マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Yuri just sitting " ( 待ちわびるユーリ )

2012-04-30 06:51:47 | 日記

 

 カイルアの街は小さくてこじんまりしていて魅力的な街である。
 コーヒーショップの外のテラスでおいしいコーヒーを楽しみながら、ひと時を過ごすのは至福の時間である。
 トシもこの町に惹きつけられてよく通った。
 カイルアは、周辺の地域を合わせる、人口は38,000人ぐらいということである。
 ワイキキから行く場合、一度アラモアナまでバスで行き、57番バスに乗り換えて、途中の山脈を越えると眼下に色鮮やかなブルーの海が見えてくる。オアフ島の反対側である。
 元々人が集まる観光地ではなく、どちらかと言うと「ローカル」の雰囲気があり、街を歩いていても、煌びやかなものはなく、人々はのんびりして見える。ワイキキにないハワイらしいといった雰囲気を感じることができる。
 フレンチ、イラリアン、スシレストラン、ちょっと他所いきな感じのコーヒーショップなどもあり、田舎の町でありながら瀟洒で贅沢な街でもある。
 高級百貨店の「メイシー」もあり、ショッピングも楽しめる。
 アメリカ本からの移住者が多く、贅沢を楽しむこれらの人たちのニーズに応えるためにも、ファンシイな佇まいが備わっている。

 近くにコナビーチとラニカイビーチがあり、人で溢れるワイキキとは違っていかにものんびりして静かな海岸である。
 街の観光案内所に行くと、日本語の地図を置いているのは、最近若い日本の女性たちが訪れるようになってきたからである。
 おそらく何度もハワイにやって来る、いわゆるリピーターと言われる人たちで、彼らはワイキキのホテルに泊まり、観光地を巡ったり、高級レストランで食事をしたり、ブランド品を買い漁ることに飽きた人たちで、通り一遍の観光でなく、よりハワイらしいというか、ワイキキとは異なったハワイを楽しみたいという人たちであろう。

 コナビーチは、ワイキキの忙しない喧騒はなく静かでのんびりしている。
 日本人の女性たちや家族の人たちがビーチで寛いでいる風景は、この辺りですっかり馴染みになって来た。
 隣接してラニカイビーチがあるが、高級別荘地でアメリカの裕福な人たちが住んでいるのはカハラに似ている。
 気をつけるべきは、海岸が、日本と違って個人の持ちものになっていて、やたらに入ることができないのである。
 海岸に通じる道なども、Private Property (私有地)とか No Trespassing (進入禁止)とかになっていて入っていくと不法侵入になる。

 オバマさんが大統領になってから、オバマさんの家族が二度にわたりクリスマスの休暇をここで過している。
 したがって、カイルアが「冬のホワイトハウス」と謂われたくらいである。
 ヒッカム空軍基地に大統領専用機が着陸して、そこから大統領専用車、護衛の車、工作車、救急車などが連なって、一気にカイルアに向けて疾走してくる。
 大統領はここで二週間ほどの休暇を過ごし、もちろん、その間も執務を怠るわけにはいかないからホワイトハウスがここに移動した感じなのである。

 この辺りでは、映画もよく撮影されていて、「ハワイ・ファイブ・オー」は何度も、その他、「ワイキキ」、「マグナムPI」,テレビシリーズの「ロスト」など思い出すだけでもたくさんある。
 海がきれいで、周りの風光明美な背景を含めて、1998年には、「全米で一番素晴らしい海岸」に選ばれている。
 慌てて泳ぐ必要はなく、海岸で何もしないでボーッと過ごすのもよく、遠くを見ていれば、運がよければクジラの遊泳を見ることができるのである。トシも何度かここでクジラを見たことがある。

