マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

「カブオ・ミヤモト」

2010-10-25 16:26:35 | 日記

                    (27)

 タコマ市を訪れた時、ピーターとキャシーが、我々をピュージェットサンド地方に案内してくれた。
 予てから訪れたいと思っていた場所で、「ヒマラヤ杉に降る雪」の舞台になったところである。
 天に届くようなヒマラヤ杉の木立が、延々と連なっている緑深い山々だった。
 奥深く入ると、道に迷って、おとぎの国にでも迷い込みそうな気持になった。
 樹齢数百年にもなるのであろうか、とにかく高い木々である。
 
 訪れた時は、小説に描かれた冬の季節ではなかった。
 覆いかぶさるような木々の間から、果てしない蒼空が垣間見えた。
 冬の季節になれば、凍てつくような寒さの中で、暗雲垂れ込む空に押しつぶされるような、切迫した風土に変わるのだろう。あの小説に描かれた風景である。
 ジョン・スタインベックの「トーティア平」 (Tortilla Flat) に描かれた、あくまで明るい南カリフォーニアではなく、ここは、北カリフォーニアから、更に北へ、オレゴンより、更に北へワシントン州である。
 「トーティア平」に描かれた南カリフォーニアの丘陵地帯には、枝を曲げた赤松林が出てきた。
 オレゴンからワシントンに至る連綿と続くヒマラヤ杉の山脈とは、対照的である。

 シアトルから海を挟んで、ゲインブリッジ島がある。
 今は、人口が22,000人の小さな町である。
 ゲインブリッジの名前が、小説では、架空の名前「サン・ペドロ」になっている。
 元々、ネイティブアメリカンが住んでいたところである。
 白人が、最初にやって来たのは、バンクーバーと言う名の男で、1792年のことであった。
 1853年に、当時の酋長シアトルが、合衆国と署名を交わして、正式にアメリカのワシントン州に併合されたのである。

 森林地帯を背後に控える関係で、林業が盛んであった。したがって、製材業も盛んで、そこで働く労働者として、日本人、フリッピン人など各国から集められた人たちがやってきた。
 後に、造船業も盛んになり、また、海軍の基地なども設置された。
 日系人は、約220人ぐらい住んでいたという。

 第2次世界大戦が勃発して、日系人が、敵視されるようになる。
 1942年3月、日系人は、アイダホ州ミニドクの強制収容所に送られた。小説では、彼らは、カリフォーニア州のモハビ砂漠にある収容所に送られたことになっている。
 物語は、このような背景の中で起こるのである。

 漁師のカール・ハインという男が、自分の漁船の漁網にひっかっかって死んでいるのが見つかる。
 その時間、近くで漁をしていた日系人のカブオ・ミヤモト ( Kabuo Miyamoto)が、殺人の嫌疑を受けるのである。
 小説では、「カブオ」となっていて、最初読んだ時は、間違いではないかと思ってしまったが、あくまで、作品の中では、「カブオ」で貫かれている。
 流石に、映画では、確か、「カズオ」という名前になっていた。

 

 

 


ピーターとキャシー

2010-10-22 15:59:42 | 日記

                     (26)

 姉妹都市、タコマから訪れた夫妻を仮に、夫の方をピーター、奥さんをキャシーと呼んでおこう。
 奥さんのキャシーは、日系3世であるから、おじいさん、おばあさんの世代に日本から遠く離れたアメリカのワシントン州の河岸の、この地方に渡ったのだろう。
 キャシーは、祖父母のこと、父母のことなどしきりに話してくれた。
 「祖父母は、もういないけど、父母には、トシや奥さんが、アメリカに来るような時があれば、ぜひ会っていただけるとうれしいわ!」と言っていた。
 
