マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

華やかな遊撃手

2011-02-27 19:57:00 | 日記
                    (5)

 ショートを守る選手には、華がある。
 他のポジションの選手に比べて、ひと際華やいで見えるのである。 あの選手は、うまかったなあと今でも心に残っている選手はたくさんいる。
 
 南海の木塚忠助さんは上手だった。
 横っ飛びに走ってゴロを取るや、目にもとまらない速さで一塁に矢のような送球をしていた。
 間一髪一塁で走者をアウトにした時など、それだけで試合を見に来た甲斐があったと思ったものである。
 
 思い出に残っている選手は、広島の白石勝己さんである。
 背丈は小さく、顔色はあくまで黒く、なんとも怖い人に見えたが、実は気持ちのいい、やさしい人で、巨人のコーチ時代は、「お父さん」と慕われていたそうである。
 広島カープが弱い時代の監督で、ずいぶん苦労をしていた。
 
 当時、本拠地は、江波町の県営球場だった。
 球場の入場門前にビール樽が2つ置かれていて、やってくる観客が、百円、2百円と樽に投げ込んでいた。選手の給料が払えないのである。
 試合中選手の交代を、コーチがやって来てアンパイヤに伝えた。
 これは、ルール違反で、なぜ監督が来ないのかと訊いたら、実は、その時監督は、ダッグアウトを出て、銀行に選手の給料を引出しに行っていたという有名な話がある。
 
 真夏の厳しい日光の下で、日曜日などダブルヘッダーで試合が行われていた。日中に2試合も試合をするのである。
 汗をぬぐいながら選手たちは頑張っていた。
 体力の消耗も激しいはずである。
 白石さんは、選手に元気を出してもらうため、手作りのマムシの粉末をスプーンですくって、ダッグアウトの選手たちに飲ませていたのである。
 今では、信じられないような話はいっぱいある。

 広島は、野球好きが多いところである。
 戦後、職業野球団が、あちこちででき始めたとき、広島にも球団ができたのである。
 他の球団は、スポンサーがいて、電鉄会社、映画会社、国鉄、新聞社などが資金を出していたので、経済的に潤沢であった。
 しかし、唯一広島は市民が作った球団で、のっけから資金に困っていたようなのである。
 白石さんは、もともと巨人の選手だったが、広島に職業野球団ができるということで、広島に連れ戻された。彼は広島の出身であった。
 「逆シングルの白石」というニックネームがついていたくらい、三塁側に飛んで来た球をさばくのに定評があった。
 巨人黄金時代の名ショートで、川上哲治さんなどと同じ世代である。

 ショートストップといえば、この人しかいない。
 阪神の吉田義男さんである。
 この方のプレーのあの場面、この場面が、いまだに心の中にある。
 トシにとって、もう「心の伝説」なのである。
 あれくらいうまくて、雰囲気のある選手は、思い当たらないのである。将に、遊撃手の中の遊撃手である。
 もちろん、ロッテの小坂選手はうまいよとか、ヤクルトの宮本選手など、上手だという人もいるかもしれない。
 しかし、トシにとっては、吉田選手は、全能の神みたいなもので、心に息づいていて、これ以上の選手は出てこないのである。
 

阪神の黄金時代

2011-02-23 16:43:07 | 日記
                    (4)

 バーマー選手と、少しだが野球の話もした。
 日本に来た時、戸惑いはあったようだ。
 基本的には、日本の野球も、アメリカと変わらない。
 しかし、キャンプでの練習方法、監督の指示の出し方、連携プレイなどなど、かなりアメリカの野球とは違う印象だったようである。
 球場が、箱庭みたいに小さいこと、芝生がなくて地面が露出していること、グラウンドの土が硬く、転んだら怪我をするのではないかと恐怖を感じた、ようなことを言っていた。
 日本の野球に慣れるに従って、これらの問題も、気にするほどのことではなくなったようなのである。

「 Fortunately enough, Henry helped us a lot.」
 (ありがたいことに、ヘンリーがいろいろ助けてくれました)
「 Who's Henry? An interpreter? 」
 (ヘンリーというのは、誰ですか? 通訳ですか?)
「 No, he's Tadashi, our coach. 」
(ではなくて、『タダシ』と言う我々のコーチです)
 
