マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" Backwoodsman " ( 田舎者 )

2011-12-27 05:50:24 | 日記

 

 ジェイは、彼の話の内容から想像するところ、60歳ぐらいにもなるだろうか。大男で、いたって頑健に見える。
 オレゴン州のポートランドの街から、遡って、かなり山の中の村に住んでいる。
 その土地の製材所で働いていて、大きな電動鋸で角材や板を製材しているとのことで、高校を出てから、ずっとこの仕事をしている。
 肉体労働のせいか、腕などゴツゴツしていて、歳の割には元気で、若い人のように脊筋もちゃんと伸びて、外見からは60歳には見えない。いまだバリバリの現役なのである。
 ポートランドやスポーケンという街には行ったことがあるらしいが、街を出て遠くに行く機会などはないようだ。お金もないし、そんな時間の余裕もないとのことだった。
 本人に言わせると、自分は世の中のことに疎い「田舎者だから」ということらしい。

 彼は、いわば過疎地に生きて来た訳で、日本の場合と同様問題があった。
 土地の若い女性は、地元で結婚しようとしない。都会に憧れて、学校を出たら、サンフランシスコやシアトルのような街に出て行くようなのだ。
 適齢期になっても、村に残った男性には、彼女たちは目もくれないのである。
 土地で農業や林業に携わる男性たちは、取り残されて、30代に入っても、あるいは40代になっても、結婚相手が見つからないのが悩みである。ジェイも、その一人だった
 土地に残り、別の製材所で働いていた親友が、フィリピン人の女性と結婚した。
 もともとこんな田舎にフィリピン人がいるはずがない。
 
 アメリカには、養子縁組や結婚を斡旋する営利の、また非営利の団体がたくさんある。
 中には、まやかしものもあって、高額な会費をとったり、手数料を要求したりする団体もあるようだ。騙されたと言う人も沢山いる。
 アジアや中南米から、若い女性たちが、よりよい生活を求めてアメリカに移住したいと願う人は多いのである。
 この人たちは、普通には移住できないので、アメリカ人男性と結婚することによって、アメリカで生活できるための市民権を得るのが手っ取り早い手段だということだ。
 グリーンカードや市民権を得るのが目的だから、結婚するのは、あくまで手段である。相手の男性はどうでもいい場合がある。
 親友は、斡旋業者が発行するフィリピン人女性を紹介する小冊子を取り寄せた。
 その小冊子には、フィリピン人女性が、写真入りでアルバムになっていて、簡単な経歴などが記されていた。
 それをを見ながら、親友は、幾人かの女性を選んだのである。

 今度は、お見合いである。
 これと思う人を選び、その女性が、アメリカに渡航できるように、航空券、ホテル、滞在費用などを払って、出会いの準備をする。
 初めて出会った二人は、ホテルのクラブか何かで、酒を飲みかわしながらお話をして、お互いが好ましいと思えば、「ステディ」な関係になる。彼女が帰国した後も、手紙などで、交流を深め結婚にこぎつけるのである。

 大体は、アメリカ人男性が、「OK」であれば、話がまとまることが多いと言うことだった。なぜかと言うと、フィリピン人女性は、一時的にも結婚の事実があれば、アメリカでのグリーンカードや市民権が得られ、その後は、アメリカの中で自由に生活ができるのである。
 結婚は、アメリカに住むための手段であって、目的ではない場合が多いということだ。
 このケースの場合、離婚率が非常に高い。現に、親友の方は、すぐに離婚をしている。

 ずいぶん前に、そんな話をジェイはしてくれた。
 妻が心を割って話をしてくれないと悩んでいた。もちろん言葉の問題もあるだろう。
 しかし、フィリピン人は、独特なアクセントはあっても、英語を話す。
 ジェイの家に、親友のフィリピン妻がやって来て、「タロ語」で楽しそうに話しこんでいて、自分はといえば、何かと蚊帳の外といった感じで、お互いに馴染めない雰囲気が続いていると悔やんでいた。
 彼として、親友の場合と同じように、「離婚」が頭をよぎるようになっていた。


 そんな話を聞いていて、どうなるのだろうとトシは思っていた。
 彼の生活は、慎ましやかで、贅沢とはほど遠い。
 数十年を経て、彼はハワイにやってきた。
 乏しい貯金を引出し、出来るだけお金を使わないように工夫しながら、でも楽しそうにハワイを満喫していた。
 高級レストランに行ったりはしない、3流ホテルに泊まり、マクドナルドで食事をした。
 スーツケースをバスに持ち込むことはできないと思うのだが、ドライバーとどんな交渉をしたのか、空港からバスでやってきて、帰りもバスに乗った。

