マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

マスイ教授

2009-12-31 09:50:42 | 日記

  マスイさんは、日本人だが、アメリカ滞在歴は、すでに30年にもなるということだった。多くのパブリケーション、学会発表の実績をもっているが、アメリカ人といってもいいくらいに、発表はすべて英語である。英文の書きかけの論文など読ませてもらったことがあるが、見事な格調高い文章で感心したものである。
 対して、日本語の論文などは、返って不自由するみたいで、
 「おい!トシ、ちょっと読んでみてくれんか」
 「こんな表現で大丈夫か?」などと尋ねることがある。
 
 彼は、東洋図書館の館長をしていて、ハワイの図書館界では、いわゆる、「顔]で広く知られている。図書館の会合などに呼ばれて講演をしたり、お話をしたりしているから、関係者は当然彼を知っているはずだ。
 シャーロットも彼の存在は知っていてもおかしくはないが、彼がトシの知り合いだということはどこで知ったのだろうか。第一、トシは、シャーロットと懇意にお話をしたことは、今まで一度もないから、このことをトシの方から話題にすることはあり得ない。

 マスイさんからの電話によると、最近、ハワイ図書館学会の会合があって、その後のパーティで、シャーロットがマスイさんのところに挨拶にきて、
 「あなたの友人のミスター・ヤマダは、私どもの近所に住んでいて、娘がよくお世話になっているのですよ」と言ったようだ。
 というようなことで、先日、「お前、シャーロット・サマーフィールドを知っているのか?」と話のついでに、思い出したように言ったのである。

 マスイさんを知るようになったきっかけが面白い。
 研究資料を探していて、なかなか思うようにいかなくて、たまたま、近くにいたジャクソン教授に相談したら、
 考え込むような仕草で、
 「そうだ!ドクター・マスイなら、助けてくれるかもしれないよ」と言った。
 「ドクター・マスイに電話をしてあげるから、訪ねて行ったら?」
 ジャクソン教授の計らいで、トシは、ハミルトンの5階にある彼のオフィスを訪ねて行った。
 ここぞと思えるオフィスに入っていき、奥まったところにあるデスクに座っていたいかにも、学者らしい人に、
 「ジャクソン博士からの紹介できましたヤマダと申します。実は、研究資料のことで困っていて、ぜひ、助けていただきたいと思いまして」と告げて、一応説明が終わったところで、
 隣の部屋にいた秘書を呼び、
 「この方の手伝いをしてくれませんか」と言ってくれた。
 
 この秘書は、いかにも有能な人で、見事に、目指す資料を探し出し、ファイルに纏めてくれたり、コピーを取ってくれたりで、大助かりであった。
 秘書と館長に心からの感謝の気持ちを伝えて帰ってきた。

 オフィスに帰ってから、ジャクソン教授に、「おかげで、助かったよ、どうもありがとう」などと言っていたのだが、ふと思いついて、
 「ジャクソンさん、彼は、日本人ですよね?」
 「そうだよ」
 「おかしいなあ、館長と話している間、一度も日本語を使ったりしなかったよ」
 「だって、そうだろう、彼は、もう長い間、アメリカにいるのだし、ひょっとすると、日本語より英語の方が得意かもしれないよ」
 「それでも、今日会った人は、完璧なアメリカ英語だったし」
 「ふに落ちないのなら、ちょっと待って!」「もう一度電話をしてみるから」
 それから、電話をかけたジャクソンさんは、ニタッと笑って、
 「待っていたけど、まだ来てないのだと言っているよ」
 何と間違った人のところに行ってしまったのだ。

 

 

 

 


エマーソン通り926番地の1617

2009-12-30 19:00:33 | 日記

 トシが、以前、「マディは、ずっとここに住んでいるの?」と聞いたことがある。
 「ずっと、ではないよ」
 「前は、エマーソン通に住んでいたの]
 「926番地の1617だよ」
 「また、よく覚えているね」
 「ママが、迷子になったとき、ちゃんと言えるように覚えておきなさいと言われていたから」
 「1617いうことは、16階に住んでいたということ?」
 「なんか、30階建か、40階建ぐらいのアパートだったよ」
 「高いところだったから、アラモアナも見えたし、海にヨットが走るのも見えたよ」
 「どうして、ここ移ってきたの?」
 「わからないけど、ダディもいなくなったし」
 「そう、ママが、小学校に入るので、新しい土地がいいだろうって」
 
