マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

シュミットさんとの再会

2010-05-23 14:52:01 | 日記

                      (4)

 シュミットさんとは、数ヵ月後に、今度は、ハワイで会った。
 思いがけないというのか、予想してなかったので感慨深い再会だった。
 福岡空港で、あのような慌ただしい別れ方をして、再び、会えるとは、思っていなかったのである。
 手渡された名刺一枚が、このような場面を導いたのだろうか。
 年齢も違う、生活している環境も違う、本来なら出会うことすらなかっただろう。
 何か不思議な出会いだったのである。 トシ、自身も、また会えてよかった、という気持ちだったし、シュミットさんは、ことの他喜んでいた。

 ハワイに着く前にすでに、滞在先のコンドミニアムのこと、滞在日数などを知らせていたので、直ぐに電話が掛かってきた。
 電話の向うは、忘れかけていたが、まさしく、あの聞き覚えのあるシュミットさんの声であった。
 いろいろとスケジュールを抱えていたので、予定表を見ながら、空いた日にち、時間を探して、会う場所を決めた。
 「ぜひ、滞在先までお迎えにまいります!」ということだったので、お願いします、と言ってしまった。

 当日、決められた時間に、コンドミニアムの前で待っていたのだが、約束の時間が来ても、やって来なかった。
 「おかしいな!ひょっとして、日にちを間違えたのかなあ!」とか、思いながら、それでも、石垣に腰を降ろしたまま、30分も経過しただろうか。
 気になりだしたので、近くを探していたら、遠くに、きょろきょろしているシュミットさんらしい人が見えたのである。
 走り寄って見ると、果たして、シュミットさんであった。
 「ああ!会えて良かったです!迷子になったのかと思った!」と彼女は言った。
 どうやら、打ち合わせていた場所を間違っていたようなのだ。   「車を角を曲がったところに留めていますので!」と言うので、その方向まで歩いて行った。
 「ワイキキには、近年来たことがないので、ちょっと、不案内で、方向もよくわからないのです!」ということである。

 その日は、一日、このために空けていたので、どのように過してもかまわなかった。
 車は、かなりの高級車で、乗り心地は上々だった。
 「どちらに行きたいですか?」と言うから、
 「そうですね!マカハの方は、あまり縁がなくて、見て回った事がありません!」と言うと、
 「じゃあ、そちらに参りましょう!」ということになった。
 景色のいい海岸線を走った。
 トシには目新しい景色が広がっていた。
 おそらく、シュミットさんには馴染みの風景なのか、いろいろ説明をしてくれた。
 途中、コーヒーショップに寄ったり、海辺のレストランで食事も楽しんだ。

 シュミットさんは、10年ほど前にご主人を亡くして、以後は、独り住まいであるとのことである。
 子供さんも、巣立って行って、アメリカ本土で世帯を持っているようだ。
 今住んでいる海岸べりの家は、ご主人と最後に過ごしたところで、そこを離れることが出来ないと言っていた。
 いい思い出があるのだろう!
 コーヒーショップでコーヒーを飲みながら、また、レストランで食事をしながら、ハワイの気候のこと、風景の話とかの合間に、自ずと、彼女の身の上話に話が及んでいった。
 彼女の私的な姿が浮かび出て来る感じであった。
 特に、トシの方からは、プライベートなことを聞いたわけではないが、時に彼女が過して来た長いアメリカでの生活が漏れ聞こえてくる感じで、興味深く聞いた。


JALのハワイ便

2010-05-21 17:04:25 | 日記

                      (3)

  日曜日、福岡空港に、よく通った。
 飛行機に乗るためでなく、見るためである。
 午後2時半ぐらいになると、ハワイからJALの飛行機が飛んでくる。
  おそらく、 10時間ほど前には、この機体はハワイにいたのだろうと思うと、何かしらの感慨が胸の中にわき起こる。
 
 遠く空の彼方に、小さな光が見える。
 それが形を大きくしながら、段々近づいて来て、やがて、機体が見えて来る。高度を下げながら、滑走路に向かって、いよいよ着地である。
 いかにも、重たそうな機体に見える。 400人ぐらいの乗客が乗っているだろうか。貨物も載せているはずだ。
 思いっきりたくさん、お土産を詰め込んだスーツケースを、それぞれの乗客が載せていると思うと、よく空中に浮いていると感心してしまう。
 
