マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Mona, again " ( 再びモナのこと )

2014-11-22 20:51:31 | マディソン

 

 「 モナのこと 」

 

 

 ( ウイスコンシン州の首都マディソンの町 )

 モナがイタリアに行ってしまった。イタリア人男性と結婚したのである。レストランを二つ経営しているかなり裕福な人らしい。
 モナに初めて会ったとき、長い手を差し伸べてトシの手を握り、
 
  "  Hello ! Mr.Yamada  " ( ハロー!、ミスターヤマダ )
  "  How do you do !  "  ( 初めまして!)
  "  How was your trip ?  "  ( 旅はどうでした? )
  "  Oh, I got tired after such a long trip, you know  "  "  I started at Fukuoka,then from Narita to Minneapolis.  Perhaps 12 or 13 hours on board, that's awful.   And again 1 hour Minneapolis to Madison.  " 
  ( それが長い旅で、疲れてしまいました。福岡を出て成田に、今度は成田からミネアポリスまで、おそらく12,3時間乗っていたと思います。それからまた1時間かけてマディソンまで来ました。 )

 モナと英語で話していたら、横にいた女性が笑いながら、
  "  Mr.Yamada, Mona understands Japanese.  "  ( ミスター・ヤマダ、モナは日本語がわかりますよ。)
  "  What ?  "  ( なんですって? )
 
 後で知ったのだが、モナが英語でトシに話しかけたら、英語で応じたので、つい英語で話し続けたと言うことだった。
 彼女はどう見ても、アメリカ人だが、そして流暢な英語を話すのだが、実は日本の神戸で生まれている。
 お父さんがアメリカ人で、大学の教授として招請されて、神戸に滞在していた時、モナのお母さんと知り合い結婚した。
 モナは、幼い時から高校まで神戸のインターナショナル・スクールに通った。
 日本にいて、日本語でなく英語の世界にいたのである。彼女は、日本語を話すのだが、関西弁である。
 お母さんが、すごくて、訛りのある英語で、それも早口で話しまくるのである。 はっきり言ってお喋りで、話好きで、だれかれなく捕まえては話している。
  "  I'm not a Japanese, but a Kansaijin. " ( 私は日本人でなく、関西人です。)とか言っている。
 トシなんか、そんなお母さんを見て感心している。あれくらいバイタリティをもって英語を使ったら、上達も早いだろうなどと思ってしまうのである。

  モナのお父さんが亡くなった時は、彼女は打ちひしがれたように落ち込んでいた。
 イタリアに遊学中で、その知らせを聞いて一目散にマディソンに帰ってきた。
 全く予期していなかったことで、ショックが大きかったのである。
 取るもの取り敢えず帰国の途に就いたが、航空券をどのようにして買ったのか、荷造りをどのようにしたのかさえ思い出せないと言う。マディソンに帰ってきても元気を取り戻すのに長い日にちがかかったのである。
 
 彼女は、お父さんっ子だった。
 彼女がウイスコンシン大学に在学中には、二人でワインを酌み交わしていた。夕方父親が、仕事から帰ってきて、夕食ができる前のしばらくは、庭のテラスで、父と娘がチーズ、ジャーキー、新鮮な野菜をおつまみにワイングラスを傾けながら、その日にあったことなど話題にするのが楽しみだった。
 そのせいか彼女はワインが好きで、パーティなどでいつもワイングラスを片手に人々と話し込んでいる風景をよく見る。

 


" Yellow Ribbon " ( 黄色いリボン )

2014-11-19 10:51:47 | グレッグとレベッカ

 

 

