マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

医者になるには

2011-03-29 18:34:02 | 日記

 
 ユル・ブリンナーについては、いつもミステリーであった。
 雑誌などに出ている彼の生年月日、出生地、白人なのか、東洋系なのか、など自らが語らない以上、彼のことを知ることが出来なかったようだ。
 一時、母親が日本人だと言う記事も見たことがある。
 どうも真相は、1920年生まれで、生まれたところは、ロシアのウラジオストックだということが分かってきたのである。
 父は、モンゴル人で、母親が、ロシアで生まれたユダヤ人であるというのが、定説になってきた。
 父親の仕事の関係か、中国に住んだり、フランスに住んだり、一時は、日本の京都に住んでいたことは、間違いなさそうである。
 戦後になって、彼はアメリカに移住する。
 演劇を志していたようで、紆余曲折はあったと思うが、我々が、彼を知ったのは、[王様と私]や「荒野の7人」などで、強烈な個性を見せた映画であった。
 映画の中では、あの独特なテリー・サバラスのようにスキンヘッドを押し通した。
 ヘビースモカーだったようで、結局は肺がんで亡くなっている。
 娘さんが、禁煙運動をやっていることを聞いたことがある。
 タバコを飲みまくる父親を見て育ったからかもしれない。

 日本の黒沢明監督の映画に触発され、影響され、一本の黒沢映画を何度も何度も飽きずに見続けたというスチーブン・スピルバーグも、ユダヤ人である。
 自らが属する民族の受難に鎮魂を込めて「シンドラーのリスト」を作り上げた。
 この映画をつくる過程で、自らが、ユダヤ人であることのアイデンティティを、さらに認識していったようである。
 「シンドラーのリスト」といえば、杉原千畝を思い出す。
 彼が、リトアニアの領事館で領事代理を務めていた時、ナチの迫害から逃れて、押し寄せるユダヤ人を目の当たりにする。
 国外に出るためのビザを要請するが、ドイツと日本の関係もあり、日本政府は発給を拒否した。
 しかし、杉原は、日本政府の意向に逆らって、6,000人に及ぶ人たちのために出国のビザを発給したのである。
 その時は、戦時下であり、恐らくは自らの職を辞する覚悟であっただろう。
 戦後になって、彼のその時の行動が、事実として知れ渡った。
 救われたユダヤ人の多くはアメリカに渡ったが、彼は、まさに命の恩人だったのである。
 ユダヤ人たちから、彼のことを「日本のシンドラー」として敬われているのである。

 世界の各地から、迫害を逃れ、また革命からのがれてアメリカにやってきたユダヤ人は多い。
 ほとんどが、第2次世界大戦中か、その後である。
 アメリカでは、この時期、ユダヤの人口が急激に増えている。
 しかし、アメリカの総人口に比べて、ユダヤ人の人口は微々たるものである。3%に満たないほどであるが、アメリカの中で、彼らの影響力は計り知れない。
 頭がよくて、高学歴である。
 ある本を読んでんでいたら、
 「キミ!医者になるのだったら、西部にある大学を選んだほうがいいよ!」
 「東部の大学は、ユダヤ人が占めてしまうからね」というセリフがあった。
 事実、ニューヨークの医者のほとんどがユダヤ人だと言われている。
 大学教授や学者が多い。
 経済界を牛耳る金持ちが多い。
 高名な作家、芸術家なども多いのである。

 昔、知り合いに、
 「ユダヤ人を見たら、外見から見分けることができるの?」と聞いたことがある。
 「さあ!それはどうかなあ!」「顎髭を生やして、頭にscullcapを載せた人は、間違いなくそうだよ」
 「キッシンジャー、ウッディ・アレン、バーバラ・ストライザンドなどは、見ただけで、そうかなあという気はするけど!」
 ということだった。


一時代を画した女優さん

2011-03-25 09:05:27 | 日記

 

 「どうしているかなあ」と、ずっと気にしていたエリザベス・テイラーが亡なってしまった。享年79歳ということであるが、まだ若い。
 近年は、人前に姿を見せることもなくなっていた。
 一度、テレビの画面に出て来た時は、ふくよかな姿になっていて、がっかりしたが、その後、再び人前に現れた時は、見違えるようにほっそりしていたのである。
 体の調子が悪い、あるいはベッドに寝たきりだ、とは、新聞、雑誌などで報じられていたが、突然、CNNの「ラリーキング・ライブ」に出演して、元気そうな姿を見せた時は、安心した。
 
