マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Senior citizens " ( 高齢者 )

2012-01-26 22:33:42 | 日記

                    (1)

 ずいぶん昔のことだが、ある新聞の投書欄に出ていた話である。
 アメリカからホームステイで来た学生を案内してバスに乗ったら、彼が車内のステッカーを見て何と書いてあるのかと訊ねた。
 「老人に席を譲りましょう!」を英語に翻訳して言うと、彼は怪訝な顔をして、誰かが席を譲ればいいことだから、そんな標語は必要ないのではと言ったようなのだ。
 更にアメリカのバスには、そのようなものはない、とも付け加えたのである。
 
 それは正しくない。
 1970年代にアメリカには、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、フィラデルフィア、ニューヨークなどの大都市を走るバスには、どれも車内に、"Priority Seats" (優先席)があって、当時日本には、そんなものがなくて、我が国でも、必要なのではと思ったことがある。
 シルバーシートという名前で、優先席ができたのは、ずいぶん後になってからだった。
 このアメリカ人は、どこの田舎から来たのだろうか。
 そして、日本でもアメリカでも、善意の人ばかりであれば、お互い譲り合えばいいことだから、優先席など必要がないだろう。 
 これを投書した人は、アメリカは、善意の人たちに恵まれていて、あえて、" You are encouraged to give up your seat to elderly or persons with disabilities " 「老人や障害を持つ人に席を譲ってください」などの標語は必要ない国だと思ったようなのだ。
 その点で、日本の現状は、つまり善意の精神に欠ける人が多いみたいに感じたのだろう。
 
 アメリカでは、日本よりはるかに早い時点で「優先席」が存在していたのを知っている。
 ハワイに行った人は、バスに乗ると、
 Priority Seats: Please yield these seats to elderly or disabled passengers
  「優先席:ここの座席を老人や障害を持つ人たちに譲ってください」と書いた標語を見たことだろう。
 
 silver (シルバー)を日本では、高齢者を意味するが、英語には、そのような意味はない。
 和製英語で、日本の誰かがつくった言葉である。
 シルバーシート、シルバーカート、シルバーウイーク、シルバー貯金、シルバーパスなどたくさんあるが、いずれも日本人がつくった言葉である。
 一度アメリカで、silver cart という言葉に出くわしたことがある。
 高齢者用の手押し車で、日本製の輸入品だった。もちろん銀でできたカートのことではない。


  In Hankyu Railway, 'Priority Seats' were abolished and 'All seats-Priority Seats ' was introduced in April 1999, based on the idea that 'we must show a spirit of give-and -take at each seat, whether it is designated or not'
 
 ( 阪急電鉄では、『優先席』は、廃止された。すべての席が、表示されていなくても、譲り合いの精神を持つべきだとの考えから、1999年の4月に、『すべての席が優先席』が導入された )  

 「年をとった人」をあからさまに、「年寄り」と呼ぶのは、アメリカでも、避けるようになってきた。
 単に、old といえば、年老いた、役に立たない、厄介物などを連想するからである。最近では、expert (人生の熟練者 )、veteran ( 老練な人 )、senior ( 年長者 )などの言葉を新聞などで目にする。
 総称的には、形容詞に定冠詞をつけて the aged とか the elderly とかを使うことが多いようだ。

ブライアンのおばあさんは、百歳ぐらいまで生きた。
 最後まで矍鑠(かくしゃく)としていて、記憶力もはっきりしていたようである。
 ブライアンは、両親と言うより、このおばあさんに育てらたと、自身言っていたのである。
 父親が大学教授で、お母さんも、社会活動などで、忙しくしていたようである。
 自宅でパーティを開いた時など、おばあさんと二人で、お客を出迎えていたようで、大人たちに混ざって話に加わっていたようである。
 子供の時のブライアンは、おませで、人を笑わせるのが上手だったようで、大人になってからも、人懐きがよくて、話し上手なのは、子供の時に培われた才能なのかもしれない。
 初対面の人に対しても、構えることなく、すぐに打ち解けるのは、見ていて羨ましい。
 奥さんによると、エレベーターで乗り合わせた人と、「3階まで上がる間に友達になってしまうのよ!」だそうだが、うなずける気がする。
 そのことをブライアンに言うと、笑いながら、「まさか!」と言っていた。

 


" Traditional Japanese confections ” ( ぎおん太鼓 )

2012-01-19 20:36:06 | 日記

                 (2)