 高倉健さんが亡くなった。83歳ということだった。
 普通の人なら80歳にもなると、完全にお爺さんだが、彼には、年寄りの雰囲気がなかった。
 年齢を重ねていても、若いとか年寄りとかに関係なく、一人の人間として大きな存在感があったので、これからも5年、10年と同じように映画に出てくると思っていた。
 彼が出た映画を、かなり前に何本か見た程度で、特にファンであるとかはないのだが、彼の存在の大きさはいつも感じていた。飾らない、自己表現下手で、照れ屋でと言うのはかつての九州男児そのままである。そこからにじみ出るような人の好さがたまらなかった。
 若い人たちから古い世代の人たちまで、彼の好ましい人柄が、われわれ日本人の心に定着していたように思うのだ。
 彼の死去を報じる号外が出たほどだ。

 彼が育ったところは私の町のすぐ近くで、私にとっても日常的に見慣れた風景なのである。
 戦後は、炭鉱で栄えたところで、人々がせわしく動き回っていた。今は見る影もなく活気がなくなっているが、汽車の線路は今もあって、彼が高校に通っていた時と同じように走っている。
 当時は、煙をもうもうと吐きながら走る蒸気機関車で、彼は筑豊線の中間(なかま)から八幡の折尾にある高校まで通っていた。
 もとより現在は、蒸気で走る汽車でなく、電車が走っている。街の様相はかなり変わっているが、彼の母親は、ずっとここに住み続けていた。
 この中間市に、新しい公会堂がオープンした時、同じく中間の出身で、日本シリーズを勝ち取った仰木監督とともにやってきて笑顔で話をしていたのがついこの前のように思い出される。
 母親には、頭が上がらないようで、「母に褒められたくて頑張りました」と言っていた。

 彼を偲ぶテレビのニュースで同窓生などが出てきていたが、皆さん80歳を超えていて、いわば老人である。言い方は悪いが、皆さん如何にも老人らしく見えた。健さんは、同じ世代だとどうしても思えないのである。年齢を超えてというか、彼が持つ不滅のイメージを、我々は持ってしまっているのだろうか。
 彼はいつも若々しく、背筋もちゃんと張っていて、老いを感じさせるものがない。80歳を過ぎて、背伸びするわけでもなく、地のままで役を演じられるというのは素晴らしいことだ。

 アメリカにいた時、「リーダースダイジェスト」( Readers Digest ) を読んでいた時、おそらく原題は、「 Going Home 」だったと思うが、それを偶々読んだ。
 実は、この「ゴーイングホーム」が、「幸せの黄色いハンカチ」になって山田洋二監督が映画化したものである。
 アメリカの実話で、任期を終えて刑務所を出ることになった男が、妻のいる実家に手紙を書いた。返事はいらない、もし自分を受け入れたくないようなら、家に帰らなつもりだ。もし受け入れてもらえるなら、家に帰って更生して、家族のために一生懸命は働きたい。
 一度故郷に帰るから、許してもらえるようなら、家の郵便ボックスに黄色いリボンをつけておいてくれないだろうか。リボンがなければ、自分は家の前を通り過ぎてどこかに行くつもりだ、と書いた。
 いよいよ出所になり、その日実家に向けてバスに乗った。バスの中は、休暇を過ごしにフロリダに向かう若者たちでにぎわっていた。彼はひとりぽつねんと浮かぬ顔で窓の外を眺めていた。
 若者たちは、その彼に元気を出してはしゃぐように仕向けてきたが、依然浮かぬ顔をして黙りこくしていた。
 隣に座っていた若者が話しかけてきた。彼はようやく自分の事情をぽつりぽつりと話し始めていた。
 その話が若者たち全員に伝わり、運転手も知ってしまった。みんなで応援をしようと彼らは、もはや真剣な表情に変わっていた。
 家の前をバスが通過するとき、運転手は、速度を落とした。乗客全員が息を飲むように静かになった。見えた!郵便ポストに紛れもなく黄色いリボンが飾られたいたのである。みんながわがことのように喜びの歓声を上げた・・・・と言うのが筋だったと思う。

