マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" turkey " (七面鳥)

2011-05-31 09:39:41 | 日記

                       (2)

 サンクスギビングデイには、モナはママと一緒にやってきた。
 お昼過ぎだったろうか、家の前のアプローチに車が止まる音が聞こえたので、出てみると、二人は大きな声で、
 " Hello! How are you, Papa San ? " と声をかけてきた。
 いつものように元気いっぱいの声である。
 " You know, we have a turkey with us."(七面鳥を持って来たよ!)と言った。
 車のトランクを開けると、大きな発砲スチロールの箱が見えた。
 重そうだったので、
  " I can carry that into house ." と言って、手伝って台所まで運び上げた。
 
 既に先客がいて、会話をしたりコーヒーを飲んでいたが、その人たちと、大きな身振りで挨拶したり、次々にハグしたりしていた。
 早速、モナがターキーの準備に取り掛かった。
 発泡スチロールのふたを開けると、みんなが覗き込んで、「ウオー!」とか、声を出した。
 天盤にのせて、持ってきたタレをまんべんなく全体に塗り、それをオーブンにセットした。
 まだ、パーティが始まるまで、かなり時間があったので、2,3時間前に加熱を始めるということだった。

 昼過ぎであるにもかかわらず、既に数人の女性が来ていて、飲み物やクッキーなどを口にしながら、お話をしていたのである。
 それぞれの人が、家からケーキとか自ら作った料理を携えてくるのが習わしのようで、テーブルには、すでに色とりどりの料理が並んでいた。
 後からやってきた人たちは、並べられた料理の皿を見て、
 「これ、おいしそう!誰が持ってきたの?」とか言いながら会話を始める。
 「どんな風に作るの?」とか、尋ね合ったりして,ひとしきり、料理についての講釈が続く。
 女性たちは、他の人が持ってきた料理に興味があるみたいで、味見したり、作り方を尋ねたり、それをメモする人もいる。
 夕方近くに、やって来る人たちもいるので、更に料理の皿が増え、あらかじめ用意しているカウンターのスペースは、いっぱいになりそうだ。
 「トシのチラシ寿司の置き場を確保しなくては、場所がなくなってしまうよ!」と言う人もいた。

 「今日は、ママが運転するので、飲んでもいいことになっているの」とモナが言った。
 「地下室にビールを取りに行くけど、パパさんも飲む?」
 「何がいい?」
 「ミケロブビールがあれば、お願い!なければ何でもいいよ」
 「わかった!」と言って、地下の方に行った。
 まだ、パーティは、はじまってもいないのに、飲んでもいいのかなあと思ったが、一本ぐらいいいだろう。

 モナとママは、オーブンに点火するだけというところまで、あらかじめの準備が終わっていて、早速、ビールのボトルを片手にみんなとの会話に加わっていった。
 それぞれの場所で、そこで交わされる話に、ごく自然に溶け込んでいくモナを見ていると、彼女に何か特異な才能があるのかなと思ってしまう。
 ママは、自分のことを、”Kansaijin” (関西人)で、” talkative” (おしゃべり)で、”always speaking in a loud voice" (何時も大きな声で話す)と表現していたが、モナも、なんとなく、その雰囲気がある。
 モナは、アメリカ人であるが、そして長い間日本で育っていたはずだが、日本的なことがまるでないのである。
 モナは、アメリカ人の典型で、アメリカ人より、もっとアメリカ人らしいといつも思う。

 この日、モナとママが来たときは、すでに数人のお客が来ていたし、中には、モナにとって初対面の人もいた。
 その人たちに対しても、まるで以前からの馴染みの友達であるかのように、当たり前のように会話に溶け込むのを見ていて、到底真似ができないなあと思ってしまうのである。

 一般的に言って、アメリカ人は、陽気で、開けっぴろげ、ユーモアがあり、拘りがなく打ち溶けやすいように思える。
 トシの周りにいた人たちがそうであった。小さな子どもたちも、いかにもこだわりがなく、身近に感じるのである。
 ハワイのシュガープランテーションで、初めてマディやクリスティに会ったとき、全く知らないトシに、
 「おじさん、写真を撮ってもらえませんか?」と、話しかけてきたのを覚えている。
 彼女らが小学一年生の時である。
 マディ、クリスティ、それにアンがいた。
 3人とも、青い目をくりくりさせて、人形のように可愛い顔立ちだった。
 マディが、ほかの二人に代わって自己紹介した。
 