 クリスティのお母さんは毎日が忙しくて、家事をしたり、時々は仕事に出かけることもあるし、庭仕事などにも励んでいて、買い物は、近所のマーケットでしているようで、カネオヘやウインドワードまで足を延ばすことはあまりないようだ。
 カイルアにもたまにしか来ないと言っていた。しかし今日に限ってカイルアに行こうといったのは何かお目当てでもあるのだろうか。
 カイルアに着いて、まずメイシーに入っていった。
 ただ問題があった。犬のユーリは入れないのだ。
 入り口の前にでも繋いでおいたらどう?とか言っても、

 " I'm afraid if Yuri might be kidnapped by force. " ( 誰かに連れていかれたらどうしよう!) と、マディは心配なのだ。
 じゃあ、こうしよう!トシが先にデパートの中をひと廻りしてくるから、その間マディが、ユーリと一緒にここにいなさい!帰ってきたら、トシと交代しよう!と言ったら、マディも頷いた。
 トシとしては、特に買い物はないし、クリスティとママと三人で、とりあえず一階と二階を一通り見てまわってった。
 マディと交代しようとエントランスを出てみると、マディが中年の女性と話をしていた。


" With Yuri Together " ( ユーリも一緒に )

2012-04-24 13:31:39 | 日記

 

 家の前で車が止まる気配がした。
 顔を覗かせると、その車からクリスティのお母さんがドアを開けて降りて来た。
 手には花束を持っているようだった。花束と言っても、いく種類かの花を無造作に束ねて新聞紙に包んだといった感じだ。   クリスティも、母の車の気配を感じたようで飛び出して行った。
 
 「その花をどうするの?」
 「トシにあげるのよ!」
 「じゃあ、私が持って行く!」
 「駄目よ!お母さんが渡すから」とかの会話が聞こえて来た。

 クリスティのママは、花が好きで庭で花づくりをしている。
 トシも昔ガーデンハウスに行って花の苗を買って来て、植えてみたことがあるが育たなかった。
 ハワイの暑い日差しの下では、生育させるのが難しくて、水をやり過ぎて駄目にしてしまったことがあるし、また水不足で枯らしたのもある。
 ハワイは熱帯で暑く、一年中同じように変化しない気候だから、いつ種をまいたらいいのか、開花の時期はいつなのかなど日本と違ってわかりにくいのだ。
 日本だと、秋に種をまき、春に芽が出て開花する、また早春に苗を植えて初夏から秋にかけて開花のシーズンがあったりしてわかりやすい。
 熱帯のハワイには、日本にない種類の花々に恵まれている。
 赤や黄色の派手な色の花が多く、その色鮮やかさに見とれて、他人の家の前でも、つい立ち止まって眺めてしまう。
 大学のキャンパスでも、年中何かの花が咲いているので、暇なとき自分勝手に「お花見ひとりツアー」という催しを作り出かけていたりしていた。
 白とか赤のプルメリアの並木の下にいると、何とも言えない良い香りがしてきて、心休まるのである。

 クリスティのママは、庭にこじんまりした花畑をつくっている。
 レンガで丸く、あるいは四角に縁取りした花壇があって、レイアウトもうまくできていて、年中何かの花が咲いていてきれいである。
 直射日光が常時当たると花の生育に影響するので、午前中だけ日が当たるが午後になると陰になるようなところをうまい具合にデザインして花壇を作っていた。
 近所の人たちが、お花目当てに立ち寄ったり見学に来ていて、ママは、得意げに説明したり、花を分けて与えたりで、彼女の花作り趣味が近隣の社交に役立っているようである。
 トシも散歩がてらクリスティの家の前でフェンス越しに庭を眺めていたりする。と、どこからともなくママの声がきこえて、
 「オー、トシ!入っていらっしゃい!」
 立っているトシとしゃがんで草取りをしているママと会話が始まって、そのうちトシもしゃがんで仕事の手伝いをしていたりするのである。
 花の育て方を詳しく聞かされたりすることが多い。薬の与え方、花の名前、除草、手入れのことなどいろいろ説明に熱がはいるのは当然である。
 その後は、「コーヒーを飲んでいく?」とかいうことになって、思わず長居をしてしまうこともあるのだ。

