マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Go on board, can I ? " ( 乗れますか? )

2014-02-23 16:09:20 | アパラチアン山脈

 

(13)

 

 グレッグは、ポルシェを持ってはいるが、特別に車好きというわけでもない。学生のころは、中古のフォルクスワーゲンに乗っていたが、それも処分して、長い間車を持っていなかった。
 ニューヨークにいると、特に車を必要としない。地下鉄やバスに乗れば、どこにでも行けるし、車がないほうが便利だった。
 
 故郷のジョージアに帰った時、母親とアトランタに買い物に行った。
 偶々ポルシェの販売店の前を通りかかり、ウインドウ越しに展示された車に魅かれて中に入っていった。その日は、母親の買い物についていっただけで、車を買う気などなかったのである。
 もともとグレッグの実家は金持ちで、何かと当たり前のように高いものを買ってしまう傾向があるようだった。 

 急に母親から車を買うように勧められて戸惑ってしまったのである。買うにしても、普通のセダンでいいと思っていたが、 
 "  This one is a very good match for you!  " ( この車がお似合いよ! )と言った母親の口車に乗って、月割り払いで買ってしまった。所謂衝動買いである。こんな高いものを、と思ってもみたが、乗ってみて気に入らないようなら、いつでも売れるという気持があった。

 ポルシェに乗ってニューヨークに帰ってきたが、道が渋滞したり、駐車場の問題もあって、あまり車を利用できない。車を所有すること自体、ちょっと重荷に感じる時があった。
 休日にニューヨーク郊外のショッピングセンターに行ったり、ちょっとしたデートで車に乗ったり、気晴らしに高速道路を飛ばしたりすることはあっても、メカに詳しいわけでもなく、愛着を持って車を大事にしているわけでもないもである。
 通勤は、ほとんど地下鉄で通っていて、車を利用することはまれである。
 故郷のジョージアに里帰りするときなど、一気に風を切りながら走るのは爽快だが、もう売ってしまおうかなどとも考えたことがる。
 
 とは言いながら、この度の休暇旅行で乗ってみて、この車の爽快な走りがすっかり気に入ってしまった。
 素人でも、その運転性能がいいのは実感できた。曲がりくねった道も、坂道も、乗っている人の気持ちを考えてくれているように自由に走る。車を走らせながら、周りの風景がまるで映画館の大型スクリーンを見ているように体感できて、心地がいいのだ。

 ニューヨークを出て、ひたすら北に向かっていたと思っていたが、どの道をどのように走ったのか覚えていなかった。全く無計画だったのである。
 高速道だけは走りたくないと思っていた。目的地にどんなに早くついても無意味だった。
 それも目的地があればの話だが、どこに行くのかあてはなかったのである。この行き当たりばったりの旅行が気に入っていたのである。
 小さな町に寄って、ツーリストインフォメーションでイラスト入りの地図などもらって、ちょっとした観光地に立ち寄るのもいいものだ。
 ただ海岸沿い道路を北上したいと思った当初の思いもあったが、道に迷って山道に入り込み、アパラチアン山脈のすそ野の小さな町に立ち寄ったりもした。
 ジムと話ができたのは、得難い体験だった。 
 湖のほとりの「ツーリスト・ホーム」にも泊まった。言ってみれば民宿で、いかにも田舎を感じさせる木造の家だった。
 その日はどうゆうわけか泊り客が少なくて、宿の女主人が話し相手になってくれた。
 ボートに乗ったり、薪ストーブの前で食事をしたりと楽しいことばかりだ。ニューヨークでは考えられないほどの静寂、落ち着きを楽しんだ。

 次の日には、ようやく海岸に出た。海のうねり、点在する島々が目の前に展開していた。突然家々が集中する港町に出たのである。広場の向こうには、海産物の店が並んでた。
 どこに行くのか、フェリーボートがまさに出港するところだった。引き綱を外そうとしていた作業員に、
 "  Go on board, can I ?  " ( 乗れますか?)と訊くと、
 "  Sure, you're the last man.  " ( いいですとも、あなたが最後のお客ですよ! )と言った。