 健さんの死に際も、彼らしいというか周りの人たちをやきもくさせる間もなく、ァッと言う間に消えていった。
 私ごとになるが、自分も以前から周りに迷惑をかけないで、消えていきたいと願っている。
 自分の墓はすでに本家の墓所にあって、いつでも入れるようになっているが、前からハワイに骨を埋めたいと思っているのだ。
 カネオヘの平等院( byodoin-Temple )の官長さんと話をしていて、冗談ともなく、死んだらここに埋めてもらえますかと訊いたら、いいですよと答えが返ってきたのである。本気にしてしまいそうだ。

 

 


" Wedding " ( 結婚式 )

2014-11-12 10:06:27 | グレッグとレベッカ

 

(11)

 

 

  結婚式は、グレッグが小さい時から通っていたメイコンの教会で行なわれた。
 グレッグは、数か月前には全く予想だにしなかったこのような結婚式を目の前にして感慨無量だった。
 レベッカとの出会いは唐突で思いがけないもので、それが結婚まで至るとは青天の霹靂で、あれよあれよいう間に事が進んでいったのである。
 結婚式はごく内内のものだったが、披露宴にはたくさんの人たちがやって来た。
 地元メイコンやアトランタからからもやってきた。野外の立食パーティだったが、人であふれ、だれが誰だかわからないほどだった。ヨーロッパに留学中の妹もこのために帰ってきた。みんなが笑顔で会話をしていた。
 人々は、グレッグとレベッカの出会いに興味を持っていたようで、そのことをパーティのあちこちで話題にしていた。
 あからさまにそのことを当人たちに聞いてくる人もいて、しかしグレッグにしても、どうしてこのようになったのだろうといまだに信じられない気でいた。
 レベッカに出会ったのも、神の思し召しとしか言い様がなかったのである。

 区長からは、祝電が来た。
 グレッグは、将来の生活をもう決めていた。レバッカと結婚して島に行くこと、島の診療所で働くことはすでに決めていて、区長にそのことを伝えていた。
 長い間、過疎の地で、無医村だった島にお医者さんがやってくるというので、いち早くそのニュースが飛び交い人々は沸いていた。
 区長の尽力で医者を招請できたことで、区長自身鼻高々になったのはもちろん島の人たちも喜んでいて、このたびの区長の働きを、村の人たちは評価した。

 グレッグは、1週のうちの月曜日、木曜日、土曜日の3日島の診療所で働き、残りの火曜日、水曜日、金曜日は、近くの都市の総合病院で勤めることになった。
 住む家についても、区長が適当なところを見つけてくれると言うことだったが、レベッカと話し合って、自分たちで見つけることにした。
 すでに不動産屋を渡り歩いていて、めぼしい別荘の空き家を見つけていた。
 身分不相応な車ポルシェを売ることにした。別にそのような高級車が必要なわけがなかったのである。
  "  He sold Porsche and could buy a house ・・・・ " ( ポルシェを売れば、家を買うことができた・・・・)
 ポルシェがどれくらい高い車かはわからないが、家を買えるぐらいだから、かなりの値打ちであることは確かだ。
 その間も、区長からは絶え間なく連絡が来ていた。彼は、グレッグを島の医者として招請するのに命をかけているぐらい張り切っていたのである。
 もともと島の収入源は漁業だった。しかしかつてのようには漁業は盛んでなく、むしろ別荘地が開発されてからは、シーズンによって訪れる人々で賑わっていた。夏のシーズンなど、島の人口は何倍にも膨れ上がった。
 島の人口に占める高齢者の比率が高くなっていて、必然的にと言うか、高齢者が病に倒れることもあって、対応に困っていたのである。
 またシーズン中別荘に来ていた人たちで、海岸で事故にあう人たちも多く、医者を確保することが緊急の課題だったのである。
 以前診療所に勤めていた医者は、高齢で、引退して故郷に帰ってしまっていた。
 グレッグのような生きのいい若者の、しかも願ってもない優秀なキャリアを持つ医者が来てくれることは、区長もそうだが、島の人たちにとってもありがたいことだったのである。