 ホノルル空港で、国際線の長い滑走路をぎりぎり先まで走って、ようやく離陸する飛行機を、いつも、重たそうだなあと見ていた。
 一旦、ホノルルの市内に向けて飛び上がり、すぐに、右旋回を続ける。いつもそうだが、なかなか、高度があがらない。
  やがて、Uターンをして、日本の方向に、雲の中に消えていく。

 10時間も飛び続けて、ようやく、福岡空港にたどり着いたという感じである。
 車輪が、滑走路に接地して、その瞬間、摩擦の煙をあげて、しばらくは、そのまま滑って行く。
 走りきったところで、徐行を始める。
 無事の帰国であるが、毎度、見ていて、ほっとした気持ちになる。

 いつも、この飛行機と共に、ハワイから何かを持ってきてくれるような気がするである。
 あの南国のさわやかな風の音か、プリメリアの香りか、潮騒の感触か、過去のノスタルジーか、友達への思いか、何でもいい、凝縮したハワイの思いが、その飛行機と一緒に、やって来るのである。

 シュミットさんとは、その時は、再び会う事になるとは思っても見なかった。
 福岡空港で別れた時は、おそらく、妹さんが迎えに来ていたのだろう。ちょっと、慌てている様子だったし、トシも、高速バスを気にしたり、慌ただしい瞬間であったのである。
 別れ際に、「スイマセーン!名刺を差し上げます!」と、シュミットさんは走ってきた。
 「ありがとうございます!お元気で!」とか言って、別れたが、はっきり言って、その時が、最後だろうと思った。
 このような別れは、今までにもあったからである。

 数か月経って、友人たちに手紙を書いた時、名刺入れに入っていたシュミットさんの名刺が出てきた。
 まったく、ついでという感じで、日本語で彼女宛の手紙を書いてしまった。
 内容は、憶えていないが、シュミットさんは、お元気ですかとか、トシの近況とか、日本で、最近起った政治の出来事とか、そのようなありきたりのことであっただろう。それを、他の手紙と一緒に投かんした。
 すると、すぐに返事がきた。
 丁寧に、いかにも、心をこめて書いた文面だった。
 「まさか、お手紙をいただけるとは、思っていませんでしたので、感激しております」と書き出しに書いてあった。
 おそらく、戦中に教育を受けたのだろう。今では、使われてない漢字が、あちこちで見られた。

学ー學
辺ー邊
絵ー繪
寿ー壽 などである。
 
 シュミットさんは、いつごろ日本を離れたのだろうか。
 戦後の激動の中で移り変わって行った日本のことをあまり、ご存知でないのでは、と思う。
 飛行機の中で、会話をしていても、そのことが窺われた。
 もっぱら、トシに質問をする形で、日本の事を細かく知りたがったのである。

 「次に、ハワイに来られる時は、ぜひ教えてください!」と手紙に書かれていた。
 10年ほど前に、アメリカ人のご主人を亡くしているようだった。子供さんは、長女と、その下の弟さんの二人がいて、それぞれが、アメリカ本土に住んでいて、お孫さんもいるようだった。
 ご主人の定年を待って、ハワイに移り住んで来たようで、ご主人が亡くなったいまは、独りで住んでいるようだ。
 このハワイに永住する計画で来たので、他のところに移り住むつもりはない、とのことである。
 当然、アメリカ市民権を持っているので、生涯を、この地で過すことは可能である。

 時々、妹さんを訪ねて、日本に里帰りするようなので、
 「日本に住むお積りは?」と訊いてみると、
 「それは、全くありません」とのことだった。
 「自分という人間が、アメリカ人になってしまっていて、日本ではとても住めそうにありません。墓参りなどで、帰りますが、数日も滞在すると、ハワイが恋しくなってしまいます」

 


ハワイのヤモリ

2010-05-20 15:55:01 | 日記

                                              (2)

  「シュミットさん」の話には関係ないことだが、テンプレートのサンプルを見ていて、今使っているブログのテンプレートを見つけた。赤い花は、ハイビスカスで、その上に寄りかかるように描かれているのは、「ヤモリ」だと思う。