 彼とフィリピン妻の結婚生活は、ちゃんと続いていた。
 男の子と女の子が出来いて、長男は、なんとアメリカでも超一流のスタンフォード大学を出て、今は、サンフランシスコのIT企業で、キャリアとしてバリバリ働いているそうである。
 女の子の方も、優秀で、カリフォーニア大学に在学中だとのことである。
 なんかホッとする話である。

 


" Come up, Mister Yamada! " ( 上がってきて! )

2011-12-22 06:35:54 | 日記

 

 この前ハワイに来た時、以前から知り合いのモーリに挨拶しようかと、街に出てきたついでに州立図書館に立ち寄った。
 ところが開館前に着いてしまったため、当然中には入れない。
 入口近くには、入館待ちの人たちがいて、それぞれ立ち話をしたり、階段に座ったりしながらオープンの時間を待っていた。
 時計を見ると、開館の時間まで、まだ10分ぐらいあったので、あっさりモーリに会うことを諦め、図書館の横の道を通り抜け、イオラニパレスの方に行きかけたときである。
 頭上から大きな声が降ってきた。
 「ミスター・ヤマダ!」
 思わず声の方を見上げると、二階の小さな窓からモーリが体を乗り出すようにして、こちらを見ながら笑っていたのである。
 " We'll soon be open, so come up, Mister Yamada! " ( もうすぐ開くから、上がって来て!)
 
 この度も、そんなことを思い出しながら、なんとなく近くでバスを降りて州立図書館に立ち寄ってしまった。
 だが、その日が祝日だったのか、通常より一時間開館時間が遅れていて、またもや、とても一時間も待てるはずがなく、スターバックスにでも行って、コーヒーを飲みながら本か新聞でも読もうかと立ち上がろうとした瞬間、横に座っていた人が話しかけてきたのである。
 「僕も、開館時間が一時間遅れだということを知りませんでした」と言った。
 「開館まで待つのですか?」
 「そのつもりです」
 結局この男性と、一時間にわたり話し込んでしまった。
 トシが若かった頃、この図書館によく通っていたときの懐かしい思い出など話すと、興味を持ったのか熱心に耳を傾けてくれた。
 この男性、おそらく30代ぐらいかなあという感じだった。
 自分の若かったころのことを、この人に重ねながら、彼はどんな人生を、これから送っていくのだろうなどと思ってしまった。
 
 朝から夕方まで、時にさらに夜中の12時近くまで、大学に閉じこもっていた。
 毎日がそうで、疲れ果てるような日々だった。
 週末は、息抜きの意味か、家を飛び出し何処かに出かけていたのである。
 州立図書館にもやって来ることが多かったように思う。
 パティオの一角に陣取り、持ってきた書物を広げて、読んだりノートをとったりしていた。疲れてくると、机に伏せて昼寝を楽しむこともあった。小鳥たちが足元に降りてきて遊んでくれたりもした。
 お昼になると、バックパックを背に、マクドナルドみたいなファストフッド店で食事をすることもあったし、サンドイッチを買って芝生の上で食べることもあった。
 穴場と言えるか、ちょっと変ったレストランを見つけた。
 州立美術館やYWCAの中にあるレストラン、場末の地中海料理店、ローカルのおばさんたちに人気の「リバティハウス」のレストランなどは、安くて意外においしいのである。チャイナタウンまで足を延ばすこともあった。いずれにしても、高級なレストランには縁がなかったのである。
 
 週末どこかに出かけるのは、一種の息抜きで、大学から一瞬でも逃げたい気持ちがそうさせたのだと思う。
 週末は、バックパックに書物を詰め込み、どこに行くともなく家を出たのである、何処に行っても良かった。
 ホノルル空港はよく行ったところである。
 今と違って、誰でも勝手に空港内に入ることが出来た。ウイングの一番端まで行き、飛び立つ、あるいは飛んでくる飛行機を眺めることができたのである。
 空港内にバーとかコーヒーショップがあり、そこでビールを飲みながら、なんとなく一日を過ごすこともあったのである。

 変ったところといえば、「シーライフパーク」に何度か行った。勿論以前に観光できたことはある。
 入場券を買って中に入り、何かを見るということでなく、テラスのテーブルに座り、本を広げるのである。遠くに海を眺めながら、寛いだ気持ちで過ごすことができた。
 中には、レストラン、売店もあり、お昼になると、どこかで食事をすることもできたし、何かと便利なところである。何となく、半日くらいを過ごして、またバスに揺られて帰ってきたのである。
 シーライフパークには、「ビーチバス」でも、島を一周する「サークルアイランド」のバスでも行くことができた。

