マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Are you Greg ? " ( グレッグなの? )

2014-06-27 12:27:20 | アパラチアン山脈

 

(1)

 

 

 

 グレッグは、ジョージア州のメイコンで生まれた。一家は、代々続く医者の家系で、南北戦争の折には、従軍医として参戦した人もいて、南部人であることの衿持を守り続けている。
 南北戦争が終わって、もう何代にもなるのに、かつての誇り高き栄光が忘れられないようだ。 特に母親は、食卓を囲んだ夕食時に、子供たちにリー将軍の話など語って聞かせていた。
 グレッグが、ニューヨークに就職して出ていくとき、「ヤンキー娘と結婚するのじゃないよ!」と本気で言っているのか、あるいは冗談で言っているのかわからないが、笑いながら言っていたのを覚えている。
 グレッグの世代にもなると、南部人とか北部人とかの感覚はなく、アメリカに住んでいる人であれば、お互い同じアメリカ人として見ることに何の違和感もなかったのである。

 父親は、今でもメイコンの町で、病院を開業している。
 長男は、あのコカ・コーラファミリーで有名なアトランタの難関大学、エモリー大学医学部を出て、医者として活躍している。
 次男のグレッグは、ジョージア大学医学部を出て、ヘッドハンティングされて、ニューヨークの総合病院に就職した。妹が一人いて、彼女は、現在ヨーロッパに留学中である。
 母親は、グレッグが高校生だった時、「あなたは、医学以外の、例えば、法学か経済学の分野に進んだらどう?」とか言っていたが、周りが医者ばかりで、何となく医者の雰囲気に染まってしまい、高校では、トップ5%にいたこともあり、担任の先生が、当たり前のように医学専攻科を薦めて、推薦状を書いてくれた。
 母親は、美人で、性格はおおらか、いつも明るく、話題の豊富な人で、人を飽きさせなかった。人望が厚く、メイコンの町で、慈善事業などの社会活動に精を出していて、市の評議委員にも選ばれている。
 彼女は町の有名人で、評議会のメンバーとして、市の行政、監査、将来プランなどに助言をしている。市長に直接意見を言える立場にいるのである。
 父親は、どちらかと言うと仕事一筋であるが、パーティなどで、ほかの人たちと大声で語り合ったり、笑いあったりで、決して退屈な人ではない。

 長男は、勤勉で勉強一筋、その分ちょっと面白くない秀才タイプだった。そうであるからなのか、母親は、どちらかと言うと、少しおどけて危なっかしい弟のグレッグが気になるようで、今でも、1週間に1度は、メイコンからニューヨークに電話をかけてくる。もちろん大した用事があるわけでなく、他愛ない話がほとんどで、受話器に耳を傾けるグレッグはいつも退屈していた。

 グレッグは、ニューヨークの病院の仕事に埋没していた。
 朝7時には、もう病院に着いていて、まずコンピュータを開け、資料に目を通した。それから入院患者の見回りに出て、患者の一人一人に声をかけながら、症状の確認をした。
 9時には、外来の診察室で患者の応対をした。2日に一回は、手術にも立ち会った。毎日がこのように忙しく過ぎていったのである。
 時たま学会出張で病院を離れることがあった。そのようなときこそ、ほっとする瞬間で、外気を吸い、浩然の気を養うにはまたとない時間のように感じられたのである。1
 学会出張で訪れた街で、時にヨーロッパに行くこともあったが、店屋に立ち寄り珍しい小物を買って、それを母親に送った。
 「グレッグ、あなたなの!なんてすばらしい贈り物なの!嬉しいわ」と、すぐさまメイコンから電話がかかってきた。

 1日の仕事を終え、ハドソン川を見下ろす、ちょっと豪華なアパートに帰り着く前に、行きつけのレストランで食事をするのが習わしだった。
 彼のアパ-トからさほど遠くないところに、ロックフェラー、ニクソン、ケネディ家の人たちが住んでいる高級なアパートがあった。


" Koi-carp swimming in Hawaii " ( ハワイで泳ぐコイ )

2014-06-19 14:10:30 | ハワイの思い出

 