 一般に、アメリカ人の家庭では、夕方になっても、日本のように、煌々と蛍光灯を照らして明るくすることはない。
 部屋の明かりは、フロアーライトやテーブルランプだけだから、日本から行くと、何とも薄暗い感じである。
 間接照明で、必要なところだけを照らすようになっている。
 
 ちなみに、「電気スタンド」という英語はない。
 floor light, floor lamp, desk lamp, table light などを使っている。

 食事のときは、さらに、照明を落として、テーブルのキャンドルの明かりだけだったりするので、戦時中のローソク送電を思い出して、惨めな気持になる、といった日本人がいたほどだ。

 ハワイで、友達の家に夕食に招ばれて行った時、この家も、間接照明で、光の当たっている所だけが明るくて、その背後は、もう、薄暗い状態だった。
 フロアーランプの薄明かりの向こうで、壁にへばりついた何かが、少し動いたように感じた。
 壁に近づいてみると、再び、ピクッ!と動いた。
 「生き物だ!」
 はじめて、奇妙な生き物がいるのに気づいた。
 思わず、友達に向かって、
 「何か、動く物がいるよ!」と叫んだ。
 「リザード(lizard:トカゲ)のような気持ちの悪いものだよ!」
 友達がやって来て、
 「ゲッコウだよ!」と言った。
 確かに、トカゲではない。ヤモリのようだと気づいたが、ヤモリを英語で何と言うのか知らない。
 「なんと言うの?」と聞くと、彼は、
 「ゲッコウだよ!」
 「トカゲと同じ種類だと思うよ!」
 ちなみに、「ゲッコウ」というのは、geckoのことのようである。
 「ホウキのような払うもの、何かない?」
 「外に放り出すから!」と言うと、
 「気にしなくていいよ!時々、遊びに来る奴だ!家の守り神だから!そのうち隣の家に行くだろう!」などと、吞気なことを言っている。
 トシにすれば、このグニャグニャした生き物が、気味悪くて仕方がないのである。

 ハワイに来た日本人から聞いた話だが、泊まっていたワイキキのホテルの部屋にヤモリがいて、びっくりしたそうである。ホテルとしても、そんなことは当たり前で、騒ぎ立てるのがおかしいと思っているのかもしれない。
 こちらの人は、怖がったり、気持ち悪がったりしないのだろうか。
 もう一つ、びっくりしたのは、やたら、ゴキブリ(cockroach)がいることである。
 それも、日本にいるのと比べて、かなり大きい。その上、空を大きな羽音を立てながら飛んでいくのを見てびっくりしてしまった。
 5階の部屋に住んでいたが、夕方など、窓を開けて、テラスに座っていたりすると、ブーン!と大きな音を立てながら、耳元を掠めて部屋に飛び込んで来た事が何度もあった。
 こんな高いところまで飛んで来るんだ!
 紙の袋などで捕まえて、5階から外に向かって放り投げると、どこかに飛んで行ってしまう。
 また、やって来るかもしれないが、その時はそのとき、再度、捕まえて放り投げればいいことである。

 後になって、ハワイの人たちと話していて気づいた事がある。
 ハワイは、熱帯なのにワニがいない。蛇もいない。何より、蚊がいないので助かる。
 ホテルのテラスなどで、食事をしたり、ワインのグラスを傾けている時、蚊がブーン!と飛んで来たら、雰囲気は、たちどころに台無しなってしまうだろう。
 
 一度、ヌアヌドーセットの水源地で、ワニを見た、と言う人が現れた。
 新聞やテレビがこの話を、大きく取り扱ったことがある。
 話題が過熱してきたために、ホノルル市当局が乗り出し、調査をした。
 しかし、やはりというか、ワニを見つけることはできなっかった。
 結論は、
 「木の切り株が浮いていたのを見間違えたのだろう!」ということになった。
 やはり、ワニは、ハワイにはいないのだろう!
 皆さん!ワニが、いることに期待したのか、いなくてホッとしたのかわからない。
 やがて、この話題も、自然に消えていったように思う。


シュミットさん

2010-05-19 15:29:57 | 日記

                    (1)

 ハワイに行くたびに、必ず会うことにしている人がいる。その人は、シュミットさん(仮名)である。
 シュミットさんは、もともと日本人であるが、60年ぐらい前に、日本に滞在していたアメリカ人と結婚した。
 20歳過ぎぐらいに結婚してアメリカに渡って、その後は、ずっとアメリカ暮らしということであった。
 まったく、日本とは縁遠いところで生活してきたためか、話をしていても、日本語より英語の方が楽のようで、つい、英語で話しかけてくる。
 
