マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

予備校の英語

2011-04-29 03:24:01 | 日記

                   (6)

 予備校で教えていた経験がある。
 「武運つたなく」現役で志望校に入れなかった人、学力不足で、やはり目的を達成できなかった人などが、予備校に入って来る。
 予備校の玄関前には、「君たちの努力は報われる!」など、標語の垂れ幕を掲げているが、生徒たちは、自らそのことを自覚していて、予備校を最後の拠り所にして、必至である。
 自習室を覗いても、私語をする生徒はいなくて、粛々と努力している。
 教室でも、緊張した雰囲気が張りつめていて、その様子がひしひしと教える側にも伝わって来る。
 そんな生徒を相手にする先生の方も、手が抜けないと言うか、頑張らざるを得ない気持になってくるのである。
 始業前に事務官が、すでに教室に入っていて、出席を取ったり、連絡事項を伝えていて、ベルが鳴った瞬間、廊下で待っている先生に、
 「お願いします!」と言って、引き継ぎをするのである。
 クラスの生徒数は、25人ぐらいの「小人数制」で、出来るだけ、全体に目が行き届くようになっている。
 授業が終わると、廊下には、事務官が待っていて、先生に対して、「ありがとうございました!」と一礼する。
 短い休み時間だが、生徒たちは、先生を追っかけてきて質問を始める。先生も大変であるが、一人一人に細かく丁寧に答えている。
 時間が十分取れなくて、放課後2,3人の生徒を連れて、近くの喫茶店で、指導したりすることもしばしばだった。

 生徒たちは、どちらかというと、地元の出身者というより、遠く他県からやってきた人たちが多い。
 出身校の名前を聞いても、知らない場合が多いようなところである。
 所謂地元の進学校では、この地方で最難関の国立大学に、100人単位で合格させていて、過去に多く進学希望者を教育してきた実績がある。
 長年の実績、経験に基づいた、さまざまなデータを持っていて、指導上の対策も万全である。
 どうすれば、どの大学に入れるかなど、個々の生徒に応じた指導法が確立しているのである。
 しかし、いわゆる「田舎」の高校では、このような有名国立大学に、ようやく、毎年数名しか送り込めないでいるのである。 本来なら、能力が充分ありながら、自身の可能性を見極めることができないまま、高校を巣立って行かざるを得ない生徒もいるだろう。
 この人たちが、予備校で、見違えるように変身していくのを見てきた。
 もちろん、全体を同じように指導しても、生徒によって、学習の習熟度が、早い人、遅い人が出てくるものだ。
 田舎の、いわば磨かれてない生徒たちの学力が、短期間に高まるのを見るのは、楽しいし、教え甲斐もあるというものである。

 予備校に通う人のことを、高校4年生だと皮肉る人たちもいるが、生徒によっては、最後の4年次が、生涯を決める充実したものになるのである。
 高校の時の先生も、おそらく予想していなかった難関の大学に、「高校4年生」を経て合格した受験生が、故郷の高校に報告の挨拶に行くと、かつて指導した先生も、「驚いたなあ!」「しかし、よく頑張ったね!」とか、言ってくれて、そのことをまた予備校に伝えに来てくれる。
 本人がうれしいのは、もちろんだが、指導した我々も、損得なしに、うれしいものだ。
 難関と言われた医学部にも、4人合格した。
 今頃、彼らは、立派な医者になってどこかで働いているのだろうか。

 たとえば、「長文読解」で、がむしゃらに頑張る気持ちだけで問題を解こうとしてきたのが、ちょっとした解き方、ヒントを与えると、見事に、わだかまりが解けるように読めるようになる生徒がいるのである。
 今まで高校で、できる人、できない人を同じように指導されてきて、個々の生徒に合う指導がなされてこなかったのだろう。
 このような生徒は、どんどん伸びていく。
 教えた側の自分を振り返ってみても、長年教育の場で頑張ってきたが、この「予備校」にいた時期が、最も充実した瞬間で、「自分を生きていた瞬間」だったように思うのである。