(9)

 

 サラは、カリフォーニアからハワイに来て、もう2年にもなる。アラモアナには、なんども来ていたが、シロキヤは初めてということだった。一歩入ってしまえば、いかにも東洋的で、アメリカのマーケットの雰囲気はない。

  "  I've never been here, although I've been to Ala Moana a great deal. " ( アラモアナには何度も来たが、ここは初めてよ )と言った。

 店内では、大きな音量で「江差追分」が鳴っていて、ねじり鉢巻きのオジサンが景気よく商品のデモンストレーションをやっているのを見て、びっくりしたようで、思わず立ち止まってしまった。
 「そこの可愛いいお嬢さん!試食していってよ!…と言っても日本語はわからないのよねえ・・・オジサンも英語がわからないんだよ」とか独り言を言っていた。「とにかく食べてみて!お金を取るわけではないから」
 トシがそのオジサンと日本語で話し始めたから、サラはエッ!というような顔をして、
  "  Is that a Japanese ?  " ( それ日本語? )
  "  Yes !  " ( そうだよ )

 考えてみると、アメリカにいるから当然日本語を話す場面がないわけで、46時中英語で生活していた。ティムとサラには、しばしばあってはいたが、日本語を使う機会がないからトシが日本語を話すのを聞いたことがないわけである。

 マディを初めて平等院に連れて行ったとき、「こんなお寺が日本にあるの?」とか興味津々だったが、それより池で泳いでいたコイ( Koi-carp )のほうに関心があるようで、「きれいな色をした魚だね」とか言いながら見とれていた。揺ら揺ら水面近くを泳いでいて、尾びれに触ることもできそうだ。
 そんなことがあってから、マディはコイが好きになったようで、平等院の庭の池で泳いでいるコイを見たくて、トシに連れて行ってとせがむことがあった。
 平等院には、大きな池がいくつかあって、たくさんのコイが泳いでいる。
 
 コイは、金魚が何代にもわたり品種改良されて、今の姿になったのだと、どこかで読んだ。おそらく日本独特の魚で、鑑賞用として育てられ、あの色鮮やかな魚になるのだろう。
 煌びやかな色をして泳ぐ姿が、アメリカ人にとって非常に印象的なようで、平等院に来た観光客も、泳ぐコイの群れに見入ったり、写真を撮ったりしている人が多い。
 マディは、コイの絵を描いて宿題として学校に持って行ったことがあるくらいだ。

 平等院の中をマディとクリスティの3人で歩いていると、向うから官長が歩いてきた。官長とは、いささかの面識がある。家さがしの時に相談に乗ってもらったりした。
 この方、神奈川の出身で、ヒロの町が大津波に襲われ壊滅した時、同じ宗派のお寺も全壊した。彼は、その立て直しのために本部から派遣されたのである。まだ彼が若い時である。
 一応の仕事を終え、日本に帰れるかと思ったようだが、今度は、本部からオアフ島の平等院の責任者としてとどまるよう指令が来たのである。

 官長と日本語で話していたら、マディがトシの袖を引くので、
  "  What ?  " ( なに? )と言うと、
  "  Are you speaking the language other than English ?  We don't understand !  "
 ( 英語でない言葉を話しているの?わからないよ! ) 

 


" I'm just on the way to Shirokiya. " ( シロキヤに行くところだよ )

2014-06-13 09:06:17 | ハワイの思い出

 

(8)

 (シュミットさんとよく行っていたアラモアナのイタリアレストラン)

