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パーティで、その家の女主人と話していたら、
" My husband is always ' mobile ' . I seldom see him. " ( 私の夫は ' mobile ' だから、なかなか会えないのよ! )と言っていた。
一瞬なんのことかわからないでいると、つまりはこうゆうことだ。
ご主人は、会社の出張で自国のアメリカだけでなく世界中を飛び回っていて、家にいるより出張している日のほうが多いことのようだった。
' mobile ' ( モバイル )の意味は、動き回る、と言うことなのである。
自分の今が何となくそのような状況にいる気がしてならない。
もとより現役を引退しているから仕事で飛び回ることはない。いわば自分の意志で勝手に動き回っているだけだ。とにかく家にいることのほうが少ないのだ。
今年に入ってから、東京に1度、大阪に2度、沖縄に2度、海外の台湾に2度、香港に1度と、ほとんど家にいる暇がないくらい出続けたのである。
まず年初めに大阪に行った。ちょうど寒い日が続いていたころで、滞在中は終日外を動き回ったが、街を行く人たちも首をすぼめて寒そうに歩いていた。
京橋から歩いて大阪城を通り、森ノ宮から上本町を経て「なんばウオーク」を通り難波まで、凍てつくような寒さの中を歩いた。
大阪城公園を歩いていたら、道端の茂みから、かすかに「ニャーオ」と言う声が聞こえた。可愛い声だったので、子猫が潜んでいるのかなあと近寄ってみると、子猫ではなく、丸々と太った泥だらけの猫が遠慮しながら出てきた。
野良猫のようだが、恐れる風もなく、懐っこく、手を差し出すと舐めてきた。撫でてやると自分から体を転がして、腹を上にしてじゃれていた。
「どこでご飯を食べているの?」「夜は寒くないのかなあ。こんなところに寝て大丈夫なの?」と話しかけていると、喉をグーグー鳴らして汚い体をこすりつけてきた。
すぐに立ち去るのが忍びなくて、しばらく座り込んでネコの相手をした。
あの猫は今どうしているかなあ、今度行ったら会えるかなあなどと、あの時のことを思い出している。
家に帰るやすぐ東京に行った。
日暮里にホテルをとっていたので、成田から便利な京成電車を利用した。ホテルの近くは、古い時代には「布の町」として栄えたところで、今でも布や皮製品の問屋がたくさんある。
日暮里駅を反対側に少し上ると「谷中ぎんざ」がある。昔風の和菓子屋、洋食屋、雑貨店やコーヒーショップなどが雑多に軒を連ねているところだ。そんな雰囲気を求めて観光客、それに外国からやってくる観光客などで賑わっている。
細々した道が入り組んだところで、それでも外人さんにやたら出会うのは、おそらく英語で書かれたガイドブックに紹介されているのだろう。
朝倉文夫の家を探して、どうも見つからないので、やってきた女子中学生二人組に尋ねると、わざわざ一緒についてきてくれた。親切な人がいてありがたい。
この辺りは、弟が学生時代に下宿をしていたところだが、すっかり変わってしまって、かつての家は無くなりどのあたりか思い出せないほどだと言っていた。
森鴎外、岡倉天心、夏目漱石、幸田露伴、わが故郷の出身で、漱石の弟子、「三四郎」のモデルにもなった小宮豊隆などの旧居を訪ねた。近くに東京芸術大学もあり、かつては小宮豊隆はそこで学長をしていた。
またすぐに大阪に行った。
今度は、春の温和な天気で、外を歩くのも心地よかった。大阪駅から歩き始めて、淀屋橋、御堂筋、アメリカ村を通って難波にたどり着いた。
数年前、成田からミネアポリスまで12時間のフライトで、所謂「エコノミークラス・シンドローム」に罹り、ミネアポリスに着いた時は、足が硬直して、しゃがみ込んでしまって一歩も動けないほどだった。
ウイスコンシン大学の医学部の先生が、
" It must be Spinal Stenosis. I'll take care. " ( それは脊椎菅狭窄症ですよ。手術をしてあげましょうか )と言ってくれたが、こんなところで入院してしまうと、まるで動きが取れなくて何のためここまで来たのかと言う気がして断った。
結局日本に帰って、同じ職場の同僚のお兄さんが、その道の権威だったこともあり診てもらったのである。
すぐに総合病院の副院長している教え子に電話して段取りをしてくれたのである。おかげで手術後は、全く元のようではないにしても、動けるようになった。
その後は、スポーツジムに通っているし、できるだけ歩くことにしている。