 数年後に、この地を、実際に訪れる機会があった。
 ピーターとキャシーに会えたのもうれしかったが、念願のキャシーの両親に会うことが出たのである。
 ホームステイのホストである我々のことを、機会あるごとに両親に話していたようだ。
 旧知の人が再会を果たしたときのように、彼女の両親は喜んでくれた。
 日本レストランで、すき焼を御馳走になった時のことを今でも、思い出すのである。

 ピーターとキャシーが、初めて訪れた時の印象では、キャシーは、穏やかな話しぶりで、いかにも人のよさそうな感じで、聡明な雰囲気が漂っていた。
 ピーターは、ユーモラスで、人懐こい感じで、話好きのようだった。
 いつも和んだ雰囲気だったが、アメリカで仕事をしているときは、厳しい顔つきで仕事をしているのだろうか、どんな風なんだろうと、思わず想像してしまったのである。

 庭の椅子に座っている時など、そっと近づいて、何かを話しかけたそうに、微笑んでいる彼は、何の屈託もないようだった。
 いつも、何かを話しかけたそうな様子である。
 トシもそうだが、彼は、推理小説が好きだということが分かった。
 レイモンド・チャンドラー、ジェイソン・A・クレンツ、リンダ・ハワード、ロバート・B・パーカーなどの推理作家が、次々二人の間の話題になった。
 まるで、「書評会」のようだった。
 ついには、
 「食事の用意が出来たよー!」と言われるまで、延々話は続いたこともある。
 お互いが、推理小説好きというのがわかって、何か宝物を発見した時の喜びみたいな感じになっていた。

 毎年クリスマスのシーズンになると、彼から贈り物が届く。
 郵便物の中身は、開けなくても分かっている。「推理小説」である。 恐らく、アメリカで話題になった作品を、
 「これがいいかなあ?これを送ろうかなあ」などと吟味したのだろう。 その一冊には、心がこもっていた。

 感謝の手紙を書くのはもちろん、読後の感想文なども書き送るようにしている。
 彼の方も、送られてくる感想文を楽しんでいるふうである。
 最初に送って来た小説は、「レッド・オクトーバー」 (Red October) だった。
 アメリカとソビエットが、冷戦のさなかにあったとき、両国のスパイが暗躍する様が描かれている。
 手に汗にぎるというか、スリルが沸々と迫ってくる さまが、見事に描かれていたのである。

 彼が、送ってくれた本の中でも、印象に残っているのは、「モンタナ」(Montana)という作品である。
 モンタナの田舎町で殺人事件が起こる。
 町のシェリフが、真相究明に走り回るが、犯人を追う段階で、どうも、実の兄が関係しているのではないかと疑い始める。
 追い詰める弟と逃げる兄の心の葛藤は読み応えがある。
 実の兄を追い詰める弟の心の様子が、如実に映し出されている。一種の「心理サスペンス」と言えようか。
 モンタナの田舎町で起こった事件だが、背景になる町の様子などが、この物語を一層引き立てているのである。

 「ヒマラヤ杉に降る雪」 (Snow Falling on Cedars) は、心に残る物語だ。分厚い小説だったが、なんか一気に読み進んだ。
 この作品は、後で映画化された。
 原作は、高校の先生が書いたもので、10年の歳月をかけた労作である。
 後にベストセラーになり、世界中で30カ国以上の国で読まれている。
 日本語に翻訳されたたかどうかは分からないが、映画になってやってきた。
 映画も見たが、日本人の工藤夕貴さんが出演していて見事な演技を披露している。ほれぼれするような英語の発音で、なに臆することなく堂々の演技は印象に残った。

 

 

 

 

 


アメリカの姉妹都市からの訪問者

2010-10-20 16:13:44 | 日記

                      (25)

 アメリカの姉妹都市から、管理職夫妻がわが市に招待されてやって来た。
 各地の市長を表敬訪問したり、公式のスケジュールをいっぱい抱えて忙しそうだった。
 大分では、県知事に会ったり、「一村一品運動」の実態を見学したりした。
 各地で歓待されたようで、毎日が、飲めや食えで追いまくられたようである。 古民家に案内された時は、彼らのために目の前で、神楽を舞ってくれたりもした。
 連日のハードスケジュールで、くたくたのようだった。特に奥さんは、
 「死にそうだった!」と言っていた。

