マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Lively elderly " ( 元気なお年寄りたち )

2014-05-27 10:11:22 | パーティ

 

(6)

 

 (ウイスコンシン州マディソンの冬景色:前方は州議会議事堂)

 パーティには、小さな子供たちやお年寄りもやってくる。
 子供たちやお年寄りが、こだわりなく若い人たちと交わりながら、お互い談論したり、笑いあっている風景はいいものである。
 年寄りだからと言って、隅っこで遠慮しながら話もしないで佇んでいるいるなどということはない。
 子供たちも、大人たちに混じって、フルーツポンチを片手に、自分の意見を披露している。

 ウイスコンシン州マディソンに、いつも上品なスーツを着こなしてやって来る紳士とパーティで時々出会っていた。
 物知りで話好きの彼の周りにはいつも人が取り囲んでいた。若い人たちも子供も彼の話に加わってワーワー言っていた。
 彼は83歳だったが、ビュイックを自分で運転しながらどこにでも行っていた。
 会社を経営していたが、今では息子に譲り、特に仕事をしていないようで、悠々自適な生活を楽しんでいたのである。
 立ち寄ってきては、コーヒーがおいしいとか言って、1時間、2時間をお話をしながら楽しんで帰っていった。
 見た感じ、80代などには見えなくて、せいぜい60代かなあという感じで、若々しかった。
 時たま彼が運転する車に乗せてもらうことがあったが、いかにもスムースで余裕の運転だった。

  対照的に、ハワイのシュミットさんは、78歳だったが、運転は覚束ない感じで、同乗させてもらっても、大丈夫かなと冷や冷やしていた。
 機関銃のような早口で英語をしゃべった。電話がかかってきても、ほとんど彼女が話し続けて、滑舌で、饒舌な、そして元気な人だった。
 よく車で迎えに来てくれたが、若い時から、もともと方向音痴だそうで、待ち合わせ場所を決めても、なかなかやってこないことが多かった。道を間違えたり、約束の場所を見つけられなかったりしたのである。
 キャディラックでやってきていたが、彼女が運転すると高級車に乗って楽しむ感じがしなかったのである。
 アラモアナショッピングセンターには、よく来ていたようなので、ついにはトシのほうがアラモアナまでバスで行くとにした。
 会うときは、アラモアナのシロキヤの前ということに決めた。どちらかが先に来た場合、入口で立ちんぼをして待っていたのである。
 トシが20分も前に着くことがあって、シロキヤの方向を歩きながら見ていると、彼女はすでに来ていて、一見して待ちくたびれたようにきょろきょろトシの姿を探している風だった。
 トシの姿を見つけると、急に明るい顔になって、
  "  Oh ! Wonderful !  " と言ったりした。

  カハラに住んでいた高齢の女性がいた。
 最後に会ったのは、彼女が93歳の時だった。
 ほんのこの前まで元気でかくしゃくとしていたが、さすがに歩く速度は遅いので、手を取リ体を支えるようにして、彼女のペースに合わせて、話しながら歩いた。
 最後にあった時は、もう車椅子に乗っていた。  
 この人は、もともとは日本人で、生まれは神戸、お嬢さん学校を出て、東京日本橋に代々続く医者の家の次男に嫁いで来た。
 医学を学ぶ夫についてアメリカに渡った。
 留学後に日本に帰る予定だったが、アメリカの大学に就職口ができて、結局留まってしまった。夫が亡くなってもう20年になります、と言っていた。
 アメリカで生まれた子供たちは、当然アメリカ人である。
 時々家に招かれて、彼女とは日本語で話をした。前庭のプールは、もうずいぶん前から使われていないようで、水が抜かれ枯草が積もっていた。
 ハワイを訪れた時、「あの方は元気だろうか?」と尋ねると、息子さんが引き取ってアメリカの本土のほうに行ってしまったよ、ということだった。
 「もう日本語を忘れてしまったわ」と言いながらも、美しい日本語で話していた。

 

 

 


" Have you consulted your family doctor ? " ( お医者に診てもらったの? )

2014-05-20 20:35:53 | ハワイの思い出

 

(5)

 

  

