マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" The little girl used to put red shoes on " (赤い靴はいてた女の子)

2011-06-14 00:04:34 | 日記

                  (3)

 以前、マディとクリスティが、宿題のことで侃々諤々(かんかんがくがく)やっていたことがあった。
 二人の共同作業でレポートを出すことになっていて、何をどうすればいいのかわからないようだった。
 その時、トシに助け船を求めてきたので、いくつかアイディアを出したが、「消防士さんの一日」にしようということになったのである。
 早速、ノートとペンを持って三人で車で15分ほどのところにある「カネオヘ」の消防署に行った。
 
 その時のことは、よく覚えている。
 消防署に着くと、マディとクリスティは、背伸びしながら顔を窓口に突っ込むようにして、オフィスの人に、自分たちが来た目的を説明していた。
 窓口の人が受話器を取って、
 「署長!小学生が、消防署についてレポートを書きたいとやってきていますが?」
 そうすると、O.K.が出たのか、
 「二階に署長室がありますから、そこに行ってください!」と言った。
 二階に上がろうとしたら、署長らしき人が、すでに階段の上に仁王立ちするように迎えに出ていたのである。
 トシも、なんとなく一緒に上がって行ったのだが、三人がやってくるのを見て、その人が大きな声で、
 「ケイト!お客さんだよ!かわいいお嬢さんが二人と、そうでない人が一人!」叫んだのである。

 ケイトという女性署員が、署内を連れて回り、説明するのを彼女らは、時に質問をしながらメモをしていた。
 家に帰ってからが大変で、数字を表にしたり、グラフを描いたり、文章をまとめたりして、結構なレポートが出来上がったのである。
 マディとクリスティの共同研究ということで、両名が署名して出来上がったレポートを提出した。
 数日後、評価結果が出る日は、どうなんだろうと、トシとしても心配になっていたのである。

 スクールバスが来て、20分後には、マディがクリスティと連れ立ってやってきた。
 二人とも、なんか浮かない顔をして、うつむき加減でやってきたので、結果が良くないなと瞬間思ってしまった。
 マディが、見覚えのあるレポート用紙をトシの目の前に差し出した。
 表紙には、Post-It のラベルシールが貼られていて、手書きの大きな文字が見えた。

   A+
  Excellent!  You both have done a good job!”
                Mrs.Thomason.
  (A プラス、すばらしいです!がんばりましたね!トマソン先生より)と書かれていた。

 二人は申し合わせて、トシを心配させようと、浮かない顔をしてやって来たのだった。
 はじけるように三人はケラケラ笑いだした。
 それから誰からともなく、日本語で、「万歳三唱」( "banzai" three times )をしたのである。
  " banzai " ( バンザイ! )は、試合に勝った時などに行う儀式だということを、マディとクリスティに教えていて、前に何度かやったことがあった。

 今度の宿題は、「パフォーミング・ワーク」 ( performing work )のようで、二人は何をしようかと悩んでいた。
 パフォーミングだから、絵を描いたり、工作をしたり、ダンスをしたり、歌を歌ったりなどのようだったが、二人は、この分野があまり得意でない。
 「海岸で拾って来た貝殻で何かを作ったらどう?」と言ってみた。
 本人たちも、「そうしようか」というところまで心を決めていた。

 「ところで、日本の童謡を歌ってみるというのはどう?」
 「日本語で歌うの?」
 「でもいいし、1番を日本語で歌って、2番を英語というのはどうかな?」とか言ってしまったために、話は意外な方向に行ってしまったのである。

 子供病院でボランティアをしていた時、ハワイ大学のシンクレア・ライブラリで、滝廉太郎などの童謡の英語版を見つけて、ひょっとして、子供たちに教えてあげようかと思っていたのである。
 その中でも、特に、「赤い靴」が気に入っていて、トシ自身何度も練習をしていた。
 
       赤い靴はいてた女の子、
      異人さんにつれられていっちゃった
   
      横浜のはとばから船に乗って
      異人さんにつれらていっちゃった 

  は、郷愁をかき立てる、何か心に残るものだった。
 静岡県の貧しい家に生まれて、横浜の外国人の家に養子に出され、当時は不治の病と言われた結核にかかり、9歳で死んでしまった可哀想な女の子の物語である。
 
   The little girl used to put red shoes on.
       She had gone accompanied by some foreigner.