 我が家に着いた時は、完全にばて気味のようだった。
 コーヒーを飲みながら、歓談などしていたら、安心したのか、いく分寛いだふうに見えてきた。
 風呂に入り、衣服を着かえ、夕食を済ませる頃には、すっかり落ち着いたようだった。
 早目に、
 「オヤスミ!」を言って、彼らは、自分の部屋に引っ込んでいった。 その後は、朝まで、ぐっすり眠り込んでしまった。
 次の日の朝、食事の時間になっても、下りて来ない。
 後で聞くと、何はともあれ、ベッドにへばりついたまま、時間の経過を、全く気付かないまま眠りこけていたようである。
 「この家に来て、ほっとして、安心したのかも知れません!」と言った。
 ようやく起きてきて、遅い朝食を済ませて、コーヒーを飲んで、気が緩んだのか、和やかな会話を楽しむ気持ちになったようだ。

 朝食に出た、「味噌汁」をすすりながら、奥さんが、
 「美味しいですね!」と言った。
 「何か、気分が和むスープですわ!」
 京都に住む、ハーブ研究家のイギリス人、ネニシアさんも、初めて、日本に来て味噌汁を飲んだ時の思い出は、
 「忘れられない!」と言っていた。

 夫妻の夫の方は、アイルランド系アメリカ人で、市長の補佐をしている。
 高学歴の故か、出世は早いようで、おそらくまだ30代だろう。
 奥さんは、日系の3世だということだった。
 彼女が、日系だということで、市長は、彼らを日本に派遣する気になったのかも知れないと思ってしまった。
 
 彼女自身は、日本語を全く理解できないようだった。でも、
 「両親は、少し、日本語を理解できます」とのことである。
 奥さんの方も、キャリアで、将来を嘱望されていた。
 彼女は、仕事とは別に、夜、ピュージェットサンド大学の法学部に通っていた。
 将来は、弁護士として、独立するようである。

 十分睡眠をとったためか、元気を取り戻して、彼らは、一転饒舌になってきた。
 庭で、花の手入れをしている我々の横に立って、始終何かを話していたのである。
 リビングに帰っても、話は続いた。
 政治の話というよりも、故郷のこと、趣味のことなどが話題になった。
 近所の猫がやってくると、それを抱きかかえて、抱いていることも気付かないふうで、話だけは続いていたのである。
 
 ロングフェローやテニソンの詩の話もした。
 別に、畏まった話ではなかった。少年時代の、そんな詩人にまつわる自分の体験談と言ったらいいだろうか。
 黒沢明や小津安ニ郎の映画を、アメリカで初めて見た時の感動を話してくれた。
 黒沢をシェイクスピアのリチャード3世と対比しながら、映画の構成などを話した。
 小津は、日本人の私生活を、いかにも細やかに描き出した様は、秀逸で、到底アメリカには、このような監督はいない、と力説していた。

 

 

 

 

 

 


我が家に「ホームステイ」で訪れた人たち

2010-10-18 16:08:26 | 日記

                      (24)

 我が家には、公的な機関から依頼されて、また、個人的にやって来る「ホームステイ」する外国人は、いろいろいた。
 ほとんどは、アメリカ人だったが、タイ人、エジプト人などもいた。