 パパとママは、マディが生まれて数年後に離婚したらしいが、プライベートなことでもあるし、余り立ち入った事は聞いていない。何があって、どういう理由で二人が別れてしまったのかについては、マディ自身、幼いころのことでもあるから、あまり知らないのではないかと思う。とにかく、パパは、シカゴに帰ってしまったし、ママとマディは母子家庭になってしまった。

 今まで、トシは、ママとちゃんと話をしたことがない。マディが、毎日のように、トシの家にやってくるというのを、ひょっとして心配しているのではないだろうか、などと思ってみたりもするが。
 マディがトシの家に行くのを、よくない、と思うのだったら、
 「もう、行くのをよしなさい」とマディにいえば済むことだし、悪いのなら来ないようになるだろうとトシの方も気にしないことにしている。

 一度、スパーマーケットで、偶然、出会ったことがある。トシの方は気付かなかったが、マディが「トシだ!」と大声を出した。
 ママは、こちらを見てニコッと微笑みながら「ハロー、ミスター・ヤマダ!」と言った。
 「買い物ですか?]
 「ハイ!、そうなんです」と言ったきり、何かどぎまぎしてしまって、後が続かなかった。

 後日、友達のマスイ教授が、「トシ、おまえ、シャーロット・サマーフィールドを知っているのか?」というから、
 「知っているといえば知っているかなあ」などとごまかしたら、
 「彼女、おまえのことをよく知っていると言っていたぞ!ミスター・ヤマダには、娘がしょっちゅうお世話になっているからだと」

 


ボブ・グリーン

2009-12-29 17:33:51 | 日記

 あの有名なジャーナリスト、ボブ・グリーンについては、トシも好きでよく読んだ。彼は、長い間、シカゴトリビューン紙で自分のコラムを書き続けていて、アメリカでかなり知られた存在だったし、彼を支持する人たちも多かった。 

 確かに、時として、人を食ったようにというか、軽妙洒脱な彼の文章は小気味がいい。文章表現がうまいからという理由からでなく、彼の描く世界が独特の雰囲気をもっていて、それが人々を魅了するようだった。懐古的で、感傷的で、時として哀感があったが、それを彼の欠点と見る人たちもいた。
 第二次大戦が終わった後の、1950年代から60年代の「アメリカのよき時代」を彷彿させるような、それも、中西部の、長閑で落ち着いた田舎の思い出というか、それらを懐かしむような雰囲気を思い起こさせるものであった。彼の文体も、中西部の、ゆったりした、たゆまない、ゆとりのあるものだったが、ちょっと、方言臭い書きっぷりが何ともたまらない魅力があった。

 彼が、描く対象は、あくまで、人間そのもので、時に、大統領であったり、また、最下層の人たちであったりする。有名な映画のスター、スポーツのセレブリティであったりするが、そのような有名人であっても、持ち上げるでもなく、ことさらけなすわけでもない。ひたすら、その人物の「今」がどのようにしてできてきたのかに興味を持ったのだろう。たゆまない人間に対する好奇心といったものが感じられ、読む人々に共感を持たせているように思うのである。
 
 気難しいニクソン元大統領にインタビューをした時、いつも姿勢を正している大統領に、ボブ・グリーンは、このような生き方では、本人も「疲れてしまう」のではと思ってしまう。たとえ、そうであっても、それ以外のやり方は、ニクソンにはないのだということが、彼のインタビューで分かった気がする。
 「釣りに行く時も、スーツを着ていきます」の答えで、ニクソンの人柄が浮かび出てくる感じがしたものである。
 
 空港で、悪天候のために、飛行機が飛び発てないでいたとき、近くのバーで飲んでいたら、ちょうど、その日がクリスマスで、一人ぼっちの、家族のいないホームレスと間違われて、救世軍から七面鳥の施しを受ける話しなど、いかにもボブ・グリーンらしい話だ。

 放課後、毎日母親の車で、少年野球の練習にで駆けつける少年の話があった。泥んこになって練習に励む少年だが、いざ、試合になると控えにまわって、選手として出場することはない。ベンチから仲間の選手を励ますことに徹している。しかし、一言の愚痴も言わず、一生懸命に練習する子供を母親はどんな気持で観覧席から眺めていただろう。めげることなく、人一倍頑張る少年だが、一軍に上がれない。それでも毎日毎日、努力を続けた。
  息子は、愚痴を言わない、母親も辛抱強くそんな息子を温かく見守りつづけた。
 ある時、息子が「ママ、ぼく、もう野球やめるよ」と言った。
 母親は、長い間その言葉を待っていたかのように、張りつめた気持ちが和らぐのを感じた。恐らく、これを読んでいた人たちも、「ああ、良かった」と安堵しただろう。