      She is said to have gone on board at Yokohama port.
      She had gone accompanied by some foreigner.
 
 マディもクリスティも、歌を歌うアイディアに食いついてきた。
 トシも、その気になってきたが、なにしろ、マディもクリスティも、歌がうまくないというか、平気で音程を外して歌う、かなり音痴である。
 まずトシが、ということで、イタリア民謡の「サンタルチア」をオペラ歌手が歌うときのように、朗々と?声を響かせて歌ってみせたのである。
 半分を、日本語で歌うということに興味を持ったらしく、彼女らはすっかりその気になってしまった。
 二人とも、度胸だけはあるので、クラス全員の前で歌うことは、緊張するまでもなく、むしろ喜んで歌うだろう。
 しかし、みんなが、そしてトマソン先生が、どう評価するかである。
 今度ばかりは自信がない。

 ( いつもブログを読んでいただきありがとうございます。
   しばらく、おやすみをしなくてはなりません。、また戻ってきたら、よろしくお願いします )

 


" small party " (ささやかなパーティ)

2011-06-11 20:39:50 | 日記

                   (2)

 車を図書館に残したまま、三人と一匹は、クーラーボックスをトシが、シートなどをママとマディが持って、カピオラニ公園の海辺のカイマナビーチに移動した。
 木陰にシートを敷き、さあ!お昼にしましょうということになった。
 目の前は、紺碧の海が広がり、ザッーザッーと波が押し寄せていた。
 周りは水着の人たちばかりで、泳いだり、寝そべったり、読書を楽しんでいるようだった。
 バカンスを楽しみに、どこからか訪れた人たちだろう。
 日本人らしい人たちも、波と戯れ、はしゃぎながら、思いっきりの笑顔で楽しんでいるように見えた。

 持って来た食器などを並べて、いよいよランチパーティである。
 「思いがけず、楽しいお昼でうれしいわ!」とママが言った。
 「いつも近くで仕事をしているのに、海辺に来るなどということはなかったし、本当にいい気持ちです!」
 並べられたスープ、サンドイッチ、サラダ、チラシ寿司などを見ながら、「何もかもおいしそう!」
 マディが、グリーンピースのスープを見て、
 " This is Okayu, I guess?" (これ、お粥?)と言った。
  " No, that's American soup ."  (ではなくて、アメリカのスープだよ!)

 以前、マディが病気で食欲がなくなった時、" Okayu " を作ったことがある。
 米を長時間クツクツ焚いて、野菜を少し、卵を溶きこんだ簡単なものだった。
 マディは、朝から何も口にしてなかった。
 「マンゴはどう?」とか、「ジュースはどう?」とか言っても、虚ろな目で天井を見るだけだった。
 食べ物を勧めても、一切口にしなかったのに、お粥は美味しそうに食べていた。
 元気になった後になって、
 「トシ、おかゆを食べたい!」とか言うときがある。
 「ダメだよ、あれは病気になった時に食べるものだから」というと、「じゃあ、私病気になる!」などと言って困らせる。

 やはり、「チラシ寿司」は、ママは初めて食べるものようで、「おいしいわ!」とか言っていたが、そのうち、「お米の上に散らばっているのは、なに?」とか訊いてきた。
 すし飯の上には、適当になんでも載っている。
 チラシ寿司のいいところは、すし飯の上に何を乗せてもいいことで、簡単に作れることだ。もとより、日本のお母さん方が作る立派なものではないが、それはそれで、これも結構おいしいのである。
 ハワイでも、レンコン ( lotus root )は、どのスーパーに行っても見つけることはできなかった。
 その他のもは、適当に揃えることはできるのである。
 サーモンの燻製、ツナ、タケノコ、シイタケ、エビ、カニかま (imitation crab )、いくら( salmon roe )、グリーンピース、海苔 ( seaweed ) などが手に入る。卵のうす焼きは、自分で作る。
 ママが、「自分でできるかしら?」と興味を示したので、レシぺを書いてあげます、と言った。
 出来たら、図書館のスタッフみんなで、手分けして作る寿司パーティをしてみたいなどとも言っていたのである。