" A life-changing experience " ( 人生が変わるような体験 )

2014-02-18 13:38:31 | アパラチアン山脈

 

( 12 )

 

 グレッグは、思いがけず山中の町のレストランでジムと出会った。
 グレッグとジムは、お互い生活環境も経歴も全く異なっていて、普通ではおそらく知り合いになるなどない人だったのである。
 グレッグの方は、医者として、特になにか問題も抱えているわけではなかったが、臨床医として数年を過ごして、毎日同じ仕事の繰り返しで、これでいいのかなあという気持ちを持っていた。
 安易に年月が過ぎるだけのように思えて、もっと何かを「成し遂げたい」という気持ちが芽生えていた。
 休暇を申請した理由は、ニューヨークでのあくせくした生活から、ひと時でも抜け出し、自分の今後のことを考えたかったのである。 
 
 一方ジムは、がむしゃらに仕事に励んでいたが、ある日突然クビを言い渡された。晴天の霹靂だった。
 会社の経営がうまくいっていないのは知っていた。しかしそのような時こそ彼の能力が必要だと会社が認識しているはずだと思っていたのである。
 こともあろうにクビを言い渡されたときは、最初は何かの間違いではと思ったが、その後では茫然自失で、自分を見失ってしまったのである。
 大学の時、将来進むべき専門分野を決めて、ひたすら邁進して培ってきたことがもろくも崩れたのである。
 会社ではいくつもプロジェクトを成功させ、研究チームを率いて、すでに重要な地位にいたからまさかという気持ちだった。
 すっかり自信を無くし、生活は荒れ、今後の身の振り方など考える気力もなく、それこそ何をしていいのかわからなくなっていた。
 周りの人たちにも辛く当たり、家族も巻き込み、悪影響を与え始めた。そのような彼を奥さんは、距離を置いて眺めるだけだった。
 これではいけないと自分に言い聞かせ、取り敢えずは家を出ることにしたのである。
 
 彼も自分を今一度見つめ直し、再出発を図りたい気持ちでいた。
 そのようなとき、友人の話からアパラチアン・トレイルのことを知った。とにかく歩いてみよう気になり、歩くことで、世間から離れて自省できるかもしれないと思ったようだ。
 ジム自身、アパラチアン・トレイルというのがなにかも知らなかった。とにかく家を出たい気持ちだったのである。奥さんも、最初は難色を示していたが、結局は納得して、夫を車でボストンの自宅からメイン州のトレイルの入口まで送ってくれた。
 
 グレッグとジムは、結局2時間半近く話し込んでしまった。
 グレッグにとって、人生の中で、最も充実した内容のある2時間半だった。
 ニューヨークで、毎日変わらずスーツを着て病院に出勤して、同僚の医者、病院職員と会話を交わし、患者たちと対座し、仕事をこなし、時にパーティに呼ばれても、変わらないメンバーばかりで、それを当たり前のように楽しんでいたのである。

 ジムの話に引き込まれる自分を感じていた。これは単なる山登りではないとジムは言った。
 まるで予測していなかったことだが、 "  It's really a life-changing experience.  " ( 本当に人生を変えるような体験だった )    
  "  It really makes you look at the world differently. " ( 世の中を見る目が変わってくるのです )    "  It takes a lot, but it's worth everyday and every step.  " ( とてもきついですが、毎日毎日、そして一歩一歩が価値があります )と言った彼の言葉は印象的だった。

 グレッグの日常では体験できない何かだった。
 思い切って2週間の休暇を取りニューヨークを離れたことは正解だったと確信したのである。
 同僚たちは、休暇をとると決まってカリブ海のリゾートアイランドに行って羽を伸ばした。帰ってきては、日焼けした顔で嬉しそうに、青い海がどんなに素晴らしかったか、ビーチでキュラソーを飲んだ時の夢心地を語ってくれた。
  おそらく同僚たちは、グレッグが、カリブで過ごしただろう体験を語るのを期待するだろう。
  事実は、グレッグはカリブには行っていないのだ。


" Ging-ko tree " ( 銀杏の木 )

2014-02-12 18:12:52 | アパラチアン山脈

 

