マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Waiting List " ( ウエイティングリスト )

2012-06-30 14:13:28 | 日記

 

 その後も、ブライアンとは、たびたび一緒にランチに出かけた。
 急ぎ足で彼の官舎まで帰って、二人で台所に入り、手早く何かを作ることもあった。
 冷蔵庫を開けて、どんな材料があるのか確認しながら二人で手分けして料理をした。
 大袈裟に料理をする時間などないので、大抵は、食パンにバターを塗り、トマト、アボガド、レタス、ハムなどを挟んだサンドイッチだった。飲み物は彼が好きな「スプライト」とコーヒーだった。
 「なぜ昼休みに家まで帰るの?」と訊いたことがある。
 「別に理由などないが、気分転換か、一つは歩きたいというのもあるような気がする。それにミスターヤマダと話ができるのも楽しいよ!」ということだった。

 時々「ピザハット」にも行った。
 ちょっとしたレストランの雰囲気で、午後の予定がなく、幾分時間に余裕があったりして、くつろぎたい気分の時などには、お喋りもできるし、絶好の場所だったのである。
  フライパンに載って出て来るパンピザは、ひとり分のピザとしては丁度良い大きさで、ジュージュー音を立てて出てくる熱々のピザもお気に入りだった。
 場合によっては、仕事のない時など二人でビールを飲むこともあったし、くつろいでお話しできる場所だったのである。
 
 
 朝方、奥さんから電話があり、「お昼に私のところにいらっしゃらない?」とか誘われることもあった。
 予め3人分の弁当を用意している時はいいが、彼女一人分しか持ってきていない時もあって、それでも、小さく3つの小皿に分けて食べたりしていたのである。
 研究室の雑然とした中での食事も、キャフェテリアやレストランとは違った雰囲気があって、心やすい仲間との楽しい時間だった。奥さんもうれしそうだった。

 「今日も小鳥たちがやって来るかなあ?」と期待しながらブライアン家に行くのも楽しみだった。
 窓を開けてやると、2羽の小鳥たち、「チロちゃん」「ミナちゃん」が、どこからともなく飛んできた。これは、いつも変らなかったのである。
 相変わらずブライアンは、さり気なく小皿に餌を入れて彼らのところに運んだ。
 2羽の小鳥は、それぞれ特徴があって、見分けるのは簡単だった。「チロちゃん」は、全身黄色で、くちばしのところが黒くなっていた。「ミナちゃん」は、赤色にところどころ黒い斑点が混ざっていて、こちらは、黄色のより体が大きかったのである。2羽が、いつも一緒なのはなぜだか、そしてどこからやってくるのかわからない。

 トシがブライアンの家に通うようになって3ヶ月くらいたった頃、小鳥たちは、急に来なくなった。
 ブライアンは、「その内、またやって来るだろう!」と言っていた。以前もしばらく来なくなったことがあるそうだ。しかし、一週間もすると、また戻ってきたようだ。
 このたびはそうはならなかったのである。
 その後もう二度と彼らに会うことはなかった。
 天敵に襲われたのか、何か事故があったのか、もっとかわいがってくれる家を見つけたのか、どうなったのかわからない。  声をかけると、反応して肩の上でピョンピョン遊んだりして、あんなに懐いていたのにと残念な気持ちだった。

 その後、間もなくして、ブライアン家は、エマーソン通りに引越した。
 官舎は、キャンパスにあって、便利だし、こじんまりしていて、ワイキキの街から遥かなパシフィックオーシャンが臨めて景色も申し分なかったが、なにしろ少し手狭だったようだ。

 トシの方も、ティムとサラ夫妻が見つけてくれたアパートは、取り敢えず見つけて住むことにしたところで、机もなく、ベッドを置くだけでいっぱいいっぱいだった。辛うじてガス台、狭いキッチンシンクなどはあったが、勉強をする時などベッドの上にうずくまるように座り、目の前に書物やノートを広げていたのである。
 もっといいアパートをということで、ティムとサラは、新聞のClassified Ads (分類広告)の House (家) や Apartment Furnished (家具附きアパート)などを探してくれていた。
 トシも、休日には、不動産屋を回り、これと思う物件の「ウエイティングリスト」に名前を書いていたのである。
 
 


" Honey ! " ( ブライアンの奥さん )

2012-06-25 18:27:24 | 日記

 

 或る時、昼休みになって、キャフェテリアに行こうとオフィスを出ると、そこにブライアンがいた。
 ランチの誘いだろうと思ったが、

  "  You know my wife wants you to come, if you don't mind. "
   ( よかったらワイフが会いたがっているんだけど )
 "  I don't mind. "
  ( 僕は構わないけど )

