マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" A small town " ( 思い出の小さな街 )

2016-02-14 17:40:17 | ハワイの思い出

 

 

 

 
 カイルアの街を訪れると、胸を締め付けられるような切ない気持ちになる。以前と比べて街の様子はさほど変わっているようには見えない。しかしその風景にあるべきものが欠けているのである。
 あの賑やかなというか、燥ぎすぎて、時に "  Be quiet!  "(うるさい!)と言って怒っていたマディと犬のユーリがいないのである。
  "  Where do you wanna go, Toshi ?  "(トシ!どこにいくの?)とトシの外出の気配を感じ取ってマディが言った。けだるそうに横になっていたユーリも途端に起き上がり尻尾を振り始める。
  "  I'm just thinking of going for shopping.  "(買い物だよ!)と言うと、
  "  We'll get together.  "(わたしたちも一緒に行く!)と読みかけの本などをまき散らしにしたまま、乗り遅れまいとマディは外出の支度を急ぐ。

 マディは、もうすっかり成人して大学生である。一家は父親の出身地シカゴに越して行った。
 マディは名門ノースウエスタン大学に通っている。ジャーナリズム専攻だそうである。ユーリはと言えば、もう老犬である。ユーリはトシのことを覚えているだろうか、とそのことを尋ねると、今でもトシのことを懐かしいんでいるよとまるでユーリの気持ちを代弁するように消息を伝えてきた。
 カイルアは、トシの中では、マディ、ユーリ、それにクリスティあっての街なのである。当時のままの幼い彼女たちしか想像できないでいる。

 ユーリをコーヒーショップ前の鉄椅子に繋いで、トシとマディは店に入る。トシは、ブリトーとコーヒーを注文、マディはワッフルにグレープジュースを注文して食べた時のことを昨日のように思い出すのである。
 そのコーヒーショップの " Morning Brew "(モーニング・ブリュー)に行った。
 店構えは当時そのままである。相変わらず女性の店員は元気で愛想がいい。しかしあのころからは、何代も店員は変わったはずである。現在の店員たちも当時の店員たちと同じように愛想を振りまきサービスに努めている。
 ずいぶん久し振りなのに、女性の店員は、トシには毎日接しているお客のように、親しみを込めて「ハロー!」と声をかけてくれる。

 カイルアの街に日本人の顔を見ることはなかった。今では日本人だらけというか、特に若い女性が目立つ。街中をレンタサイクルで走り回っているグループがいる。観光案内所では日本語の地図をくれる。
 マディソンでよく行っていたスーパーマーケットの「ターゲット」が新装開店していた。店内には日本人の女性たちがたくさんいた。コーヒーショップのテラスから日本語が聞こえてきた。
 「スイマセン!写真を撮ってください」とカメラを差し出す女性もいた。

 「モーニング・ブリュー」でも日本人のグループがにこやかに談笑しながら食事を楽しんでいる。
 ・・・・正式の店名は、" Morning Brew Coffee House & Bistro  " で、夜になるとお酒も飲め食事もでき、生ライブが時々行われるみたいです・・・・とは、ここを訪れた日本人の感想である。
 ここは、ワッフルやベーグルがおいしい。トシは、ケサデラやナチョスを好んで食べていた。何よりハウスブレンドのコーヒーは美味しいのだ。

  " More than just coffee, great food and wonderful counter help ・・・・ "
 ( コーヒーだけでなく、美味しい食べ物に店員の素晴らしいサービスがある・・・・)

 カイルアの街は、トシにとって特別な街である。

 


" Eating Udon in Hawaii " ( ハワイでうどんを食べる )

2015-10-31 04:40:05 | ハワイの思い出

 

 