  ブライアン夫妻は、ヨーロッパで散々な目にあったようである。
  "  Brian!  Tell Yamada-San what happened in Italy !  " ( ブライアン!イタリーで何があったかヤマダサンに言ってよ! )
 ブライアン夫妻は、ヨーロッパの学会発表に行って、帰ってきてまだ1週間たっていなかった。
 ブライアンは、かの地で悪性の風邪をうつされたと言って、ゴホン!ゴホンと咳をしていた。
   "  Have you consulted your family doctor ?  " ( お医者に診てもらったの? )
   "  Sure I have.  " ( 診てもらったよ )
 ということだったが、奥さんによると、なんだかんだと言ってお医者まで連れていくのが大変で、子供をあやすようにしてようやく医者のところまで連れて行ったようだ。

 もう一つ、大変なことがあったようで、イタリアで金目のものが全部入ったバッグを盗られたのである。
 幸いパスポートは、スーツの内ポケットに入れて無事だったが、現金のドルとユーロ、それにクレジットカードのすべてを盗られた、というより強奪された。
 こっそりとではなくて、目の前で奪い取られた。3人ぐらいのチームで取り囲み、鞄を奪い取ると、次々にリレーしながら逃げていった。周りの人たちも見ていたが、ただ見ているだけで、助けようとはしなかった。

 警察に行って事故届を出したが、もとより盗られたものが返ってくるなどはあり得ない。
 事故証明だけを作ってもらって、クレジットカード会社に連絡をして、それ以上の被害を食い止めた。
 しかしドルもユーロもほとんど現金を無くしてしまって、地元の交通機関の切符は持っていたので、何とか大学までたどり着いて、そこで事情を話して、結局大学から当面のお金を借りた。
 イギリスやフランスには何度も行っていたが、こんなことは初めてだ。
 惨憺たる状況で、その上悪い風邪のビールスまで持ち帰って泣き面に蜂の状態だった。

 結局帰国してから、大学に借りていたお金をユーロで銀行から振り込んだ。何とも災難である。

 数日して、今度は、トシがゴホン!ゴホン!と咳をしだしたから、大変だということで、薬を飲んだりした。ブライアンが、
 "  I'm sorry.  I have given you my cold.  " ( ごめんね。風邪をうつしちゃって )と言い出した。
 うつされたのかどうかはわからないが、ちょうどハワイは、連日寒い日が続いていたので、そのせいかもしれない。

  "  You have an international drivers license ?  " ( 国際免許証を持っている? )と言うから、
  "  Why ?  No!  " ( どうして?持ってないよ! )

 どうも免許証まで盗られてしまって、自分の車をハワイで運転できないようなのだ。当分は、仕事場までバスに乗っていくことになってしまった。

 夜遅くなって、トシを送って行けないことが心配のようで、ジーナに電話してみるというから、バスで帰るから、そんな心配はいらないというのに、本当に電話をかけた。
 ジーナは、近所に住む友人である。
 彼女は、今年92歳であるが、いたって元気で頭脳明晰、長年乗っているホンダでトシをワイキキまで送ってくれた。


" Hawaii that is moving " ( 変わっていくハワイ )

2014-05-15 06:43:12 | ハワイの思い出

(4)

 

 

 時が経つにつれてハワイも変わっていく。
 かって友人、知人であったひとが、ハワイをひとり去りふたり去りして、次に行ったときには会えない。
 アメリカ本土に帰って行った人がほとんどだが、中には、エジプトの博物館に就職したアメリカ人、研究を終えてネパールに帰って行った人、イスラエルや台湾の母国に戻って行った人、それにアラスカに就職した人もいる。日本人たちも、帰国して、ほとんどが国立、私立の大学に就職した。
 何より悲しかったのは、再び訪れたハワイで会いたいと思っていた人が亡くなっていたことである。

 インガ・フィドラーさんは、トシがハワイを去るとき、飛行機が深夜に発つというのに、ホノルル空港まで車で送ってあげますと言ってくれた人である。先にオンダさん夫妻に送ってもらう約束をしていたので、お断りしてしまった。
 ワイキキの浜辺に水族館がある。ここは一般に開放されているが、実はハワイ大学の施設であるのはあまり知られていない。
 学部長が、トシの送別会をここで開いてくれた。
 立食のパーティで、多くの人たちが集まってくれて、皆さんとハグしたり、握手をしたりして名残を惜しんだ。
 その時、涙を流しながら、トシの手を離さなかったのが、フィドラーさんである。その時のことを今でも思い出すのである。
 
 彼女は、ユダヤ系ドイツ人である。
 戦争中、当時父親はオーケストラのバイオリン奏者だったようだが、ナチス親衛隊に突然家に踏み込まれ連れていかれた。その後行方がわからないままだ。
 もともとドイツ人だった母親と娘のインガは無事だったが、お母さんが、その時のショックで、精神が不安定になったままのようだった。
 どのような手立てを使ったのか、母子は親せきがいるアメリカのニューヨークに逃れた。