 実は、彼の奥さんのことについて彼から何も聞いていなかった。
 昼休みに彼の家に訪ねて行って、家の中の様子、気配から家族がいることは想像していた。
 しかし、こちらからは質問したりはしてなかったし、家族構成がどうなっているのやら知らないままだったのである。
 唐突に奥さんが逢いたがっていると聞いて、夕食にでも招れたのかと思った。
 
 「じゃあ、行こうか!」と彼は、いつものようにとりとめなく会話をしながら歩いたのである。
 どこに行くのだろう思いながらも、彼について行った。
 「ここだよ!」と着いたところは、そんなに遠いところではなく、「スポールディングホール」( Spalding Hall ) だった。
 ここは何度も来た事があり、よく知った場所だったのである。
 エレベーターに乗り4階で降りた。とあるオフィスの前で止まり、そして彼はドアをノックした。
 ドアが開けられ中からひとりの女性が笑顔をのぞかせた。
 彼女がブライアンの奥さんだったのである。
 初めての出会いの瞬間で、つい緊張してしまったが、彼女は、トシを旧知の友達のように迎えてくれた。
 彼女には、初対面なのに、いつも会っている人に対するような、気張るでもなく心やすい雰囲気があったのである。
 トシのことを、すでにいろいろ奥さんには話していたようで、拘りなく会話ができてホッとした。
 
 しかし、奥さんと出会うことは、唐突で、予期してないことだったので、トシとしても、びっくりしてしまったのである。
 おそらく家を出る時、お昼にミスターヤマダを連れていらっしゃいとでも言ったのか、予めトシの分までランチを用意して来ているようだったのである。
 初めて顔を合わせたにしては、こだわりなく世間話が出来て、トシとしても、安堵した気持ちだった。
 デスクの周りに、急きょ椅子を並べ、3人分の食卓ができた。
 奥さんがランチボックスを広げた。サンドイッチ、野菜サラダ、飲み物、フルーツのデザートなど色とりどりで豪華だった。
 思いがけず御馳走にありつけて幸せな気分になった。

 ブライアンは、奥さんのことを、さりげなく、「ハニー!」( Honey ) と呼んでいた。
 後になって奥さんの呼び名がいろいろあることを知った。
 「スイートハート!」( Sweetheart ! )や「ダーリン!」( Darling ! ) と呼ぶこともあるし、公式の場所では、
  "  This is my wife, Doctor Hewitt.  " (こちらは、妻のヒューイット博士です )とか紹介していた。

 ブライアンは、トシのことを、はじめのころは、「ミスターヤマダ!」と呼んでいたが、そのうち、「ヤマダサーン!」になった。
 何時のころからか、「センセイ!」になってしまった。今でも「センセイ」が続いていて、電話がかかって来た時など、最初だけ日本語で、「センセイ、ゲンキ?」
 「ゲンキだよ!」と言った後は英語に変わる。
 公式の場では、トシを紹介する時、"  This is Professor Yamada.  "  (こちらは、プロフェサーヤマダです!)と言う。

 初めて、奥さんと食事をしてから、時々彼女のオフィスでランチボックスを広げて3人で食事をすることが増えた。
 お互い忙しい身であるから、いつもというわけにはいかないが、それでも、朝、ブライアンが、「今日は、ワイフのところで食事をしたいが、それでいい?」と訊いてくる。
 トシも、サンドイッチやバナナブレッド、野菜の詰め合わせサラダなどを持って行くようになったのである。
 彼女の研究室は、下から上まで書物でびっしりだったが、ようやく3人分の空間をつくって、ひざを突き合わせてランチを食べるのは、まるでピクニックのお昼時のようだった。

 その後、彼らはエマーソン通りに転居した。
 トシが住んでいるキナウ通りから近いこともあって、ディナーを呼ばれるようになった。
 


" Brian and pizza " ( ブライアンとピザ )

2012-06-20 14:23:40 | ブライアン

 

 昼休みの慌ただしい時間に、ブライアンが、どうして自宅の食事に誘ってくれたのか分からない。
 1キロも歩いて、トシを家まで連れて行ったのは、自宅で食事をするために帰ろうとしていたところに、たまたまトシに出会って誘ったのかもしれない。
 前に一度だけしか会ってなくて、彼と話をしたのが、その時だけだったのである。
 自宅まで帰ってランチをするのに、誰かを誘うことがしばしばあるのだろうか。
 後になって聞いても、「昼時、家の食事に誘ったひとは、ミスター・ヤマダが初めてだったよ!」ということだったのである。
 何とも気まぐれだとしか言いようがない。