 ラーメン店がアメリカにでき始めたころは、店によって "  Lamen  " とか 、また "  Ramen  " のように、綴りが違っていた。今では、一般に "  Ramen  " で認知されて来たようだ。
  "  Udon  "(うどん)は、今でもアメリカでその存在さえ知らない人が多い。マディソンでパーティを開いたとき、メニューにうどんを加えたことがある。
 小皿にうどんを取り分け、ネギ、蒲鉾、甘い油揚げをのせて、スープを注いで食べるというものだったが、皆さんの反応は今ひとつで、必ずしも好評ではなかった。
 "  sticky  " (歯にくっ付く)、 "  like rubber  "(ゴムみたい)とか言って、味がないというのが感想で、特に子供は、はっきりおいしくないと言っていた。
 ハワイで、かつてワイキキでもうどん店があったのだが、なかなか定着しなかった。辛うじて日本人の旅行者が立ち寄ってうどんをすすっていたが、うどん店そのものが立ち消えになっていった。

 ハワイには、もともと「サイミン」という麺料理がある。どちらかというとうどんよりラーメンに似ていて、これは結構ハワイのローカルの人たちには人気である。
 "  Saimin  "と書くのだが、「細麺」と書いて嘗て移民してきた日本人、特に沖縄から来た人たちが中国のめんにスープを添えて沖縄で食べていたそばに似せて作ったのだと聞いたことがある。
 キナウに住んでいた時、自宅からペンサコラ通りを降りて、キング通りに行くと道に沿って何軒かのローカルの人たちが行くレストランがあった。
 メニューにサイミンがあって時々注文した。ラーメンのようだと言いたいが、かなり違っている。豚骨出汁でも醤油出汁でもない。エビがベースのだし汁に細麺がはいっていた。トッピングに鳴門やネギ、それにチャーシュウやスパムなどが入っていたりする。ちょっと薄味で、そのためか小皿に醤油と辛子が出てくる。
 醤油と辛子をいきなりサイミンの中にぶち込んで食べている人もいれば、麺を小皿に取り出し醤油と辛子に絡めて食べている人もいる。
 最初のころはどうかなと思って食べていたが、しかし何度か食べるうちに、結構美味しく感じるようになってきた。

 「うどん」はアメリカ人の舌には合わないのではないかと思っていたが、ハワイに " Marukame Udon "(丸亀製麺)が出来てから、その思いを変えた。
 クヒオ通りの丸亀うどんには何時行っても店外に人の行列ができるほどの人気である。それも日本人ばかりでなく、むしろ一見して日本人以外の人たち、オーストラリア人だったり、アメリカ本土から観光で訪れたと思える人たちが列に並んでいる。
 正直いってうどんが日本人以外の人たちにこれほど受け入れられるとは思っていなかった。

  彼らがうどんを食べている様子をそれとなく観察すると、日本人が食べる様子、つまりうどん麺をどんぶりに入れトッピングとして、その上に天ぷらや丸天などをのせて食べ始めるのでなく、いきなりたくさんの天ぷらを別皿に盛ってきて、それらをうどんと分けて食べているのである。
 それで美味しければ、まあいいかと眺めていたが、いずれにしても彼らがうどんを気に入って食べているのは間違いない。
 その丸亀製麺は、ホノルルのダウンタウンにまた新たな店を出した。

 


" A high school student from Boston " ( ボストンから来た女の子 )

2015-10-20 15:47:38 | ハワイの思い出

 

 

 

 
 ちょっと前のことだが、ハワイでのパーティで、友人と話し込んでいた時、年の頃22歳くらいかなあと思える美人が突然話しかけてきた。
  "  May I talk to you, Sir ?  " ( お話してもいいですか? )
  "  To me ?  Sure !  " ( 私にですか? もちろんいいですが )
  "  As a matter of fact I wanna ask you about Japanese colleges.  " ( 実は日本の大学のことをお聞きしたいのですが )とか言ったような気がする。