 「若草物語」で、はじめて彼女の映画を見た。
 信じられないくらいに、目がきれいで、可憐で、美しく、華やいだ彼女の姿は、これ以上ないくらいに印象に残っている。
 彼女が17歳ぐらいの頃だっただろうか。
 共演した他の俳優たちも何れも素晴しく印象に残っている。
 ジューン・アリスン、マーガレット・オブライエン、ジャネット・リーなど、その後、皆さん立派な女優さんになった。
 この作品に出ていた、ピーター・ローフォードは、あのケネディ大統領の妹さんと結婚している。

 エリザベス・テイラーは、ユダヤ系で、イギリスのロンドンで生まれた。
 父親は、美術商を営んでいたようだ。
 7歳のころ、父親の仕事の関係で、アメリカにやって来た。
 したがって、彼女は、イギリスとアメリカの二重の国籍を持っていた。
 
 ユダヤ人でハリウッドで活躍した人は多い。
 ハワイ出身のベット・ミドラーもそうだし、マリリンモンローから、バーバラ・ストライザンド、カーク・ダグラス、ハリソン・フォード、ポール・ニューマン、ジーン・ハックマン、ダスティン・ホフマン、監督のスピルバーグなどなど数えればきりがないほどである。
 同じロンドンの出身では、チャールズ・チャップリンがいた。
 彼も、反ナチ映画の「独裁者」などを作ったことで、長い間、ユダヤ人と見られてきたが、本当なそうではないようだ。

 テイラーは、7歳の時、子役で映画デビューしてから、「リズ」の愛称で親しまれて来た。
 初めの頃は、可憐な、という印象だけだったが、次第に演技力をつけてきて、ご存知のように大女優に成長して行った。
 「陽の当たる場所」は素晴しく、これは白黒だったが、何度も映画館に観に行ったものである。
 相手役の、モンゴメリー・クリフも、素晴らしかった。
 いつも、影のある悲しいそうな風貌だった。
 一時、テイラーとの恋仲のうわさがあった。
 その後、「いそしぎ」、「バタフィールド8」なども、思い出深い作品である。
 演技に、ますます磨きがかかり、2度にわたって、アカデミー賞にノミネートされている。
 「熱いトタン屋根の猫」での演技は、すばらしく、単にきれいな俳優さんと思っていた彼女が、演技者として、より深い領域に入っていったことを感じたものである。

 ロック・ハドソン、ジェイムス・ディーンと共演した「ジャイアンツ」は、思い出深い作品である。これも何度も観た。
 ジェイムス・ディーンは、そのご自動車事故で亡くなるが、共演したテイラーのディーンに対する悲嘆の様子は涙を誘った。 彼女は、ディーンの親代わりとも言える存在だった。
 ジャイアンツの中では、ディーンが、ちょっとオーバー気味に演技をしていたのに対して、ハドソンとテイラーが、控えめの演技で、それが、かえって、3人お互いの持ち味を出していたように思う。
 共演したロック・ハドソンが、エイズの感染者だと知ったのは、ずいぶん後になってからである。
 ハドソンは、このことを隠して、パリ行きの航空機を独りで、借りきって、フランスに治療に行ったりしていたが、完治しなかった。
 このことを知ったテイラーは、ショックで、佇むばかりだったが、意を決して、HIV撲滅運動を始めた。
 この運動のために、日本にも来たことがある。

 生涯に、8回も結婚をしている。
 その都度、本人は、大真面目だったようだが、世間には、スキャンダルとして報じられた。
 イギリスの舞台俳優リチャード・バートンとは、別れては復縁して、2度にわたり結婚をしている。
 ハリウッドのプロデュサー、リチャード・トッドと結婚していた時、彼が、自家用飛行機の事故で亡くなった。
 悲嘆にくれていた時、友だちの、超売れっ子歌手、エディー・フィッシャーが、彼の妻、デビー・レイノルズと共になぐさめた。 そのことがきっかけで、フィッシャーとすっかり恋仲になり、おたがい、険悪な三角関係になり、ついには、フィッシャーは、妻を捨て、リズと結婚してしまったのである。
 その時は、流石に、アメリカ中のファンまでも敵に回してしまったのである。
 