 ユーリは、うれしそうに、近くのマットで腰を降ろし、寛いでいる人たちをかわるがわる表敬訪問していた。
 丁度、隣のマットには、3人の日本人の若い女性が、海で泳いだり、上がって来ては、休憩したりしていた。
 ユーリは、そこにも行って、ちょっかいを出していたが、
 「まあ、可愛いわね!」とか、今まで耳にしたことがない異国の言葉にも反応して、満更でもないふうで尻尾を振りながら、彼女らとじゃれ合っていたのである。
 マディは、ちょっと離れた所からユーリを見守っていた。
 3人の女性は、マディに気付いて、
 「あなたの犬なの?」「名前は、なんていうの?」とか尋ねているようだった。
 「ユーリです」
 「あなたも可愛いわね!」
 
 マディが戻ってきたので、手製の「レモネード」を三つの紙コップに注ぎ、
 「お嬢さん方のところに持って行ってくれる?」と言うと、レモネードをあふれさせないように、おっかない姿勢で運んで行った。ユーリも尻尾を振りながら後を追った。
 それを口にした彼女たちが、ニコニコしながら、こちらに手を振るのが見えた。
 

 

 

 

 
 


" Some event was held on Sunday and school was closed on next Friday to make up for it " ( 代休 )

2011-06-10 04:07:49 | 日記

                     (1)

 Making chirasi sushi is very easy.  You just need to make vinegeared rice first.  And get toppings prepared and spread them on the top of vinegeared rice.  You can make your own style.
 
 ( チラシ寿司を作るのは非常に簡単である。最初に寿司ご飯を作るだけでいい。その寿司ご飯の上にあらかじめ用意したトッピングをまき散らすのである。その人流のチラシができる。)

 チラシ寿司については思い出が、いくつかある。
 マディのお母さんとマディとトシが食べたチラシ寿司もそのひとつである。
 マディの学校で休日にイベントがあって、マディは出校したため、その週の金曜日が代休になった。
 お母さんは、マディを一人家に置いておくのは忍びなかったのか、
 「ママの図書館に来て、本でも読まない?」と言ったようだ。
 マディとしては、ユーリを連れて行きたかったのだが、ユーリはだめだよ!と言われたらしく、何を思ったか、
 「トシも一緒だと、ユーリを連れってもいい?」と訊いた。
 「そんなこと、ミスター・ヤマダに頼んでもいいの?」
 
 マディは、トシに家に飛んで来た。
 ママ、トシの両方の意向を訊いたり、O.K.をもらうため、マディは、2度3度、二つの家を往復したのである。
 結果は、ママが、いつものように出勤した後、ころ合いを見て、トシのフォードトーラスに乗って、トシ、マディ、そしてユーリが一緒に出かけるということになった。
 「カピオラニ公園でお昼を一緒にしましょうか!」とママが言って、話が決まった。
 それはよかったのだが、何かのはずみで、
 「僕が弁当を作って行きます!」とか言ってしまった。

 そのようなことがあって、それからが、すっかり忙しくなってしまった。
 食材を買いにカネオヘの近くのマーケットまで行った。
 夜、さて何を作ろうかと思案しながら、「まあ、何でもいいか!」などと自分を励ましながら、「チラシ寿司」の準備をした。
 後は、明日の朝ということにして、なんとなく料理が整いそうになってきたのである。
 結局、出来たのは、ビーンズをつぶして、クリームなどを加えて出来た「グリーンピースの冷製スープ」、
 買ってきたローストビーフを挟んだ「ロ-ストビーフのサンドイッチ」、
 ピックルズ、アリゲータ・ペア(アボカド)、チーズ、トマトなどで作った「シーザーサラダ」、
 それに、何といっても、「チラシ寿司」、
 「手製のレモネード」など、すっかりランチの準備完了である。
 それらをクーラーボックスに詰め、シートなどと一緒に車のトランクに詰め込んだのである。

 お昼前の11時ぐらいには、カパフルの図書館に到着できるように出発したかった。
 約束の時間を過ぎても、マディがやって来なくて、「どうしたんだろう?」などと気をもんでいたら、
  " I'm here, Toshi! "  ( 来たよ!)と、大声が聞こえてきた。
 何を着て行こうかと、衣服をあれこれ試していて、時間を食ってしまったようである。
 ユーリは、遠出のための首輪とリードがつけられていたが、いかにもうれしそうに飛び跳ねていたのである。
 いつもは、家の中か、トシの家のフェンスの内側で走り回っているのだが、今日ばかりは、どこかに連れて行ってもらえることが分かっていたのだろう。
 ユーリは、元気いっぱいで、トシに飛びついて来た。