 この人、どう見てもアメリカ人だが、日本語がペラペラだということが後でわかった。そして20代かなあと思ったのは間違いで、17歳の高校2年生だと知ってびっくりしてしまった。
 生まれは東京で、その後は父の仕事の関係でボストンに住んでいたり、また東京に帰ってきたりで、いわばバイリンガルで、日本語も英語もペラペラだった。
 父親が若い時に仕事で日本に滞在中、日本人の母親と知り合って結婚した。
 家では、母親と話す時は日本語を使ったり、父親と話す時は英語だったり、時にはごちゃまぜだったりしていたという。
 日本にいるときは、家以外では、ほかの日本人と同じように日本語で生活をしていて、またアメリカにいるときは、ほかのアメリカ人たちと英語でお付き合いをしたり、学校では当然英語で勉強していた。
 母親が日本人だということで、娘が日本人としてのアイデンティティを失くすのが心配だったようで、日本の文化、歴史、作法、漢字などを疎かにしないようにと、自宅で小学生の時から自らが家庭教師になって熱心にそれらを教えたということだ。

 現在は、ボストンの有名な私立高校に通っていて、トップ5%の成績で、アメリカの ” most selective ”(優秀大学)から奨学金のオファーが来るぐらいの有望なな生徒のようだ。
 ところが日本の大学に関心があって、すでに上智大学と早稲田大学にアクセスしていた。
 この両大学については、ボストンの高校の校長も綿密なレファランスを行なっていて、もし彼女が志望するなら、Letter of recommendation( 推薦状 )を送ってくれる確約ができているようだ。

 彼女と話していて、ウイスコンシン州マディソンのモナのことを思い出した。彼女とも初めて話したときは英語だったが、実は日本語を自由に話せた。後で日本語で話したとき、その日本語が関西弁だったのにはびっくりした。
 彼女も父親はアメリカ人で、神戸の大学で教えていた時母親と知り合った。
 モナもすらっとした体躯で美人である。小さい時から踊るバレーを習っていて、小学校は神戸のインターナショナルスクールに通った。
 彼女とは時々会って話す機会があったが、きれいな英語を話した。お話し好きの明るい子で、パーティではどこからも彼女の大きな声が聞こえてきたほどである。
 心遣いというか気づかいのできる人で、パーティで奥まったところにいて話し相手がいない人のところに行って話しかけていた。
 人の輪の中で派手に騒いでいても、急に離れたところにいるトシのところに、「パパさーん!ワインのお替りだよ!」とグラスをもってやってきた。
 その彼女は、もうマディソンにはいない。イタリア人と結婚して今はイタリアに住んでいるのである。


" Shopping around " ( 買い物に行く )

2015-04-22 09:48:52 | ハワイの思い出

 

 

 
 " outlet "(アウトレット)と言う言葉は、「出口」とか「コンセント」などの意で、そのことは知っていたが、アメリカの新聞で、アウトレットという言葉が、ちらちら出始めていたころ、友人に、これはなんなんだと訊いてみたことがある。
 「はみ出し商品」つまり正規のルートでは売れないブランド品など高級なものを破格の値段で売っている店のようだった。それも都心になく、何処かわかりにくい郊外にあって、看板のない倉庫のような所でひっそり商いをしている店のようだと教えてくれた。

 当時ニューヨークの郊外のそれらしい店を探して車で行ったこともある。カリフォーニアのロスアンジェルスから南下して、かなり走ったところアナハイムに大きな店があって、辿り着くために途中車を止めて何度も人に道を尋ねたことがある。
 ミネソタに「モール・オブ・アメリカ」と言うのがあって、その近くにアウトレット店があったが、ミネアポリス市内からずいぶんかけ離れたところだった。

 ブランド店から注文を受けて、工場で商品を作りすぎて、それらにブランド名を付けないで、こっそり80%も値を下げて売っていたりする。
 シーズンを過ぎて売れ残った商品を問屋がまとめ買いして叩き売っていたりすることもある。また商品に小さな傷があったりして出荷できないものなど破格に値を下げて売っている。
 いずれにしても、消費者にとってはありがたい限りで、ブランド店で買えば、10万円もするのに、ここで買えば5,000円ぐらいで買えたりするのである。