 ヘッドコーチの若林忠志さんのことだと気付いた。
 そういえば、彼は、もともとアメリカ人だった。当然、彼は、英語ができるし、コネでアメリカ人プレイヤーを連れてくることもできたのである。
 事実、彼は、ウイルソン、ロイ、バーマーの3人を引き連れて、西鉄ライオンズにやって来たのである。

 往年の阪神ファンならだれでも、若林を知っているはずだ。
 両親は、広島県の出身で、ハワイに移住した。
 彼は2世である。
 若林、藤村富美男、別当、土井垣などは往年のスターである。これらの選手がいたころは、阪神が最も輝いていた時代であった。
 若林は、ピッチャーで、39歳の時、20勝をあげている。41歳で、15勝も稼いでいるのである。
 晩年は、確かにスピードがなくなり、その代わり7色の変化球を操り、ナックルなどを多投しながら勝ち星を稼いでいた。

 ずっと後になって知ったことだが、彼が、ハワイのマッキンレーハイスクールに在学中、捕手として、実業団の親善野球チームに加わり日本にやってきている。
 このことがきっかけで、彼は、日本の野球に興味を持ったようなのである。

 トシは、マッキンレーハイスクールにほど近い、キナウに住んでいたことがある。
 夕方、ウオーキングしていて、よくマッキンレーハイスクールの前を歩いた。
 キナウからペンサコーラに出て、サウスキング通りを歩くのがコースだった。
 マッキンレーハイスクールは、このサウスキング通りにあったのである。
 校庭には、フェンスがないし、いつでも中に入ることができた。
 建物がすべてスペイン風で、印象的な佇まいの学校である。
 この学校の図書館に行っていたのは、時々、図書館で不要になった書物を「ブックセール」で売り出していた。
 一冊が、50セントから1ドルぐらいで、時に掘り出し物を見つけることもあったのである。

 今にして思うと、タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ選手が、マッキインレーハイスクールで学んでいたのかなあ、という感慨がわいてくるのである。

英語を習うこと

2011-02-20 10:25:50 | 日記
                    (3)

 何故、バーマー選手は、他の選手たちと一緒にバスで移動しないのだろうか。
 バーマーによると、福岡市の南部「カスガ」と言うところに住んでいるらしく、他の選手とバスで移動する場合、一度福岡まで出て来なくてはならない。
 そこから小倉まで、バスでドライブするとなると、曲がりくねった旧3号線を走り、所要時間が、2時間半ぐらいも掛かってしまうので、ということだった。
 そのころはまだ、道路事情はよくなく、バイパスは一部開通していたが、高速道路などなかった。
 快速電車は、小倉まで50分ぐらいで着くから、ずっと楽だということのようだ。
 まして、このような電車がアメリカにないので、電車に乗るのは楽しいし、気に入っているとのことだったのである。

 そのころまだ、この「春日」にアメリカ軍の基地があって、多くのアメリカ人が住んでいたところである。
 偶然、バーマー選手に電車の中で会った時は、バーマーらが福岡に来てから、2年ぐらい経っていたころだっただろうか。
 日本の生活にも慣れて、日本のことが気に入っているようだったのである。
 春日には、アメリカンコミュニティ(American community)があって、軍人の家族が多く、英語で付き合いができること、彼は日本語ができないが、日本にいて、特に困るようなことはないとのことだった。
 
 アメリカ人選手が日本に来て困ることは、阪神のバースが言っていたように、子供の学校のことと、家族の誰かが病気になった時の対応のようである。
 関西の球団に所属する選手は、よく神戸に住むのは、子供を神戸のインターナショナルスクールに行かせることできること、外人向けの病院があることのようである。

 「英語をどこで習ったのですか?」と訊いてきた。
 「どこと言って、日本では、中学校から高校まで、英語は、必修科目(required subject)で、みんな英語を習うのです」と言ったら、びっくりしたようだった。
 「だれでも英語ができるのですか?」
 「誰でも、というのはどうかなあ。話すことができるのか、といえば、おそらく『ノー』です」
 「日本の英語教育は、教科書などの『印刷物』(written materials)に頼っていて、はっきり言って、実際に英語が話されるのを聞く機会がないのです」
 「だから、いきなりアメリカ人から英語で話しかけられても、何を言っているのかわからないと思うので」