 最初に会った時、
 「わたしは78歳です!」と言っていたのを覚えている。その後、数年経っているので、もう80歳を超えているはずだ。
 会った時は、いつも思うのだが、とても、その年齢には見えないほど、若々しくて、かくしゃくとしている。
 元気な声で、
 「御元気でした?」と叫ぶような声を出して近づいてくる。
 トシも思わず、
 「なんか、シュミットさんに会うたびに、元気をもらう気がします!」と言ってしまったことがある。


 トシが、ハワイに行く直前には、手紙で、旅程表みたいなものを送るようにしている。
 たとえば、どこそこのコンドミニアムに、何時から何時まで滞在します、と伝えるようにしているのである。
 ハワイに着いてからは、直ぐ電話がかかってきて、どこで会いましょうか!というように会う取り決めをする。
 アメリカ生活が長いためか、電話で会話をしていても、しょっぱなは、無意識で英語になってしまうようだ。
 しばらくしゃべっている間に、お互いが、日本人であることを、認識するのか、今度は思い出したように、日本語でしゃべり始める。

 シュミットさんは、80を超えた今でも、車を運転する。
 ちょっと型式は古いが、高級車のキャデラックに乗ってやって来る。
 この車は、本当に乗り心地が良くて、今までは、よくこの車で、一緒にドライブを楽しんでいたが、近年は、申し訳ないが、シュミットさんの運転が、ちょっと危なかしくて、乗せてもらうのを躊躇してしまうようになってきた。
 ハイウエーを走る時は、感じないのだが、ちょっと混み入ったところを運転する時は、途端に、のろのろになり、なんとなく乗り心地が良くないのである。
 ホノルルに入ると、一方通行が多くて、本人も、
 「ちょっと、ドギマギしてしまう!」と言うので、ここのところ、アラモアナまで来てもらって、ショッピングをしたり、レストランで食事を楽しむことにしている。

 以前、福岡からホノルルまで直行便があった。
 毎日一便、JALが、夕方に福岡を発ち、次の日の早朝(時差の関係で同じ日)にハワイに着いていた。
 同じころ、アメリカの航空会社のノースウエストが、毎日、同じように、福岡からホノルルまで飛んでいたことがる。
 その後、いつのまにか、ノースウエストが撤退してしまった。

 日本航空は、長い間、747のジャンボが飛んでいたが、9・11から、サーズと続けざまに襲った社会不安から、乗客が減り続けて、ついには、ジャンボ機が撤退して、その後に、DC10という、ちょっと小さめの飛行機が飛んでいたことがある。
 ある時、飛行機の中で退屈していて、座席の中にあったアンケート用紙を取り出し、気まぐれに、
 「以前は、ジャンボ機だったのが、DC10になってしまって残念です!」みたいな事を書いてフライト・アテンダントに渡した。
 もとより、返事を期待したものでなく、すっかりそのことを忘れていたら、JALの本社から、丁寧な返事が来てびっくりした。
 「そのうち、必ず、ジャンボ機が飛ぶようになります!」と書かれていた。
 しかし、今では、福岡から飛び発つホノルル線自体がなくなってしまったのである。

 シュミットさんには、別府に妹さんが住んでいる。
 時々、日本に里帰りをしていているとのことだが、自身、高齢であるため、福岡線は、大変便利で重宝しています、と言っていた。
 それまでは、関西空港か成田空港経由でしか帰れないので、やはり疲れるということだった。
 「おかげで、里帰りが楽です!」と言っていたのに、残念なことである。
 
 トシが、シュミットさんに初めて会ったのは、この飛行機の中だった。
 ホノルルから福岡に帰る便で、隣り合わせに座って、初めは、軽く挨拶をしただけだったように思う。
 トシの方も、本を読むのに疲れて、窓の外を見たりしていた時、シュミットさんが、
 「どちらから来られました?」と話しかけてきて、会話が始まった。