 ハワイでは、朝方あちこちでファーマーズマーケットが催されている。
 農家から持ち寄られた新鮮な野菜、チーズ、パン、ケーキ、加工食品、手作りの宝飾品、手芸品などが主だが、見逃せないのが色とりどりの花である。
 市場には、 熱帯固有のハワイの花が咲き乱れている。
 ヴァンダ・メリリーというかわいい花、橙色のアフリカン・チューリップ、真っ赤なコスタス・べーケリー、ディエテス・インディオスとか言う可憐な小さい花、オカカとか言うランなど、名前を聞いても想像がつかないような花々である。クロトンという葉っぱの花もある。
 気に入ったものがあれば買ってもいいし、見て回るだけでも十分楽しめるのである。
 花の売り場には、得も言われぬいい香りが漂っている。
 日系人が持ち込んだといわれる東洋ランや菊もハワイで生育されていてマーケットに出回っている。

 クリスティがトシの家に来るとき、「ママからよ!」と言って、花の束を持ってきたりする。
 トシ、マディ、クリスティの三人で、急遽「お花の教室」を開き、花をハサミでちょん切ったりしながら花器に生けたりしている。日本風のアレンジメントだが、出来栄えは保証の限りではないが、そうしている間も、みんな結構楽しんでいるのである。

 クリスティのママが立ち寄ったのは、クリスティを連れてカイルアに買物に行きたいということのようだった。
 「マディも一緒に行く?」とクリスティが誘った。
 「トシも一緒に行こう!」とマディ、
 「ユーリもつれてみんなで一緒に行こうよ!」とクリスティのママ、
 「じゃあ全員で行こう!」とトシが言った。

 結局全員、ママ、クリスティ、マディ、ユーリ、トシでママの車で行くことになってしまったのである。人間が四人と犬一匹が車に乗り込んだ。
 今日は、ウインドワードやカネオヘのショッピングセンターではなく、カイルアのマーケットに行くことになった。

 

 


" Singing exercise " ( 歌の練習 )

2012-04-20 14:03:57 | マディとクリスティ

 

 課題発表は来週である。まだ5日間ほど準備の期間がある。
 何時もだと、図書館などに行って調べものをし、発表の文章を作成して、グラフ、表、イラストなどを模造紙に描き、それらをもって、当日クラスで発表するといった感じなのだが、今度は様子が少し違っていた。
 歌を歌うというのは、一種のパフォーミングアートである。手品、朗読、本読み、ダンスなどと同様、みんなの前でパフォーミングしなくてはならない。形として残るものでなく、終われば何もなくなる。
 原則課題発表は、どんな形でも許されていた。以前に歌を歌った人がいたかはわからないが、歌も当然許される。

 " We are ready,Toshi! " ( すぐ練習してもいいよ!)
 と、やる気満々である。
 
 歌詞のコピーをそれぞれマディとクリスティに渡した。
 読んでいたマディが早速質問してきた。

 " Where is Yokohama? "  ( 横浜はどこにあるの?)とか、
 " Why does she wear the red shoes? "  ( 女の子は、なぜ赤い靴を履いているの?)

 どんな歌なのか説明した方がいいだろうと思い、背景の物語を話して聞かせたのである。

 「赤い靴を履いた女の子は、静岡県清水市で1902年に生まれた。
 お母さんは、シングルマザーで、娘を連れて開拓農民として北海道に渡ったが、貧しく、生活が苦しく、どうにもならなくて女の子を養子に出した。
 行き先は、函館で宣教師をしていたアメリカ人のヒューイットという人のところだった。
 この家族は、やがて帰国することになったが、女の子は肺結核でに罹っていて、連れて帰ることができなくなってしまった。
 当時、結核は不治の病とされており、治癒するための薬がなかった。
 結局東京にある教会の孤児院に預けらることになった。その時彼女は7歳だった。
 生みの親は、娘が金持ちの異人さん家族に連れられてアメリカに渡ったと思ったようだ。
 娘は、その後2年生き延びて、9歳の時、孤児院で死亡してしまった。
 歌の歌詞では、アメリカに向け、「赤い靴」を履いて船に乗ったということになっているが、事実はそうでなかったのである。  この歌を作った人は、そのことを知らなかったようだ」