 「わたしマディよ!こちらは、クリスティとアンと言うのよ!」
 「ぼくは、ヤマダです!」と、どういうわけか名字の方を言ってしまったが、どちらかというと、トシの方が緊張していたと思う。
 マディは、大人であるトシに対しても、怖がるふうでもなく、この上なく明るく、堂々としていたのを覚えている。
 
 全体がそうであるとは言わないまでも、アメリカ人は、こちらが怖気づいていても、なんとか取りこんでくれる気安さ、庶民性と言うか、彼らには、そんな気質みたいなものがある。
 


"things Japanese" 「日本風なもの」

2011-05-26 09:35:44 | 日記

                     (1)

 今では、アメリカのどこに行っても、寿司、天婦羅、すき焼きなど日本食を食べることができる。 
 最初、アメリカに行った頃は、滞在していたところがニューヨークから、ちょと離れた田舎だったこともあって、日本の食材を売っている所などなく、まして日本食堂などもなかった。
 朝、昼、晩と、大学から与えられる「ミールクーポン」を持って、カフェテリアで食事をしていた。
 最初は、アメリカの大学の食事は、なんと贅沢なんだろうと思っていた。
 食べたい物を、様々なメニューから選ぶことが出来て、その量たるや、食べきれないほどだったのである。
 メインディッシュのほかにスイカ、メロンなどの果実、ケーキ、ジェリーなどもあった。
 びっくりしたのは、色とりどりのアイスクリームが取り揃えられていたこと、食後には、コーヒー、ジュース、牛乳なども飲み放題だった。日本の大学では考えられない豪華さであったのである。
 最初の頃は、目新しさもあったのか、それで十分満足していたが、だんだんこの豪華な食べ物にも食傷してきた。
 反動で、「うどん」を食べたいとか、「白いご飯」を食べたいなどという奢った気持ちが出てきたのである。

 ある時、街を歩いていて、小さな中華レストラン「スージーウオン」を見つけたのである。
 場末の、いわゆる食堂といった感じの店だった。
 ふらふらっと、この食堂に入っていった。いくつか、ご飯ものがあって、その中から、焼き飯とワンタンスープを注文した。
 日本食と言うわけではないが、焼き飯は、なんとなく満足した気持ちにさせてくれた。
 その後は、定期的に与えられる、わずかな金額の小切手を銀行で現金にしては、その中華料理店に通った。
 
 当時でも、ニューヨークに行けば、数は少なかったが、日本料理店や寿司店があった。
 もし、ニューヨークか、その近くに住んでいれば、日本食にありつくことはできたのである。
 ロスアンジェルスやサンフランシスコでは、「リトル・東京」や「ジャパンタウン」などに日本食のレストランがあって、和食を渇望した人が訪れていたが、内陸部では、そのようなことはなかなか出来ないことだった。

 その後、日本の経済が上向いてきて、日本の企業人などが、多くアメリカにやってくるようになり、トヨタの車がハイウエイを走りだすと、呼応するように、「ジャパニーズ・シングス」(Japanese things)「日本のもの」だけでなく、いわゆる「シングス・ジャパニーズ」(things Japanese)「日本的なもの」も進出するようになるのである。
 日本食ブームが起こって、日本レストランは、日本人が訪れるだけでなく、現地のアメリカ人も、多く訪れるようになったきた。
 生の魚料理に、はじめは気持ち悪がって近づこうとはしなかったアメリカ人たちも、何となく食指を動かしてきた。 

 そこで、登場したのが、「ヤオハン」である。
 ロスアンジェルスのリトル東京のヤオハンは、1985年に開店した。
 ボーリング場や映画館も併設されていた。
 その後、ヤオハンは、全米のめぼしいところに、次々に開店していった。
 日本人の駐在員の家族にとって、ヤオハンは貴重な存在で、どうしてもアメリカの食事に馴染めない人たちが、日本の食材を求めて押し寄せたのである。
 日本のスーパーで買えるものが、ほとんどここで手に入ったのである。値段も、高いということはなかった。
 