 空港で出発待ちの時間に、バーで飲んでいて、横に座っていた女性と会話をする。と突然その女性が、「私、癌なの」という。
 咄嗟のことで、どのように対応していいのかわからない。この人の余命はあとわずかなのだと思ってしまうが、慰めていいのか、元気づけたらいいのか、素直な気持ちを表現できないままで別れてしまった。
 ずっと後になって、電話番号をもらっていたことを思い出した。
 恐る恐る、思い切って電話をかけて見た。その後、彼女はどうなってしまったのだろうか。不謹慎だが、彼女の命は悲観的にしか考えられなかった。
 彼女以外の誰かが電話口に出たと思った。しかし、繋がった電話の向こうで、
 「ハロー?」と答えた声は、まさに彼女の明るい声だった。
 その時の彼の安堵した気持ちは、読む人たちのほっとする気持ちと重なるようだった。

 24年ぐらい勤めたシカゴトリビューンを辞めてから、彼は、ABCの「ナイトライン」という報道番組で解説者になった。その時、写真以外で初めて、彼の姿を見た。確か、サントリーか何かのコマーシャルで、日本でもお目見えしたと思うのだが、確かな記憶でないので、間違っているかもしれない。

 チャールズは、高校時代に、彼の著作を読み、彼のコラムを読んで彼に憧れた。将来は、彼のように署名入りのコラムを書きたいと思ったのである。進路を迷わず決めてしまった。彼の出身大学であるノースウエスタン大学に入った。ボブ・グリーンと同じようにジャーナリズムを専攻した。

 

 

 

 


チャールズの特ダネ

2009-12-27 17:08:26 | 日記

  チャールズは、上司からシカゴ・ホワイトソックスの記事を書いてみないかと言われたことがある。何を記事にするか、見当もつかないまま、とりあえず、若いカメラマンを伴ってホワイトソックスの本拠地のボールパークに出かけた。
 彼は、いわゆる、各紙が持っている専用記者席の資格がないので、ダッグアウトの上からの観戦となった。記事を書くといっても、その日の試合結果を記事にするのではない。ホワイトソックスの何かを特ダネとして記事にするということで、何を書くか、何をスクープするのかは、チャールズの腕次第ということであった。しかし、彼は、ベテランのスポーツ記者でもなし、個人的に選手を知っているわけでもなし、甚だ取材する立場は頼りなかったのである。
 一応、心に秘めていたのは、今年マイナーから上がって来て、一軍に定着しつつある有望な若手を取材したいと思っていた。その選手の、ハイスクール時代からメジャーリーグに至る軌跡を追ってみたいと、それを記事にできないかと考えていたのである。

 ところが、この日の試合で、ホワイトソックスの5番の強打者が、9回に逆転のスリーランを打ってボールパーク全体が大騒ぎで、湧きかえってしまった。チャールズ自身もホワイトソックスのファンであるから、取材そっちのけで、かなり興奮状態であった。
 ダッグアウトの真上で、その日のヒーローがスポーツ記者に囲まれてインタビューを受けていて、声高な一言一言が聞こえてきたからたまらず、その輪の中に加わりたいと、咄嗟にカメラマンに合図して、二人でダッグアウトの上からグラウンドに飛び降りてしまった。
 「ドサッ!!」という大きな音とともに、
 「アッ!イテェ!」という彼の大声が響き渡った。
 何事かと、みんなは、一斉に振り向いた。
 それから、件の選手が、輪の中から近づいてきて、
 「キミ!大丈夫?」とあきれ顔で声をかけた。
 足を挫いたかもしれないと思いながらも、渾身の力を振り絞って、
 「ジュリエットヘラルドのチャーリーです」「彼も、同じ社のフォトグラファーのディックです」と顔をしかめながら自己紹介をした。
 そして、必死の気持ちで、
 「お願いです!ジュリエットのあなたとホワイトソックスのファンに、今のあなたのハッピー気持ちを伝えたいのです!」と言ってしまった。
 「ジュリエットのみなさん!いつも応援してくださってありがとう!今日は、本当にラッキーでした。チームのためにいい仕事ができたと思います。これからも応援してくださいね!ジュリエットの皆さんに神の加護を!」と言ってくれたのである。
 