 というようなことを話して聞かせると、元気のいい二人がすっかり静かになって、最後には、うっすら涙を浮かべて、
 " Such a poor girl! " ( 可哀想な人! ) と言った。

 英語の歌詞は問題ない。読めば、彼女たちも意味が分かる。だが日本語は、まるで理解できないので、区切り区切りを英語の文章に合わせて当てはめ、彼女たちに理解させるのに、これが意外に時間がかかってしまった。

 「 赤い靴 はいてた 女の子
   異人さんに つれらて いっちゃった 」
  "  A little girl with red shoes on has gone
       With a foreigner's family  " 

 「 あかいくちゅう あいいててゅあー おんにゃこう・・・・」と、彼女たちは高らかに歌い始めた。
 彼女たちのいいところは、何に対しても物おじしないところだ。
 二人の声質のインバランスな感じが、かえって、初めから意図して歌っているように、何とも趣のある合唱になって聞こえてきたのである。

 アメリカでは、プレゼンテーションをする人は、当日必ず着飾ってやってくる。
 小学生もしかりである。顔にうっすら化粧をほどこし、口紅を塗り、髪には、きれいなリボン付けたりして、いつものラフなスタイルでなく、フレアなスカートなど着てくるのである。
 いつもはスクールバスで学校に行く彼女たちだが、おそらくトシにあいさつして行きなさいとママたちから言われたのかどうか、早朝にトシのところに立ち寄ってきた。

 " Morning,Toshi! " ( トシ、おはよう!)とあくまで天真爛漫である。

 数日後、評価を持って帰ってきた。
 今度ばかりは、“B”かなあと思っていたのである。悪くするとクラスでも最下位になってもおかしくないほどだった。
 結果は”Aマイナス”だった。予想以上に評価が高かったことで、二人は大満足である。
 日本語で「万歳三唱」をした。
 「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!」の声がこだました。
 後になってトマソン先生に聞いたところ、マディとクリスティの課題発表は、クラスの生徒たちの評価で、一番受けたということだった。

 

 

 


" Singing a Japanese nursery song " ( 赤い靴 )

2012-04-15 05:26:15 | 日記

 

 「敏子さん」が住んでいたところは横浜だった。
 横浜といえば、親類で横浜から来たお嫁さんがいた。
 横浜のことを思い出していたら、マディとクリスティがクラスの課題発表をした「赤い靴はいてた女の子」は、横浜から異人さんに連れられて出帆した。
 まだあった。
 昔、毎日新聞で読んだと思うが、戦争中横浜で空襲に遭い大分に疎開していた「ムッちゃん」は防空壕で死んでしまった。
 当時は、このような悲惨な話はあちこちにあった。

 ミネソタでベイシンガーというお医者さんから電話がかかって来たのは、トシのことが新聞に載ったのがきかけだった。
 息子、ボッブの恋人「トシコ・ヤマダ」さんが、「トシ・ヤマダ」と親類かなにかの関係があるのではと思ったようだった。
 それが切っ掛けで度々ベイシンガーさんに会うようになった。
 日本に滞在中のボッブから送られてくる手紙には、敏子さんのことが連綿と書かれていた。
 その時は、すでにボッブは朝鮮動乱のさなかで戦死していて、もうかなり時間が経過していた。
 ベイシンガー夫人は、亡きボッブの手紙をウオークインクローゼットにきれいに整理して残していた。
 彼女とトシは、クローゼットの中に座り込み、手紙を拾い読みした。懐かしい思い出である。
 ブログでこのことを書きながら、敏子さんが住んでいる「横浜」のことを思った。