 福岡に着いて、帰国の手続をしたり、バッゲジ・クレイムで荷物を受け取り、通関を経て、ゲートを出ようとしていたら、後ろで、
 「スイマセーン!名刺をお渡ししますー!」と声がして、シュミットさんが走ってやってきた。
 慌ただしい時だったので、
 「ありがとうございます!お元気で!」とか、言って別れてしまった。

 

 

 


心やさしい人たち

2010-05-15 18:15:57 | 日記

                        (7)

 ウイリアム・サローヤンは、アルメニアから来た移民の子として、カリフォーニア州フレズノで生まれた。
 兄弟姉妹4人と父母の6人家族だったが、父親は、サローヤンが、1歳半の時に死んでしまった。
 母親は、英語をよく理解しなかったこともあり、生活は楽でなく、4人の子供をすべて、孤児院に預けた。
 母親は、女工として働いて、5年後になんとか、子供たちを引き取ることができた。

 サローヤンは、他の子供と同様、幼い時から働いた。
 「人間喜劇」に出てくるホーマーは、サローヤンの幼少時代の姿、そのものだといわれる。
 母も、マッコウレー夫人、そのもので、心根の優しい人であったようだ。

 「人間喜劇」は、たくさんの小話が集まって出来上がった、いわば、サローヤンの生きざまを映し出した世界であるように思える。 出てくる人たちは、必ずしも、成功した人たちではないし、経済的にも恵まれてはいないが、精いっぱい生きているのである。
 電信技士をしているグローガンさんは、さまざまな人たちから送られてくる電信を見る立場にいて、町の人たちの希望、絶望、愛、出会い、別離など知ってしまう。
 「今から帰るよ!」
 「キスに愛をこめて!」
 「さようなら!」とか、簡単な電文であっても、そこには人生の縮図がある。とうぜん、暗い側面を予感させるが、サローヤンは、ことさら、明るい面だけを見ようと努力していて、読む人たちをも、そのように誘っているように見えるのだ。
 一つには、カリフォーニアの、明るい陽光が関係しているかもしれない。のどかな田舎の風景に囲まれ彼の世界は、こよなく明るいのである。
 
 この作品に流れるものは、人間の善意である。
 彼は、苦しいこと、悲しいことからも、ひたすら、明るい側面に目を向け続けている。
 特に、少年たちの生きざま、さり気ない言葉使い、ふるまいを通して、彼らが、常に、明るく、たくましく生きている姿を描きつづけたようにおもえるのだ。
 ある面、トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの世界に共通するように思われる。
 彼らの、天衣無縫で、無謀ともおもえる世界とは、少し違って、サローヤンの世界は、同じ、少年たちでありながら、もっと現実的で、庶民の生活感、哀感がただよってくるのである。
 彼らの生きる世界は、自分たちのためというより、常に、他のひとたちを想いやる心やさしい世界がある。
 読む人の心をなぐさめるのは、この点かもしれない。

  公立図書館で、司書が、二人の子供がうろうろしているのを見て、
 「何を探しているの?」
 「本です!」
 「どんな本なの?」
 「全部です!」
 「一体、どういうおつもりなの?」
 「見るだけです」

 「見るだけ、というのは、どうゆう事?」
 「見ては、いけませんか?」
 「法律に違反するというわけではありませんが」
 「こちらの人は誰?」
 「彼は、ユリシーズです」
 「彼は、文字が読めないのです!」

 司書は、ここまで話してきて、どうやら事情が分かったようで、
 「私も、60年間、本を読んできたが、たいして変わりはないわね!」「どうぞ!見たいだけ見てちょうだい!」
 
 司書のギャラガーさんも善意の人である。人の不幸につけこむようなことをしない。

 おそらく、マッコウレー夫人が、サローヤンの善意の世界を教えてくれる。
 ライオネル少年が、
 「ぼくがバカだから、みんなが嫌うの!」と言うと、
 「あなたは、この近所でいちばんいい子供ですよ!」
 「だけど、他の人たちに、腹を立ててはいけないよ!あの人たちも、いい子供なのだから!」と言うところがある。

 このマッコウレー夫人の言葉が、サローヤンの作品に流れるテーマであるように思われる。
 マーカスが、最後にホーマー宛てに出した手紙に、
 「人間が、僕の敵になるなどとはあり得ない、僕には敵はいないのだ!」
 彼には、最後まで、自分と同じ人間を敵には見ることができないでいたのである。