マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

ホノルル空港の展示場

2011-03-02 11:46:14 | ベースボールプレーヤー

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 ハワイにいた頃、発表をしたり、論文を書いたりで、体力、精神も消耗しきっていた時があって、そのようなとき、日曜日など、息抜きのために、20番バスに乗ってホノルル空港に行っていたのである。
 当時は、飛行機に乗る人たちでなくても、セキュリティチェックなどなく、空港のウイングまで入って行くことができた。
 バーやレストラン、コーヒーショップなどがあり、そこらを巡りながら、一日を何とか過ごして、浩然の気を養ったのである。 

 ウイングの先端の人気のない待合室の座席に座って小説などを読みながら、のんびりすることもあったし、バーでビールを飲みながら、あるいは食事をしながら、飛行機が飛び立ったり、着陸するさまを、ぼやっと見ながら時間を過ごすこともあった。
 空港内には、ちょっとした博物館、乗換える人のための、あるいは夜遅く到着した乗客のためのホテル、展示場などもあって、結構遊ぶこともできたのである。
 展示場の一角に、ハワイ出身の有名人たちの経歴などを紹介するコーナーがあった。
 政治家、軍人、オリンピックで優勝した水泳選手・コンノのようなスポーツ選手、映画俳優などを紹介していた。
 その一角に、かつて、巨人軍で活躍した与那嶺要選手の経歴、写真、それから彼が着用していた巨人時代のユニフォームなどが展示されていたのである。
 日本に帰る乗客で、時間待ちの間、この展示場を覗いた人は多いだろう。
 今の若い人たちにとって、与那嶺選手のことを知っている人は、あまりいないかもしれない。

 先日のテレビで、2月28日に、その与那嶺要氏が亡くなったことを報じていた。享年85歳だった。
 球界を去ってから、彼はどうしているだろうとは、時々思い出していた。
 晩年は、日本を離れ、故郷のハワに帰っていて、彼の生涯をシニアホームで全うしたようである。
 父親が、沖縄の出身、母は、広島の出身だったので、彼は、日系2世である。
 阪神の若林選手と同様、日本に長年いたが、最後まで、日本語を十分に話せなかったようである。
 もとより、漢字は理解できないようだった。

 元々、彼は、フットボールの選手で、サンフランシスコの49ナーズに所属していた。
 怪我を何度も繰り返し、ついには、フットボールをあきらめざる得なかったようである。
 その後に、野球を志し、2Aクラスで頑張っていた。
 アメリカのハイスクールでは、「シーズナルスポーツ」(seasonal sports)と言って、一年中同じスポーツをするのでなく、同じ生徒が、シーズンによって、たとえば、野球をやって、次のシーズンには、バスケットをやり、冬場には、レスリングとか、アイスホッケーなどをするのである。
 日本のように一年中同じスポーツをすることは、まずない。
 与那嶺選手も、高校の時、いろいろなスポーツやっていたのであろう。フットボールが駄目と見るや、今度は、野球に切り替えている。

 2Aにいる時、誘われて、戦後の日本球界に迎えられ、巨人で活躍するようになるのである。
 彼は、外人プレーヤーとしてやって来たが、当時日本の野球にない、スピード感のある、躍動感あふれるベースボールを持ち込んだ。
 彼のプレーは、それまでの日本の野球になかったダイナミックなものだったのである。
 野手めがけてのスライディングは、日本の選手たちを驚かせるに十分だった。
 当時は、巨人軍には、川上が「打撃の神様」として君臨していたが、与那嶺は、川上をしのぐ勢いで打ちまくったのである。
 終身打率が、0.311で、2,000試合以上出場したと思う。
 当時の巨人軍には、千葉茂、青田昇、宇野光雄、南村侑広、平井正明、広田順、別所毅彦など、そうそうとしたメンバーを誇っていたのである。
 観客席から、よく、
 「ウオーリー!ウオーリー!」と、彼を応援する声がこだました。
 「ウオーリー」というのは、彼の名前 Wally のことだった。

 彼は、巨人一筋だったが、チーム内のライバル川上が、監督になって、結局チームを離れざるを得ないようになったのである。
 後年、中日の監督として、かつて自分がいた巨人を破りセントラルリーグで優勝している。
 優勝より、かつて馴染んだ巨人を破ったことの方が、彼には、うれしいようだった。