 「ラリー・キング・ライブ」で、ラリーがこのことを話題にしたら、苦笑しながら、
 「思い出したくもないわ!」と、言っていたのを覚えている。
 一時の気まぐれで、そうなてしまったようで、いざ結婚してみると、フィッシャーは、表向きには、泣く子をも黙らせる人気歌手だったにもかかわらず、内面は、実につまらない人柄であったようだ。

 ジェイムス・ディーンの場合もそうだが、マイケル・ジャクソンの時も、親代わりの存在だった。
 私生活でも、テイラーは、ジャクソンの心からの理解者だったようである。
 マイケル・ジャクソンが、急死した時、車いすに乗って葬儀にやってきた。

 エリザベス・テイラーについては、語りたいことが山ほどあるが、一つの時代が、終わったのかなあという感慨である。


サスケハナ川

2011-03-21 08:58:38 | 日記

 

 ようやく被災地に、食べ物、毛布、医薬品などが届くようになってほっとしている。
 ガソリン、灯油、水、コメ、電池などは、緊急に必要なもので、何をさておいても、被災地に送り届けることが肝要である。
 寝る場所の確保、体の不自由な人のケアなど、様々な問題や山積みである。
 電気、水道、ガスの復旧も急務である。
 仮設住宅などの住む環境を整えることも急がなくてはならない。
 これから先、以前住んでいた場所に家を建てたり、仕事、職業の確保など、かなり長期的に困難が続くわけで、このことを思いやると暗然としてくる。
 義援金、献血など、我々にできることは、微力であってもやっていきたい。
 
 この状況を外国も注視していて、日本がどのように立ち直るのか、まさに試練の時である。
 かつて、このような災害は、世界規模においてもなかったことで、大変な復興事業になるはずで、日本の今後の立ち直り方が、世界に範を示すことになりそうだ。
 アメリカをはじめ海外のメディアは、このような災害の中にあっても、日本人の我慢強さ、被災者同士の連携、助け合う気持などを、驚きを持って報道しているようだ。
 日本で勉強をしている中国人留学生も、被災地で、寒い中、毛布一枚で寝泊まりしている人たちが、必死に耐えている姿、大人が食べるものを我慢して、子ども達に分け与えているのを見て感動した、と語っている。
 アメリカの新聞なども、このおうな時に必ず起こる、商店やスーパーへの乱入、略奪は、日本では全く見ることはないと、称賛とも、驚嘆とも取れる報道の仕方をしているのである。

 福島原発の放射能漏れの影響で、海外にも影響が出ているようである。
 日本の高級農産物が、ようやく東南アジアなど海外に輸出されるようになって、新たな市場展開が期待されていた矢先だった。
 もうすでに、日本からの食品の輸入ストップがかかってきたり、放射能検査を義務付けたりの現象が出てきた。
 海外にある日本レストラン、高級ホテルの日本料理店では、
 「日本の食材を使っていません!」と、張り紙をしたり、日本からの輸入食材をメニューから外してしまい、このことをお客さんに伝えているようだ。 

 ハワイの日刊紙「スター・アドバタイザー」も、連日、日本の地震、原発の記事を載せている。
 ハワイにも、1・5メートルの津波が押し寄せて、ホテルのお客が避難したりの影響が出ていた。
 ハワイの観光産業にも影響が出ていて、日本からのお客さんが、数千人単位でキャンセルが出ているということだ。

 ペンシルバニア州のアパラチアン山脈の谷間を縫って「サスケハナ川」が流れている。
 この川の名は、この辺りに住んでいたサスケハナ族に因んで名づけられたものだ。
 水源から海に出るまでの高度差は、360メートルで、急ぐでもなく悠々と流れている。
 その雄大さは、時に大河に見えるし、ミシシッピ河に見間違うほどである。
 川中に、点々と木立のある島を見渡すことができて、両岸には、白い瀟洒な家が建っていて、のどかな風景である。
 ペンシルバニア州には、ピッバーグやフィラデルフィアなど大きな都市があるが、ここサスケハナ川に沿ったところにハリスバーグという、ちょっと小さめだが、魅力的な街がある。
 ここが、実は、この州の州都である。
 ちょっと南に、昔からの、古い生活様式を守り続けるアーミシュの村がある。
 リンカーンの演説で有名なゲティスバーグもある。
 「ハーシー」のチョコレートをご存知だろうか。
 その会社の本社、工場もある。ハーシーの巨大な子ども向けの遊園地もある。