 トシが、初めてアメリカのヤオハンに行ったのは、リトル東京のヤオハンだった。
 陳列棚には、日本の食材は何でも揃えているようだった。
 食材だけでなく、店内には、本屋があったり、フッドコートがあって、うどん、ラーメン、天婦羅、天丼などを食べることができるレストランもあった。
 慣れないアメリカ社会での「緊張」をヤオハンに家族でやって来て、日本に触れ、日本の雰囲気を楽しみ、気持ちを癒す人たちもいた。
 サンタモニカの近くを車で走っていて、道路わきにヤオハンを見つけたこともある。
 そこで働いていた「旭屋書店」の人と日本語で話をしたときは、日本語に飢えていたこともあって、うれしい気持ちになってしまった。
 南カリフォーニアのサンディエゴいた時、ちょうど新しいヤオハンが開店して、地元の新聞も大きく取り上げ記事にしていた。
 物珍しさもあってか、開店当初は、日本人、アジア人のほかに、現地の多くのアメリカ人たちが押し寄せた。そのことがまた、新聞で大きな写真入りで報道されていたのである。

 シカゴのヤオハンには、よく行った。今でも行っているが、名前が変わった。
 ご存知のようにヤオハンは倒産してしまい、今では、元ヤオハン社員だった人が引き継いで、新しい会社を立ち上げたようだ。
 店名は「ミツワ」で、社名は、Mitsuwa World Marketと言うようだ。
 社員も元ヤオハンにいた人たちを雇用して、引き続き同じような業態で経営している。

 オヘア空港から、40分ぐらい北に走ると、企業団地があり、ここには日本企業も多く進出していて、たくさんの日本人が住んでいるアーリントン・ハイツというところがある。
 ハイウエー沿いというわけでないので、道を走っていて見つけることはできないが、あらかじめ地図で確認しておけば、脇道に入り、探し当てることは、そんなには難しいことではない。
 マディソンからシカゴに、出向いた折は、必ず帰りにヤオハンによって買い物をしていた。
 一緒に行ったアメリカ人たちも、アメリカのマーケットにない品が多いせいか、興味を示していたのである。
 ここで過ごす2,3時間は、楽しい。
 うどんを食べたり、てんぷら定食を食べたりしていた。
 日本語の新聞とか印刷物が置いてあって、日本の情報を仕入れることができた。
 ヤオハンからミツワに変わって、時間の経過もあるのか、かつての賑わいはもうない。閑散とした印象である。
 あれだけ賑わっていた日本人はどこに行ってしまったのだろう。

 「ミツワ」に出資してるのかどうかは分からないが、店内には、資生堂、山本山、イタリアントマト、三省堂、神戸風月堂、伊藤園、UCCなどの商品が並べられている。
 JTBなどもあり、旅行の予約、飛行機の切符の購入が出来、現地の駐在員たちが、日本に帰る際、航空券を求めているということだった。
 変わったサービスと言うか、白洋舎があり、日本式のクリーニングをしてもらえる。 

 


"Such a disastrous news!" (とんでもないニュース!)

2011-05-22 21:29:44 | 日記

                      (15)

 1988年4月28日に起きた、カフルイ空港の航空機事故のことを記憶している人は多いと思う。
 実際の場面が、テレビニュースで世界に報じられたからである。
 ハワイ島には、ヒロ空港とコナ空港がある。
 自家用の飛行機やヘリコプターが飛び発つ小さな空港は、他にいくつかあるが、ヒロとコナの空港は、サンフランシスコやデンバー、シカゴなどから直通でやって来る定期航空便を持つ大きな空港である。
 その日、ヒロを飛び発ったアロハ航空のボーイング737-200型機は、ホノルルに向かっていた。
 高度7,200メーターに達した辺りで、機体に強烈なショックがあり、ついで、コックピットの後ろ辺りから後部5.5メーターぐらいまで、機体の上部が吹っ飛んでしまったのである。
 乗客は、離陸してまだ間がないこともあって、まだシートベルトサインが点灯していて、ベルトを着用していた。
 この飛行機に乗っていたのは、乗客が90人、クルーの機長ロバート・ショーンスタイマー、副機長のマデリーン・ミミ・トムキンズ、客室乗務員の3人、クララベル”CB”ランシング、ジェイン・サトウ・トミタ、ミシェル・ホンダは、すでに乗客のサービスを始めていた。

