マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Thanks for a pleasant evening ! " ( ハワイの楽しい夕べ )

2013-02-27 16:08:36 | ハワイアンディナー

 

 

 

 テレビのドラマシリーズ「ハワイ・ファイブーオウ」( Hawaii Five - O ) を見ていたら、見覚えのある風景が出てきた。
 レストランで食事をする場面だったが、テーブルの並び方、背景の風景、立ち並んでいる木立の様子、トーチの形、位置などから、まさしく我々が食事をしたレストランで、それも、どうも、あの時食事をした同じテーブルのようだった。
 その場面を見て、「エツ!」という感じで、びっくりしてして思わず立ち上がったほどである。

 その日、知り合いの人から電話がかかって来て、ディナーに招待された。
 てっきり、どこかの家の食事だろうと思い、「ありがとう!」と気軽く応じた。
 極くラフな服装で出向いたのである。
 待ち合わせの場所に立っていると迎えの車が来て、トシの横に止まった。車の窓から、見知らぬ人が、 " Sensei? "  ( センセイですか? ) と声をかけてきた。
 "  Yes !  " ( そうです!)と言ったが、なぜ「センセイ!」と呼んだのだろう。
 車の後部座席に乗り込んで、どこかの家に行くものだとばかり思っていたら、着いたところが、「カヌークラブ」だったのである。
 もちろんメンバー、あるいは、メンバーが連れてきた人しか入れないところである。、トシは、ひとりで来ても入ることができないのだが、メンバーに招待されたということで、カウンターで手続きをしてテーブルに案内された。
 ちょうど夕暮れ時で、西の空は、まさにハワイアンサンセットで、大きな太陽が水平線に沈んで行くところだった。

 周りを見渡すと、着飾った紳士淑女たちが、テーブルを囲んで食事をしながら談笑していた。
 トシは、アロハシャツに、短パン、スニーカーといういでたちだったが、幸いにも、我々メンバー全員が、女性を除きラフなスタイルで来ていたので安心した。
 唯、今から一緒に食事をする人たちは、大学の先生を除くと初めて会う人たちばかりだった
 われわれのメンバーは、後からやって来た人たちも含め、女性が3人と、男性は、判事だという人、弁護士が一人、大学の先生、トシ、それにもう一人で、結局男性が5人と女性が3人、8人がテーブルに座った。
 トシがなぜ招待されたのかわからないままで、しかも初対面の人たちが多くて緊張していたのだが、そこはアメリカ人、そんなことには意に介せずの様子で、彼らは、しゃべりまくっていた。

 横に座っていた女性が、
  " Isn't it funny ?  We have two Mikes here.  "   ( 面白いと思わない?ここに2人マイクという名前の人がいるのよ!)
 たしかにマイクと言う人が二人いて、お互い "  You, Mike !  " (ねえ、マイク!)とか呼び合っていたのである。
 トシの左側には女性が、右側には男性が座っていたが、女性3人がだれの妻なのか帰り際までわからないままだった。

 "  We'll use ' hashi ' out of respect for Sensei  ! " ( センセイに敬意を表して箸を使いましょう! )と誰かが言った。
 そして、ウエイターを呼び、人数分の箸を持ってくるように言ったのである。食事の間、ずっと、彼らは、箸で食べ続けた。ハワイのアメリカ人たちは、箸を使うのに慣れていて、だれでも上手に箸を使うことができる。
 今日のメンバーは、男性は、判事、弁護士、教授、トシ、それにもう一人いて、
 "  What is he doing ?   You know the man sitting there in the opposite side.  "  ( 彼は何をしている人ですか?向こう側に座っている人ですが )
 と横の女性に訊いた。
  "  He is a businessman.  He has a factory in China and can speak Chinese.  "  ( 彼はビジネスマンで、中国に工場を持っていて、中国語が話せますよ )

 

 


" Bench Shirakawa San and Toshi used to sit on " ( 懐かしいベンチ )

2013-02-22 09:10:28 | 懐かしい人たち

 

 

 ( ハワイ大学の日本庭園 )

 ドナルド・リチーさん( Donald Richie ) が亡くなった。88歳だった。
 また一つ「戦後」がこのように終わっていくのだなあと悲しくも感慨を新たにした。

  a Tokyo-based expert on Japanese cinema who wrote dozens of books and articles about the country's people and culture, has died at age 88.
 ( 東京を起点に日本人や日本文化についてたくさんの書物や記事を書き続けた日本映画の専門家が88歳で亡くなった )
 「ニューヨークタイムズ」や「サンフランシスコクロニクル」なども彼の死を伝えている。

 ドナルド・キーンさん( Donald Keene ) 、それにドナルド・リチーさんは,高齢だが存命だということは知っていた。
 サイデンスティカーさん( Edward G Seidensticker ) は、数年前に亡くなった。
 そしてトシが親しく付き合っていたシラカワさんも、7年前82歳で亡くなった。