 サスケハナ川が、二つに分かれて中の島になっているところがあって、そこに、かつて、放射能漏れで、世界に名前を知られてしまった「スリーマイルアイランド」がある。
 

 


地震で被災された方々にお見舞い申し上げます

2011-03-16 19:01:33 | 日記

 

   「大地震に見舞われた被災地の皆さんに心からお見舞い申し上げます」

 地震があって、もう6日にもなる。
 被災地の悲惨な状況をテレビで見るにつけ、心が痛む。
 時に、瓦礫の中で、身内の人を探し当て、抱き合って喜び合う姿は涙を誘う。
 よかったよかったと思ってしまうが、何十万、何百万の人たちが、地震の被害に遭い、家をなくしてしまった、あるいは津波に飲み込まれたままの人たちがいる。
 生き残った人たちも、避難所の生活を余儀なくされる、路頭に迷う、これからの生活の予測が全くないままで、この悲惨な状況を日本人一人一人が、我が身のこととして考える時であるように思う。

 世界90カ国の人たちから、救援、援助の申し出があるというのもうれしいことだ。
 平時において、我々は、近隣の国々が困ったとき、世界の人たちが困ったとき、手を差し伸べて、助け合いたいものである。
 幼い子供が、自分で描いた日の丸の絵に、
 「 We pray for you! 」(あなたちのために、お祈りします!)あるいは、
 「 You're not alone! 」(私たちが付いています!)
 「 We hope you'll get back! 」(立ち直ってね!」とかのメッセージを送ってくれると、本当に元気が出る。
 歌手のレディー・ガガは、自分でデザインしたブレスレットを売り出した。
 収益金を被災地に送るためだ。
 ブレスレットには、
 「 We pray for Japan! 」(日本のために祈っています!)と刻まれている。
 アメリカから来たメールに、
 「日本人の落ち着いた対応に驚いています。戦後の素早い復興を成し遂げた日本のこと、日本人は、若い人も年配の人も、きっと fight back するだろうことを、信じています」と書いてあった。
 
 未曽有のこの災害について、アメリカでも、連日新聞は、一面で詳しく報じている。
 東北の災害地や福島原発について、連日タイムリーに伝えている。
 どの記事も、事実を伝えるだけでなく、心からの同情の気持ちを示していることである。
 「ニューヨークタイムズ」の社説では、「 Sympathy for Japan, and Admiration 」 「日本への同情と称賛」と題して、

 「Our hearts are all with the Japanese today, after the terrible earthquake there-the worst ever recorded in Japan」 
 (日本が体験した最悪の、痛ましい地震のあとの今、私たちの気持ちは、日本人と共にあります)
 
 阪神大震災を取材したこの記者は、被災地の人々の、忍耐、冷静さ、規律正しさは、素晴しいものだった、という印象を持っている。
 救援物資をめぐって、略奪や、暴力的な衝突があるのではないかと思っていたようだ。
 しかし、彼らは、譲り合うことをしても、いがみ合うことはなかった。
 他の国だと、このような非常時には、人々が暴力的になり、暴れて、略奪が頻発するのに、日本では、そのようなことは、まるで起らなかった。
 本来暴力の側にいる、「ヤクザ」でさえ、救援活動に参加していたのは、驚くべきことだったのである。
 
 この沈着さは、どこから来るのだろうか。
 「There's a common Japanese word "gaman," that doesn't really have an English equivalent, but is something like " toughing it out."  And that's what the people of Kobe did, with a courage, unity, and common purpose that left me awed.」

 ( 日本には、一般に使われる「gaman」 (我慢) という言葉があって、英語には、これに当てはまる言葉はない。
 強いて言えば、"toughing it out" 「辛抱してやり通す」というくらいの意味だろうか。
 神戸の人たちがやったのは、まさにこのことだった。
 私を畏敬の念にした勇気、統制、共通の目的を持って)

 非常時にもかかわらず、沈着、冷静に対処できるのは、小さい時からの、この我慢の精神かもしれないのだ。
 真冬でも子供が半ズボンで学校に行く。
 これなど、「風邪をひかせる」としか思えないのだが、寒さに耐え、我慢することで、タフな精神を鍛えるのである。
 「我慢する」精神こそが、第2次大戦から立ち直ることを可能にしたものに思える。

