マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

  ” F -Sensei ” ( Fー先生のこと )

2013-06-22 08:14:30 | 懐かしい人たち

 

( 2 )

 

 

 戦後の混乱期から、日本からフルブライトの留学試験に受かってやってくる人たちが、多くウイスコンシン大学で学んだ。
 ウイスコンシン大学は、コロンビア大学、カリフォーニア大学、スタンフォード大学、ミシガン大学などと同様日本からのフルブライト留学生を受け入れていたのである。
 国家公務員キャリア試験、弁護士試験とフルブライト留学試験が当時日本で最も難しい試験だと言われていた。
 留学の期間は、意外に短かった。
 高校の先生で、本場の英語を実体験する目的で来る人たちは、半年の留学だった。
 ほとんどのフルブライト留学は、期間が1年だったのである。
 当時の日本は貧しく、皆さん日々の生活に追われていて、観光で海外に出る人などいなくて、自費でなく、公費で派遣されるフルブライトの留学試験に人々は押し寄せ受験したのである。
 フルブライト留学の目的は、日本人のだれもが憧れたアメリカの先進文化に、短い期間であっても、日本の将来を担う優秀な人たちに触れさせようとすることにあったのだろう。
 勉強を継続するという意味では、このような短い期間では成果を期待できなかったが、アメリカ文化を体験したこれらの留学生たちは、日本に帰ってから、様々な分野の第一線で活躍したのである。
 多くは、次の時代を背負う学生を指導する大学の先生になる人だったが、政治家になった人、経済界で活躍した人、放送や新聞などマスメディアの世界で働く人、それに医者になった人、医学の研究に励んだ人も多いのだ。

 高校に入って最初の担任はF先生だった。
 F先生は、フルブライト試験に向けて猛烈に勉強していたが、もう何年間も合格してないようだった。同僚の英語の先生も、「F先生は、優秀な先生なのに!」と言いながら応援していた。
 F先生は、大学を出て学校の先生になるはずだったが、海軍に徴用されて予備士官として服務していた時終戦を迎えた。
 復員後、トシがいた高校に先生としてやってきたときは、まだ初々しい若者だった。
 当時のだれもがそうであったように、貧しく、食べるのが精一杯で、服装などかまっておれなくて、どの先生も毎日同じ服装で来校していた。
 この担任の先生も、軍隊時代に着ていた軍服というか、海軍の士官が着るボタンのない蛇腹の紺色の制服で授業をしていた。背広など持っていなかったのだろう。

 「F先生は、今年は大丈夫だよ!」と応援していた同僚の先生は、お父さんが政治家だったので、いずれ政治家になるのだろうとみんなが言っていた。
 しかし次の年に辞職して東京の大手のS出版社に転職した。数十年後、この先生はその出版社の重役になった。
 東京に修学旅行に行ったとき、東京駅のホームに迎えに来ていて、我々を見て大きく手を振っていたのが印象的でよく覚えている。

 トシの通学路の途中にF先生の家があった。
 日曜日に友達と打ち合わせて学校で勉強していたことがある。帰りに、先生の家の横を歩いていて、庭にいる先生と目が合った。
 先生は、赤ちゃんを背中に背負っていて、何やら書物を読んでいた。まるで二宮金次郎の銅像のようだったのである。
 「コンニチワ!」とあいさつをした。
 結局そのまま通り過ぎるのでなく、立ち止まって先生とお話をする羽目になってしまった。もとより何を話したのか忘れてしまったが、先生は家に入って行き、コップを持って出てきた。
 庭で飼っていたヤギの乳房にコップを当て乳を絞り始めた。コップ一杯になったところで、それをトシに差し出し、「どうぞ!」と言った。
 ヤギの乳を飲むのは初めてのことで、しかも絞りたてで、生臭く、それに生温かい味だったのをよく覚えている。
 おそらく奥さんの乳の出がよくなくて、ヤギの乳を赤ちゃんに飲ませていたのだろう。

 その先生が、トシが卒業した後で、念願のフルブライトの試験に合格したというのを聞いた。
 

 

