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トイレは、物がものだけに、人前で、あからさまに話題にするというのは具合が悪い。
女性の場合は、特にそうで、仕事の途中など、
「御化粧を直しに行ってきます!」
「手を洗ってきます!」
「ちょっと、お茶を飲みに行ってきます!」
などと、なんとなく、そのものずばりでなく、遠回しな表現にしてしまうのがいいかも知れない。
それでも、最近では、女性の間でも、
「ちょっと、おトイレに行って来る!」
とかのように、あまり気にしないようになってきた。
「トイレ」という言葉は、戦後になって、使われるようになったと思うが、日本人のイメージとしては、「便所」と言う言葉に比べて、不快な感じがなく、言って見れば、ちょっと、上品な言葉として定着してきたからだろう。
「便所」と言ってしまえば、実際はそうでなくても、「不潔」とか、「汚れた」、「悪臭」などを、頭に描いてしまうことに慣らされて、つい使いたくない不快な言葉になってしまった。
一方、アメリカ人にとって、「トイレ」と言う言葉がどんな響きで伝わるのか。
これは、我々とは違って、アメリカ人には、必ずしも、心地よい響きを持つ言葉ではないようである。
「トイレ」は、彼らにとって、便器そのものをイメージするようで、非常に直接的な表現に響くらしい。
われわれが、「便所」に対して描くイメージに似ているかも知れない。
したがって、普通一般には、「トイレ」は、使われていないと思う。
ホノルル空港で、「 toilet 」と書かれたサインがるのを見て、びっくりしてしまった。
おそらくは、たくさん訪れる日本人のためか、かつてのイギリス圏のニュージーランド、オーストラリアの人のためか、と思ってしまった。
イギリスの作家が書いたエッセーを読んでいたら、「トイレ」に関する記述に出会った。
ひと昔前の上流社会などで行われていたパーティで、着飾った女性たちが、トイレに行く場合の苦労が書かれていた。
心安い友達に、それとなく目配せしてから、連れ立って、トイレに向かっていたということである。
一人で、行かないのはなぜか、というと、用をたすためには、かなりの作業が伴うからだと言う。
コルセットを緩めたり、長いドレスを持ち上げたり、一連の動作には、かなりの時間、手間が必要であったのだろう。
複数の女性たちが、連れ添うように、パーティの席を抜け出した。
出来れば、紳士たちの注目をひかないように!
さり気なく、身をかわすように、その場を離れて、踊るように立ち去って行ったのである。
トイレは、館の中でも、混み入った遠くにあって、暗い廊下を歩かなければならなかった。
一人では、怖くて心細かっただろう。
当時は、水洗トイレなどなかった。
トイレは、高い階にあったのは、なぜかというと、臭気が登ってこないよう、3メートルも、5メートルも下の方に穴が掘られていたのである。
女性にとって、トイレの中に入ること自体が恐怖であった。
もちろん、彼女たちは、「トイレ」などを、直接的な呼び方はしない。
彼女たちが、日常的に使っている言葉は、他の人たちが理解できない言葉で、数十種類にも及ぶということだ。
いわゆる、遠まわしな婉曲表現である。
差し詰め、日本語で言うと、「お手洗い」「御手水」「厠」「憚り」などといった、そのものずばりでなく、トイレのイメージとは逆に、なんとなく、美しい言葉で、仲間内にだけに理解してもらえる「隠語」であったのである。
今でも、イギリスでは、Privi, Netty, Loo, WC などという言葉があって、だれでも知っているトイレについての隠語のようなものがある。
先般、香港に行った時、かつてのイギリス圏では、トイレと言う言葉が使われていと聞いていたので、試みに使って見たら、別に驚いた様子もなく、ごく当たり前のように理解してもらえた。
アメリカと違って、イギリスの植民地であったところでは、トイレという言葉の方が一般的であるようで、たとえば、ニュージーランド、オーストライアなどは、当然のように、トイレが普通に使われているようである。
アメリカは、「トイレ」という言葉自体、あまり聞いた記憶がない。 日本の大学で、教えているアメリカ人から聞いた話がある。
「トイレを貸してください!」という表現を、英語に訳して、文字通り、
May I borrow the toilet?
のように訳した学生がいたということである。
borrowは、「借りる」ということなのだが、そのままの意味では、便器を、外して持って帰る、というような意味になって、本来の貸してください、の意味から、まったく、違ってものになってしまうということだった。
「貸して」でなく、むしろ、使わせてください、というべきだった、と彼は言う。
この先生、全く違った話なのだが、日本に来て、さまざまな日本の英語に出会うようである。
東京の理髪店に英語のサインがあって、「Head Cutter」というのがあったそうである。
Hair Cutter ならわかるが、これであれは、「首切り人」になってしまって、理髪店に行って、首を切られのでは、怖くて行けそうにない、と笑いながら言っていた。
アメリカから、所謂タレントが来て、迎えた日本のファンが、サインを下さい!と言って、英語で、
Will you give your sign?
と言った時、その人は、私は「看板」を持っていません、と答えたということである。
これは、冗談で答えたもので、英語では、サインのことを、看板と言う意味があって、普通、有名人からもらうサインは、autograph と言っている。
少なくとも、英語で言う場合は、
May I have your autograph, please?
になるかも知れない。