 ディックは、その選手の周りに誰もいなくて、チャールズと二人だけで対談しているような写真を何枚か撮るのに成功した。
 次の日のジュリエットヘラルドトリビューンには、その選手とチャールズが、向き合った写真が思い切り大きく載った。
 それも、スポーツ欄にではなく、一面の「今日のヘッドライン」に載ったのである。この記事が、かなりの注目を引き付けるのは間違いなかった。

 チャールズはといえば、始終ニコニコ誇らしげな顔をみんなにふりまき、冷やかされていた。新聞記者として、何か、至福の瞬間をかみしめる心地であった。


ローカルの新聞社

2009-12-25 17:35:07 | 日記
 トシが、ミネソタの人口6,000人ほどの町にいた時、何度か、その町に唯一ある日刊紙に取材されたことがある。ある時、馴染みになったその社の記者が、何かのついでに、
 「うちの新聞社に寄ってみません?」と言った。
 もちろん、興味があったので、
 「行ってみたいです」と返事をしたら、彼女のステーションワゴンで、オフィスまで連れて行ってくれた。
 商工会議所の建物の中にある二部屋のオフィスが新聞社だということだった。びっくりしたのは、もっと立派なところ、それも大きいところを想像していただけにがっかりしてしまった。
 片一方の部屋には、机がいくつかあったように思う。当時は、パソコンなどない時代だったので、タイプライターが数台のっていた。隣の部屋には、輪転機など機械が、雑然と込み合っているといった感じだった。
 それに、働いている人の数が全部で4人で、取材、編集、印刷、配達などすべてこなしているということだった。そんなに少ない人数でやっていけるのだろうかと、驚いた記憶がある。
 日刊紙だから、月曜から金曜まで毎日発行をしているわけで、まさに超人的としか思われなかった。
 取材は、その中年の女性記者が、一人で、首にヤシカの一眼レフカメラをぶら下げ、ステーションワゴンを運転して飛びまわっていた。
 主だった政治や経済の記事は、どうも、通信社や大手の新聞社から配信されるものをそのまま利用しているようで、彼女は、もっぱら、ローカルの取材に徹しているとのことであった。
 しかし、見た感じ、やはり大変だろうことは想像できた。市長をはじめ、町の主だった人のインタビュー、農場に出かけて作物の生育状況、日課に警察署回り、学校訪問、など聞いただけでも大変な仕事量に感じた。彼女は、別に苦にする風もなく、むしろ、楽しみながら仕事をこなしているように見えた。
 午後3時ぐらいに出来上がった新聞を男性が車で町の決められたあちこちの場所に運び、束ねた新聞を置いて行く。それを学校から帰って来た小学生のバイトが取りに来る。自転車に積み、自分の持ち区域の一軒一軒の家まで運び、自転車に乗ったまま、一部づつを玄関先に向けてほおり投げて行く、ということでその日の新聞作成から配達の全行程は終わりになるようだった。

 チャールズが就職した新聞社は、確かにメジャーではないが、このミネソタの新聞社に比べると数十倍も大きい。しかし、ローカルの新聞社には変わりがない。
 もちろん、言論の自由を標榜する新聞社であるから、「公平」とか「権力には屈せず」とかの高邁な理想は掲げていた。しかし、取材は、自由闊達で、どんな方法で、どのようにしろ、とかに拘るものはなかった。特に先輩の指導などなく、チャールズみたいな新米は、右も左もわからないまま、勝手気ままに記事を書いていた。それでも、社内のチェックで、書いたもののほとんどが、無視されたり、削られたり、編集されたり、書き直させられたりするのは当然のことであった。こんなことも、チャールズにとっては、いい経験で、将来の励みになることだった。
 おそらく、大手と違うのは、政治部とか経済部とかの枠がなく、取材の範囲は、ところかまわずといったところだった。上司に連れられてイリノイ州知事にインタビューしたこともある。事故の現場に駆けつけたり、張り込みをしたりすることもあるし、町の自動車修理工場の取材、イリノイ大学の予算配分、執行状況からスーパーマーケット価格変動、さらには、高校のフットボウルの試合結果、死亡記事などまで様々なことに頭を突っ込んだ。