 「英語を教えるのは、誰ですか?」
 「一部、キリスト教のミッション系学校を除けば、ほとんどは、日本人が教えていますよ」
 「もともと話すことができない日本人が教えるのですから、英語を聞いたり、話したりすることを度外視しているのです」
 「教える内容は、文法的なこと(grammatical aspects)、文章の基礎構造、仕組み、辞書を片手に訳読の訓練などが中心です」
 「生徒たちは、英語を難しい科目と考えていて、数学、物理などと同じように英語を最も嫌いな学科だと思っていますよ!」と言ったら、笑っていた。

 結局、野球の話をそっちのけで、「日本の英語教育」についての話で、ほとんどの会話の時間を費やしたのである。
 

小倉の「豊楽園球場」

2011-02-17 14:59:48 | 日記
                     (2)

 西鉄ライオンズファンだった人は、ジム・バーマー選手のことを憶えているかもしれない。
 1963年に、アメリカからジョージ・ウイルソン、トニー・ロイ、ジム・バーマーが、所謂「助っ人」としてやって来た。
 当時は、中西太さんが監督だったと思うが、助っ人たちのおかげか、シーズン後半になって、し烈な戦いが続き、ついに南海ホークスに勝って優勝しているのである。

 なぜウイルソンでなく、ロイでなく、バーマーを話題にするかと言えば、偶然、福岡から門司港に行く快速電車の中で、彼と隣合わせに座り、会話をしたことがあるからである。
 鹿児島本線の雑餉隈発、門司港行きは、雑餉隈を出ると、竹下、博多に停車する。
 博多で、ほぼ満杯のお客さんを乗せて、途中ノンストップで折尾まで走る。
 その快速電車に竹下で乗車した。
 発車間際になって、大きな男が慌ただしく乗ってきた。
 トシの横に空席があるのを見つけたようで、やおら座ろうとしたのだが、見ると、野球のバットを2本、ケースに入れるのでなく、裸のまま小脇に抱えて、手には、大きな布製のスポーツバッグを抱えていた。
 バットを2本、頭上の網棚にのせて、布製の大きなバッグも、網棚に押し込むように載せた。
 そのバッグには、恐らく野球帽、ユニフォーム、ストッキング、シューズ、下着などがしまわれているのだろう。
 彼の様子、顔を見た瞬間、彼が西鉄ライオンズのバーマー選手だとすぐに分かった。
 観客席からだが、彼がグラウンドを機敏に動き回る姿を、なんども見ていたからである。
 彼は、セカウンドベースマンで、活きのいい選手だった。
 自分を鼓舞するのか、仲間を励ますのか、チームを「チアー」(
cheer)するのか、絶えず大きな声を出していた。
 「それ行けー!」(Go!)
 「さあ、来い!」(Come on!)
 「よくやった!」(Good job!)
 「気にすんな!」(Don't mind!)
 そのほか、訳のわからない大声を、怒鳴りつづけていた。
 意識して声を張り上げるというより、大声を出すのは、もう彼の習性だったのかもしれない。
 他の選手も結構声を出しているのだが、彼の場合、ひときわ目立っていたのである。

 バーマーが、横に座って、にわかにトシもどう対応していいのか、落ち着かなくなってしまったのである。
 有名人だし、気がるく声をかけるのは失礼な気がして、知らないふりをすることに決めた。
 下向き加減に本を読んでいると、どうも彼は落ち着きがなく、きょろきょろしているようだった。
 こちらを助けを求めるような目で見ていたので、目があった瞬間、
 「 May I help you? 」(どうかしました?)と言ってしまったのである。
 「 Is this bound for Kokura? 」(この電車は、小倉に行きますか?)
「 Yes, sure! 」(その通りです)
「 Thank you! 」(ありがとう)
「 You're welcome! 」(どういたしまして)
どうやら、ひょっとしたら、反対方向に行く電車に乗り間違えたかもしれないと思ったようだった。
 ほっとした顔をした。