 マディソンの家から歩いていける距離に、「ティ・ジェー・マックス」( T・J・Maxx ) というアウトレット店があって、散歩がてらによく行っていた。
 年齢のせいか、今では何かを買いたいという購買欲が無くなってしまって、店に行っても、あまり買いたいという気も起らないが、若い時は、ズボン、シャツ、ブレザー、ベルト、時計、下着、靴下、旅行鞄、毛布、タオル、シーツ、男性用化粧品、靴、食品、コーヒーなど行くたびに何かを買っていた。
 このティ・ジェー・マックスがハワイに出店してきたのである。
 
「ロス」( Ross Dress for Less ) よりちょっと小奇麗な店で、しかし商品の陳列、売っているものなどお互いよく似ていて、ひょっとしたら同じ経営者ではないのかなあなどと思ってしまう。
 ハワイの「ロス」にもよく行っていた。
 特に買い物をするわけでもなく、ダウンタウンに出たついでに、待ち合わせの時間などに、ぶらっと立ち寄って、ハンガーに吊り下げられたシャツなど手に取って、似合うかなあと眺めるだけでも楽しい。
 トシが知っている限りでは、ロスは、ダウンタウンに一店舗あっただけだったが、最近で、ウオードセンターの近くにもあるし、アラモアナから山手の方に500メートルぐらい歩いて行くとウオルマート・ショッピングセンターがあって、道を挟んで隣合わせにも一軒ある。
 それに、カハラの「ノーブル&バーンズ」が、取り壊されて、その跡地が新しい「ロス」になった。
 
 これは、あまり知られていないかもしれないが、ロスは、火曜日は、シニアの人たちは、10%引きで買い物ができるのである。カウンターで、シニアーのバスの定期を見せればいい。
 買いたいものがあっても、すぐには買わないで、火曜日に行ってまとめ買いをすると、かなり節約ができるのである。
 
 ロスがワイキキのど真ん中にもできた。おそらく日本人旅行客を意識して作ったのだろうか。以前は、「JCBも利用できます」なんて日本語で書いていた。
 この建物は以前は映画館だったところで、よく映画を見に行ったりしていた。
 封切り物が、5ドル(500円くらい)で見れたので、新聞などで評判になった映画を見に行ったりしていた。
 大学の仕事がうまく行かなくて、落ち込んだりした時は、映画を見に行ったし、コンサートにも行った。映画を見たり、音楽を聞いたりしている間は、余計なことを考えないで済んだ。
 映画は、大概は、ハワイ大学のキャンパスにある映画館に行くことが多かった。
 大学の中だから、税金がかからなくて1ドルぽっきりだった。
 古い映画が多かったが、封切りして3か月目ぐらいのも来ていたし、結構いい映画も見れたりした。
 "  I went to the movie theater on campus yesterday.  " ( 昨日映画に行ったよ! )とサラに言うと、
   "  Why didn't you tell me ?  "
  ( どうして誘ってくれなかったの? )
と言うが、落ち込んでいるときは、一人のほうがいい。 

 

 


" Discount store in Hawaii " ( ハワイのアウトレット店 )

2015-04-09 11:01:38 | ハワイの思い出

 

 ( ウイスコンシン州のマディソンの家から歩いて、ブランド品のアウトレット店【ティー・ジェー・マックス】によく行っていた。
 夏の時期はよかったが、冬の零下10度にもなる中歩いて行くのは、とにかく寒かったが、店内は、Tシャツ姿の人がいるくらい快適だった。
 この店も「ロス」と同じように20%から80%引きの品々を売っていて、商品も多様で、見て回るだけでも楽しかった。このティー・ジェー・マックスがハワイに出店してきて、びっくりしてしまった。
 写真は、ハワイ店である。)