 突然、猛烈な衝撃音に続いて、急激な減圧があり、何がなんだか気がつく前に、ちょうど移動中のシニア・アテンダント(上席客室乗務員) のクラベル・“C.B.”ランシングは、あっという間に空中に吸い出されてしまった。
 この人は、その後捜索がなされたが、死体の確認ができないままである。
 トミタは、機材に挟まれて、動くことがができなくなり、もう一人のホンダは、通路にしがみつき、へばりついた状態で、乗客が手を差し伸べて、彼女が飛ばされないように固定していたのである。

 " As the airplane leveled at 24,000 feet, both pilots heard a loud " clap " or " whooshing " sound...."
  ( 飛行機が24,000フィートに達した時、二人の操縦士が、大きなカタカタ言う音、また、ヒューという風の音を聞いた…)のが、おそらく始まりだった。 
 次に、コクピットの後方ドアが吹っ飛んで、猛烈な風圧にさらされていた。
 機材の飛び散った破片が舞い込み、後部の引きちぎられたドアの方を振り向いても、青い空だけが見えた。
 操縦していたのは、機長ではなく、このときは、偶々訓練のため、副操縦士のトムキンズと言う女性だった。
 もちろん、副操縦士が操縦かんを握るのは法律で許されたことで、何ら違法なことはなく、事実飛行機が事故を起こしたのは、あくまで機材の長期使用での金属疲労とメインテナンスの不備によるもので、操縦に問題があったわけではないのである。

 機長は、直ちにイマージェンシー・コードの緊急発信を行い、飛行位置から最も近いマウイ島のカフルイ空港に緊急着陸する決断をしたのである。
 酸素マスクが使えない状況であり、乗客を守るためには、高度を下げて、できる限り気圧を調整する必要があったのである。飛行機は、高度を下げ続けた。
 床下の油圧ケーブルが、切断されていて、そのため左エンジンが動かなくなっていた。
 辛うじて飛行を続けることは可能のようだったが、右に左にローリングしたり、上下にピッチングしながら揺れ動く機体をコントロールするのに、二人の操縦士は必死だった。
 状況から、飛行機がカフルイにたどり着けるのは不可能に思えたのである。
 機長、副操縦士も、この状況を乗り切ることだけに専念していて、この先どうなるかは、まったく思いも及ばないことだった。 ただ飛び続ける飛行機を、無事着地できることに賭けたのである。

 カフルイ空港では、着陸する予定の航空機を、すべてキャンセルし、待機中の航空機も脇に避難させ、緊急の配備を敷いた。消防車や救急車が、サイレンを鳴らしながら、滑走路脇に集まり、救急隊も待機した。
 すると、間もなく、問題の飛行機が、遠く空の一点に姿を現した。体をゆすりながらも、なんとか飛行する様子が見えたのである。
 祈るように見守る人たちの前に、その飛行機が土煙を上げながら着地に成功した。
 そこで、信じられない光景を人々は目にするのである。
 機体は、天井部分が丸裸で、座席にしがみ着いている乗客は、まるでジェットコースターの座席に座っている人たちのように見えたのである。
 これは、まさに「奇跡の着陸」(Miracle Landing)だったのである。
 これほどまで、ひどい破損具合から見て、無事着陸できたことの方が不思議だった。しかも、乗務員一人が犠牲になったとはいえ、残りのクルー4人、搭乗者90人が無事だったのである。
 重傷者は7人、軽傷者57人、30人が、無事生きて帰ることができた。