 彼が台所に入って行ってコトコト音をたてていたが、10分もしたころに、「できたよ!」と声がした。
 少しは手伝った方が良いかなという気がして台所に入って行った。
 短い時間に、どのようにして作ったのだろうか、大皿には、イタリア風のピラフが盛ってあり、その横には野菜がこんもり山盛りされていた。
 出来上がった2つの皿を居間のテーブルに運んだ。小鳥たちのための食事も小皿に盛られていた。
 ピラフは、大きく切ったトマトとアボガドがご飯の合間に見えていて、彩りもよく美味しそうだ。
 食べて見て、実際美味しかったのである。
 アメリカ人の男性は、料理が得意な人が多いのは知っていた。というより積極的に奥さんと一緒に台所で働く人は多いのだ。彼は、そのような人なのだろう。

 トシとしては、ハワイに来てまだ一か月、自分で食事の用意をするような暇がなかった。
 ファーストフッド・レストランで食事をすることが多く、このように家庭的というか、整った食べ物は久しぶりだった。
 小鳥たちも、同じテーブルで食事を啄ばみ、ときには、何思ったか、トシの皿にまでやってきて、食べ物を横取りした。 
 小鳥と食事をするなんて日本では考えられない、信じられないことだが、なんだか心地のいいひと時だった。
 以前カリフォーニアのヨセミテに妻と行ったとき、屋外のテーブルで食事をしていたら、リスが、テーブルにやってきて、大胆にも、トシの食事を横取りして食べ始めた。
 貴重な瞬間だと思ったので、カメラを取り出し、その情景を写そうとした瞬間、フラッシュの光に驚いて、リスは逃げて行った。そんなことを思い出してしまったのである。

 その後ブライアンとは、よくお昼の食事をした。
 その時の気分次第で、「家に行く?」という時もあるし、キャフェテリアで済ますこともあった。
 今でも憶えているのは、キャンパスの外れにある「ピザハット」によく一緒に行ったことである。
 歩いてかなりの距離だったが、ブライアンは、ピザが好きなのか、適当なところが思いつかない時など、「じゃあ、ピザハットはどう?」などという結論になることがあった。
 ピザハットでは、ランチタイムのメニューに、パンピザのぺぺロンチーヌとベーコンピザが3ドル50セントであった。窯から取り出されたピザが熱々のフライパンに乗ったままでてきた。
 「5分以上待たせたらお代はいりません!!」というキャッチフレーズがあって、学生たちは、注文した瞬間に時計を見て、果して5分以内に出来上がってくるのか興味津々のようすだった。しかし大概は、3分もするとテーブルに運ばれてきたのである。

 トシもピザは気に入っていたが、ブライアンもピザが好きなようだった。ブライアンは、今でもピザが好きである。
 時々、カパフル通りを歩きブライアン家に行く時、もしまだ奥さんが夕食の支度を始めてなければ、ピザ屋さんに立ち寄って、「ピザを買って行こうか?」と電話をすることがある。
 彼の家でワインを交わしながら、3人でピザを頬張るのは気持ちがいい。
 ピザの箱を開けて、「3人では食べきれないかも?」というときには、近所に住むジーナに電話をして、「良かったらピザを食べに来ない?」などと誘うこともある。
 あの人のいい90歳になる女性である。食事を済ませていても、大概彼女はやってくるのは、お喋りをしたいからである。

 もう10年ぐらい前からだと思うが、ブライアンは、チーズを食べるとアレルギー反応を起こすようになってきた。
 元々彼は、色が白くて、強烈なハワイの日光には辟易している。裸で、海岸に10分も座っていると、肌が焼けて赤くなってくるのだ。
 ビーチに出て楽しむ時には、つばの広い帽子をかぶって木陰に座っていることが多い。日差しが強い時は、なかなか水に入ろうとはしなかったのである。
 太陽が沈み、日差しが欠けてくるとようやく水に入って来た。肌が日差しに敏感に反応するようだった。
 
 ピザには、チーズが必ず附いている。彼のピザは特注で、「チーズ抜き」で「アンチョビを加える」ことにしている。
 カパフル通りで、ピザを買って持っていく行く時、いつも注文する「パパジョンズ」の店では、彼の為に、「チーズ抜き」で「アンチョビを加える」を注文していた。
 知り合った頃、大学の「ピザハット」に行って、ぺぺロンチーニのピザを何の問題もなく食べていたのだが、何時の間にやら彼はチーズ嫌いになってしまった。
 