 食事は、いつも、自分達が食べている物しか出さない。
 朝など、みなさん、「味噌汁」を美味しそうに?啜っている。
 「箸」をぎこちなく動かしながら、それでも、一生懸命に食事をする風景は、ちょっと言えば、滑稽でもある。
 野菜の煮物、焼き魚、漬物など、いつもの食事である。
 女性の場合、台所に一緒に立って、ワイワイ、がやがやしゃべりながら、手伝いもする。
 好奇心のある人は、いちいち料理のことを尋ねながら、ノートに書き留めている。
 勝手にスーパーなどに行って、食材を買って来ては、我々をもてなすつもりか、故郷の料理を作ってくれたりするのである。
 頼まれない限りは、勝手に、なんでもさせている。
 洗濯機や乾燥機をまわして、洗濯などもしている。
 庭に出て、花の手入れを手伝ってくれたりもするのである。
 
 デパートの地下の食品売り場が気に入る人は多い。
 あちこちを試食しながら歩き回る。
 言葉が通じないのに、盛んに身ぶりを入れながら、質問をしている。
 彼女らが、共通して気に入るのは、レストランのショーケースにある模造のメニューの陳列である。
 これらが、本物でないことにいたく感動するようで、
 「ほしいなあ!」
 「何処に行ったら、買えるの?」とか言った人もいた。

 タイから来た女子学生とは、湯布院に一緒に旅行した。
 ホテルの浴場に娘と入って行ったが、みなさんが裸で入浴しているのを見て、すっかり怖気づいてしまった。
 バスタオルを体中に巻き付けて、風呂場の隅っこにじっとしていたようだった。
 タイでは、大勢の人が裸で、一緒に風呂に入るなどといった習慣がないのだろう。
  びっくりしたのは、レストランでメニューを見ていた時、彼女が、
 「 Is this hen?」  (これはチッキンですか?)と言った。
 アメリカでは、鳥料理は、「チッキン」 (chicken)と言う。
 「 hen 」は、雌鶏という意味はあっても、料理では、チッキンの代わりに使われているのを聞いたことがない。咄嗟に、
 「 What's hen, anyway? 」 と聞き返した。

 アメリカ人の女性たちが滞在中、丁度台風が襲って来た事がある。
 こちらとしては、台風が早く通過してくれることを願っているのだが、
 「ビューン、ビューン!」と音をたてる強風が、よほど珍しかったのか,外に出て、木々が折れ曲がるさま、瓦が散乱するさまを、
 「オウッ!」とか叫びながら、その瞬間を写真に収めて感動する人もいた。

 どう見ても、白人にしか見えないアメリカの女性が来た事がある。   実は、祖母が日本人ということだった。
 出身が鹿児島で、この機会にということで、バスを乗り継ぎ、鹿児島まで墓参りに行った。


 食事は、原則、日本食しか出さなかったが、例外が一人いた。
 エジプトから来た高校の物理の先生で、彼はイスラム教徒であるために、食べる物が戒律で厳しく制限されていた。
 事前に、食べていいもの、いけないものを聞いていて、それに合わせることにしていたのである。
 彼が「ホームステイ」していた間は、我々も、彼と同じ食事にした。
 彼は、一日に数度、メッカの方に向かって祈りをささげていた。
 いい人で、庭で何かをしていると飛んできて手伝ってくれた。
 何より話好きで、ほとんど、独りでしゃべりまくっていたのである。  かなり、癖のある英語で、聞き取るのに苦労をした。

 

 


子供の時に食べた「みそ汁」と「カレーライス」

2010-10-14 17:24:04 | 日記

                      (23)

 「おふくろ」が作った味噌汁は、ジャガイモ、大根、豆腐などがたっぷり入っていて、汁を「啜る」と言うより、「食べる」と言った方が相応しいような、ボリューム感のあるものだった。
 しかも、イリコで出汁をとるものだから、具の中にたくさん、そのイリコが残ったままである。
 さすがに、これは苦手で、こっそり取り出して捨てようとすると、「体ににいいのだから、食べなさい!」と叱られた。
 傍目には、決して上品な味噌汁ではない。
 毎朝、そのような味噌汁を食べながら育って来たので、味噌汁と言えば、どうしても、具たくさんの味噌汁を心に描いてしまうのである。