 左エンジンが停止した状態で、機体をコントロールしながら、無事着地に導いた機長、副操縦士の沈着、冷静な判断、困難な状況に対処した努力に対しては、後になって、航空業界からだけでなく、政府機関からも高く評価され、いくつもの機関から表彰されたのである。
 この飛行機は、1969年度製で、19年運航を続けていたもので、古い機材ではあるが、直ちに運航をやめるほどでもなかった。
 しかし、金属疲労が進んでいたのは間違いなく、定期点検などで、機材使用が限界であることが指摘されるべきだった。
 政府の調査機関からも、十分な定期点検がなされていたか、メインテナンスが充分であったかは、問題のある所として指摘された。
 ハワイの場合、それぞれの運行距離が短く、折り返し飛ぶので、飛行頻度が多く、また海風の中を運航しているため、塩害で腐食の進み具合が早いことなどが、指摘された。

 カフルイに無事着陸して、ほとんどの乗客は放心の状態で、どうしていいのか、俄かにはわからないようだったが、時間が経つと、自分たちが無事であることを確認できたようだった。
 機内から助け出された人たちも、感動のあまり泣き出す人がいて、救急隊員に抱きついたり、気を取り直し、安全に導いてくれた乗務員に握手を求める人もいたリ、乗客同士抱き合ったりしていた。
 万が一に備えて、空港で待機していた人たちも胸をなでおろしたのである。
 その時、たまたま操縦かんを握っていた女性副操縦士は、後に機長になり、以前と同じように飛行機に乗っていることを、後の新聞だったか、テレビのニュースで知った。
 ハワイで飛行機に乗る度に、駐機中の飛行機のコクピットを覗きこむようにしている。
 ひょっとすると、彼女が、コクピットの機長の席に座っているのではないかと思ってしまうのである。

 このことを再現したテレビドラマができて、アロハ航空とか便名などは架空の名前になっていたが、実写の映像を使いながら、その時のパニック、機内の様子、乗客の様子などが描かれていた。
 その題名が、文字通り「奇跡の着陸」(Miracle Landing)だったのである。
 
 次の日、大学で、「ニュースを見た?」とか、「ビックリしたなあ!」、「一人は、気の毒だったが、助かってよかったね!」とかの会話が飛び交った。
 


"DO NOT FEED BIRDS" (小鳥に餌をやらないで下さい!)

2011-05-20 08:47:57 | 日記

                        (14)

 可愛い動物たちとの関わりは、まだある。
 ハワイでは、クジラに出会うことがある。
 お金を出して、「ホエールウオッチング」に行く方法もあるが、そうでなくとも、運が良ければ、海岸から遠くを泳ぐクジラたちを見ることが出来るのである。
 そんなに身近にやって来るわけではないので、辛抱強く海の彼方を目を凝らして見ていると、2頭、3頭と、潮を吹きあげながら悠然と泳ぐ姿を見ることがある。
 誰かが気付き、「あれっ!あれはクジラだよ!」とか叫ぶ。
 泳いでいるのは、まさしくクジラたちで、空に向かって、高々と潮を吹き上げながら、たゆとうように泳いでいるのである。                  ハワイの紺碧の海にマッチして、その風景は壮大である。
 彼らが、視界から消え去るまで、しばらくの時間を楽しむことができるのである。

 ウイスコンシンから知り合いがやって来て、この人潜水の免許を持っていて、ハワイでは、毎日のようにダイビングのツアーに出かけていた。
 「シーライフパーク」の巨大な水槽に潜る体験にも参加して、魚たちと一緒に泳ぎながら楽しんでいた。
 中から手を振るので、水槽の外から写真を取った。
 この人とドライブしていて、ワイメアビーチで、ひと休みしながら、西の方に沈んで行く太陽を眺めていたら、彼女が、急に、「何か動いているよ!」と大きな声を出した。
 そちらの方向を見ると、岩のようなものがうごめいているのが見えたのである。同時に、「亀だ!」と叫んでしまった。
 一匹でなく、たくさんの亀の群れだ。
 彼女は興奮してしまって、Tシャツと短パンの服装のまま、海に飛び込んでしまったのである。
 背に乗せてもらえれば、竜宮城に行けるくらいの大きさだった。
 温厚な生き物だし、危害を加えることはないと思ったが、その大きさを見ると、とても近くには行きたくないほどだったが、何しろ彼女は勇気がある。
 亀の群れの中に入っていき、一緒に戯れるように泳いでいた。
 いつもは水中カメラを携帯しているのに、その時は、持参してなかったので、彼女は、しきりに残念がっていた。
 しばらくして陸に上がって来たが、咄嗟の決断でダイブしてしまったので、衣服は、びしょびしょである。
 一応、ポケットにあったものを陸に放り投げて海に入ったつもりだったが、ポケットには、キーホルダーとドル紙幣が残っていたようで、すっかり濡れてしまっていた。
 それでも、満面笑顔で、満足したふうにニコニコしながら、
 「ハワイの思い出になるわ!」と上機嫌である。