 


" Japanese living in the Mid-West town " ( ある中西部の町に住む日本人たち )

2013-06-09 00:56:52 | マディソン

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 ( 1 )

 ( パーティにて )

 玄関のベルが鳴ったので、急いでドアを開けると、花束を持った男性が立っていた。
  "  Excuse me, but is this the house Dr.Morgan is living?  " (スイマセン、こちらはモーガン博士の家ですか?)
  "  Absolutely, yes.  "(そのとおりですが)

 その男性の英語の話し方から、それに容貌からも、どうも日本人ではないかという気がしたので、今度は日本語で、「日本の方ですか?」と尋ねた。
ニコッと笑って、「そうです」と彼は言った。
 「モーガン先生はいらっしゃいます?」 
 「いえ、それがまだ帰っていないのですよ!」
 「それでは、これを渡していただけますか」と花束を差し出した。どうも昨日の誕生日に渡し損ねた花束を今日改めて持ってきたものらしい。
 「お名前は?」と言うと、「カトウです。メモを一緒に添えていますから、わかると思います」と言った。

 モーガンさんのことを、トシは勝手にニックネームで呼んでいる。
 Nonno-Chan(ノンノちゃん)というのだが、本人の前で言ったことがないので、彼女は、あるいは知らないかもしれない。
 ごく親しい数人の人には、「ノンノちゃんは、今日どこに行ったの?」とか言っているので、だれかが、「あなたのことをノンノちゃんと言っている人がいるよ」みたいなことを耳にしているかもしれない。
 なぜノンノちゃんと呼ぶようになったのか、彼女を見ていて、その飄々とした風貌から、なんとなく日本の漫画に出てきそうな「ノンノちゃん」という名前を思い出してしまった。
 
 彼女は、研究所の副所長をしていて、かなり偉い人である。
 研究所には、日本の大学から派遣された数人の研究者がいて、ノーベル賞?を目指して頑張っているというのは聞いていた。
 もともとウイスコンシンには住んでいる日本人はあまりいないのだが、研究の目的でやってくる人たちはかなり多いのである。
 滞在期間は、1年と短い人も多くて、あるいは2年、3年滞在して帰国して行く人たちもいる。
 長くなると、もう居ついた感じで、何らかの職を得て、また地位を得て住み続ける人たちもいるのである。

 マディソンに住み着いた住人には、「フミさん」のような人もいる。
 若い時に希望をもって夫婦でやって来た。旦那が学業を成し遂げた後で日本に帰り、大学の先生になるという目的があった。
 奥さんは、ひたすら働きながら経済的にも旦那を支え続けた。
 当初の計画では、5年で博士号を取得するつもりだったが、日本で一流大学を出ていても、そんなに簡単に取れるわけがなかった。悪戦苦闘の年月が続いたのである。
 しかしめげず奥さんに励まされながら、何とか所期の目的を達成したときは、予定していた年月の2倍にもなっていたのである。
 日本での旦那の就職活動はうまくいかなかった。いつになっても具体的な見通しが立たないことが原因だったのか、夫婦の間がほころび始めて、結局旦那は日本にいて、奥さんと子供さんはアメリカにとどまり、日本とアメリカで別々に生活が長く続いた後で離婚に至ってしまった。
 旦那が日本に帰って、関西のほうの大学で職を得たのは、ずいぶん後になってからだった。
 奥さんは、日本に帰ることなくアメリカに踏みとどまり、一生をここで過ごし、癌に侵されながら人生を終えてしまった。
 彼女の異国での悲しい境遇を知っているだけに、亡くなったことを知らされた時には、トシ自身ショックで落ち込んでしまった。
 この前、マディソンに行ったとき、どうしてもフミさんに会いたくて帰国の前日会いに行ったが、体調が悪くて仕事に来ていなかった。

 マディソンの介護施設で90歳になるおばあさんが、誕生日のお祝いをしている動画を見た。
 このおばあさんに直接会ったことはないのだが、姉妹のお孫さんたちにはたびたび会っている。
 この方は、鹿児島からカリフォーニアに両親と移り住んできた移民である。
 若い時第2次世界大戦に遭遇して、日系人の例にもれず収容所に送られた。 