 彼女は、ニューヨークで育ち、教育を受けた。コロンビア大学を出て、さらに大学院で学び、メトロポリタン美術館に就職した。
 彼女は、美術館で働く傍ら童話作家としても活躍した。彼女が著わした童話が新聞の書評欄で取り上げられ高く評価されている。8歳から12歳までの子供向けの童話として「図書館推薦」に認められた。
 「エジプトの赤茶色のネコ」というタイトルの本を頂いた。表紙を開けると、

  To Toshi Yamada:

       With my best wishes !
       It was a great pleasure to know you and
       I hope to see you again when you come to Hawaii !

                             Inga Fidler

 あなたと知り合えたことは本当にうれしいです。またハワイに来た時には会いましょうね!と書かれていて、その下には、可愛い猫が描かれていた。

 どのように出会ったのか、今では思い出せないのだが、彼女とはよく話をした。大学のサロンだったり、時にはコーヒーショップで一緒に過ごした。
 彼女は自分のことを語ったりすることがなかった。一人でいるときなど、考え込むような、寂しそうにしていることがあった。
 彼女と親しい「Young Adult Literature」(児童文学)の助教授から彼女の悲しい過去のことを訊いていた。「インガは、悲しい人ですよ」と話してくれたことがある。
 インガが教えていたカレッジに、トシも招かれて教えに行っていた。

 日本に帰ってからの生活も、ようやく落ち着きハワイを再度訪れた。
 インガのところに電話をしたが、この電話番号は今使われていません、とメッセージが返ってきた。
 友人にインガのことを尋ねると、"  She has passed away.  I attended her funeral myself !  " (彼女は亡くなったよ。僕も葬儀に行ったけど )と訊いたときは、声も出なかった。
 「不幸の星の下にいる」ということを聞くが、彼女はまさにその不幸の星の下に生きた。
 彼女と話す時、いつもにこやかに笑っていたが、時として寂しげだったのである。 

 

 


" Dining under the Hawaiian sun " ( 日差しの下の食事 )

2014-05-10 19:18:00 | ハワイの思い出

 

(3)

 ( ハワイ大学医学部 )

 

 最近ではハワイに来てお金を使いまくる日本人は少なくなった。
 バブルのころはひどかった。統計では、当時日本人観光客が使うお金は、カナダから訪れた人たちがハワイで落とすお金の4倍だと言うことだった。
 観光客だけではない。日本の企業や不動産屋が、ハワイのホテル、コンドミニアム、ゴルフ場、家、アパートなどの不動産をやたらに買いまくって、おかげでハワイの物価の高騰を招き、ハワイの人たちの生活が物価に追いつかないようになってきて、日本、あるいは日本人に対する反発を招いてしまったのである。
 日本の企業、銀行、会社などがハワイの高級ホテルにスイーツを持っていて、取引のある顧客をハワイに送り込み接待した。
 リムジンでゴルフ場に連れて行ったり、夕方には日本料理店で宴会などして盛り上がっていた。奥さんたちには、高級ブランド店に連れて行き、お土産を買い与えていた。
 
 今はそのような時代ではない。
 日本人も旅上手になってきた。お金を持っていない若者、年金生活を送っている人たちも、等しくハワイを楽しんでいる。
 割安の航空券を買って、ハワイでは、キッチン付きのコンドやホテルに泊まり、スーパーやファーマーズマーケットに行き、野菜など食材を買い求めて、自分で食事を作り、上手にハワイの生活を楽しむ人たちが多くなってきた。
 
 外食をする場合、公的な機関のカフェテリアを利用すると手軽く安い。
 ハワイ大学の中には、マクドナルドのようなファーストフッド店がいろいろあるし、学生会館、学生寮などにも、カフェテリアがある。学生たちと一緒に食事を楽しむのはどうだろう。
 キャンパスには、屋台のようなものもあるし、ハワイは気候がいいので、屋外のパラソルの下で食事を楽しむのもいいものだ。

 ダウンタウンの現代美術館のカフェテリアなど、昼時は、近くのサラーリーマンたちが、食事にやってきて、列を作って並んでいる。
 ちょっと時間を外すと、ゆっくりできるかもしれない。
 トシがよく行っていたところは、YWCAのドーム型のカフェテリアで、ここはテラスのようになっていて、外の庭を見ながら、のんびり食事ができたものだ。コーヒーとサラダだけで、優雅な雰囲気に浸ることができる。