 ダンタウンのアロハタワーの近くに、ディナークルーズの船が係留されている。
 この辺りは、道端から見下ろすと、色とりどりの熱帯の魚たちを見ることができるのである。
 日本人のツアーの人たちも、覗き込んでみているので、ここに魚がたくさんいることを知っている人は多いと思う。
 岸壁に、25セントを入れると餌が出て来る装置を置いているので、餌を買って、上からまき散らすと、見事どこからともなく、魚たちが集まってくる。
 日本では見たことがないような魚たちで、しかも、種類が様々、色が様々、大きさが様々なのである。
 上から写真を撮ることもできるし、しばし癒しの瞬間である。
 ダンタウンに来た時は、よくここに寄って魚のウオッチングを楽しんだものである。

  ジェイムス・ミチェナーは、小鳥たちとに指先で餌を与えながら楽しんでいた。ずいぶん昔のことである。
 彼のことは、有名な人なので、もちろん名前は知っていたが、彼の作品を読んだことはなかったのである。
 「南太平洋」[ハワイ]「トコリの橋」などの原作者である。
 カハラの「チリ」と言うメキシカンレストランに入って行った時のことである。
 偶々、案内してくれたテラスのテーブルが、ミチェナーと奥さんが座ったテーブルの隣だった。
 かなり大きな声で話をしていたので、いやでも聞こえて来たのである。
 マーロン・ブランドやチャールトン・ヘストンとの内輪話をしていたので、ひょっとして、あの壮大な小説を書いたジェームス・ミチェナーではないかと、本当だったらどうしよう!みたいに胸が高なって来たのである。
 そっと、マネジャーに、「あの人は誰?」と訊ねてしまった。
 正しく、その答えは、「ジェームス・ミチェナーです!」だったのである。
 奥さんのことを盛んに「マリ!」と呼んでいた。日系人か日本人だろうことは、顔立ちから直ぐに分かったのである。
 後で知ったのだが、彼女の名前は、「マリ・ヨリコ・サブサワ」だった。
 友達に、興奮しながら、「ジェームス・ミチェナーに会ったよ!」と報告すると、「どこで?」とか言っていたが、
 ” Could be! He is in Hawaii now ” (あり得ることだよ!彼は今ハワイにいるから)と言った。
 彼は、奥さんとの話に夢中で、皿の上にまでやってくる小鳥たちに、無意識に餌をやっていたのである。
 近くにサインボードがあって、
 ” DO NOT FEED BIRDS ” (小鳥に餌をやらないで下さい!)と書かれていたのである。
 餌を啄ばむ小鳥を思うと、どうしても、この場面を思い出してしまう。

 


" escape" from a restless daily life

2011-05-18 17:30:41 | 日記

                        (13)