 ハワイの数ある本屋の中でも、カハラの「ノーブル&バーンズ」は、トシにとって貴重な存在だった。
 カハラモールに買物に行ったときなど、真先にこの本屋に立ち寄ったものだ。何か特別な本を探す時もあったし、そうでなくても立ち寄って、書架を見ながらぶらぶら店内をさまようのも楽しかった。時には思いがけない本を見つけて買って帰ったりしていた。
 
 マディも、ママに似て本を読むのが好きだった。
  "  I'm not busy now.  "( ひまなんだけど )
とマディが言った。
  "  So what ?  " ( それがどうした? )
とトシが言う。
  "  How about going to ' Noble ' ?  " ( 本屋に行くというのはどう? )
  "  Sounds good !  " ( いいかも )とか言って、妙にそんな時は、お互いの気が合って、クリスティを誘って3人で出かけたりした。
 本を見たり読んだりしてひと段落したころに、マディが、
  "  Toshi ! There's an unoccupied seat !  " (トシ!席が一つ空いているよ!)と言いながら走ってくる。
 書店内のコーヒーショップは、いつもお客でいっぱいで空席を見つけるのが難しい。マディは、気を利かせて時々コーヒーショップを覗いては空席を見つけるとトシのほうに走ってきて教えてくれる。
 
 土曜日あるいは日曜日には、早朝ブライアン夫妻と、カピオラニ・コミュニティ・カレッジの朝市によく行った。
 農家の人たちがどこからとも集まってきて、露天を作り、野菜、ベーコン、果物、パン、ケーキ、チーズ、手作りの手芸品、色とりどりの花などを陳列していた。
 新鮮で農薬をあまり使っていないから体にいい。その上安いから遠くからも車で買いに来る人は多い。
 ブライアン夫妻は、日曜日には教会に行っていたから、土曜日に来ることが多かったが、それでも日曜日の礼拝が終わってからカピオラニに行くこともあった。一通り買い物が終わってから近くのレストランで「サンデーブランチ」を楽しんだ。その後で必ず訪れたのがカハラの本屋さんだったのである。

 女医のシーゲルさんとも、待ち合わせをするときは、必ずここの本屋さんだった。
  "  Could see you at six, right ?  " ( 6時には会えるけど )と仕事で忙しい病院から電話をかけてきた。「ジップス」や「トニー・ロマ」で、一緒に食事をした。
 
 カハラの高級住宅地に日本人の家族が住んでいた。
 もともとは東京日本橋のお医者さんの家系だったが、長男が医院を引き継ぎ、次男だったご主人は、アメリカに留学して博士号を得た。
 その後は、長い間アメリカの大学で教鞭をとった。そのご主人も、20年ほど前に亡くなったということだ。
 その奥さんは、もう90歳にもなっていた。他の人たちとは、英語でしか話せなかったが、奥さんとは日本語で会話をした。
 レストランなどで、みんなが気を利かせて奥さんとトシを隣り合わせの席にしてくれた。
 「日本語を話せてうれしいわ」と喜んでくれた。奥さんは、昔風のきれいで上品な日本語を話した。
 奥さんとも、この本屋さんで待ち合わせた。90歳にもなって、さすがに体は自由とは言えなかったが、つえを突きながら、エレベーターで屋上階まで上がってきた。もう60過ぎの娘さんと一緒にやってきて、トシを見つけるとにこやかに「ヤマダサン!」と声をかけてくれた。
 そのようなことを思い出してしまうのだ。この人たちはほとんどがアメリカ本土に移り住んでいったが、いまどのようにしているのだろう。

 ここの跡地は、友人によると「ロス」( Ross Dress for Less )と言うアウトレット店に変貌するようだ。
 ロスは、もともとアメリカに展開する衣料などのブランド品を20%から80%ほど値引きして売っている店である。