(11)

 

 

 " We'll hold Ging-ko Matsuri on next Saturday.  Are you free on that day?  " (土曜日にギンコ祭りをするのだけど、あなたはひま?)とバイテル夫人から電話がかかってきた。
 「ギンコ・マツリ」とは、一体なんだ?
  "  What's the ging-ko about ?  " (ギンコって何?)
  "  Oh! You don't know ?  It's a tree, perhaps you see it in Japan.  " (知らないの?木のことだけど、日本にあると思うけど ) 
 
 「ペンステイト」(Penn State:ペンシルバニア州立大学)には、当時日本人はほとんどいなくて、トシが知る限り、神戸大学、東北大学、それに京都大学から来た人たちがいたきりだった。皆さんが家族連れで来ていて、大学の宿舎に住んでいた。
 
 僅かだが、ペンスステイトには、日本に関心を持つアメリカ人たちがいた。
 日本や日本文化に関心を持つ人たちで、その中には、「禅と陶芸」(Zen and the Art of Pottery)というような専門書を著し、全米的に知られたバイテル教授のような人もいた。
 バイテル教授は、日本によく行っていて、日本の高名な陶芸家や棟方志功とも親交があった。特に九州の有田にはかかわりが深いようで、当時の佐賀県知事池田直さんから「名誉県民」の称号を与えられた。
 ビジネスで東京に住んでいた人、日本の大学に招かれ教えていた人などもいて、これらの人たちは、所謂知日家というか親日家の人たちで、ペンステイトの中に小さなグループ「ジャパンソサイエティ」(Japan Society)というのを作って、お互い交流していた。
 手作りの情報誌を作って、お互いの近況を知らせあうことなどしていたし、時に皆さんで車を連ねてニューヨークに寿司を食べに行くこともあった。
 パーティもよくしていて、家族や子供たちまでやってきて楽しんでいた。
 パーティには、メンバーの人たちだけが呼ばれるというわけではなく、彼らの友人、知人、家族、子供まで自由にやってくるといった感じだった。 
 
 「ギンコ祭り」も彼らの活動の一つのようだった。
 ギンコ(ging-ko)というのは、銀杏(イチョウ)の木のことで、アパラチアンの樹海のちょっと奥深いところに、だれかが日本でよく見た銀杏の木があるのを見つけたようだった。
 一本だけ空に向かってそびえるように立ち上がったこの木が、何か日本を思い出させるものがあったのだろう。それからこの木の下に集まってパーティをするようになったということだ。

 樹海の中の曲がりくねったダートロードを進むと、急に開けた草地が現れた。
 公園みたいになっていて、その先には湖があり、はるか遠くにアパラチアンの連山が見えた。
 車で行けるのは、この公園まででその先には道がなかった。ベンチがあったり、バーベキュー跡があるのを見ると、時に人々が訪れ、ここでパーティなど開いているのだろうか。
 葉っぱが緑に茂るころ、ジャパンソサイエティの人たちが集まり、木の下でパーティをするようになったということである。
 
 トシも、そのギンコパーティに招ばれた。
 行ってみると、ペンステイトの先生たち、家族の人たち、子供たち、それに知り合い、友人たちがおよそ30人くらいが集まっていた。
 ポトラックパーティ(potluck:持ち寄りパーティ)で、それぞれの人が持ち寄った飲み物、料理、ケーキなどをテーブルに広げて、お喋りしながら、ビールやジュースを飲んだり食べたりしていた。
 
 驚いたことに、何処から来たのか和服姿の日本人女性が来ていて、シートの上にお茶会の用意を始めたのである。
 アメリカ人たちも、彼女の周囲に正座して、お茶碗を渡され、静かにたしなむように抹茶を口にしていた。まるで日本で見るお茶会だった。
 おそらく茶会は初めての体験ではなく、以前に何度もやっていたのだろう。別に戸惑うこともなく作法をわきまえた様子で、にこやかに会話をしながら茶会はごくスムースに行われていたのである。
 