 ハワイでは、馴染みだった店やレストランが、いつの間にか廃業になっていたり、今度は新しい衣料店が開店したりで、常に動いている感じだ。
 日本の「ダイエー」が倒産して、ハワイのダイエーも売りに出された。一時は、アメリカの大手スーパー「ターゲット」が買い取ったという話を聞いた。
 店内にターゲットのマークがあちこちに見られた。その後、再び日本の「ドン・キホーテ」が買収したようだ。
 以前と全く変わらない店内の様子で、相変わらず日本の品々が売られている。
 ハワイに住む日本人たちには、「ダイエー」もそうだったが、「ドン・キホーテ」は、大変便利で、ありがたい存在である。日本から輸入されたものが店内にいっぱいある。日本に住んでいた時と同じように、ほとんど何でも買いそろえることができるのだ。豆腐、かまぼこ、ラーメン、漬物、刺身など日本のものがほしいと思ったとき、ほとんどのものが手に入る。
 日本からハワイにやってきて、数週間滞在する人たちも、料理の材料を買いにドンキホーテに来る。
 ワイキキから2番バス、あるいは13番バスに乗って来ると、そんなに遠くでもない。バスの案内放送がコンベンションセンターの辺りで、「次は、ダンキホテ!」と教えてくれる。「ドン・キホーテ」でなく、「ダンキホテ」に聞こえる。
 バスを降りて5分ぐらい歩くと、それらしいスーパーが見えてくる。店内は、一見して日本人だろうと思える人たちで込み合っている。

 ハワイの「シロキヤ」も倒れた。アラモアナとパールリッジショッピングセンターの2店舗があった。
 この店も、日本の商品があふれていて、ハワイに住む日本人たちが重宝していた。
 ある時新聞を読んでいたら、シロキヤは、どうやら経営がうまくいかなくて、廃業になるようだと報道されていた。
 長い間相当な負債を抱えていたようで、なんと「1ドル」で売りに出されたのである。このニュースを新聞で読んだとき、さすがに、どうゆうことだろうとびっくりしてしまった。
 タダでも引き取ってくれる人がいたら譲りたいところだが、そうすると何らかの法律に触れるということだった。1ドルだったら、だれでも買えるのだが、おそらく抱えている債務を引き継ぐことになるのだろう。
 パールリッジのシロキヤにもよく行っていたし、アラモアナのシロキヤは、近いこともあってよく通い重宝していた。
 オンダさんとは、シロキヤの二階にある小さなレストランで、学期の終わりで一区切りついときなどビールを飲みながら二人でささやかな宴会をしていた。
 シロキヤは、もうなくなってしまうのだろうかと寂しい気がした。
 ところが、どうもアメリカの企業が買収するようで、やがて新装開店するということだった。しかしアメリカの企業が買収するということは、もはや日本のデパートではなくなるのではないかと心配だった。そのような心配は無用だった。
 前と同じようにシロキヤは、日本の商品であふれていて、むしろ以前より品揃えが豊富で、いかにも日本的だったので、本当のところホッ!と安心した。
 二階には、屋台のようなコーナーがあって、ビールを飲んでいる人たち、ラーメンを食べている人、弁当を食べている人などでにぎやかである。

 サラをシロキヤに連れて行った時のことをよく覚えている。
 ティム、ジョン、レイファン・リン、リンダなどと一緒にアラモアナのレストランに行った。食事が終わって、それぞれが買い物をしたいということだったので、1時間後に集合するということにして解散したことがある。トシが歩きかけると、
 "  Where are you going, Toshi?  " ( どこに行くの、トシ? )
   "  I'm just on the way to Shirokiya.  "  ( シロキヤに行くところだよ )
   "  Can I come with you ?  "  ( 私も行っていい? )
   "  Sure !  "  ( もちろんだよ! )

 シロキヤでは、ちょうど「北海道物産展」をやっていた。捩じり鉢巻をしたオジサンが「サァー、いらっしゃい!北海道物産展だよ」と大声を出していた。
 サラは、その光景がよほど珍しかったのだろう。おじさんの前に立ち止まって、あっけにとられたように見とれていた。
 「そこの可愛いお嬢さん!試食をしていってよ!」と言われたサラには、おじさんが何を言っているのかわからない。

 


" Senior citizens I love " ( 私の好きな高齢者たち )

2014-06-06 12:52:24 | ハワイの思い出

 

(7)

 

 (ハワイ大学のキャンパス)

