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戦後の混乱期から、日本からフルブライトの留学試験に受かってやってくる人たちが、多くウイスコンシン大学で学んだ。
ウイスコンシン大学は、コロンビア大学、カリフォーニア大学、スタンフォード大学、ミシガン大学などと同様日本からのフルブライト留学生を受け入れていたのである。
国家公務員キャリア試験、弁護士試験とフルブライト留学試験が当時日本で最も難しい試験だと言われていた。
留学の期間は、意外に短かった。
高校の先生で、本場の英語を実体験する目的で来る人たちは、半年の留学だった。
ほとんどのフルブライト留学は、期間が1年だったのである。
当時の日本は貧しく、皆さん日々の生活に追われていて、観光で海外に出る人などいなくて、自費でなく、公費で派遣されるフルブライトの留学試験に人々は押し寄せ受験したのである。
フルブライト留学の目的は、日本人のだれもが憧れたアメリカの先進文化に、短い期間であっても、日本の将来を担う優秀な人たちに触れさせようとすることにあったのだろう。
勉強を継続するという意味では、このような短い期間では成果を期待できなかったが、アメリカ文化を体験したこれらの留学生たちは、日本に帰ってから、様々な分野の第一線で活躍したのである。
多くは、次の時代を背負う学生を指導する大学の先生になる人だったが、政治家になった人、経済界で活躍した人、放送や新聞などマスメディアの世界で働く人、それに医者になった人、医学の研究に励んだ人も多いのだ。
高校に入って最初の担任はF先生だった。
F先生は、フルブライト試験に向けて猛烈に勉強していたが、もう何年間も合格してないようだった。同僚の英語の先生も、「F先生は、優秀な先生なのに!」と言いながら応援していた。
F先生は、大学を出て学校の先生になるはずだったが、海軍に徴用されて予備士官として服務していた時終戦を迎えた。
復員後、トシがいた高校に先生としてやってきたときは、まだ初々しい若者だった。
当時のだれもがそうであったように、貧しく、食べるのが精一杯で、服装などかまっておれなくて、どの先生も毎日同じ服装で来校していた。
この担任の先生も、軍隊時代に着ていた軍服というか、海軍の士官が着るボタンのない蛇腹の紺色の制服で授業をしていた。背広など持っていなかったのだろう。
「F先生は、今年は大丈夫だよ!」と応援していた同僚の先生は、お父さんが政治家だったので、いずれ政治家になるのだろうとみんなが言っていた。
しかし次の年に辞職して東京の大手のS出版社に転職した。数十年後、この先生はその出版社の重役になった。
東京に修学旅行に行ったとき、東京駅のホームに迎えに来ていて、我々を見て大きく手を振っていたのが印象的でよく覚えている。
トシの通学路の途中にF先生の家があった。
日曜日に友達と打ち合わせて学校で勉強していたことがある。帰りに、先生の家の横を歩いていて、庭にいる先生と目が合った。
先生は、赤ちゃんを背中に背負っていて、何やら書物を読んでいた。まるで二宮金次郎の銅像のようだったのである。
「コンニチワ!」とあいさつをした。
結局そのまま通り過ぎるのでなく、立ち止まって先生とお話をする羽目になってしまった。もとより何を話したのか忘れてしまったが、先生は家に入って行き、コップを持って出てきた。
庭で飼っていたヤギの乳房にコップを当て乳を絞り始めた。コップ一杯になったところで、それをトシに差し出し、「どうぞ!」と言った。
ヤギの乳を飲むのは初めてのことで、しかも絞りたてで、生臭く、それに生温かい味だったのをよく覚えている。
おそらく奥さんの乳の出がよくなくて、ヤギの乳を赤ちゃんに飲ませていたのだろう。
その先生が、トシが卒業した後で、念願のフルブライトの試験に合格したというのを聞いた。