 オアフ島は、当然、ぐるりと海に囲まれている。
 どこに行っても、魚に出会うことは出来るが、特に岩場に潜ると、色とりどりの魚に出会うことが出来る。
 法律で、魚を取ってはいけない、あるいは、餌づけをしてはいけない場所があるので注意が必要である。
 原則、何処で泳いでもいいが、荒波がやって来る所があったり、尖った岩場があったりするので、気をつけなくてはならないだろう。
 ワイキキのホテルの前で泳ぐのが、最も安全である。
 セイフガードも常駐しているし、多くの人たちの目があるので、「みんなで、泳げば恐くない」の譬えで、沢山の人たちに囲まれていれば、それだけ安心である。
 どこで泳いでもいいのだが、人びとが集まるビーチがあれば、そこに行けば、駐車場があったり、トイレがあったりするので便利がいいと言える。
 ワイキキでもいいし、その近くのカイマナビーチは、最も人気があるスポットである。
 アラモアナビーチやマジックアイランドなどは、多くの人が集まる。
 東の方に行くと、カイルアのコナビーチもいい。高級別荘地があって、優雅な人たちが、日ながら寝そべっったり、パラソルの下で本を読んだり、思い出したように海に入って泳いでいる。
 北に行くと、有名なノースショアがあって、プロの人たちがサーフィンを楽しんでいる。近くに、タートルベイ、ワイメアビーチパークなどがある。
 これらの地域は、サーファーなどが、難度の高いサーフイングをしているところで、高波が押し寄せるので、気をつける必要がある。毎年事故があって、犠牲者が出ているところである。
 西の方向には、マカハやコ・オリナがあり、近年、リゾート地として開発されているところで、老人向けの瀟洒なアパートなどが建設されている。
 タイムシェアのアパートが出来ていて、日本人の金持ちも、それらを購入しているようだ。

 ハナウマベイは、日本人に人気があるところで、旅行会社が、日本人向けのツアーを組んでいて、たくさんの人たちを連れてやってくる。
 昼食を用意したり、シュノーケルなど、泳ぎに必要な道具を準備してくれたり、またトレーナーがいて、潜水を教えてくれたりする。
 30センチも潜れば、たくさんの魚たちが泳いでいるのを見ることが出来て、すぐ目の前に、赤色の魚、緑色の魚、黄色の魚がいてびっくりしてしまう。
 何より、魚たちは、人間を恐れるでもなく、悠々と泳いでいる姿を見て感動してしまうはずだ。
 以前は、売店で魚のエサを売っていた。そこで餌を買って、海に潜り、ばら撒くと、あっという間に周りを魚に取り囲まれてしまうのである。
 法律が出来て、自然をそのまま保存しようという意図か、魚の餌付けが出来ないようになってしまったのである。
 家から、古びた食パンを持って行っって、魚に与えていたが、それももう出来ないようになってしまった。
 食パンは、水につけると、ふやけてしまって、あっという間に、海の中を、散りじりに、何処かに消えて行ってしまう。
 拳でしっかり握りしめて、親指と人差し指の間から、少しづつ解すようにして解き放つと、それを目がけて、魚が一斉に飛びついて来る。
 勇敢な魚は、もぎ取るように、打つかって来るものもいるし、バチバチと音を立てながら、餌の周りは、大混乱になるのである。
 おそらく初めての人は、びっくりするだろう。身近で、こんなにたくさんの魚たちに囲まれて泳ぐことができるのは得難い体験で、これだけで、ハワイに来た甲斐があったと、その感動を訪れた日本人が異口同音に語ってくれた。

 出来れば、軍手をはめて泳ぐのが安全の為にいいように思う。
 岩場がたくさんあって、押し寄せる波に揺られて、体を岩にぶっつけることがあって、怪我をしてしまうことがあるからだ。
 日本人の女性で、お腹を岩で切って血を流している人がいた。軍手をはめた手で、その都度、岩をつかんで、体をコントロールすると安全である。
 素人は、沖に出ないことが肝心である。沖に出ると、海の色がさらにきれいで、コバルトブルーの色をしているが、急に波が高くなってきて、非常に危険である。

 ハワイの海は、単に泳ぐだけでなく、ビーチに寝ころがって楽しむところだ。
 アメリカ人は、都会の喧騒、日々の煩わしさから「エスケープ」しにハワイに来るのだから、のんびりと過している。
 日本人のように買い物に走ったり、観光地巡りであたふたすることもないのである。
 ハワイは、のんびり過ごすためのところだ。生活の疲れを癒やすことができれば、ハワイに来た甲斐があるというものである。