 

 

 

 


「受験英語」

2011-04-25 08:33:23 | 日記

                             (5)

 「受験英語」という言葉がある。
 大学に受かるために、勉強する英語である。
 志望大学に、実際に出た問題を過去5年くらい遡って見ていくと、およその傾向が分かる。
 とりあえず、70点くらいを目標に対策をたて勉強を始める。
 もとより、今まで培って来た英語力が大切である。
 元々英語が得意な人は、そんなに努力しなくてもいいかもしれないが、そうでない人は、受験まで残された時間を逆算して、最終的に、合格点に達することができるかどうかを見極めることが大切である。
 どうあがいても、無理な人もいるかもしれない。
 何らかの手立てをすれば、可能性を見出すことができる人もいる。
 そのためには、高校の授業だけでなく、放課後に、進学の補習授業を受けたり、予備校に行って学力を補ったり、経済的に余裕のある家庭では、家庭教師を雇って、勉強したりすることも一つの方法である。
 周りの人に手助けをしてもらうのも必要だが、学力をつけなくてはならないのは、あくまで本人であるから、自ら努力に励むのは当然である。
 出来るだけたくさんの英文を読み理解力を高める、単語を暗記して語彙力をつける、多くの問題に当たりドリルするのは、本人であって、先生や家庭教師ではないのである。
 本来なら、日常の学習で語彙を増やすことも大切だが、それでは間に合わない場合、我々の場合など、旺文社の「赤尾のマメタン」をAから最後のZまで丸暗記をしていたものである。当時は、確か、6,700語ぐらいあった。
 本番の入学試験で、見たことがある単語が出ていると、ほっとするものである。
 課外授業でも、毎時間のように、語彙のテストがあったから、これも役立ったように思う。

 日本の英語教育は、「いびつ」 (distorted)である。
 将来、社会に出て、直接仕事に役立つかといえば、おそらくそうではない。
 ずいぶん昔だが、シカゴの日本人会から招待されて、「日本の英語教育」というタイトルで話をしたことがる。
話の後でのフリーディスカッションで、参加者が次々に意見を出して来た。
 概ね、日本で習った英語は役には立たないというものが多かったのである。
 日本の英語の実効性のなさを強調する意見が多かった中で、一つ印象に残った意見があった。
 「日本で真面目に英語に取り組んだからこそ、それが基礎になって、今の我々があると思うのです」「日本の英語をバカにして来た人たちは、アメリカで仕事ができているかというと、そうではないのです」「高校の時、必死に、辞書を引きながら努力したことは無駄ではありません」
 という意見で、救われる気持ちだった。

 「英語読みの英語知らず」、つまり、いくら英語を勉強しても、役に立つ英語を習得できない、ことを言ったものである。
 このことは、国会でも問題になった。
 中学、高校で週5時間の、しかも必修科目として習っていた。
 やたら時間ばかり食って成果のでない授業なら、貴重な時間を無駄にすることはないということで、後に選択科目になリ、時間数も減らされてしまったのである。
 先生の説明にばかり頼り、理解力を高める従来の方法も、その後の情報機器の開発、進歩により、変わってきたのである。
 教科書、問題集、副読本を頭の中で習得することだけだった授業に、「音」が加わることになったのである。
 今では、ネイティブの人たちの声を、これらの機器、テープ、CD,テレビ、ラジオ、映画などを通じて親しむことが出来る。
 実効はあまり期待できないようだが、各学校にATがやって来て、生の英語を教えている。
 アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス、ニュージーランドなどの英語圏に容易に旅行できるようになった。短期の語学留学も可能である。
 日本人が、ひとり国内でに留まるのでなく、世界の中で活躍する時代である。
 英語を「ユニバーサルランゲッジ」として学ぶことは、ますます必要になってきた。
 シカゴの日系企業を訪ねたとき、そこで働く日本人たちが、電話の受話器を持ち、英語を駆使して働いているさまを見た時は感動してしてしまった。