" Lunch-time with Brian " ( ブライアンと昼食 )

2012-06-15 07:20:43 | 日記

 

 ティムとサラ夫妻と知り合って、その後も、研究テーマの提出、さまざまな手続き、教授などとの打ち合わせ、家探しでごたごたしていて落ち着く間がなかった。
 その間も、フォーマル、キャジュアルなパーティがあったりして、人々と交わることが頻繁だった。パーティで出会う人たちも、まだ誰が誰やら分らない状態だった。

 ブライアンに出会った時は、彼とその後、数十年にもおよぶ付き合いが続くとは夢にも思わなかった。
 時々パーティなどで、彼の姿をみることがあった。
 しかし直に話す機会はなかった。と言うより、彼と話す機会をわざと避けていたように思う。
 彼は、長身で、当時はまだ若く、見栄えがするタイプで、彼の周りには、いつも人だかりができて賑やかだった。
 所謂「モテ男」だったのである。
 トシには、そのような彼が軽薄に見えた。どうも体質に合わないような気がして、本能的に避けていたのだと思う。
 
 ずいぶん後になって、彼の奥さんから聞いた話だが、「ブライアンはねぇ!エレベーターで、一階で乗り合わせた知らない人と三階まで上がる内に友だちになってしまうのよ!」
 それが真実かどうか、あるいは冗談かもしれないが、それくらい人懐こく、気軽に、誰とでも話が出来る人だと言うことである。
 そのことをブライアンに言うと、「まさか!」と言っていた。
 一緒にレストランに行ったりすると、ウエイトレスと何やら話し込んだりすることがある。
 話の内容は、実にくだらないことなのだが、何となく相手と心やすくなってしまう。

 日本びいきの彼が、
 「日本の鎌倉は素晴しいところだよ!」
 「そうなの?日本には行ったことがないわ」とか、まるで関係ないことを、突然知らない人と話題にするが、話しかけられた人は、当然びっくりするのだが興味を示し乗って来るようだ。
 トシなどにはない彼の憎めない人懐こい人柄かなあと思ってしまうのだ。
 ロスアンジェルスの彼の自宅では、よくパーティが催されていたようで、彼は小さい時から出入りする多くの大人たちの話し相手になってきたようだ。
 予定より早めにやってきた人たちの相手をしていたのは、100歳近くまで生きた「おばあさん」と幼い「ブライアン」だった。
 幼い時から、あの独特の社交術を培ってきたのかなあという気がするのである。

 ある時、
 " Mr.Yamada ? " と声をかけてきたひとがいた。
 ” Yes ? "  と振り向くと、そこにブライアンがいた。
 初めて彼と声を交わした瞬間だった。
 彼は、トシをハワイの Nikkei-American (日系アメリカ人:Japanese American)だと思っていたようだった。
 " I'm a Japanese, and I've been here for nearly one month. "  (私は日本人です。ここに来てもう一カ月になりま  す。)

 彼によると、何度か声をかけようとしたが、その機会がなかったと言った。
 あるいは、トシのよそよそしい雰囲気が彼を遠ざけていたのかもしれない。
 数日後、彼は、「お昼を一緒にしませんか?」と誘って来た。
 てっきりカフェテリアにでも行くのかなあと思って、「良いですよ」と言った。
 しかし、彼は、「ちょっと、遠いですよ!」と言いながら歩き始めた。
 一キロくらい歩いたとき、ようやく着いたところがハワイ大学の教員宿舎だったのである。ここが自宅だった。
 キャンパス内の小高い丘にあって、部屋からは、ワイキキの町、さらには遠くに太平洋が見えた。
 家に誰かいるのかなあと思ったが、人の気配はない。
 窓を開けると、待ちかねていたように小鳥が二羽飛び込んできた。どうも馴染みの小鳥たちのようで、それぞれを名前で呼んでいた。
 日本語でいえば、さしずめ「チロちゃん」、「ミナちゃん}という感じだが、もう覚えていない。
 見知らぬ人がやってきて、少しばかり警戒しているようだったが、それでもソファやテーブルでピョンピョン跳ねたりしていたのである。
 ブライアンは、キッチンに入っていき、ゴソゴソ作業を始めた。食事を作っているのだろう。


" Lunch-time "  ( 昼休み )

2012-06-10 17:17:38 | 日記

 

