マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

ついに、マイクに!

2010-07-22 16:58:32 | 日記

                     (7)

 アメリカでは、ベトナム戦争当時、徴兵制度があった。
 18歳から25歳までの男子は、徴兵制度に対しての登録義務があったのである。
 マイクも、かつてのクラス友だちと、地元の郵便局で手続きを済ませていた。
 何時招集されるのかは、運みたいなもので、いつ、どのように、というのは、はっきり言って分からなかった。
 トシも、このことで、友達に訊いてみたことがあるが、
 「くじで決めるのだろう!」と、何か無責任な答えが返って来たのを憶えている。

 マイクは、一度は、ウイチタの町の航空機産業関連の会社に就職したのである。
 もともと、機械には興味があり、会社では、日々、新しい知識を覚えることができて、楽しく、張り合いがあった。
 彼としては、将来も、この分野の仕事を続けられたらと思っていたのである。
 
 一年も過ぎたころ、ついに、招集令状が来た。
 高校の同じクラスの男たちに、「ドラフトカード」(召集令状)が来たという噂を聞いていたし、いつかは、自分にも来るだろうと覚悟はできていた。
 おそらくは、ベトナムに行くようになるというのは、他に召集令状をもらった人たちの例を見ればわかることだった。
 会社の退職手続きをして、一度は、故郷のプラットに帰り、そこから出征した。
 家族や親せき、友だち、町長までもが、壮行会を開いてくれて、にぎやかに送り出された。

 ドイツでの訓練期間はあったが、飽くまで、最終の目的地はベトナムであった。
 彼がベトナムで配属されたところは、いわゆる「メコンデルタ」にあった。
 森林を伐採し、平地にして、急こしらえのテント村が、彼の勤務地だったのである。
 迷彩色のテントが幾重にも並んでいた。
 離れたところには、ヘリコプターの発着場があった。
 ラジオステーションがあり、戦場との連絡が、24時間行われていた。
 野戦病院が併設されていて、そのため、前線から戦死者、負傷した兵士が、絶えず送り込まれていた。
 したがって、病院があるあたりは、常に、せわしなく人々が動き回っていたのである。
 憲兵も常駐していたし、どういうわけか、牧師さんもいた。

 リクリエーションのエリアがあって、食堂、ビリヤード場、映画館などもあった。映画館では、いつも何がしかの映画が上映されていた。
 郵便局もあり、故郷に出す手紙などを、ここで投函した。また、アメリカから来た手紙なども、ここで受け取ることができた。
 ちょっとした街という感じで、それなりに便利で、何も起こらなければ、楽しむこともできたのである。

 しかし、常に、「ベトコン」と呼ばれる敵には脅かされていたのである。
 砲弾や銃弾は、常に飛んで来ていたし、炸裂音は24時間こだまし続けたのである。
 「ドン!ドン!」という爆発音、
 「バチッ!バチッ!」という機関銃の炸裂音は、すぐ近くで、響き渡っていた。
 安眠を貪るなどとは、到底できないことで、常に神経は張り詰めたままである。
 当然、周りの警護は厳重だったが、 それでも、いつ何時、襲われるかもしれないという恐怖が、神経を苛立たせたのである。
 時に、夜陰にまぎれて、夜襲を受けることもあった。
 忍び込んで来たべトナムゲリラに、喉をかっ切られる事故も頻発していたのである。
 みんな、はっきり言って、恐怖に脅えていたのである。

 マイクの仕事は、前線への兵員、武器の輸送、連絡、戦死者、負傷兵の輸送だった。
 ヘリコプターによる仕事が多かったために、敵からの狙い撃ちに会う危険は常にあったのである。

 

 


メカニック

2010-07-21 11:30:15 | 日記

                      (6)

 第二次世界大戦が終わると、世界が平和になったかというと、まったく、そうでなかった。
 ソビエットを中心とする社会主義国とアメリカを中心とする自由主義国が、世界を真っ二つにして、お互いの勢力地図を拡大すべく鎬を削った。
 ソビエットは、アジア、中南米、アフリカで勢力の拡大を図った。
 アメリカは、威信に掛けても、共産圏の拡大を阻止しようとしたのである。
 「キューバ危機」のときは、あたかも、第三次世界大戦が、いまにも勃発するかという瀬戸際であった。
 アメリカのケネディ大統領とソビエットのフルシチョフ書記長が、面と向かって、お互いを脅し、今にも戦争を仕掛ける態勢であったのである。
 フルシチョフの脅しに屈しなかったケネディは、勇気ある人としてアメリカの英雄だった。