 

 


モナの英語

2011-04-22 01:16:32 | 日記

                               (4)

 日本の英語教育は,「実用英語」、あるいは「役に立つ英語」に向いていない。
 「聞く」「話す」読む」「書く」の4技能が、英語教育の目標として標榜されていて、その4つをバランスよく学ぶことが求められている。
 しかし、どうしても、「聞く」「話す」が疎かにされてきた。
 「聞く」「話す」を授業で、生徒を指導しようにも、肝心の先生に、その指導能力がないのである。
 授業では、「英語」を使う訓練というより、理解する能力を養うことに終始してきたのである。
 教科書、問題集、参考書などがあって、辞書を使いながら、生徒は、「訳読」に集中する。
 先生が予め、次の時間にやる範囲の予習を指示する。家に帰って、予習し授業に臨む。
 指示された個所を生徒が、かわるがわる訳して、先生は、間違いの個所を指摘し、訂正し、模範解答を示す。
 この過程で、聞いたり、話したりの作業はなのである。

 トシの高校時代の英語の授業は、3つに分かれていた。
 「リーダー」「文法」「英作文」で、それぞれ異なった先生が担当していたのである。文法を教える先生は文法ばかり、作文を教える先生は作文ばかりと言った専門の先生がいた。
 同じ英語である筈なのに、3つ、それぞれが別の言語のようだった。
 生徒によっては、文法が得意な者がいて、同じ生徒が、リーダーがまるで出来ないこともあったのである。
 
 実際に英語が、どのような使われ方をしているのかを知る機会がなかった。
 当時は、テレビもないし、辛うじてラジオはあったが、アメリカ人が英語をしゃべるのを聞いたのは、大学生になって、ラジオで、" Far East Network " 「ファーイーストネットワーク」を耳にしたのが初めてであった。
 唯一英語の窓口と言えるアメリカからやってくる映画をよく見に行った。
 出来るだけ字幕を見ないようにして、生の英語を聞きとろうと努力したものである。
 高校の時、先生が、教科書を読んで聞かせてくれたが、あれは英語と言える代物ではなかった。
 したがって、実際には、後になってから、必要に迫られて、改めて、しかも独学で、話し言葉を勉強することになったのである。

 あるミッション系の女子高校の副校長と話したことがある。
 新学年になって、クラス編成があり、時間割、担当教師が書かれたスケヂュール表が生徒の渡される。
 生徒は、それを家に持ち帰り親に見せる。すると、間もなく、親から学校に電話がかかってきて、娘を担当する英語教師を、アメリカ人、カナダ人の教師ではない日本人の教師のクラスに変えてほしいという要望が、毎年必ず来るということである。
 これは、教師に資質の問題でなく、ネイティブの教師に習うと、大学受験に不利で、いい大学に入れないということなのだ。   本来であれば、ネイティブの先生から、本物の英語を学べるのであるから、幸せだと考えるべきなのだが、卒業して行った先輩たちの言い伝えで、外人の先生に習ったクラスは、間違いなく進学率が低いようなのである。
 大学受験を目標に、日本人の先生だと、文法、作文、長文読解などを、丁寧に訓練してくれるが、外人教師だと、話し言葉が中心になって、必ずしも指導法が大学受験の対策に向いてないということなのだ。

 高校の進学向けの課外授業で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」を、英文に訳せ、というのがあった。
 モナだったら、出来るだろうか、とつい考えてしまう。
 高校の同じクラスに、アメリカから帰国した3つも年上の、2世のクラスメートがいた。
 戦争中アリゾナの収容所に入れられ、戦後、解放されてロスアンジェルスの実家に帰ったものの、知らない人が家を占拠し住んでいたということだ。
 当時は、あらゆることが日系人に不利で、住居権を主張され、それが認められて、やむなく日本に帰ってきたと言っていた。
 彼は、アメリカで育ったので、英語は、文句なく「出来た」のだが、驚いたことに、一学期の定期考査で不合格になり、夏休みの強制補習に出ることになったのである。
 最近の話だが、授業中、アメリカ人のTA ( Teaching Assistant ) が生徒から文法の質問を受けて答えることができず、日本人の先生に訊いてくる、と答えたという話もある。 
 本来の英語ではない、「日本の英語」があるのだろうか。