 実は、あれほどしばしば、マディは、トシの家にやって来るのに、肝心の親同士と言うか、ママとトシは、心を割って話したことがないのである。
 電話で話したことは、何度かあるが、その程度である。
 朝、出勤する際、トシの家の前で徐行しながら、車の窓から手を振り、「ハーイ!モーニング、ミスター・ヤマダ!」と言ったりすることはあるのだが、腰を落ち着けて話をしたことがあったかなあ、と思い出せないのである。
 そんなこともあって、ママと、しかも一緒に食事をするとなると、いささか緊張気味だった。
 ランチの準備にも、つい力が入ってしまったという次第だ。

 時間を見計らって、マディとユーリを乗せた車は、一路ママの勤務先に向かったのである。
 いく分、のんびり気分だったため、込み合う通勤路ではなく、西海岸沿いに車を走らせることに決めた。
 景色を楽しみながら、マディのおしゃべりに耳を傾け、車の窓をいく分開けて、ハワイの香りの心地いい空気に触れながらながら走った。
 マディの、いく分音痴な歌声も気にならなかった。
 ワイマナロの海岸線に出た。
 以前、マディとクリスティとこの海岸に来た時、遠くを泳ぐクジラを見たことがある。
 海を見ながらのドライブは快適だった。ハワイカイを過ぎ、カハラを過ぎると、もうすぐだ。
 昼前の高速道路は空いていて、車は快適に走って行った。

 マディは、何度もカパフルの図書館には来て勝手がわかっていて、車を駐車場に入れると、真っ先に飛び降り、玄関に向かって走って行った。
 トシは、車からユーリを連れ出して、中庭を一緒に走ったりしていた。
 ユーリは盛んに飛び跳ねるように、リードを引っ張り、水を撒いているスプリンクラーの方に行こうとした。
 ユーリは、マディとかトシがいる場合、周りをくるくる飛び回るくらいで、そんなに遠くには行かないことを知っていた。
 リードを外してやると、勇んでスプリンクラーのところに行き、水を被りながら喜々としてはしゃいでいたのである。
 そこに、ママとマディが、玄関ドアから出てきて、ママが、
 「ハーイ!ミスター・ヤマダ!」と声をかけてきた。
 
 


" dying is not crime " ( 死は罪ではない )

2011-06-06 03:45:49 | 日記

                      (4)

 ケボキアン医師 ( Jack Kevorkian ) が亡くなったことをCNNのニュースで知った。
 1928年の生まれであるから、享年83歳だったことになる。
 彼のことは、長らく忘れていたが、良きにつけ、悪しきにつけ、彼は、世論を惑わせ、動揺させ、混乱させたひとである。
 彼は「ドクター・デス」 (Dr. Death )、つまり「死の医師」と言われた人で、130人にも及ぶ末期症状患者の「自殺ほう助」 ( assisted suicide ) に関わってきたのである。
 彼の行いが、テレビや新聞などに取り上げられるようになると、専門家や一般の人たちも加わり、「自殺ほう助」について熱い議論を戦わせるようになった。
この時期、「末期患者の死を選ぶ権利」 (terminal patient's right ) とか、「安楽死」( euthanasia )、「尊厳死」 ( death with dignity )とかの言葉を、毎日のように、耳にしたり目にしたのである。
 
 世の中には、自ら死を求める人たちがたくさんいる。
 ただ、失恋などから世を儚んで、死んでしまいたいという人のことではない。
 重い病気で、これから先、回復の見込みがなく、自らには、死ぬこと以外に選択肢がないと思える人たちがいるのである。
 病院の医師たちは、これらの人たちに、生き長らえる可能性があると認めれば、限りなく延命の処置を施さなくてはならない。そのようにするのは当然であると、一般に考えられてきたのである。
 彼は、そうではなかった。
 彼は、末期症状患者に対して「カウンセリング」を行っていて、おそらく、そのような患者と接触していくうちに、たどり着いた結論だと思うが、これらの人たちを、「人道上」からも、安楽死させることの方が、神に許された行為だと確信していった。
 不治で、末期で、かつ耐えがたい苦痛を持つこれらの患者たちは、彼を頼り、出来るだけ速やかに、「神の下」に行って、救われたいと願う人たちだった。