 何とか、危機を回避できたものの、世界各地で小競り合いは続いた。
 ベトナムでは、北の共産軍と戦っていたのは、初めはフランスだった。
 フランスが、早々に撤退した後で、南ベトナムが、共産化されることを恐れたアメリカが介入することになったのである。
 もともと、アメリカが介入を決めた時、アメリカ国民も、かなりの人たちが賛成しなかった。
 利害関係があるとも思えない、アメリカからはるかに遠い国に出兵することには抵抗があったのである。
 ベトナムが、共産化するのを黙って見過ごすのは、いずれは、アメリカが脅かされる、という「大義」と自国に対する「脅威論」が勝って、つい手を出してしまった。

 最初は、大国アメリカは優勢であったが、ベトナムは屈しなかった。
 強かなゲリラ戦法で、執拗に抵抗したのである。
 圧倒的な武器、戦力をもってしても、アメリカは勝つことはなかった。
 何時まで経っても、終結しない戦争にアメリカ国民が、イライラし始めた。
 そんなはずでないと思っていただけに、政府に対しての不信感は募るばかりである。
 このことが、社会のいろいろな面で影響が出てきたのである。経済が、うまくいかない。企業は人員整理を始める。
 教育予算が削られる。州立大学など、学部がなくなったりして、スタッフの首切りが起こる。
 ハイウエーが放置され、補修されなくて、凸凹道になる、などあちこち、国民の身近なところで歪みが出てきた。
 誇らしげであったアメリカのかつての栄光はどこに行ってしまったのだろう。

 先日、クリストファー・ムーアという人が書いた「カットアウト」を読んでいて、たまたま、この時期のアメリカ人のイライラ感に出くわした。

 「ぼくは、スーツという物が好きでない。スーツを来た奴らが戦争をおっぱじめたんだ。
 自分らが始めた戦争を、どうしていいのか分からなくなってしまって、奴らは逃げて行った。
 他の奴らがぶち壊しにした、と言って。
 スーツを着たアメリカの奴らは、具合が悪いと、必ず逃げて行くんだ!」

 このセリフは、まさに、当時のアメリカ人が抱いていた政府に対する不信感を如実に物語っていると言える。

 ベトナム戦争の終盤に、マイクは戦場に駆り出された。

 マイクの家は、「ばーちゃん」と父、母、一つ年下の妹、それに弟の6人家族だった。
 家は、小さな農場を経営していて、父は、農閑期には、農機具のセールス、アフターセールスサービスと修理などを行っていた。
 長男であるマイクも、父の後を継ぎ、農場の仕事をするつもりでいた。
 高校の時、選択科目で、機械のクラスをとっていたのは、将来、メカニックになるためであった。
 しかし、卒業した時は、両親とも、まだ元気で、すぐに家業を継ぐ必要がなかった。
 友達と、ウイチタにあるセスナ航空機製造会社の関連企業に就職した。
 もともと、機械が好きで、関心があったのである。

 

 


「オイルショック」

2010-07-17 12:42:20 | 日記

                    (5)

 マイクが、学校を出たころは、アメリカは、いろいろな意味で、じり貧の状態だった。
 「オイルショック」のころで、主要な産業である車が売れない。したがって、自動車会社が、軒並み人員整理を始める。
 この時期、長距離のバス会社が、
 「 Discover America! 」 (アメリカを再発見しよう!) のキャッチフレーズのもとに、自家用車を離れた人たちを呼び込んだ。
 ガソリンの値段が上がったことで、航空運賃が値上げされた。
 
 収入が減ったために、一般の人たちの購買欲が低下してしまって、小売業界も斜陽になり、あちこちで倒産業者がでてきて、失業者があふれた。
 
 ミシガン州の人口が減ってきた。
 自動車会社が集中しているこの地がふるわないため、失業者が排出されたのである。
 他の州の景気がいいと思われるところに人口が移動していった。 噂を頼りに、当時もてはやされていた航空産業が盛んなテキサスに向かう人が多かった。
 ステーションワゴンに家族と家財道具を乗せ、当てもなくテキサスに向かう人のことが、新聞に写真入り記事で出ていたのを読んだことがある。
 その間げきを縫って、トヨタの小型車がアメリカに入っていった。
 アメリカの空港で入国手続きをしていて、係官が、もちろん冗談だが、
 「アメリカは、ミスター・ヤマダを歓迎します。トヨタは、歓迎しませんが!」と、笑いながら言っていたのを思い出した。

 ベトナム戦争の戦局は、アメリカにとって、最悪で、国民の多くが、アメリカは、手を引くべきだと考えていたが、戦争の泥沼から抜け出せないディレンマに悩んだ。
 ニクソン大統領が、「ウオーターゲイトスキャンダル」で、辞任に追い込まれた。
 大統領が、任期途中で、このようなスキャンダルで辞任することなど歴史始まって以来のことだった。