 何かに追い詰められた時でなく、ノルマもない、締め切りに追われることもないような時は、友達と、海に行ったり、BBQパーティをしたり、映画やコンサートにもよく行った。

  

 

 


" Senior drivers " ( シニアのドライバーたち )

2011-12-18 08:53:20 | 日記

 

 ジーナが、90歳で車を運転するというのは驚きだが、彼女の場合、高齢であるからと言って、運転中モタモタしたり、いかにも年寄りみたいにのろのろ運転するかといえば、そんなことはない。
 悠々余裕の運転で、助手席に乗せてもらったが、気を使うこともなく、しごく安全で、終始話に夢中だった。
 何より、彼女は全くアルコールを飲まない。アレルギー体質のようで、若いころから飲んだことがないそうだ。
 飲酒運転には縁のない人である。

 シュミットさんは、現在83歳である。
 この前ハワイに行った時も、彼女の車に乗せってもらった。
 幾分、方向音痴で頼りなげだが、外出するときは、いつも車で出かけている。
 ハワイのオアフ島は、バスがいたるところに走っていて、特に車がなくても、バスでどこにでも行ける。
 ただ、彼女が住んでいるところが、エバビーチというところで、ワイキキからかなり離れたところにある。
 海軍の基地があって、この辺りに住んでいる人たちは、ほとんどが軍人の関係者である。
 ちょっと辺鄙なところで、バスを利用するにしても、30分に一本やって来るようなところで、便利がいいかといえば、良くない。
 そんなに外出する機会は多くないようなのだが、出かけるときは、車を利用しているようだ。

 マディソンで、86歳になる人がよく訪ねて来ていた。
 彼も、自分で車を運転してやってくる。
 自分の会社を息子に譲って、今は、のんびり悠々と生活している。
 いかにも好々爺と言った感じの人で、いつもニコニコしていて話好きである。
 コーヒーを飲みながら、世間話に花を咲かせる。
 娘が大学院の時、留学生は、働いてお金を稼ぐことが禁じられていたため、奨学金だけではやって行けず、経済的に苦労した時期があった。
 そのような時、娘の将来のキャリアを見込んで、自分の会社の社員にしてくれ、弁護士を雇ってまでグリーンカードを得る手助けしてくれた人である。
 息子さんが、今社長をしているが、この方も、お父さんに似て、いかにも人がいい。

 ミネソタの友人は、80歳で運転することを諦めた。
 まだ問題なく運転出来るようだったが、心臓にペースメーカーを入れていて、お医者さんからの忠告と言うより、本人が自発的に、「もう、車を運転しない!」と言って、運転をやめたのである。
 奥さんは、80歳過ぎた今も、運転をしている。
 この方、元々、高校で、文学、演劇、シェイクスピア、詩などを教えていた。
 上品で、頭がよく、話を始めると、いつまで続くと思うくらい、話に熱中した。
 人を包み込むような包容力があって、トシが、最も尊敬していた人である。
 50代になって、コミュニティ大学から、招請されて、大学で教鞭をとるようになった。

 ハワイの場合、「The Bus」網が張りめぐらされていて、とくに車に頼らなくても、バスを利用すればどこにでもいけるから、ある年代に達したら、車を放棄しても、まったく問題ないと思う。
 マディソンも、ダダッ広い街だが、市が経営する「Metro」があって、バス網が発達している。
 2ドル払って、「一日パス」( One day pass )を買うと、何度降りたり乗ったりしてもいいようになっている。
 
 アメリカでも、ニューヨーク、ロスアンジェルス、サンフランシスコなど大都市では、バス網が発達しているが、大体において、自家用車がなければ、にっちもさっちもいかない
 トシが滞在していたミネソタの田舎町では、スクールバスはあったが、タクシーもない、バスもないでは、自家用車がなければ、動きがとれないのだ。
 何十年か前だと、パーティにみんな車でやってきていた。
 パーティでは、当然アルコールが出てくるわけだから、帰る時には、殆どの人が飲酒運転で帰っていく。
 勿論奥さんが飲まないとか、家から迎えに来てくれる、飲んでない人が運転する車に同乗するなどあったが、結構飲んで運転する人もいたように思う。
 流石に、現在では、そんなこともなくなった。
 飲酒運転に対しては、日本と同様、アメリカでも、取り締まりが厳しくなった。
 何より、世間の目が厳しくなったのである。