 世間の人たちは、彼に賛成する人は、少数だった。
 いったん生を受けた人間は、どのような苦難があっても、最後まで生を全うすべきだと考えるのが、多数だった。
 彼の行為を、あからさまに「殺人」だと呼ぶ人が多かった。
 すぐにでも、彼がやろうとしている行為を辞めさせるべきだと考える人が圧倒的に多数だったのである。
 しかし、彼は、その後も、自殺ほう助を続けたのである。
 ミシガン州には、自殺ほう助を犯罪だとする法律がなかったのである。
 手をこまねいて見過ごすしかなかったが、ミシガン州議会は、このことを切っ掛けに、ついに「自殺ほう助」を犯罪とする刑法を成立させた。 

 彼が自殺の手助けをする瞬間を、テレビの画面で、目の当たりに見て、死刑執行に立ち会ったかのような重苦しい体験をしてしまった。
 ミニバンが木立に止められ、外からはカーテンで中が見えないようになっていたが、車内では、人間が、一人まさに死のうとしていた。
 辺りは、静かな木立で、異様な静けさが、かえって重苦しい雰囲気を醸し出していた。
 車の中は、どのようになっていて、誰が、どのようにして死に至るのか、その瞬間に居合わせてしまって、名指しがたい気持ちになってしまったのである。
 果たして、このような光景を見ていいものかと居た堪れない気持だった。
 この実況中継、と言うか、「死の瞬間の記録」を流したのが、CBSのテレビだった。
 「死への志願者」の手助けをしたのが、ジャック・ケボキアンという医師だったのである。
 彼は、自ら「死は罪ではない」 ( dying is not crime ) と言うように、信念を持って、末期患者の希望で、彼らの死に至る道を導いた、いわば「確信犯」だったのである。

 1998年9月、回復の見込みがない筋萎縮硬化症の52歳の男性に薬剤を注射して、死に至らしめたとして、ミシガン州法で殺人罪で逮捕された。
 第1級殺人の罪であったが、後に第2級殺人罪に格下げされている。
 10年から25年の不定期刑であったが、「もう自殺ほう助はしない」という約束で、8年後に仮釈放になった。

 彼の自作の「自殺装置」は、「タナトロン」( Thanatron )と言った。
 あらかじめセットされた点滴装置には、生理食塩水が入っていて、その作動を患者自らが行う。
 次に昏睡状態に陥り、その後でケボキアン医師が、塩化カリウムを注入すると、最後は心臓発作に陥り、死に至るというもののようだ。
 医師免許をはく奪された後は、「マーシトロン」 (Mercitron )と言う方法に変えている。
 彼は、もう薬物を使用できないので、顔面のマスクの中に、一酸化ガスを引き込み、それを飲み込むことで、やはり昏睡状態に陥るというものだった。

 ケボキアン医師は、病理学者であったが、後で聞くと、多彩な人だったようで、絵を描いたり、作曲をしたり、ジャズの奏者としてもかなりの人で、CDを出したりしているということだった。

 

 

 


" potluck party " (ポトラックパーティ)

2011-06-02 08:50:46 | 日記

                 (3)

 「持ち寄りパーティ」のことを、英語で、potluck party (ポトラックパーティ) と言っている。
 potluck と言うのは、「ありあわせの料理」ということである。
 もちろん、パーティに持っていく料理が、冷蔵庫の中にあったもの、その辺りの残り物であるということではない。
 「ポトラックパーティ」は、そもそもカジュアルで、畏まるパーティではないことを言っているのである。
 それでも、パーティに来る人たちは、今度は何を持って行こうかなど考えながら、いつも工夫をこらし、食べる人がよろこんでくれるようなレシぺを心がけているのである。

 ちなみに、冷蔵庫の中にあるものとか、残り物のもので食事をすることを ”take potluck” とか, ”have potluck” などという英語の表現がある。
 " Peter!  Mammy's just going out, so take potluck for lunch, will you? "
 (ピーター!お母さんはちょっと外出するから、お昼は適当に食べてね?)