 そう言えば自分の身内にも横浜から来たお嫁さんがいたことを思い出したのである。
 戦争中、空爆で自宅をふ飛ばされて、家族は、それでも全員命からがら生き延びることができた。
 考えてみると、敏子さんも戦争の被害者である。恋人のボッブは戦死してしまった。

 マディとクリスティが、学校の課題で困っていたことがあった。
 隣の部屋で、二人が、あーでも無いこーでも無いと議論しているのが聞こえた。
 いつものことで、できるだけ関心を持たないように、知らぬふりを決め込んでいた。
 とその時、
 
 " Don't you think we should ask Toshi if he would have any good idea? "
  (ちょっとトシに相談してみない?何かいい考えがあるかも)という声が聞こえたのである。
 
 以前「消防署」のことを調べてレポートにしたことがある。
 このレポートが、クラスで最高の「Aプラス」をトマソン先生からもらった。二人は浮かれてしまって、お祭り騒ぎがしばらく続いたのである。
 この時、トシは、この課題に深く関わりすぎた反省から、その後の宿題はできるだけ遠くから眺めるだけにしようと決めていたのである。
 彼女たちの課題に親やその他の人たちが協力してもいいことになっているから、トシが手助けしても問題はない。
 後になって担任のトマソン先生に会ったとき、マディとクリスティのプレゼンテーションが、クラスでも飛びぬけて素晴らしかったことを告げてくれたのである。トシが手助けしたことがお見通しだった。

 " Hi, Toshi!  We'll have icecream for a break.  We are just thinking if you want some? "
  " We could brew coffee for you if you would like to. "
    (  ねえ、トシ!ちょっと休憩してアイスクリームを食べようと思うのだけど、トシも食べる?
    よかったらコーヒーを沸かしてあげてもいいよ!)
  とか機嫌を取ってきた。魂胆が見え見えであったが、彼女たちの作戦に乗ってしまったのである。 

 そのころハワイ大学のシンクレア図書館で、日本の童謡、童話、児童文学の英訳本を読んでいた。
 かつて子供病院で子供たちに「本読み」のボランティアをしていたころ、日本のこれらの英語版から話を取り出し、彼らに話して聞かせると、それが意外に好評で、一時期、そのことにはまってしまったことがあった。
 そのようなことを思い出して、つい「『赤い靴』という日本の童謡を英語で歌ってみたらどうだろう」などと言ってしまった。
 ちょうど彼女らは、課題が見つからなくて苦労していた時だから、この提案に直ぐにも飛びついてきた。
 
 " That's really what we want, you agree, Christy? "
  (それがいいわ、クリスティもそう思うでしょう!)

 とか言って、本人たちは歌うことに決めてしまったが、問題があった。彼女たちは音痴である。正確には、音痴だというのはトシだけだが、とにかく歌はうまくないのである。
 ここに至って、問題提起をしたトシは反省してしまった。今度ばかりはAを取るなど不可能だろう。     

 


" Sensei who won't give up pursuing his ideals " ( 夢を追い続ける先生 )

2012-04-09 08:38:09 | 日記

 

 「福岡大丸」の8階の特設展示場に井上満二さんの作品がズラリ展示されていた。
 とても高価なものばかりで、一般の人たちに手が届くわけではないが、先生の作品に魅かれ一目だけでもと訪れる人たちは多かった。
 みなさん腰をかがめるようにして鑑賞しながら、立ち止まったまま動こうとしない人たちもいた。
 小さな皿から大きな壺まで多様な作品は、それぞれ趣があって飽きず見入ってしまったのである。
 流石というか、どれも高度な芸術作品ばかりで、畏敬の念を持ってしか見れないものばかりである。
 優れた作家が作る磁器は、形がよく、端正で、上品な印象を持ってしまうが、井上満二さんの作品のどれからも、醸し出す高貴な雰囲気を感じてしまった。
 陶器の場合、灰かぶりから出てきた作品が、時として作者が予期しない出来栄えであったりして、形が壊れていても、それがまた予想外の値打ちを生みだしたりするが、磁器はあくまで形が整っている。
 彼の作品、白磁は、形がいいのは勿論、独特な淡い色を醸し出していて飾るところがない。これ見よがしに見せつけるようでもない。外見は、いかにもシンプルであるが、じっと見ていると多様な形で訴えてくるようだ。
 