 


モナのお母さん

2011-04-19 10:10:10 | 日記

                           (3)

 モナのお母さんは饒舌である。
  何処からそんなにと思えるくらい、「澱みなく」英語が出て来るのである。
 アメリカ人と結婚して、それに、長い間アメリカで生活したのだから当然と言えば、それまでだが、もはや英語の世界にどっぷりである。
 自分の娘との会話も、すべて英語である。
 娘の英語は、完ぺきなアメリカンであるが、お母さんの英語は、もともと日本で生まれた日本人なのだから、「ナチュラル」というわけにはいかないかもしれない。
 かなりの癖があるというか、時にわかりにくいことがあるのである。
 そんなことを気にしているのかどうか、自分の英語を貫き通しているから、えらい。
 それでも、マディソンに住む日本人のコミュニティでは日本語を話すこともあるようで、その時には、日本人であることのアイデンティティを思い出すのか、「日本語で話せるのは楽しいわ!」とも言っていた。

 パーティの時、人の輪の中で、彼女の声が、ひときわ高く聞こえてきた。

  ” I'm Kansaijin, not Japanese,  you know .”
  ” Kansaijin talks a lot,  always speaking without listening to others. "
  "  They speak with a peculiar intonation and are always noisy, you know. "
  "  I'm one of them ."
 
   (   私は、日本人でなく、関西人なの!)
 ( 関西人は、よくしゃべるのよ。ほかの人のことなど聞かないで、いつもしゃべっているのよ )
 ( 独特な抑揚があって、それに騒々しいの!)
 ( 私が、そうなのよ!)
 とか、まるで自慢するようにはしゃいでいた。

 トシなどからみると、羨ましいというか、日本人離れした存在に見える。
 彼女の場合、もともと日本人だから、ナチュラルな英語を求めても、それは難しいと思う。
 ネイティブから見ると、ちょっと「おかしな」英語に聞こえるかもしれないが、そのようなことをものともせず、言いたいことを人前で主張できるのは、まさに羨ましい限りなのである。

 総じて日本人は、特にアメリカに来ると、” hesitant ”(腰が引けて)しまって、人前ではものを言わない。
 他の人たちが何か言っていることに対して、せいぜい相槌を打つくらいで、何かを訊かれると、
 ”Yes",  "No",  " I think so" ぐらいで終わってしまう。
 相手からすると、この人は何を考えているのだろうと計り知れないのだ。
 
 学会出張などでやって来る大学教授もそうである。
 学会が終わると、必ずパーティがあるが、その時なども、日本人同士が奥まったところでなにやら会話をしていて、皆と打ち解けようとしないのである。
 折角の機会なのに、ヨーロッパなどから来た学者と交わらないのは残念である。
 これには、英語をうまくしゃべれないという問題が、大きく関わっているとは思うのだが、しかし、別のアジアから来た人たちは、お世辞にも、英語がうまいとは言えない人たちが、大声で、分かりにくい、怪しげな英語を「駆使して?」話の輪に加わって頑張っているのである。
 言葉が出来ないということと、さらに日本人は、「シャイ」で人前で、話をしたり議論することに慣れていない欠点があるようだ。