 この人たちに共通して言えるのは、戦後まもなく兵士として、あるいは情報士官として日本に上陸、占領政策にかかわったことである。 軍務の傍ら、日本の文化、文学、映画などに傾倒して、 自分のものにするだけでなく、世界に英文で紹介し広めたことである。
 川端康成が、ノーベル賞をもらったとき、「この賞の半分はサイデンスティカー教授のおかげだ」と言った。
 「伊豆の踊子」を始め彼の作品を英訳して、ただ翻訳しただけでなく、川端文学の真髄を英文で見事に表現した。
 
 リチーさんは、黒沢明や小津安二郎映画を海外に紹介しただけでなく、日本映画のすぐれた真価をアピールした。
 黒沢映画が、カンヌでグランプリに輝いたり、その後世界の黒沢といわれるきっかけを作ったとも言える。小津安二郎映画も世界でも高い評価を得た。
 今でも、ドイツでは世界の10人の監督に入れられているくらい伝説的な監督である。

 ブライアンは、サイデンスティカーさんとは知り合いで、東京を訪れた時など、湯島の自宅を訪ねて行った。
 酒を酌み交わしたこと、御徒町のとんかつ屋に連れて行かれた話など聞いた。
 サイデンスティカーさんは、日本語が堪能で、東京弁を自由に操っていた。
 ただブライアンは、日本語を話せないので、二人は英語でしか会話ができなかった。
 酒が好きで飲むほどに陽気になり、声が大きくなって行ったということだった。
 トシがハワイ大学で講話をした時、同じ講座で数日前にサイデンスティカーさんが講話をしていて、すれ違いで彼と会えなかったのは残念である。

 キーンさんとサイデンスティカーさんは、生涯親友同士で、東京大学で教授をしていた時、コロンビア大学で教授をしていた時、一緒に同じ大学で教えていたのである。
 サイデンスティカーさんは、東京で亡くなった。
 ドナルド・キーンさんは、東北大震災で多くのアメリカ人が日本を捨てて帰国したことに腹を立て、自らは高齢にもかかわらず、アメリカから日本に移り住んできた。

 

 ( お昼になると、シラカワさんはここにきて、このベンチに座っていた。
後ろの小屋は、自動販売機、マイクロウエーブオーブン〔電子レンジ〕が並んでいて、コインを入れて果物、パン、サンドイッチ、飲み物を取り出してては、食べたり飲んだりしていた )

 シラカワさんは、終戦と同時に、マッカーサー将軍の直属の部下として横浜に上陸した。
 焼け野原で瓦礫で埋まった道をかき分け、ジープで横浜から東京の丸ビルにたどり着いた。
 彼は、情報士官だったが、英語と日本語に堪能で、その点が評価されたのだろう。
 通訳として、翻訳家として、日米の高官会議に出たり、さまざまな書類を日英両国語で作成したりで戦後の占領政策に直接かかわったのである。
 戦後の改革、農地改革、教育制度改革、財閥解体、経済改革などで、彼は直接的に、その中にいたのである。

 東京勤務を終えて彼はハワイに帰って来てからハワイ大学で研究を始めた。
 そんなとき、何かのきっかけでトシは彼と知り合った。
 上の写真のベンチで、一緒にサンドイッチとコーヒーのささやかな食事をしながらおしゃべりをした。今でも、時々この石のベンチに座りながらシラカワさんのことを思い出している。
 「ヤマダさんに会っている時が唯一日本語が話せる時間ですよ!」と彼は言った。
 どこにいても英語しか通じなくて、家の中でも、日本語を話す人がいないと言っていた。
 年齢は、ずいぶん上の人だったが、そんなことを感じさせない、いかにも友達といった感じだったのである。

 彼が亡くなったことを知ったのは、アメリカの新聞を読んでいる時だった。
 


" My favorite coffee shop " ( お気に入りのコーヒーショップ )

2013-02-15 07:50:40 | 日記

 ( 1 )

 

( 「コーヒートーク」を外から見ると、こんな感じ ) 

 昨年の8月にバス路線の変更があった。
 カパフル通りを走るバスは以前は便利がよくなかったが、今度はかなりよくなった。
 13番バスに乗って行くと、ワイキキから南に進んで動物園の手前で左折して、アラワイ運河を通り過ぎ、ゴルフ場の横を通って「ジップスレストラン」の手前でバスは、カパフルから離れ右折して丘の方に登って行く。
 カパフルを歩くには、ここでいったんバスを降りなくてはならなかった。
 もともとこの通りはバスがあまり走ってなくて、バス停で30分も座りこんで待ってもやってこないことがあった。
 バス路線と時間割の改正で、13番バスが、今度はハワイ大学まで行くようになった。大学に行くには、今までは4番バスに乗って行っていたのに、4番でも行けるし13番でも行けるようになったのである。