 カハラに住んでいた93歳の女性は、もうハワイにいないことはわかっていたが、時々訪れていたその家を何となく見たくて行ってみた。
 彼女がいたころは、手入れが十分でなく、ちょっと荒れていた家は、だれか新しい人の家族が暮らしているのだろう。見違えるように装いが新しくなっていた。芝生もきれいに刈り取られていて、プールは水が張られ、男の子と女の子が水遊びをしていた。
 もう中に入ることはできないが、家の中の間取りはすべて知っている。居間がどこにあって、どこにトイレがあるか、キッチンはどんなふうになっているかなど、今でも思いだすことができる。
 かつて石原裕次郎さんの別邸があったところの近くである。あの女性に最後にあった時はもう高齢だったし、その後どうなったのだろうか。

 ハワイ大学のケモア教授も高齢である。終身教授の資格を持っていて、毎日大学に通ってくるが、もう直接学生を指導していない。
 奥さんと一緒に大学にやってくる。奥さんは、ずいぶん前から車いすに乗ったきりである。彼が、奥さんの身の回りの世話をしなくてはならないので、奥さんだけを家に置いて出ることができないのだ。
 早朝ケモア教授は、奥さんを車いすに乗せて、それを押しながら大学にやってくる。大学は、彼のために研究室へのアクセスを車いすが通れるようにバリアフリーにした。
 奥さんは、体が不自由なばかりでなく、言葉もしゃべれない。前方を見つめたばかりで、ほかの人とは意志の疎通を図れない。それでも、主人であるケモア教授にだけは、一瞬の目の瞬きで、わずかに意思を通じているようで、トイレに行きたい、背中をこすってほしい、水がほしいなどを感じ取っているようだ。
 ときどきキャンパスを彼が車椅子を押しながら歩いているのを見かけることがある。おそらく散歩をしているのだろう。車椅子は、彼にとっても、体の支えになって杖の代わりをしているようで、"  I can't walk without this !  "( これがないと、私も歩けないのですよ! )と言っていた。
 日曜日には、必ず奥さんを乗せた車椅子を押しながら、パンケーキのおいしいレストランに行っていた。
 奥さんが、まだ歩くこともでき、しゃべることもできた時からここに通っていたそうで、奥さんのお気に入りのレストランだそうだ。
 今は、何も意思表示をしない奥さんの口にスプーンでパンケーキを一口、また一口と運んで食べさせていた。時々、" Enjoying ? "(おいしいかい?)と声をかけても、もとより返事が返ってくることはないのだ。それでも、奥さんの目の動きで、何らかの意思を受け止めているようだった。

 ジーナは、92歳の今も愛車のホンダを駆けて動き回っている。
 パーティが終わった深夜にトシを車で送ってくれた。助手席に座っているトシに何かと話しかけてくるが、運転の技術は確かである。
 90歳を超えても、どうしてこんなに元気で、頭脳が明晰なのだろうか。彼女が話す内容は理路整然として、若い人たちと変わらない。
 お父さんは、福岡県久留米市の生まれで、お母さんは、横浜の人で、彼が東京帝国大学に在籍中に知り合って結婚した。公的機関で働いていて、アメリカに派遣された。
 戦争中日系人たちがこうむった悲劇に彼らも巻き込まれたのである。突然アリゾナの強制収容所に連れていかれた。
 ちょうどそのとき父親は、サンフランシスコに出張中だった。父は、サンフランシスコで拘束されたが、家族は、すでにアリゾナの収容所に連行されていたことを知らなかった。
 ここでお互いの消息が途絶えてしまったのである。1か月半後に父も、同じ収容所に連行されて、お互い再会できたということだ。

 タコマから派遣されてきた市の幹部夫婦が我が家でホームステイしたことがある。クリスマスの時期になると必ずトシの興味を持ちそうな本を送ってくれる。
 ある時送ってくれた本が、" Snow falling on cedars " (アメリカ杉に降る雪)だった。オレゴンのピューゼットサンズというところに住む日系漁師一族の戦時中の悲劇が書かれていた。
 かなり厚い本だったが、講義の合間にのめり込むように読んだことを思い出す。
   "  We've been in concentration camp for nearly 2 years.  " ( 強制収容所に2年近くいたのよ)とジーナが言ったとき、かつて読んだ「アメリカ杉に降る雪」を思い出した。