 歳をとった人たちの運転は、お薦めできないのは当然だが、アメリカの場合、車を運転するしか、ほかに交通機関がない場合が多いのである。


”Gena " ( ジーナ )

2011-12-15 16:36:57 | 日記

 

 ジーナのことは、本当に70代だと思っていた。
 90歳だと聞いた時は、横にいた人に、「本当にそうなの?」と確認したほどである。
 失礼ながら、後でしげしげ見ても、やはり78歳というところかと思ってしまうぐらい、とにかく若いのである。
 車でワイキキのコンドまで送ってもらったが、余裕の運転で、しかも助手席のトシとずっと話をしていた。

 最初、トシをコンドまで送って行くと言っていたキンベルさんが、夜が深くなって、暗闇の中を運転するのに怖気ついてきたようなので、トシとしては、歩くのは、なんでもなく平気だと言い張ったのだが、「ハワイと言えどもアメリカだから、犯罪もある。いつ何時襲われるも知れない」とか言って、心配なのか、奥さんは、「じゃあタクシーを呼んであげる」とか言っている。
 心遣いはうれしいが、本当にトシは、歩いて帰るのは何とも思ってなかった。

 トシが滞在中、殺人事件があった。
 APECのセキュリティで派遣されてきた人が、夕食をとるため、ワイキキのマクドナルドに入った。
 ここでトラブルが起こったのである。
 土地の青年にからまれ、「撃つぞ!」と何度か警告したようなのだが、なお挑んできたようで、肩に装着していた拳銃を取り出し、相手を撃ち殺してしまったのである。
 この26歳のセキュリティの青年は、何らかの正当な理由があったのか、仮釈放になった。もちろん後で、裁判があると思うのだが。

 数日前、ブライアン家から帰る途中、道の半分をパトカーが取り囲み、車上灯を点滅させているところに出くわした。
 警官が、6人ぐらい輪になって見おろす形で、その中に両手、両足に手錠をかけられた男が転がっていたのである。
 警官が、歩道を占領している形だったので、前に進めなくて、瞬間途方に暮れていたら、「どうぞ、渡ってください!」言われて、犯人の体をまたぐようにして渡ったことがある。
 盗みか、強盗を働いたのかもしれない。このようなことは、ハワイと言えどもしょっちゅうあるのである。
 
 トシをだれが送っていくか、ワイワイしている中で、ジーナが、「わたしが送っていく!」と言ったものだから、みんなはびっくりしてしまった。
 ジーナは、車をとってくると言って先に出ていった。トシも、皆さんにお暇を言いながら、後を追いかけた。
 玄関前の暗やみの中で、ジーナは、
 " I'll come by car soon, so stay here ,don't move OK? " (すぐ車を持ってくるから、ここにじっとしているのよ、動いちゃだめよ!)
 まるで、トシがどこかに逃げるのではと思っているみたいに、しっかり念を押した。

 それでも、5分くらい待っただろうか。
 ライトを点けた車が近づいてきた。
 暗闇の中で、どんな車かはわからない。とにかく中に入ると、いかにも、きれいに整頓されていて、思わず、「良い車ですね」とか言った。
 彼女は、「このホンダには、もう11年も乗っているのよ。でも一度も故障したことがないの」と言った。
 ホンダの車自体も、いいかもしれないが、いかにも大事に乗っている感じだった。
 一路、街道に出て、車は走った。
 少しはもたもたするかと思ったが、まるでスイスイ動いて、横には、多くの車が走っているにもかかわらず、何の心配も無用だったのである。
 彼女は、運転しながら、ずっと話し続けた。

 ジーナは東京で生まれたが、すぐに日本を離れアメリカに移り住むようになった。生涯のほとんどをアメリカで暮らしたと言える。今はもうアメリカ人である。
 ロスアンジェルスやニューヨークに住んでいたということだから、もともとハワイには関係がなかったのである。
 ニューヨーク時代に、結婚しているが、9年後に何らかの理由で離婚している。
 その時の旦那との間に生まれた一人娘が、ハワイに住んでいるのである。
 ジーナが定年を迎えたのを機に、ハワイに移り住む決心をしたようなのである。
 生活自体を娘に頼っているのではなく、おそらく、単に、娘の近くに住みたいとの気持ちからハワイにやってきたようだ。 一緒に住んではいない。
 ということで、ジーナは、ブライアン家の近くに住んでいる。
 ブライアンとブライアンの奥さんとは、仲が良くて、日常的に付き合いがある。
 奥さんが、夕食の準備をしていて、急に思い出したように、「ジーナは、食事を終えただろうか?」などとつぶやく。
 そして、ジーナに電話をかけて、「もう夕食を終えた?」とか聴いている。
 ブライアン家は、いつも忙しいのに、人付き合いがいいというか、いつの間にか、他の人たちがやってきて食卓がにぎやかになってしまうことがあるのだ。


Who gives a ride? " ( 誰が送っていく?) 