 ウイスコンシン大学の博士課程を終えたアメリカ人の女性が、大学の先生として就職することになって、壮行会を日本レストラン「京都」ですることになった。
 参加したのは9人ぐらいだったと思う。それぞれ「京都」に集まってきた。
 アメリカ人ばかりの従業員の中に一人日本人がいた。
 彼女は、トシが日本人だと知って日本語で、「いらっしゃいませ!」とあいさつしてきた。
 この方が、件(くだん)の女性だったのである。勿論初対面だった。
 その時は、彼女の身の上について、まだ何も知らないころで、彼女に対しては、何の感慨も持っていなかったのである。
 足をぶら下げて座る掘りごたつのようなテーブル席がある畳の部屋の案内された。

 注文したのは、アメリカ式のオードブルなどもあったが、「アサヒビール」で乾杯して、メインは、やはりスシや天婦羅だった。大声で談笑しながら、ひと時楽しい時間を過ごしたのである。
 彼女は、時々部屋を覗いて、サービスが行き届いていることを確認していた。いつもにこやかで笑顔だったのである。ビールの追加注文をすると、部下に指示を出していた。
 彼女は、部下をマネジメントする、何らかの責任ある立場のようだった。
 トシに対しては、日本語で声をかけてくれた。
 注文したメニューも、一通り終わって、満腹感を楽しみながら、お喋りをしていた時、従業員が、トレーに全員分の抹茶のアイスクリームを持って入って来た。
 " These are from Kyoko " と言った。つまり彼女からの奢りだということだったのである。
 殆どの人が、抹茶のアイスクリームは初めてのようで、「材料は何?」とか訊くので、グリーンティのアイスクリームだと説明すると、「おいしい」と言いながら、珍しそうにスプーンですくっていた。
 トシが彼女に会ってのは、この時が初めてで、最後である。

 彼女は、マディソンに住んでいる数少ない日本人だから、娘とも親交がある。度々、娘のところに立ち寄るようなのである。 つい最近になって、娘から、彼女が癌に侵されていることを知った。それも、かなり前から、この病気で悩まされているようなのだ。
 不幸な人に、更なる過酷な不幸の追い打ちだと思った。
 この人を、仮に「キョウコさん」としておこう。
 「キョウコさんは、いくつぐらいかなあ?」
 「66歳くらいと思うけど」と娘は言った。
 彼女のことが気になって、「キョウコさんは、元気かなあ?」とか娘に尋ねていた。

 今では、子供も、十分に成長して巣立っていった。
 孤独になってしまった彼女は、アメリカ人と再婚した。
 癌に罹っていることを知ったのは、そのころだったかなあと思う。当然総合病院で、さまざまな検査を行い、その結果、直ちに手術が行われた。
 長期の治療が必要でで、勤めていたレストランも辞めてしまった。
 最初の手術は成功したようだが、何年か毎に、体調を崩すようで、再度の手術をした。
 その後は、病気と向き合いながら、なんとか体調を維持している状況のようなのである。

 「夢を求めてアメリカに来た筈なのに、可哀想な人だね!」
 「そうなんだけど、本人は、それでも、いつも前向きに生きようと頑張っているよ!」
 実は、この前マディソンに行った時、なんとなしに彼女に会ってみたいという気持になった。
 そのことを娘に言うと、彼女の夫が経営している店に行ってみようということになった。
 しかし娘も忙しい日が続いていて、その機会が無いまま、もう日本に帰る予定の前日になってしまったのである。
 その日、万難を排して時間を作り、店に赴いたが、残念なことに、体調が悪いようで「今日は、ワイフは店に来てなくて家にいます!」とのことだったのである。
 前もって、「今日店に伺います」くらいは言っておくべきだったかなあと思ったが、何しろ繁忙期で、それもならなかったのである。

 以前、日本から持って行った「ぎおん太鼓」と言う和菓子を美味しそうに食べていた、と聞いていたので、このたび、娘が帰国した際、湖月堂のぎおん太鼓と栗饅頭の箱詰を彼女のために買って、ことづけた。 

 

 


" Dreams won't come true " ( 実現しない夢 )

2012-01-14 02:23:37 | 日記

                             (1)

 これは、日本人とアメリカ人が結婚した国際結婚の話ではなく、日本人同士が結婚してウイスコンシン州マディソンにやってきた人たちの話である。
 男性の方は、日本でも難関と言われる大学に在学中だった。
 大学3年生の頃、別の大学にいた女性と知り合った。
 二人は、急速に恋仲になり、将来の結婚をも誓い合うようになったのである。
 女性は、大学卒業後、すぐに公的機関に就職したが、男性は、当初からアメリカの大学に留学する夢があった。
 その目的のために、着実に努力をしていたのである。
 アメリカの大学でPh.Dを取得して学者になり、日本に帰り、大学の先生になるのが夢だったのである。
 TOEFLでも、高得点をとった。
 難しい手続きを経ながら、憧れだったウイスコンシン大学の大学院に入学を果たした。