 「カレーライス」もおふくろの味である。
 ジャガイモ、玉ねぎ、人参、時に、サツマイモなども入っていて、ゴロゴロした感じなのだが、育ちざかりの子どもにとって、これが、何よりの御馳走だった。
 大きな鍋で作られたカレーだったが、子どもたちが貪るように食べたから、あっという間になくなった。
 母親は、子どもたちがお代りをしながら、食べつくす、そんな様子をじっと見ていた。
 母親自身は、僅かに残ったカレーを自分の皿に注いで、静かに、スプーンを口に運んでいた。
 「一緒に食べようよ!」とか、子供心にも、そのような時の母を思いやるゆとりはなかったのだろうか。

 そのようなおふくろの味が、体に沁みこんでいるので、子どもたちが成長し、大人になった後でも、その味を体で憶えていて、忘れることは決してない。
 「懐かしい心の味」なのである。
 このような食べ物を通して、母親から、心身ともに、躾られて育ったように思う。
 母親は、おふくろであって、ほかの人がとって代わるというわけにはいかないのである。
 特に、男の子にとっては、大人になろうが、心の中にある母の存在は変わらない。
 世間的には、どうあれ、母は母であって、他の人からは犯されるべきものではないのである。
 羨ましいのは、どのような女性でも、母親になる資格がある。
 男は、おふくろにはなれないのである。

 茨木から東京で働く息子に会いに来た母親がいた。
 息子から来た手紙には、東京駅に着いたら会社に電話をするように、と書いてあった。
 「カマタをお願いします!」と電話口で言うと、受付嬢は、
 「何課のカマタさんですか?」と聞き返した。
 「どの課かは、わからないのですが、カマタマサオと言いますが・・・」と母親は言った。
 「社員名簿にカマタの名前はありませんが?」

 仕方がないので、八重洲口を出て、手紙に同封されていた地図を頼りに歩いた。
 ようやく、目指す息子の会社にたどり着いた。
 エントランスを入り、受付で、
 「スミマセン!蒲田雅夫をお願いしたいのですが?」と言った。
 そこでもやはり、
 「蒲田さんの名前は、社員リストにないのですよね!」
 その時、横にいたもう一人の女性が、
 「もしかして、蒲田部長ではないですか?」
 「部長かどうかは分かりませんが…?」
 そこで、役職名簿を見て、はたして蒲田雅夫の名前を見つけた。  内線で、
 「部長!お母様がお見えですが・・」

 しばらくして、エレベーターから、息子が飛び出してきて、小走りに母親に近づきながら、
 「アッ!お母さん!」と叫んだ。
 受付の女性二人が、この風景を見て、思わず笑ってしまったそうである。
 あの威厳のある部長が、まるで、幼稚園で、迎えに来た母親を見つけたときの満面笑顔の子供、そのものだった、と言っていた。

 マスイさんとは、よく飲みに行った。
 トシ、一人で飲みに行く場合は、場末の小さなバーに行くことが多かったが、マスイさんは、さすがに、高級ホテルやレストランにあるバーに行った。
 馴染みの人が、あちこちから、
 「ハロー!ドクター・マスイ!」と、声をかけてきた。
 夜になると、彼は、必ず、家に電話をした。
 最初に電話口に出るのは、奥さんだった。
 しばらく、英語で話をすると、お母さんに代わる。今度は、日本語である。
 「アッ!お母さん?」
 「今ねェ、トシと『食事をしている』から、先に寝ていて!」
 あのゴツイ・・・マスイさんが、打って変わって、やさしい声で話している。
 彼は、肝臓が悪くて、お母さんから、
 「飲んでは、だめよ!」と、強く言われているのをトシは、知っているのである。
 「奥さんには、ちょっと、トシと飲んで帰るから…」と、言っていたのに、母親に言うときは、
 「飲んで」が、「食事」になっていた。
 お母さんが、怖いようだった。