 アメリカで、一般にパーティという場合、ポトラックパーティが最も多い。
 何より、その気軽さが特徴である。
 参加する人たち、一人一人に割り当てられた、いわば日本でいう「会席膳」みたいなものが用意されているわけでない。
 テーブル、あるいは、カウンターに並べられたディッシュやボールから、ほしいものを、自由に取って、飲んだり食べるだけである。
 畏まることもなく、気張る必要がなく、お金をかけるということもなく、いつもくだけた雰囲気がそこにある。
 人々は、あちこちの輪に加わって、飲みながら、あるいは食べながら談笑する。
 友達同士、時に知らない人たちの出会いの場所 ( gathering place ) なのである。
 
 一品づつを持ってくるのが習わしである。
 大きな皿やボールに、たとえば、サーモンサラダとか、シーザーサラダ、魚のソテー、ビーフの燻製、フルーツポンチ、ヨーグルト料理、ビーフシチュー、など、様々な料理が持ち込まれるのである。
 勝手に、各人が、料理を持ち込むと、同じような料理がそろってしまうことがある。万遍無く、バラエティに富んだ料理が揃うのが望ましい。
 ホストファミリは、あらかじめ、持ち寄る料理のバランスを考えて、それぞれの人に、肉料理とか魚料理の振り分けをしている。
 「あなたは、シチューを作って来て!」とか、「あなたは、得意なアップルパイを作ってくれる?」とかの注文を出すのである。
 それぞれん人が持ってきた料理を並べてみて、メインディッシュ、前菜、サラダ、サンドイッチ、サイドディッシュ、デザート、果物、飲み物などが、バランスよく、そろっていれば言うことはない。
 
 人々が、一皿づつを持ち寄る、ポトラックパーティだと、お互い、そんなには負担にならない。
 お客を受け入れる方も、参加する人たちも、双方に気負いがなく、パーティが終わった後、当事者のホストの感想が、「もうパーティはやりたくない」だと意味がない。
 お互いが、持ち回りで行えば、気持ちの上でも、経済的な面からも、そんなに負担になることはない。
 アメリカのこと、どの家も大きく、10人や20人くらい人がやって来てもどうということはないのである。
 とにかく、彼らは、人々が集まり、飲み、食べ、談笑するのが好きである。
 パーティに招ばれば、彼らは何をおいても駆けつけるのである。
 
 A potluck party means that the dishes that the guests will bring are already cooked, without any extra preparations needed....
 ( ポットラックパーティは、お客が持ってくる料理が、すでに料理されていて、余分な準備は必要ない)
 強いて言えば、持ってきた料理をオーブンで温める (reheat) ぐらいである。

  よりフォーマルな形のパーティとしては, " sit-down dinner party " 「シットダウンディナーパーティ」というのがある。
 これは、その名の通り、テーブルに着席するパーティのことで、ちょっと畏まった、厳粛なものである。
 想像して分かるように、席を離れるのが、無作法とされるので、食事の間、着席したままで、前の席の人、左右両隣の人としか話ができない状態で、それも、はしゃいだり、大きなジェスチャーは必ずしも歓迎されない。
 時に、このようなパーティにも出席したことはあるが、あまり心地がいいものではないという印象である。
 誰かの賞の授賞式、なんとか記念日、金持ちの家の誕生会に招待されたディナーパーティなどが、この類で、出かける前に服装なども、気を配り、整える必要があって、何より気を使うのである。
 やはりアメリカ人は、ポトラックパーティのような、気心の知れた、はしゃいだり、笑ったり、大きな声を出せるようなパ-ティが、お気に入りのようである。
 好きに飲み、食べ、大声で談笑するのが、彼らの気質に合っているのだろう。

 パーティに、人を招待する場合、以前は、"invitation card" (招待状)を送るのが普通だったが、最近は、そんなまだるっこいことは流行らない。
 直接電話をかけたり、イーメールを送ったりしているようだ。
 
 " You will have more success with a phone or eーmail invitation where assignments can be easily made and confirmed regarding who will bring what dish."
  ( 電話やE-メールで招待した方が、よりうまく行くだろう、というのが、だれがどんな料理を持ってくるのかについて割り振りが簡単で、確認が取れるからである)