 二人は、結婚してともに頑張ろうと誓い合ったのである。
 夢に燃えていた。二人にとって、このころが、将来の夢に向かって、もっとも華やかな気持でいたときだった。
 女性は、自らのキャリアを投げ捨て、男性に追いてマディソンにやってきた。
 女性は、旦那をを支えるために働いたのである。
 奨学金、故郷からの仕送りなどでは、生活全般、それに旦那の学費を賄うには不足であった。

 1973年だったと思うが、トシと妻が、シカゴからミネソタの友人を訪ねて行ったとき、マディソンの街に迷い込んだことがある。
 きれいな街で、いたるところに湖があり、ヨットが浮かんでいて、岸辺に瀟洒な家が立ち並んでいたり、整備されたゴルフ場があったり、ひときわ目立つ州議会議事堂、時代を感じさせる大学の建物、キャンパスなどに圧倒された記憶がある。
 街中を、車でさまよっている時、西洋の風景のなかに、忽然と日本風な瓦ぶきの家に出くわした。
 その建物は、日本レストランだったのである。仮にこのレストランを「京都」と呼んでおこう。
 ここで食事をしたわけではないが、車を駐車場に入れて、しばしアメリカの風景に合わない瓦ぶきの家に見とれていたのである。
 
 後で、いろいろな人たちの話を総合してみると、ちょうどこの時、この時間に、この女性がこの建物の中で働いていたようなのである。
 もとより彼女の存在すら知らなかったわけで、仮に、その時顔を合わせていたとしても、そのときは何の意味もなかった。
 まさか後年になって、彼女に実際会うことになるなど思ってもみなかった。
 駐車場にいた我々から10メートルか、20メートル離れたところに彼女が居合わせたことは、何かの縁だったのかもしれない。

 二人の間に子供が生まれた。
 優秀な彼でも、学業は、かなり難航して、予定していたよりはるかに、Ph.Dに辿り着くまで時間がかかってしまったのである。
 30代も後半になってようやく博士号を取得した。
 夫婦の話し合いで、取り敢えず旦那だけが日本に帰って、自分の就職すべき大学を探すということになったのである。
 その時一緒に家族皆で日本に帰国していたら、その後の悲劇は無かったかもしれない。
 子供がすでに小学校に行っていたし、彼女の働きで、アメリカでの生活の基盤が成り立っていたので、何もない日本で生活するより、主人の就職先が決まった後で、日本に帰国した方がいいのではと思ったようだ。

 旦那の就職先が見つからなかった。
 と言うより、精一杯就職先を探す努力をしたのか疑わしい。
 自分の出身大学に帰って、講師、助教授、教授とコースを歩むことができれば問題ないが、それもできなかったのだろう。 書物などのパブリケーション、学会発表、研究成果のレジメを携え、売り込みをしたようには見えないのだ。
 そうこうするうちに、宙ぶらりんのまま一年たち、二年が過ぎた。
 奥さんにすれば、こんな筈ではなかった。若い時、励まし合いながら夢を持ち続けた、あの時の熱い気持ちはどこに行ってしまったのだろう。
 どうやら、旦那に女性がいるのではと、噂がアメリカまで届くようになったのである。
 旦那が、家族を日本に呼び寄せることは、もはやなかったのである。
 見事な家庭崩壊だった。

 

 

 


" Poolside " ( プールサイドにて )

2012-01-07 08:02:04 | 日記

 

 シュミットさんのように、アメリカ人と結婚している人たちを何人も知っている。
 大抵は、日本人女性とアメリカ人男性との結婚が多いようだが、その反対の場合も、友人、知人の中にいる。
 異国の人との結婚を、娘の先行きを心配して、多くの場合、親は反対するようだ。兄弟、友だちも、大丈夫だろうかと危惧の念を持って見守る。
 娘の将来を思いやってのことだが、そのことが切っ掛けで、親子、兄弟の間がうまくいかなくなり、「断絶」、あるいはひどい時には、「勘当」されることもあるのだ。
 知り合った時は、本人にしてみれば、燃えるような恋心で、周りが見えず一途に突き進む。
 いざ結婚をして時間が経つと、些細なことで亀裂が生じたり、こんな筈ではなかったと気持ちが冷めたり、現実の生活習慣の違いなどから、やがて隙間風が吹き始めて、それがつもり積もって耐えがたいものに膨らむこともあるようだ。
 やがて、離婚になる例も少なくないのである。日本人同士が結婚する場合より、はるかに「危険」を孕んでいるように思われる。
 旦那になる人、嫁に行く人、それぞれが、全く異なった生活環境にいたわけだから、当然といえば当然である。