 西鉄ライオンズの本拠地は、福岡の平和台球場だった。
 全盛時には、大下、川崎、河村、西村、稲尾、中西、豊田などが活躍したところである。
 そして準フランチャイズの球場が、小倉の「豊楽園」だった。
 小倉駅の北側の、海を埋め立てたところにあったのだが、今はもうない。
 ここには、プロ野球に限らず、高校野球や実業団野球も見に行った。
 一シーズンを通じて、ライオンズの試合が、10試合以上あったと思う。

 

往年の野球選手

2011-02-14 11:38:40 | 日記
                   (1)

 ミネソタで、取材にきた新聞記者の女性と、その後、時々コーヒーショップで会ったりしていた。
 街に出たついでに訪ねて行くと、新聞社の広場を挟んだ真向かいのコーヒーショップのテラスで、コーヒーを飲みながら話をして楽しむこともあった。
 この女性、もう40歳を過ぎていただろう、ちょっと太り目であったが、おしゃべり好きで活発な人だった。

 ある時、話の途中で日本のプロ野球に話が及ぶと、彼女は、びっくりして、
 「日本人は、ベースボールをするの?」と言うから、
 「もちろん、日本では野球が盛んで、恐らく国で一番人気のあるスポーツだよ」と言ったら、更に驚いた風だった。
 
 大概のアメリカ人は、日本がどこにあるのかさえ知らないのに、まして日本でアメリカの国技とも言われるベースボールが盛んだなど知る由もなかったのだろう。
「キューバや中南米では、ベースボールが盛んなのは知っていたが、日本人が野球をすることは全く知らなかったわ!」
 
 そこで、日本には、セントラルリーグとパシフィックリーグがあって、シーズンの終わりに、アメリカと同じように、リーグで優勝したチーム同士が、日本一をかけてシリーズを行うのだ、というようなことを説明したら、彼女は興味津々の顔で聞いていた。
 
 「地元の福岡の球団で、ニューヨークヤンキースにいたジョージ・ウイルソンなどが活躍したことがあるよ」と言ったら、目を丸くしてびっくりしていた。
 彼女も、ウイルソンが、ヤンキースやジャイアンツで活躍していたことを憶えているようだった。
 「どこにいるのかと思っていたら、日本にいたの?」
 
 彼女は、ミネソタツインズのファンで、かつて強打者ハーマン・キルビュリューの取材をしたことがあるとも言った。
 キルビュリューは、地元で人気がある選手で、トシ自身何度か試合で見たことがある。
 試合が始まる前、シートノックをしている時、国歌の斉唱があり、選手たちは、練習をやめ、帽子を胸に当て「気をつけ!」の姿勢をする。
 観客席の人たちも起立し、直立の姿勢で、国歌に敬意を払う。これがきまりである。
 キルビュリューのことで今でも思い出すのは、彼は頭髪がなくて、帽子を取ると、太陽のような頭が丸見えになった。
 その光景が目に浮かぶのである。
 彼は、チームの強打者で、何度か直にホームランを打つのを目にした。
 女性記者は、
 「キルビュリューと一緒に写った写真があると思うから、いつか持ってくるわ」と言っていた。

 当時、ハーマン・キルビュリューは、もう40歳ぐらいになっていた選手だった。
 生涯積み重ねたホームランの数は、600本ぐらいになっていたのではなかろうか。
 数年後、ミネソタに行った時は、もう引退していて、ツインズは、すっかり模様変わりしていたのである。
 大方の選手は、知らない顔だった。
 知り合いに、
 「キルビュリューはどうしているの?」と聞いても、
 「さあー、どこかで牧場でもやっているのでないの!」
 当時は、引退した選手が、次の人生として選ぶ職業は、牧場を経営するのが流行っていたのである。

 そのまた数年後に、ウイスコンシンに行った時、たまたま見ていたテレビのニュースで、キルビュリューが、高校生に野球のコーチをしている姿が映っていたのである。
 「わァー!懐かしいなあ!」と思わず言ってしまった。
 
 帰国する時、ミネソタに立ち寄った際、友達とおしゃべりしていて、キルビュリューのことを思い出した。
 彼らに、
 「テレビのニュースで彼を見たよ!」と言って、その時のことを彼らに話した。
 みんなは、往年の彼の姿を思い出すのか、
 「どんな風だった?」とか、
 「元気そうだった?」とか聞いてきたのである。
 「ちょっと、老けた感じだったが、元気そうだよ」というと、安心したようだった。