 将来が見えない若者たちが、反社会行動に出る。
 大学で、学生運動が盛んになり、学生たちは、過去の価値観を否定、エネルギーを体制の破壊活動に向けた。
 あちこちを彷徨うヒッピー族が現れた。
 大学生といえば、かつて、ブレザー、ネクタイを着用していたが、今までの服装をかなぐり捨て、ジーパン、T-シャツ着用で学校に出るようになった。
 トシが、初めて訪れた大学も、授業に、裸足で来る学生もいた。  
 店やスーパーなどに行くと、店頭に 「No Barefoot!」 (裸足お断り!)とか「Barefoot at your risk!」(裸足の方、ご自分の責任でお入りください!)の札がぶら下がっていた。
 怪我でもされて、後で、訴えられても大変と思ったのだろう。

  男子学生は、髭をたくわえることが風潮になり、女子も、ザンバラ髪で、「カットオフ」と言って、ジーパンをふともものところで切り落とし、ジグザグに切り口がぶら下がった「短パン?」で教室に来ていた。
 
 この時期、学長に推薦されても、学生の攻撃の矢面に立つのが嫌で断る人が多く、自ら求めてなる人はいなかった。
 言語学者で有名なサミュエル・ハヤカワ教授が、サンフランシスコ州立大学の学長になり、学生運動家たちと堂々とやり合い、話題になった。
 カナダ系アメリカ人だが、カリフォーニア州から上院議員にもなった人である。
 この人は、日系人だったが、日系社会が、戦争中に執ったアメリカ政府の不当な日系人弾圧に対しても、政府を擁護する立場をとり、ひんしゅくを買った人である。
 フェミニズム運動が盛んになり、女性たちは、「男性社会」に対抗して、男女平等を叫び始めた。

 そのようなときに、マイクは、ベトナムに行ったのである。

 


 


マイクです!

2010-07-15 16:15:47 | 日記

                     (4)

 ハンバーガーを食べている途中、何を思ったか、腰を浮かして、右手についたケチャップを拭いながら、その手を差し出して、
 「マイクです、よろしく!」と言った。
 トシもつられるように、中腰になった。
 手を差し出し、握手しながら、
 「トシです!日本から来ました」
 「エッ!日本人ですか?」
 「沖縄は、日本ですか?」         
 「その通りです」と言うと、
 「3週間ほど、沖縄に駐留したことがあります」
 「友達と、すし屋に行きました。初めてのことだったので、食べ方がわからなくて!」

 彼には、その後、2度会った。
 一度は、偶然、街で出会ったものだった。
 もう一度は、
 「妹の子供、姪の写真を見せたいのだが、会ってくれませんか?」
 と言われて、時間と場所を決めて会ったことがある。
 本当に、かわいい女の子の写真を持ってきた。
 写真は、名刺サイズくらいの大きさで、斜め上を向いた、何とも愛くるしい顔をしていた。
 
 会う度に、一緒に食事したが、一度は、トシが気に入っている「フジ・レストラン」に連れて行った。
 「富士ホテル」の一階の道路に面したところにあった。
 ローカル色漂う、いい雰囲気のレストランである。
 隣に座っている人とも、すぐ友達になれそうな、そんな感じのところだった。
 所有者は、おそらく、日系人だろう。
 日本風か、日本風にアレンジしたメニューが多くて、トシは、魚の天婦羅セットなど好きだった。
 マイクと行った時も、確か、この天婦羅セットを注文したような記憶がある。

 彼が、生まれたのは、カンザス州の田舎町プラットだという。
 近くで一番大きな都市としては、ウイチタがあり、何か大きな買い物をする時などの、一家総出でこの町まで出かけたという。
 彼は、高校を卒業するまで、プラットで過した。
 全くの田舎者で、ニューヨークやシカゴなど、もちろん見たこともなく、一度も、飛行機に乗ったこともなかった。
 高校を終えると、幾人かの男子生徒は、徴用されて軍隊に入る。 彼もその中の一人で、入隊することになったのである。
 いよいよ、町を出ることになった時、学校の時の友達などが壮行会を開いてくれた。
 たくさんの町の人たちも、激励会などを開いてくれて、入隊直前は、華やいだ気持ちだったそうである。

 初めの2年間は、訓練期間として、いきなり、ドイツに派遣された。
 初めて見るヨーロッパだったが、アメリカでも見たことのないようなビルが林立する大都市を目の当たりにして、驚くばかりであった。
 軍務は、厳しいものだったが、アメリカのあちこちから徴用されてきた同僚と友達になり、ある意味、楽しい時期であった。
 