 ハワイのアパートで、一階にあるロンドリールームで洗濯をしている間、付設のプールで泳ごうかと垣根をくぐってプールサイドに入って行った。
 その時、木立の枝を避け通り過ぎようとしたとき、「ガサッ!」と大きな音を発ててしまった。
 プールの寝椅子に水着姿で寝転がっていた女性が、びっくりしたのか、大きな声で、
 " You!・・・ Scared me! " (びっくりしたわよ!)と叫んで飛び起きた。
 昼寝を楽しんでいたのかもしれない。
 咄嗟に、こちらとしても、びっくりしてしまって、
 " I'm sorry!  I just never thought... anybody here! "(スイマセン!誰かがいるとは思わなくて )とか言ってしまった。
 
 この女性、日本人だった。
 正確に言うと、日本で日本人として生まれて、横浜でアメリカ人軍人と知り合い結婚したひとである。
 咄嗟の場合、英語が先に出て来るくらい、もうアメリカ人だった。
 その後、何度か会ううちに、プールサイドで読書をしている時など、親しげに近づいて話しかけてきた。
 電話をかけて来ることもあって、「洗濯を一緒にしませんか?」とか声をかけてくれた。
 洗濯機、乾燥機を自分だけで占有するには大きすぎて、アメリカ人たちは、他の人たちとコインを出し合って機械を回すことがあった。
 マシーンに入れるコインの数をシェアすることで、その分金額が少なくて済むのである。小さなことだが、ごく気軽に、このようなことを彼らはするようである。

 何度か会ううちに、お互い私的なことも話すようになった。というより、トシの方は話すことがなくて、彼女の方が胸の内をさらけ出したいふうだったのである。
 彼女の場合も、国際結婚だったが、必ずしもうまくいかない苦しい状況を誰かに聞いてもらいたいと思ったのかもしれない。
 結婚前、日本でデートしていたころは、旦那になる人は、いかにも格好よく目立つ存在で、東京の盛り場を二人で歩いていていると、周りの人たちが羨望の目で見てくれたようだ。
 友だちも、「いいわねえ!」などと囃してくれたのである。
 
 「できれば、別れたいのですが」と彼女は言った。
 前から気になっていたのだが、プールサイドのチェアに横たわっている時の彼女は、お腹にブランケットのような物をいつも乗せていた。
 ひょっとすると、彼女は、妊娠しているのではないかと思っていたのである。こんな状況で、どうして旦那と離婚できるだろうか。
 旦那と彼女が、結婚して、成田で飛行機に乗る際、身内の人たちや多くの友人たちが見送ってくれた。皆さんに祝福されて幸せいっぱいだったのである。華やかな将来が約束されているように見えた。
 「今更、日本に帰りたくても帰れない」と言っていたのには、実感がこもっていた。

 いつも親切にしてくれた、ナオミさんもそうだった。
 レストランを経営していたひとで、トシが病気だった時、アパートまでお粥を持ってきてくれた。何くれとなく世話になったことを今でも感謝している。
 ハワイを離れて、一年後に訪ねたら、彼女のレストランは廃業していて、もう無かった。
 その後どうしているのだろうか。
 沖縄で、アメリカ人軍人と結婚してアメリカに渡った。だが、彼女によると、幸せは「一瞬にして過ぎ去った」ようである。過酷な現実が、次から次に襲ってきたということだ。

 時々行っていたバーに日本人女性が働いていた。
 トシが日本人だと知って、日本語で話しかけてきた。
 東京の女子大学から、派遣留学生としてアメリカの姉妹校に留学した。将来が約束されたようなキャリアだった。
 しかし、勉強に挫折して、大学を「フランクアウト」(flunk out)に,つまり落第したのである。
 日本に帰れず、アメリカに留まるためにアメリカ人と結婚した。
 男の子を二人産んで、離婚して、今ハワイに住んでいる。
 子供たちの写真を見せてもらったが、かわいい男の子たちだった。
 日本に帰れないので、「日本が見えるハワイに来た」と言っていた。
 お父さん、お母さんに会いたいと言って泣いていた。
 もちろん日本は、ハワイからは見えないが、日本を思慕する気持ちが伝わってくるようだった。