 「ウオール・ストリート・ジャーナル」も、社説で、阪神淡路大地震後に、日本が見事に立ち直ったことを例に、日本人は、きっと立ち直ると力説している。
 日本には、年間、数百度もの地震がやってくる。
 時に、阪神淡路のような巨大地震に見舞われる。
 日本は、そのような中にあって、耐震工学の高い技術力を養ってきた。
 それは世界に冠たるもので、その結果、地上300メートルの横浜のランドマークを建てた。
 この度の地震は、最悪だが、日本人は、きっと立ち直る、とエールを送ってきている。

 「ロスアンジェルス・タイムズ」も、
 「非の打ちどころのないマナーは、全く損なわれていない」と、巨大地震にかかわらず思いやりを忘れない日本人について称賛の言葉を送ってきている。

 

 

 

 

 


「小さな大選手」

2011-03-11 09:42:01 | 日記

                           (8)

 一昨日、大阪の「なんばウオーク」のコーヒーショップで、置いてあったスポーツ紙を見ていたら、吉田義男さんが、阪神・楽天戦のオープン試合で始球式をするという記事が、小さく出ていた。
 懐かしい気持ちで、今からでも、甲子園にすっ飛んで行きたい気持ちだったが、帰りの時間の関係で、そうもできなかったことは、ほんとうに残念だった。
 今年は、77歳のはずで、まだ、お元気なんだなあ、と思いながら、彼のことを懐かしんでしまった。

 巨人軍の強打者青田昇さんが、
 「なぁ吉田!ヒットは、ヒットにしてくれよ!」
 と言ったのは、有名なエピソードである。
 右に左に飛んで、ヒット性のゴロを見事にさばかれて、青田も、当然ヒットになるだろうと思ったゴロを吉田に軽々捕られることを、ぼやいてしまったのだろう。
 彼のプレーには、いつもスピード感があった。
 ほかの選手に比べても、反射神経が優れているのか、動作が俊敏、スローイングが正確、打者が打った瞬間、球が飛んでくる方向に体を移動させる反応など、彼の一連の動作は、見る人たちの胸をわくわくさせてくれたものである。

 同じころ、巨人軍に、サードに長嶋、ショートに広岡がいた。
 おそらく、12球団一の鉄壁の三遊間を誇っていた。
 長嶋のプレーを見た南海の山本一人(鶴岡一人)監督をして、
 「うちにあんな選手がいたらなあ!」と感心させたくらい、プレーそのものが上手な上に、プレーが派手、ショーマンシップに長けた選手で、いわばお客さんを喜ばせるようなプレーができた選手だったのである。
 皮肉な見方をする人は、
 「イージーなゴロも、彼は、わざわざ難しくして捕る」と言っていた。
 平凡な球を、いかにも間一髪飛び着いたように捕球し、一塁に矢のような送球をしていたさまを、表現したものだと思う。
 彼は、見せ場を心得ていて、それをショーとして観客にアピールする天性の能力のようなものを持ちあわせていたのかもしれない。

 ショートの広岡は、早稲田出身の選手で、学生時代から、すでに人気があった。
 吉田選手に比べて、身長も高く、端正な顔立ちで、貴公子然としていたものである。
 プレーは、派手さは無く、堅実で、あくまで、教科書どうりというか、基本に忠実で、見る人にとっては、物足りない気もしたが、玄人筋に受ける選手で、やはり存在感のある選手だったのである。
 彼は、広島の呉の出身で、したがって、広島カープが、のどから手が出るくらいにほしい選手だった。
 いろいろ手を尽くしたようだが、6大学のスタープレヤーが、広島のような田舎球団に来るとは思えなかった。
 結果は、その通りで、圧倒的な資金力、人気を誇る東京の球団、巨人が彼を射止めてしまった。
 予想どうりと言うか、予想以上にと言うか、彼は、見事に巨人の花形プレヤーになった、と言うより、プロ球団全体のスターになったのである。
 後年広島にやってきた、外人選手のシーツが、捕球、送球の仕方など、どことなく広岡に似ているかなあ、という気がしていたものである。
 一方、吉田は、小ぶりで、「小さな大選手」と評されていた。
 大型の広岡に比べて、広岡にない、あでやかさで、またもう一人のスターであった。
 吉田の背番号23番は、阪神の永久欠番である。

  「小さな大選手」に対して、「小さな大投手」が、広島カープにいたのである。
 長谷川良平である。
 167センチの身長で、必ずしも、身体的に恵まれた選手ではなかったのである。