 知り合いができるにつれて、ランチタイムに食事に誘ってくれる人ができた。
 彼らは、カフェテリアにひとりで行くより、だれかと食事を楽しみたいと思うのか、アメリカ人らしいというか、気軽く、
 「食事に行きませんか?」と声をかけてくれる。
 食事をする間、いろいろな話ができるわけだから、相手とより知り合えて友情を育むこともできる。
 心地いいコミュニケーションのひとときである。
 女性で、家から弁当を持ってくる人もいて、
 「作りすぎたので、半分どう?」などと言ってくれる人もいる。
 キャンパスの木陰の芝生で、ベンディングマシーンから飲み物を買ってきて、弁当を広げるとピクニック気分である。
 お昼休みの時で、近くを多くの学生が通り過ぎるが、彼らは、別に関心を示すようでもなく、こちらも気にならない。

 ハワイにやって来たばかりで、右も左もわからない時、初めて知り合ったのがティムとサラ夫妻である。
 大学に提出するメディカルチェックを受けるために、キャンパスにある医療センターに行ったとき、どうしていいのか分からず途方に暮れていたトシを見て、サラが声をかけてくれた。
 その後、何かにつけ、この二人には出会っていたが、二人がいつも一緒にいるのに夫婦だとは知らなくて、仲のいい人たちだなあと思っていたほどだった。
 トシに話しかけるのは、大概サラの方で、ティムは、後方でニコニコ笑いながら見つめている感じだったのである。
 二人は、カリフォーニアからやってきたと聞いていたし、そんな関係で友達なのかなあというくらいにしか思っていなかった。

 知り合いのいない頃で、彼らは、トシが困っていた時、何かにつけアドバイスしてくれたり助けてくれた。

 "  Everything OK?  Tell us if you have anything in trouble !  "
  ( うまくいっている? 困ったことがあったら言ってね! )
 などと声をかけてくれた。
 わざわざオフィスまで訪ねてくれて食事に誘ってくれたりもした。

 カリフォーニアにいる時は、「マリナ・デル・レイ」の波止場に係いでいたヨットで週末外洋に出ていたというくらいだから、かなり贅沢に生活していたようだった。
 何故そのような生活を投げ打ってまでハワイで勉強を続ける気になったのだろうか。
 ハワイ時代の彼らの生活は質素で、食事はカフェテリアで済ませ、車はなく何処に行くにもバスだった。
 二人ともいつもリュックを背負っていて、スニーカー履きにジーンズの服装だったように記憶している。
 彼らのアパートによく行くようになったが、冷蔵庫にジュースが入っているだけで、家には台所があるのに、奥さんも食事の用意をすることはなかった。
 もともとはそうでなく、ちゃんと料理も得意だということだったが、『勉学』のためには、すべてを犠牲にするという徹底ぶりだったのである。
 このことは奥さんに余計な負担をかけさせまいとする旦那の配慮だったのである。
 
 それでも週末は、ささやかな楽しみごとを見つけ出かけたりしていた。
 大学の映画館で、一ドルの映画を見に行くことも多かった。
 大きなどん袋を担いで、ビーチに行き、泳いだり寝転がって読書をしたりすることもあった。
 音楽が好きで、ワイキキシェルやブライスデ―ル、そのほかのコンサートホールに行くこともあったし、大学の野外劇場やケネディシアターでコンサートを聴くこともあった。
一度、ワイキキの音楽会に行った時、コンサートが終わって感動した気持をそのまま家に帰るのがもったいなくて、感想を語りたくて近くのコーヒーショップに入ってしまった。
 コーヒーを飲んだり、アイスクリームを食べながら話で盛り上がってしまって、気がつくと深夜になっていたことがあった。
 それほど遅い時間だと気づかないまま、帰りのバスがもうなくなっていたのである。

 トシにすれば、割り勘でタクシーを呼べばと簡単に考えていた。彼らには、最初から「タクシーに乗る!」というオプションはなかったようである。
 「歩いて帰ろう!」と一斉に歩きだした。それにしてもかなりの道のりである。お金の問題ではなく、「勉学のため」には、贅沢を排除するという彼らのストイックなまでの姿勢を思い知ってしまった。
 音楽会に行ったグループには、半分くらい女性もいた。みんながいっせいに大股で歩き出したが、追いて歩くのが大変だった。
 彼らは、大声で談笑しながら歩いていたが、トシは歩くだけで精いっぱいだった。

 遅れて距離がひらいていくトシを、サラは心配の様子で、曲がり角で顔をのぞかせて待ってくれた。
 それぞれの家が近づくと、「グッドナイト!」と声を交わしながら一人減り、また一人減っていったが、ティムとサラは、自分たちに家を通り越して、トシの家まで見送ってくれて、それから帰って行った。