 アメリカでは、小学生の時から、クラスで、” public speaking ” とか” speaking in public ”があって、人前で意見を言う訓練を受けている。
 言葉や表情、ジェスチャーなどで、自分の言いたいことを相手に伝える練習をする。
 日本には、昔から「以心伝心」と言う言葉があるように、何も言わなくても、気持ちが伝わる、真面目にやって居れば、こちらの気持ちを相手は理解してくれる、と言った考え方があった。
 しかし、ひとたびアメリカに行くと、この言葉は当てはまらないのである。
 あらゆる方法を駆使して、自分の思っていることを伝える努力をしなくてはならないのである。

 

 

 


お喋りなモナ

2011-04-17 15:18:21 | 日記

     

                 (2)

 モナは、イタリアで父の死を知らされた時は、全く予期できないことだったので動転してしまった。
 何をどうしたらいいのか分からないまま、とにかく帰らなくてはと、必要なと思えるものをスーツケースに詰め込み、アメリカ行きの飛行機に飛び乗ったのである。
 父親の死は、交通事故だった。
 最後の瞬間に、病院で声をかける余裕もなかったのである。

 トシと会った時は、数か月経った後だった。
 表面的には、恐らく以前の陽気さが戻ってはいたのである。
 他人と話すのが好きで、人懐こい女性である。
 ギャラリーでは、お客さんの相手をする人がいるのに、入り口のベルが「リン!リン!」と鳴ると、仕事の途中でも、奥の方から飛び出してきて、お客さんの相手をするのである。
 彼女のそんな様子を見て、いつものことだと思うのか、皆さんニヤニヤ笑っている。

 人が集まって会話をする時、またパーティなどでは、いつも、ひときわ大きな声を出すのがモナである。
 パーティで2重、3重に人の輪ができ、皆さん何かおしゃべりしている中で、遠くの輪にいるモナの声が飛び越えて聞こえてくる。絶えず誰かと喋っているようだ。
 遠くから、トシの方を見て、思い出したように近寄ってきて、
 「ねえ!パパさん一緒に飲む?」とか言う。
 あのほっそりした体から想像できないくらい、モナは酒に強いのである。
 「なんで、そんなにアルコールに強いの?」と聞くと、
 「毎晩、パパと飲んでいたの!」と言った。
 ママが、食事の準備などで忙しくしている時、決まってパパの相手をして、ビールやワインを一緒に飲むのがモナだったようである。
 食卓のテーブルであったり、気候のいい季節では、外のテラスで飲みながら、話し相手をしたそうだ。
 
 トシがモナに出会った時は、最愛の父を亡くして数か月経った後だった。
 いつもしゃべっているモナだったが、様子を、それとなく注意して見ていたら、時々、ふっと寂そうにする瞬間があった。
 無理に自分を元気づけているのかなあとも思ったが、悲劇から十分に立ち直っているようには見えない。
 「ママ」と会話をしていた時、ママがふと、
 「モナは『パパっ子』だったのよ!」と言っていた。
 そのようなことを知っていたから、お互いの会話の中に、パパのことを持ち出すことを避けた。

 トシが、マディソンに行く前のことだが、娘が、普通に会話をしていて、何気なく、
 ” My daddy's supposed to come! ”  ( 父が来るの! )
   ” Really?  To Madison? ”        ( ほんとう? マディソンに? )
   ” Yes! ”               ( そうよ! )
 と言っただけなのに、急に目に涙をためて、だまりこくなったそうである。
 「父」という言葉に反応して、一瞬「パパ」のことを思い出したのだろう。

 モナは、よく食べる。
 あの細い体で、どうしてそんなにも食べれるのだろうと思うが、いつも食欲が旺盛である。
 一度など、一人で、近くのファーストフッド・レストランに昼食を食べに行き、ピザ、サラダとコークを注文した。
 アメリカのこと、量が半端でなく半分くらい食べ残した。
 店員に頼んで、残りをパックしてもらい、持ち帰った。
 冷蔵庫に入れようとしたとき、モナが、
 「それ、食べ残したの?」
 「残り物だけど、もし?」と言いかけたら、
 「モナが食べよっと…」とか言いながら、あっという間に食べつくした。
 ランチを済ませたばかりだというのに。