 高校を卒業するまで、他の人に手紙を書くことといったら、クリスマスの挨拶とか、結婚する人に送る祝福のカードぐらいだったのが、やたらに手紙を書くようになったようだ。
 夕方の自由な時間を持て余して、友だちが、毎晩のように、故郷の人たちに手紙を書くのを見て、それに倣うように、両親、弟、今では、嫁いでいる妹の家族などに、手紙を書くようになった。
 休日に、同僚たちと繰りだし騒ぐことも楽しかったが、手紙を書く楽しみを覚えてしまった。

 2年間のドイツでの軍務を終え、一度アメリカに帰って来る。 滞在したのは、カリフォーニア州の基地だった。
 休暇の時など、グレイハンドの長距離バスで故郷の家に帰ったこともあるし、故郷の家族が、カリフォーニアの基地まで会いに来てくれたこともある。
 
 実戦に配属される時が、やがて訪れる。
 軍用機で、ベトナムまで飛んだ。
 途中、沖縄で3週間を過ごし、最後の訓練を受けた。
 彼の場合、前線配置ではなく、言ってみれば、「後方支援」の部隊であったが、連日、爆撃音が響き、銃弾が飛び交い、こだまする、その最中にいたのである。
 事実、負傷した兵士たちが搬送されてきて、その処置などに追われていた。
 夥しいし戦死者、負傷者を目の前にし、一瞬の気も抜けない緊張する日々であったようである。

 

 


ハンバーガー、ポテトフライ、コーク

2010-07-14 14:12:36 | 日記

                     (3)

 レストランを出た時には、「水をもらえますか?」と言った男のことなど、すっかり、頭の中になかった。
 レストランから2,3ブロック離れたところのコーヒーショップに向かって歩いていた。
 ちょっと、面白そうな店などを覗きこみながら時間をかけて歩いた。
 アンティクショップを外から覗きこんでいて、惹きつけられるように中に入っていった。
 別に、買う目的などなく、陳列された品々を興味を持ちながら眺めるのが楽しかったのである。
 しかし、一枚の風景画が目に留った。
 おそらく、ニューヨークかシカゴの街並みを描いた物だろう、作者は、わからないが、何となく、魅かれる水彩画だった。
 ためしに、店員に値段を確かめると、150ドルだとのことであった。

 表に出て、再び、歩き始めた。
 その時、前方にうずくまるような姿勢で、地面に座りこんだ男性がいた。見覚えがあった。先ほど、レストランにやって来た男である。
 何か、遠く、海の方を見やる顔は無表情だった。
 トシは、彼の前を通り過ぎる時、ちらっと見たが、彼は、顔を上げるでもなく、関心を示さなかった。

 彼の前をかなり過ぎて、フッと何を思うでもなく、歩くのをやめて、今来た道を後戻りし始めた。
 例の男の傍まで来て、何とはなしに、彼と同じように、地面に腰を降ろした。
 チラ!とこちらを見たが、それ以上の興味はないようだった。

 勇気を出し声を掛けてみた。
 「ハーイ!」
 彼も、仕方ないふうに、
 「ハーイ!」と声を返した。
 どんな話をするか、など心構えができていなかったので、それに続く会話が出てこなかった。2秒、3秒の無言の空間が、ずいぶん長く感じられた。
 思い切って、
 「もう、ハワイは長いの?」と、意味のないことを訊いていた。しばらくして、彼は、一言、
 「そうかなあ!」 ( Maybe!) と言った。

 急に思いついたふうに、
 「あそこで、コーヒーかジュースを飲まない?」と言ってしまった。
 「アンタのおごり?」と言うから、
 「当然だよ!」というと、急に顔を崩して、にっこりした。
 最初の印象では、40歳にもなるかなあ、と感じたのだが、近くで見てみると、30台、ひょっとして、20代後半かもしれないという気がしてきた。
 ザンバラ髪と髭のせいで、実際より老けて見えたのだろう。
 
 「さあ!行こうか!」
 本当は、小奇麗なコーヒーショップに行くつもりだったが、入店を拒否されては拙いと、近くのファーストフッド店に行った。
 彼を表のテラスの椅子に座らせ、トシは、店の中に入っていった。
 彼のために、 ハンバーガー、ポテトフライ、コークのセットと、自分用にコーヒーを注文した。
 それを持って、彼のところに戻り、セットの器を彼の前に置いた。
 「コレ、食べていいの?」と言うから、
 「もちろん」
 汚れた手で、目の前のハンバーガーをプラスティックのナイフで切り始めた。
 どうするつもりなのか、わからなかったが、半分を自分で手に持ち、残った半分をプレートにのせたまま、こちらに差出し、
 「どうぞ!」と言った。
 一人分しか買わなかったので、半分づつにしたのだろう。
 「ボクは、さっき済ませたから、いいよ!」