2011-12-12 04:55:36 | 日記

 

 「誤算:其の五」
 プールで泳げなかったり、羽田でスーツケースが壊れたり、遠いバスターミナルまで出向いたのに、オフィスが休日で、バス定期の更新ができなかったり、ちょうどAPECの期間にハワイに滞在することになって、交通渋滞などで、身動きが出来なかったことなど、数々の誤算があった。
 しかし一番大きな誤算は、ブライアンが入院したことだろう。
 一緒に将棋をすることができない、みんなでレストランに行けない、野外のパーティもできないなど思惑が外れたことより、彼のしょげ込んだ姿を見るにつけ心が痛んだ。

 ここの所、腹痛が続いていたようで、職場でも、陰でしゃがみ込むなど、本人によると、耐えきれないような痛みを感じていたようなのだ。
 家に帰って、腹がイタイ!と言っても、あまり信用してもらえず、また "play" (芝居をしている) ぐらいにしか思われてなかったようなのである。
 奥さんは、彼を一度は主治医のところに連れて行ったが、そこでもそんなに重大視されなかった。
 夜中になって、激痛が走り、嘔吐を始めるなどの急激な容態変化で、奥さんは、慌ててしまって、近くに住むジーナに急きょ来てもらい、救急車の手配などをしてもらったということだった。
 ジーナは、献身的とも思えるほど,ブライアン家を助けたのである。

 彼女のことは、知っているが、年齢は70代かなと思える女性である。
 元気で、はきはきしていて、頭がよく、上品だとは思っていた。
 ある時、パーティで、皆さん結構飲んでいて、最後のころ、トシをだれが車で送っていくかの話になったことがある。
 トシは、「そんな必要はないよ!夜道を歩くのは好きだし、一マイルも歩けば、ワイキキ行きのバス停に着くから」とか言った。
 そもそも、キンベルさんが、アルコールを飲まないので、送って行こうと言うことになっていた。
 しかし、彼女は極端な方向音痴であるとともに、暗闇を運転することに自信がないようなので、トシにすれば、この際ぜひひとりで歩きたい心境だった。
 「ぼくのことは、心配しなくてもいいよ」と言っていたのだが、やはりだれかが送るべきだとの結論になってしまって、「それでは私が!」と手をあげたのが、ジーナだったのである。

 ジーナの本当の年齢を知ってびっくりしてしまった、90歳だということだ。日系の2世だが、元々ハワイには全く関係がなかった人である。
 お父さんが、福岡県久留米市の出身で、東京の大学、おそらく東京大学に進み、政府機関によってアメリカに派遣された。  最初は、ロスアンジェルスに赴任した。
 お母さんは、横浜の出身のようだ。ジーナ自身は、東京で生まれているが、幼い時にもうアメリカに渡っており、生涯のほとんどをアメリカで過している。
 その後、父親の赴任地がニューヨークに代わった。
 「あの方、コロンビア大学を出ているのよ!」と知人に聞いたことがある。
 今は、歳を重ねて、いかにも穏やかな、そこらにいるおばあさんという感じだが、若かった時は、しゃんとし、自信にあふれ、仕事に打ち込んでいた姿を想像できる。
 話していても、英語がきれいで、歯切れがいい、いかにも教養がありそうな人なのである。
 本人に、聞いたところでは、コロンビア大学の大学院を出ているとのことで、その後は、大学レベルで教鞭をとっていたようなのだ。
 日系移民は、農業移民として、アメリカに渡る人ががほとんどであるが、彼女の場合は、父親の公的な仕事でやって来たということで、仕事が終わったら帰国するはずだったが、何かの理由で、家族はアメリカにとどまったまま、日本に帰ることはなかった。

 彼女は、日本語が話せない。
 彼女によると、日本を出る時は、もう、「父は英語が大変出来たのよ」と言っていた。
 その点、お母さんが、英語は得意でなく、アメリカに渡っても、家では、日本語で会話をしていたようなのである。
 しかしその日本語も、すっかり忘れてしまって、本人に言わせると、「日本語で日常生活の話ができます」と言ったが、この言葉自体が意味不明で、つまり「日本語の日常会話はできます」ということのようだった。
 彼女がしゃべる日本語は、ほとんど理解不能である。
 
 結局、90歳の女性が車を運転してトシを送ることになったのである。