、神経を苛立たせたのである。
時に、夜陰にまぎれて、夜襲を受けることもあった。
忍び込んで来たべトナムゲリラに、喉をかっ切られる事故も頻発していたのである。
みんな、はっきり言って、恐怖に脅えていたのである。
マイクの仕事は、前線への兵員、武器の輸送、連絡、戦死者、負傷兵の輸送だった。
ヘリコプターによる仕事が多かったために、敵からの狙い撃ちに会う危険は常にあったのである。