 バイテル夫人から電話があった時、「ギンコ」ときいて、はて何のことだろうといぶかしく思った。
 辞書を引いてみると確かに英語で、Ging-ko というのがあって、日本の銀杏のことだと初めて知った。
 銀杏の木は、日本ではなじみの木である。秋になると実った銀杏の実が、あちこちに落ちて散らばっていたのをよく拾いに行ったことがある。

 


" Ramen noodles are so popular " ( ラーメンが人気がある )

2014-02-07 14:06:46 | アパラチアン山脈

 

(10)

 

 

 

 ペンシルバニアにいた時、週末を利用して、仲間とゲティスバーグに行ったことがある。
 南北戦争の雌雄を決した熾烈な戦いがあったところである。リンカーン大統領があの有名な演説をしたところでもある。
 帰りに、ランカスター近くのアーミッシュ・ビレッジに立ち寄った。今の世の中にあって、電気もない、車もない生活をしている人たちが住んでいるところだ。
 ハリソン・フォードが出た映画、「刑事ジョン・ブック:目撃者」では、アーミッシュのことがくわしく描かれていたから思い出す人も多いだろう。
 ペンシルバニア州の州都であるハリスバーグは、サスケハナリバーのそばのきれいな街で、ここには、あのチョコレートで有名なハーシーの本社がある。
 ここに立ち寄り、さらに山越えでルイスタウンを通過した辺りの小さな町で、多くの登山の服装をした人たちに出会った。
 今から思えば、あの人たちが、アパラチアントレイルを歩いていた人たちなんだなと思い当たる。
 おそらく、あの町が、所謂「サプライタウン」( Supply Town )だったのではないだろうか。
 
 「サプライタウン」(Supply Town)と言ったり、「リサプライタウン」(Resupply Town)あるいは「トレイルタウン」( Trail Town)と言ったりするが、文字通りトレッキングをする人たちが、一時山を下りてきて、一泊、二泊して体を休めたり、これから必要な物資の補給をしたりする町なのである。
 街も、これらの人たちを受け入れるように出来ていて、ホテル、ホステル、モーテルなどが散らばっている。
 ハイカーたちは、どれかに泊まって、骨を休め、シャワーや風呂で、元のきれいな体をとり戻し元気になる。
 そして衣類などの洗濯をしたり、消耗品や食料品を買いだめしたりする。
 時には、家族がやってきて、久しぶりの会合を楽しんだりするのである。
 ハイカーたちは、休まった心と体で、再び山に帰っていく。

 彼らが担いでいるリュックサックには、テント、シーツ、寝袋、コンロなどが入っているので、そのほかのものをあまり多くは担げない。
 衣類と食料品は必須である。食料品など、せいぜい一週間分か二週間分ぐらいしか運べないのである。ビーフジャーキー、ソーセージなどのすぐにたべれるもの、レトルト食品、そして意外に彼らが好むのが、ラーメンで、" Japanese ramen noodles are so popular  " ( 日本のラーメンが非常に人気がある )ようなのだ。おそらく即席でアルコールコンロで作ることができるというのが便利なのだろう。
 
 サプライタウンで、物資や食料品を補給することになるが、ちょうどいい具合に町に行きあたるとは限らない。そこで、彼らには、いろんな物資を予め、ある距離を居いて送っておくという方法があるのである。
 これは、到着するであろう街の郵便局やホテルに前もって自分あての荷物を送る方法である。この方法が、可能で便利なため、多くのハイカーたちが利用している。

  "  Many thru-hikers set up a series of maildrops, sending packages to themselves in predetermined towns along the route.  "
  ( 多くのスルーハイカーたちは、次々に郵便物の受け取り場所を決めていて、トレイル沿いの予め決めておいた町に自分あての荷物を送ったりする )

 ちょっと前の時代では、急病にかかったり崖から落ちたりして傷を負った人、寒さで身動きできなくなった人が、助けを呼べなくて、最悪死んでしまったりしていたようだ。
 最近は、「セルフォン」( cell phone:携帯電話 )の時代で、誰かが救急の手配をしてくれたりで、救急車は来ないが、ヘリコプターがやってきて迅速に対応してくれるとのことである。
 山歩きにも、最新の科学が影響しているようだ。