 かつてペンステイトで、バイテル教授が、井上満二さんの作品を前に、
 「ねえ、トシ!信じられないが・・・」と言った。
 「この作品を見ても、一切の脚色がないんだよね!」
 「シンプルで、直截で、控えめで、デリケートで、それでいて、こちらに訴えかけるものが多くて、つい惹き込まれてしまう」
 と語っていたのを思い出してしまった。
 
 ペンステイトで作陶の指導をした時、学生たちは不思議な顔をしたという。
 「私が作った磁器には派手な色がなかったからです」と、当時を振り返り毎日新聞の記事の中で語っている。
 ペンステイトには、井上満二さんが作陶指導する様子を撮った映画がある。
 満二さんが日本に帰国した後では、新入生たちは、直に満二さんの指導を受けることは出来ない。
 バイテルさんは、これらの映画を学生たちに見せることで、満二さんの作る作品の素晴しさ、彼の姿勢、熱意などを彼らに示したいと思っていたのである。
 そこはアメリカ人のこと、映画を見ている間も、大仰に「オォー!」とかの感嘆の声をだしながら鑑賞していた。
 「学生たちは、その意味を理解しようと熱心に講義を聴き、自分たちの知らない新しさをも求めた」のである。
 満二さんは、現在は82歳だと思うが、当時は40代で、自身これから先に広がる夢の世界に向かって、心を躍らせながら邁進していたころだった。
 トシも学生たちと一緒に映画を見ながら、異なる文化の中で日本の心を彼らに伝える満二さんの心意気を見たのである。

 もう40年も前のことだが、有田で満二さんにお会いしたとき、まだ気鋭の作家で、どちらかというと芸術家特有の「気難しい方だ!」と聞いていたので、初対面の時は気を使ってしまった。
 なんとなく長い時間を彼のところで過してしまい、お暇をしようと思った時はもう夜の帳が降りていて、外は暗くなっていた。
 車のところまで見送っていただいて、「失礼します!」と言ったとき、おもむろに着ていたドテラのような着物の袖からお茶碗を取り出し、「どうぞ!」と差し出してくれた。
 もちろん予期していなかったことで、びっくりしてしまったが、恭しく頂き家に持って帰ったのである。

 この度大丸でお会いした時は、紺のスーツできっちり決めていて、作業衣姿の先生しか見てないので、別の人かと思ったくらいだが、80歳を過ぎた今、ますますかくしゃくとしていた。
 会社などで、営々と働き続け地位を築き上げた人たちでさえ、定年になると、することもなく家でゴロゴロして周りの人たちから、なんとなく粗大ゴミ扱いされてしまうようなことを見てきた。
 本人も、会社で威勢よく頑張っていたころのようには尊敬してもらえず、将来を見失い自信をなくしてしまい、それでも趣味がある人はまだ救われる。
 一日一日をどう過ごしていいのかもわからず、すっかり自分を見失ったこれらの人たちは、漠然と自分の死期を待つ怠惰な人生を送らざるを得なくなった、そんな人たちが周りにいるのである。

 束の間、満二先生と会話する機会を得て、80を過ぎてまだ夢を追い続けるのを見て、本当にうらやましいと感じてしまった。
 ご自身「生涯現役」を標榜して「意欲がなくなったら終わり」をモットーに、追い求めるところは果てしないのである。