マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Eating Udon in Hawaii " ( ハワイでうどんを食べる )

2015-10-31 04:40:05 | ハワイの思い出

 

 

 ラーメン店がアメリカにでき始めたころは、店によって "  Lamen  " とか 、また "  Ramen  " のように、綴りが違っていた。今では、一般に "  Ramen  " で認知されて来たようだ。
  "  Udon  "(うどん)は、今でもアメリカでその存在さえ知らない人が多い。マディソンでパーティを開いたとき、メニューにうどんを加えたことがある。
 小皿にうどんを取り分け、ネギ、蒲鉾、甘い油揚げをのせて、スープを注いで食べるというものだったが、皆さんの反応は今ひとつで、必ずしも好評ではなかった。
 "  sticky  " (歯にくっ付く)、 "  like rubber  "(ゴムみたい)とか言って、味がないというのが感想で、特に子供は、はっきりおいしくないと言っていた。
 ハワイで、かつてワイキキでもうどん店があったのだが、なかなか定着しなかった。辛うじて日本人の旅行者が立ち寄ってうどんをすすっていたが、うどん店そのものが立ち消えになっていった。

 ハワイには、もともと「サイミン」という麺料理がある。どちらかというとうどんよりラーメンに似ていて、これは結構ハワイのローカルの人たちには人気である。
 "  Saimin  "と書くのだが、「細麺」と書いて嘗て移民してきた日本人、特に沖縄から来た人たちが中国のめんにスープを添えて沖縄で食べていたそばに似せて作ったのだと聞いたことがある。
 キナウに住んでいた時、自宅からペンサコラ通りを降りて、キング通りに行くと道に沿って何軒かのローカルの人たちが行くレストランがあった。
 メニューにサイミンがあって時々注文した。ラーメンのようだと言いたいが、かなり違っている。豚骨出汁でも醤油出汁でもない。エビがベースのだし汁に細麺がはいっていた。トッピングに鳴門やネギ、それにチャーシュウやスパムなどが入っていたりする。ちょっと薄味で、そのためか小皿に醤油と辛子が出てくる。
 醤油と辛子をいきなりサイミンの中にぶち込んで食べている人もいれば、麺を小皿に取り出し醤油と辛子に絡めて食べている人もいる。
 最初のころはどうかなと思って食べていたが、しかし何度か食べるうちに、結構美味しく感じるようになってきた。

 「うどん」はアメリカ人の舌には合わないのではないかと思っていたが、ハワイに " Marukame Udon "(丸亀製麺)が出来てから、その思いを変えた。
 クヒオ通りの丸亀うどんには何時行っても店外に人の行列ができるほどの人気である。それも日本人ばかりでなく、むしろ一見して日本人以外の人たち、オーストラリア人だったり、アメリカ本土から観光で訪れたと思える人たちが列に並んでいる。
 正直いってうどんが日本人以外の人たちにこれほど受け入れられるとは思っていなかった。

  彼らがうどんを食べている様子をそれとなく観察すると、日本人が食べる様子、つまりうどん麺をどんぶりに入れトッピングとして、その上に天ぷらや丸天などをのせて食べ始めるのでなく、いきなりたくさんの天ぷらを別皿に盛ってきて、それらをうどんと分けて食べているのである。
 それで美味しければ、まあいいかと眺めていたが、いずれにしても彼らがうどんを気に入って食べているのは間違いない。
 その丸亀製麺は、ホノルルのダウンタウンにまた新たな店を出した。

 


" A high school student from Boston " ( ボストンから来た女の子 )

2015-10-20 15:47:38 | ハワイの思い出

 

 

 

 
 ちょっと前のことだが、ハワイでのパーティで、友人と話し込んでいた時、年の頃22歳くらいかなあと思える美人が突然話しかけてきた。
  "  May I talk to you, Sir ?  " ( お話してもいいですか? )
  "  To me ?  Sure !  " ( 私にですか? もちろんいいですが )
  "  As a matter of fact I wanna ask you about Japanese colleges.  " ( 実は日本の大学のことをお聞きしたいのですが )とか言ったような気がする。

 この人、どう見てもアメリカ人だが、日本語がペラペラだということが後でわかった。そして20代かなあと思ったのは間違いで、17歳の高校2年生だと知ってびっくりしてしまった。
 生まれは東京で、その後は父の仕事の関係でボストンに住んでいたり、また東京に帰ってきたりで、いわばバイリンガルで、日本語も英語もペラペラだった。
 父親が若い時に仕事で日本に滞在中、日本人の母親と知り合って結婚した。
 家では、母親と話す時は日本語を使ったり、父親と話す時は英語だったり、時にはごちゃまぜだったりしていたという。
 日本にいるときは、家以外では、ほかの日本人と同じように日本語で生活をしていて、またアメリカにいるときは、ほかのアメリカ人たちと英語でお付き合いをしたり、学校では当然英語で勉強していた。
 母親が日本人だということで、娘が日本人としてのアイデンティティを失くすのが心配だったようで、日本の文化、歴史、作法、漢字などを疎かにしないようにと、自宅で小学生の時から自らが家庭教師になって熱心にそれらを教えたということだ。

 現在は、ボストンの有名な私立高校に通っていて、トップ5%の成績で、アメリカの ” most selective ”(優秀大学)から奨学金のオファーが来るぐらいの有望なな生徒のようだ。
 ところが日本の大学に関心があって、すでに上智大学と早稲田大学にアクセスしていた。
 この両大学については、ボストンの高校の校長も綿密なレファランスを行なっていて、もし彼女が志望するなら、Letter of recommendation( 推薦状 )を送ってくれる確約ができているようだ。

 彼女と話していて、ウイスコンシン州マディソンのモナのことを思い出した。彼女とも初めて話したときは英語だったが、実は日本語を自由に話せた。後で日本語で話したとき、その日本語が関西弁だったのにはびっくりした。
 彼女も父親はアメリカ人で、神戸の大学で教えていた時母親と知り合った。
 モナもすらっとした体躯で美人である。小さい時から踊るバレーを習っていて、小学校は神戸のインターナショナルスクールに通った。
 彼女とは時々会って話す機会があったが、きれいな英語を話した。お話し好きの明るい子で、パーティではどこからも彼女の大きな声が聞こえてきたほどである。
 心遣いというか気づかいのできる人で、パーティで奥まったところにいて話し相手がいない人のところに行って話しかけていた。
 人の輪の中で派手に騒いでいても、急に離れたところにいるトシのところに、「パパさーん!ワインのお替りだよ!」とグラスをもってやってきた。
 その彼女は、もうマディソンにはいない。イタリア人と結婚して今はイタリアに住んでいるのである。