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ベトナム戦争が終末を迎えるころ、突然、軍の命令で、「後方基地」は撤収されることになった。
アッ!という間で、何が何だか分からないまま、テントなどの施設は残したままの撤収であった。
まあ、命からがらというか、一日の猶予もなく、この「作戦」は実行されたのである。
戦局が、芳しくないことは、みんな知っていたので、あるいはという感じだった。
撤収してから、軍艦で脱出したのか、輸送船なのか、あるいは、航空機だったのかは、マイクに訊いてないので分からない。
取り敢えずは、なんらかの方法でグアム島に着いたのは確かである。
戦争時、グアム島に来て休養をとり、ある期間を置いた後、交代要因として、再び戦場に帰ることはよくあった。
それで、今度も、再び戦場に戻るよう、という命令が来るのではないかという、びくびくした不安が心の中にあったのである。
事実、他の隊員たちも、
「何時、戦地に帰るのだろうか?」と囁き合っていた。
いつもは、スケジュール表が渡たされ、自分たちの次の任務が示されるのに、この度に限っては、それがなかったから、お互い、疑心暗鬼な気持であったのである。
時間が経つにつれて、
「もう、戦場に戻る必要はないのだ!」という確信みたいなものが、兵士たちの間に広がっていった。
2週間も経っただろうか。
身繕いを整えるよう、との指示があり、集合させられた。
そこで初めて、次なる任務は、ベトナムに戻るのでなく、アメリカ本土に戻るのだという説明があったのである。
今度は、民間の航空会社所有のチャーター機に乗せられ、米国本土のカリフォーニアの基地に向かったのである。
ベトナムの戦争が、終結したことを初めて知った。
「除隊を希望する者は許可する」という通達が出た。
軍に残ることも出来たが、マイクの場合、除隊を申し出て、手続きをした。
ほとんどのベトナム帰還兵が、除隊の手続きをした。
除隊の日、マイクは、グレイハウンドの高速バスで、故郷に帰るつもりだったが、同じ方向に帰る同僚が、
「ヒッチハイクで帰るつもりだけど!」「一緒にどうだろう?」と誘ってきた。
「では」ということで、デンバーまで一緒に旅をすることになったのである。
当日、上官が、ジープで、サンバーナディノの外れのハイウエーまで送ってくれた。
「お互い、無事でよかったなあ!」と言いながら、抱き合った。「元気でな!」と上官が言った。
彼らは、軍服、制帽にサングラスの出で立ちだった。
それに、身の回りのものを詰め込んだドンゴロスの大きな袋を肩に担いでいた。
軍服姿がよかったのか、手を挙げると、割とスイスイ、乗用車、あるいは、トラックが止まってくれた。
何度かヒッチハイクで、車を乗り継ぎ、デンバーまでたどり着いたのである。
この時期、ちょうど農繁期で、故郷の方は、猫の手も借りたいくらいに忙しかった。
そうでなければ、カリフォーニアまで家族が迎えに来るはずだった。
軍に入隊してから、こまめに、故郷の家族には手紙を書いた。ほとんどは、手書きであったが、時に、施設のタイプライターで、長い物語のような手紙を書いた。
故郷の方からも、しげく、手紙がやってきた。
このたびの除隊のことをみんなが喜んでくれた。また、以前のように、みんなに会えると思うとうれしい気持ちでいっぱいだった。
デンバーで友達と別れた。
彼は、北の方向のノースダコタに帰って行った。
デンバーのグレイハウンドバスディーポで、高速バスを待つ間、初めて故郷のことを思い、心が平和になってきた。
戦火を逃れて、無事、故郷に帰れるのだという実感のようなものがふつふつと沸いてきたのである。
アメリカの空は、あくまで青かった。
砲弾、銃弾が、飛び交うこともなく、炸裂音も聞こえなかった。
「なんと、平和なのだろう!」と心から、そう思った。