 

 


" Any difference between tornado and downburst ? " ( トルネードとダウンバーストの違いは? )

2013-06-02 07:27:49 | 懐かしい人たち

 



( マディソンにて )

 

 ( 2 )

 ミネソタ州のウインダムやウイスコンシン州のマディソンにいたころ、何度もトルネードに出会った。
 トルネードが襲ってくると、テレビは番組を中断して、臨時のトルネード情報を流していた。
 トルネード警報が発せられると、人通りがあっという間に人影がなくなり、走る車も途絶える。サイレンが鳴り、警察の車が間断なく走り回っている。
 人々は、家の地下室に逃げ込む。地下室のない家では、バスタブに身をひそめる。
 日本では考えられないくらいの物々しさである。
 テレビでは、今どのあたりを通過中だとか、逐一報道される。通過した町の被災状況などがライブでテレビに映る。

 トルネードは、大まかに言って、アメリカ中西部のミシシッピ川の流域に多く発生するといわれている。このあたりは、Tornado Alley (トルネードの通り道)と言われる。
 トルネードは、上空の積乱雲が地上の空気を吸い上げる上昇気流のことで、渦を巻きながら立ち上がっている。強い上昇気流が、ときには牧場の牛なども吸い上げることがあるようで、中心から500メートル離れたところに牛が降ってきたという新聞記事を読んだことがある。あるいは、トルネードが通過した後で、乾燥した砂漠に大量の魚が降ってきたという記事も新聞で読んだ。ちょっと信じられない話である。

 初めてトルネードを見たのは、モンタナの大草原を妻と車を走らせていた時だった。
 今まで晴れていた空が、だんだんと暗くなり、暗雲が垂れこんできて、一面不気味な空模様になってきた。すると前方に地面から空高く、渦巻く円柱のような雲が現れたのである。
 最初は小さかった渦がだんだん大きくなっていった。地平線の上を横向きにうごめいていると思ったら、今度は、こちらに方向を変えた。砂塵や草木などを巻き込み吸い上げて揺れ動くのが見えた。「オズの魔法使い」に出てきたあの風景である。
 
 思わず道路わきに車を止め、車外に出た。
 急いでぺンタックスを取り出し、竜巻の写真をとりまくったのである。
 本当は、すぐさま橋の下などの安全なところに逃げ込むべきだったが、その時は、そんなに怖いものだとは知らず、面白半分に巨大な竜巻を見ながら興奮していたのである。

 藤田さんを初めて見たのは、ミネソタでテレビを見ている時に彼が出てきた。
 実は、もう一度ニュース番組に彼が出ていたのを見たことがある。
 その後数十年経ってから、本物の彼から話を伺う機会があったのである。
 ダウンバーストと航空機事故の研究が認められて、有名になっていた。そのためか、彼は政府機関お墨付きで、どの飛行機に乗ってもいいことになっていて、しかもパイロットの横のコクピットに乗ることが認められていたのである。
 
 「飛行機に乗っても、私はすぐコクピットに移動するので、女房だけが客席に座っていました」と笑いながら話してくれた。
 機長と話しながら、貴重な体験談などを聞いていたようで、これも研究の資料として役立ったとのことである。
 プロペラの小型機から、大型のジャンボ機に至るまで、さまざまな飛行機のコクピットを体験したようである。
 彼の話で面白いと思ったのは、当時アメリカとイギリス間を超音速で飛んでいたコンコルドに何度も乗ったようで、暗闇の成層圏を突っ切ってあっという間のイギリスにつく様子など珍しい話も聞いた。

 

 藤田さんは、北九州市小倉の生まれである。
 東京大学で「台風の研究」で博士号を取得した後、九州工業大学で教えていた。その後、アメリカのシカゴ大学に移り、研究員として、トルネードの研究に励んだ。
 実は、トシが出た高校で、彼の弟さんが教師として数学を教えていたのである。何かの因縁だろうか。