 ハワイ大学の本部からかなり離れたところにある「ハワイ大学医学部」( University of Hawaii Medical School)のカフェテリアに寄ってみるのは面白いかも知れない。
 アラモアナ通りをバスでダウンタウンに向けて走っていると、カカアコ・マカイゲートという海辺に医学部がある。
 静かなところで、きれいなカフェテリアがある。
 教授、学生、研究生などに混じって食事をするのも楽しい。メニューもいろいろあって、サンドイッチ、シチュー、肉料理、魚、野菜サラダなど多彩で、結構おいしいのだ。
 Ahi( 魚 )、Chopped Steak(ハンバーグ), Chicken(チキン), Ratatouille(野菜シチュー)から2品選ぶなどというのもある。
  Mini-Plateで5ドル50セントぐらいだから、安い。食器など、自然のものからできていて、そのまま自然に返すという環境問題に配慮されている。

 

( メニューの一つ:ジャンバラヤ )


" Everything is good. " ( すべてがよかった )

2014-05-05 08:18:53 | ハワイの思い出

 

(2)

 

      ( すみれさんもよく行っていたというカイムキの「ハレベトナム」 )

 カイムキの街が何となく気に入っている。
 観光地ではないし、いたってローカルな街である。商業施設が密集しているわけではない。地味なというか、目立たないが、レストランがあちこちに点在している。
 メキシコレストラン、日本レストラン、ベトナム、タイ、中華、アメリカン、エスニックなどのレストランがあり、多様な食事を楽しむことができる。友人たちと寄り合ったりするとき、カイムキのどこかのレストランにすることが多い。 
 夕暮れ時など地元の人たちが、それぞれ好みのレストランに入っって行く。人々は、着飾って行くのでなく、いつものごくラフな服装である。地元と言っても、アメリカ本土から移り住んできたひとたちが多いようだ。
 小高い丘の上に点在する家々は、小奇麗で、そこそこの金持ちが住んでいるようだ。
 昼間、中年の女性たちが、コーヒーショップで待ち合わせて、温かいコーヒーを前に話を弾ませている。
 「ココヘッド」( Ko Ko Head )という店では、パンケーキがおいしくて、いつ行っても店外に人が並んでいる。
 「コーヒートーク」のようなコーヒーショップでは、読書をする人もいるし、パソコンをいじっている学生もいる。クロワッサン、ベーグル、スコーン、マフィン、フレンチトーストなどの「モーニングスぺシャル」があって、どれもおいしい。ブレンドコーヒーは、スープボールみたいな大きなマグカップに入っていて、2ドル50セントである。

 ワイキキからカイムキに行くのに、最近は便利になった。
 13番バスに乗ると、以前はカパフル通りを走って、途中のジピーズ( Zippy's ) のところから右折して、カピオラニ・コミュニティカレッジのほうに行っていた。
 バスが、1年前に路線変更されて、13番バスは、カパフルを突き抜けH1に出て、今度はハワイ大学のほうに行先を変える。
 カイムキに行くためには、一度H1の高架下で下車してカハラモール、あるいはハワイカイ行に乗り換える。
 バスは、丘を登り始め、シャムナード大学を過ぎて、上り詰めると、そこがカイムキである。
 カイムキには、ひとりで行くことが多いが、 麻雀仲間との待ち合わせ場所でもあった。
 麻雀仲間と言っても、女性ばかりで、小児科のお医者さん、大学の先生、それにブティックのオーナーなどだった。
 皆さんがそろったところで、どこかのレストランで食事をして、カハラの個人のお宅に出向いていた。

 偶々テレビを見ていたら、石田純一さんの娘、すみれさんが安住さんをハワイの思い出の場所を案内していた。
 その中に我々もよく行っていたベトナムレストラン「ハレ・ベトナム」(Hale Vietnam ) で、Pho(フォー)とSpring Roll ( 春巻き ) を二人で食べていた。
 我々が食べたのも、春巻き、フォーやピラフが多かったように思う。ここには、Summer Roll ( 夏巻き )というメニューもある。

  " Everythig is good.  We took the fried spring roll and pho, delicious.  We will definitely come back.  " 
  ( すべてがよかった。 春巻きとフォーを食べたがおいしかった。きっとまた来るつもりです )  これは、食べた人の感想である。 

 高級店のメニューよりおいしいかというと、そうでもないのだが、安いことと、何となく雰囲気があって、ベトナム料理を楽しんだ気がするのである。