 カイムキの「コーヒートーク」( Coffee Talk )に行く場合、13番バスで容易に行けるようになった。
 カイムキの街は、ちょっと小高い丘の上にあって、高級住宅地のカハラの少し手前にある。雰囲気としてはかなりローカルで、雑貨店、ちょっとしたスーパー、女性向きの店などもあるし、何よりこじんまりしたレストランが多い。ワイキキの気取ったレストランのようでなく、そのどれも小さなもので地元の人たちに馴染んだメキシカン、イタリアン、ベトナム、タイ、日本、アメリカン、中華などさまざまである。
 朝のおいしいコーヒーを楽しむために、カイムキのコーヒーショップにはよく行った。
 今までは、ダウンタウンに向かう2番バスに乗って、途中でカハラやハワイカイに行くバスに乗り換えていたが、かなり遠まわしに行っていたので面倒だった。
 今度は、いきなり13番で出かけて、途中乗り換えはあるもの、コースとしてはかなり短縮できるのである。
 朝起きて、なんとなしに、「モーニングスペシアル」で熱いコーヒーを楽しみたい気持ちになることがあって、そのようなときは迷わずバスに乗ってコーヒートークまで出かけるのである。

 「コーヒートーク」の近くの丘には、高級な家々が立ち並んで居るので、おそらくそこから人々がやって来るのだろう。ちょっとファンシイな人たちで込んでいる。
 年寄りも居れば、買い物の次いでか主婦と思われる人たち、学生も多くて、パソコンに夢中で、長い時間テーブルを占領している。
 コーヒーもそうだが、なんとなく雰囲気が好きで通うようになってしまったのである。注文するのは、ハウスブレンドが多くて、2ドル50セント(220円)、大きなマグカップにタブタブに入って出てくる。
 朝食でよく注文するのが、スモークサーモンとクリームチーズベーグルで、これが8ドル40セント(750円)。
 トーストやクロワッサンの朝食などもあり、地元の新鮮な野菜がたっぷり入っている。
 若い店員たちが、いつも明るくきびきび応対していて気持ちがいい。
 「ホノルルマガジン」で、「批評家が選ぶコーヒー」の一位に選ばれたことがある。

 

 

 ( 店内の様子:至ってのんびりしている )

 ( ちょっとした社交の場で、朝食をとりながら話がはずむ )


" Brian who was hospitalized "  ( ブライアンが入院した )

2013-02-06 00:34:48 | ブライアン

 

 

 ( 週末には、ファーマーズマーケットのはずれで、このような芸術家たちの個展が開かれていたりする。
トシも友人に誘われ3点出品したことがある )

 ブライアンは、勤務中にも、腹部に激痛が走り、しゃがみ込むことがあった。
 その激痛も、周期的に襲って来るようになって、奥さんも心配して、掛かりつけの病院に連れて行った。
 医者は、問診をして薬の処方をしてくれるだけで、薬を飲んでも、一向によくなる気配がなかった。
 ある日、夜中になって、急激に痛みが襲って来て、ついに奥さんは救急車を呼んだ。
 直ぐにクイーンズホスピタルに搬送されたのである。
 病院で付き添う奥さんに代わって、自宅から身の回りの物を運んでくれたり、世話をしてくれたのがジーナだった。
 ジーナは、ブライアン家のすぐ傍に住んでいて、いわば近所付き合いをしていた人である。
 
 奥さんが、急に思いついたように夕飯時、ジーナに電話をすることがある。
  "  Could you come up for dinner with us ?  "  ( 夕飯に来ない? )と言うと、大抵は5分もしたら、ジーナがやって来る。
 彼女は、90歳にもなる人だが、いまだ元気いっぱいで、愛車のホンダを駆して駆け巡っている。
 ブライアンが救急車で運ばれた時には、夜中にもかかわらず、その愛車を運転しながらブライアン家を何かと助けてくれた。

 ブライアンの病名は、はっきり覚えていないが、結腸が癒着して、腸閉そくを起こしていたようだ。もう少し手当てが遅れれば、命が危なかったということのようだった。
 掛かり付けの医者が、もう一つ適切な処置を怠ったようだが、、結果的にクイーンズホスピタルに運ばれてよかったのである。
 クイーンズ・エマホスピタルは、ハワイにある優れた病院のひとつで、優秀な医者はもとより、施設も整っている。
 ブライアンは、ただちに手術を受けた。
 アメリカでは、日本と違って、長期の入院は認められない。重い手術でも、一週間かそこらで退院させられる。それでもブライアンは、10日ほど入院していた。
 家に帰って来ても、直ぐに動けるわけではない。腹に仰々しい包帯が巻かれていて、いかにも痛ましい状態だった。食べる物も、スープのような流動食で、日本でいうお粥みたいなものだった。
 大概はベッドに伏せていたが、それでも、トシが訪れると寝室から出てきて、広間のカウチに横になったまま話をしていた。

  "  Sensei ! Are you ready ?  "  ( センセイ、いい? )
  "  Are you ready for what ?  "  ( 何が、いい? )  
  "  Playing Shogi  "    ( 将棋をする? )
  "  Are you crazy ?  "   ( まさか )

 奥さんも、だめよ、そんな考えを起こしては、とか怒られていた。
 二、三日すると、もう時々立って部屋の中を動けるようになっていた。
 依然流動食を食べていたが、食欲もあるようで、一日一日目に見えて元気になっていくのがわかった。
 もちろんずっと立っているのは辛いようで、寝椅子に横になりながら、喋ったり本を読んだりしていた。
 食事のときは、自分は流動食を食べているだけなのに、奥さんとトシには、かいがいしくワインを注いでくれた。