マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" I've been to Tokyo ! " ( 東京に行ったことがあるのよ! )

2013-07-23 17:49:20 | ハワイの思い出

 

 

 ( ワイキキのビーチ )

 レストランで食事をしていると、懐かしいハワイの音楽が聞こえてきた。
 「サンゴ礁の彼方」、「ハワイアンウエディング・ソング」、「小さな竹の橋で」、「真珠貝の歌」、「ブルーハワイ」などを聞いていると、無性にハワイに行きたくなった。
 実際にハワイにいると、このような日本人好みの歌を聴くことはあまりないのだが、日本で耳にすると、なぜかハワイへの思いを掻き立てられるのである。
 
 最近では、日本にいてもハワイを感じることが多い。
 レストランやコーヒーショップで、それとなく聞こえてくる「ハワイアンミュージック」もそうだし、メニューに「ロコモコ」が載っているレストランがある。
 スーパーに行くとハワイの地元の「ビール」があったり、「マカデミアナッツ・チョコレート」が手に入るし、「コナコーヒー」もある。ハワイの人たちが好きな「スパムの缶詰」も売っている。
 ハワイの高校生などが、気軽に立ち寄って買い求め、おいしそうに食べている「マラサダ」を東京で売っていた。大阪の長堀で偶々入ったレストランで、ハワイ風のパンケーキを食べたこともある。

 パンケーキといえば、ハワイでは、「Eggs'nThings」が、すっかり有名である。
 この店は、創業から37年になるらしいが、トシが知っているだけで2度も移転している。
 急に店がなくなっているのに気づいて、知人に尋ねると、サラトガ通りにあるよと教えてくれる。
 おそらく前にあった店では、手狭でお客をさばききれなくなったのだろう。
 人気があって、いつもアメリカ本土からくるお客さんたちが、早朝から並んでいる。あそこは美味しいよと口コミで教えてもらうのか、なぜか人気なのである。
 ここ数年は、日本人の客が多くなった。何かの雑誌で記事になったのだろうか。  
 この店の売りは、勿論クリーム、シロップ、ジャム、果物などが仰々しく乗ったパンケーキであるが、オムレツやクレープもおいしい。 この店が最近日本に進出するという噂を聞いた。

 戦後まもなくのころは、ハワイも遠い存在だった。
 だれでも行けるというわけでなく、仮に行くことができても、貨物船の空いた部屋に乗せてもらって、10日間も費やして、29万円も払っていた。
 当時の29万円がどれほどの価値があったのかは、庶民にはわからないほどだ。
 最近では、日本のあちこちの空港からホノルル行きの飛行機が飛んでいる。
 福岡からも、ハワイアン航空とデルタ航空が毎日飛び立っている。以前JALとノースウエストが飛んでいたが、9・11やサーズなど、さらにリーマンショックの影響でお客が減ってきて、ついには飛ばなくなってしまった。
 JALは、毎日ジャンボを飛ばしていたが、そのうちちょっと小型のDC10になり、いつの間にかホノルル便がなくなった。
 ハワイに長年住んでいるかなり年配の女性の故郷は大分である。一年に2回里帰りを楽しんでいた。
 福岡行の直行便があったころはよかったが、大阪や東京経由だと、荷物を積み替えたりで、疲れてもう日本には帰れません、と言っていた。
 
 日本のあちこちの文化教室では、フラダンスのクラスがある。
 そこで勉強したフラのグループが、練習の成果をハワイの人たちに見てもらうためか、毎年開かれる「ホノルルフェスティバル」にやってくる。
 どちらかというと高齢の女性たちが多いが、九州から北は北海道まで、日本各地から参加している。

 パーティで、知らない女性が、"  I've been to Tokyo.  " (東京に行ったことがあるのよ!) と話しかけてきた。
 ハワイのプロのフラダンサーで、東京に行った時のことを懐かしそうに話した。
 ホテルやイベントに招かれてフラショウを行っているらしいが、日本の雑誌に載ったことがきっかけで、日本にフラダンスの講師として招かれたようだ。
 「東京駅や新宿の地下街は、素晴らしいわ!」と言っていた、「あのような地下街はニューヨークにもシカゴにもないわ」

 


" A high school teacher " ( 高校の時の先生 )

2013-07-15 13:47:04 | 懐かしい人たち

 

(5)

 

 

( 可愛いいピアニスト ー マディソンにて ) 

 

 O先生は、旧街道を歩きながら沿道の興味ある場所、店、名所、旧跡などをイラストに描き取り地図を作った。
 まるで時代劇の映画に出てきそうな江戸時代の名残を残す町並みをスケッチしたり、休日には、リュックを背負って山を歩き、未発見の古墳を探検していた。
 先生は、気ままに歩き回っていたようだが、生徒の中には、そのような先生に興味を持って、休日など一緒に行動をする者が出てきた。
 「今度の日曜日に古墳を探しに行くのだけど、一緒に来ないか」と友達誘われて、トシもその気になってしまった。
 山には、あちこちに古墳と思える場所が点在していて、それらを訪ねて回るのは興味があった。
 木々が茂って、歩くのも大変だが、何となくこんもり盛り上がり、お椀を反対に伏せたような場所を見つけると、古墳かもしれないと、土を掘っていくと、石組みが出てきたりしたのである。
 入口を探し当て、ローソクに火をともし中に入っていった。
 洞穴の中は、何となく幽玄で不気味でさえあった。そこに暫し佇んでいると、現実を忘れ数百年の時を遡ってしまうような気がしたのである。

 はじめは、先生一人の冒険だったが、そのうち一人また一人と先生についていく生徒の数が増えていったのである。
 まるで課外活動みたいだったが、決まった時間に何をしなくてはいけないとかの厳しい規則もなく、「次は、S山を探検する!」とかの告知がどこからともなく回ってきて、その日には生徒たちが集まってきたのである。 その中には、今まで参加したこともない何人かの生徒が来ていたりした。
 先生の家に招かれたこともあった、と言っても先生の家ではなく、先生が下宿している家である。家主の奥さんが、手作りのヨモギもちを出してくれたこともある。

 図書館で、女性の国語の先生から、「O先生は、石坂洋二郎のファンなのよ!本当は、石坂洋二郎が出た慶応大学に行きたかったそうよ」
 「どうして行かなかったのですか?」
 「それがね、家の人は、O先生が、大学に進学すること自体に反対だったそうよ!経済的に進学は無理だって、当時はだれもがそうだったのだけど」
 親は、O先生が地元の国立大学に合格したら、行ってもいいということまでは譲ったようだ。
 一発で合格しなければ、浪人して再挑戦するなどもってのほかで、すぐに社会に出て就職するということで親族の意見がまとまった。
 慶応については、たとえ行けないとしても、試験だけでもという気持ちを持ち続けていて、そのことをひそかに母親には相談していた。
 慶應を受けるために、蓄えた貯金をはたいて、いざ東京に行く段になって、母と姉が、餞別ということでかなりのお金を援助してくれた。
 そのお金を持って上京して、ついに受験を果たしたのである。
 そして後日合格の通知を受け取った。
 はじめから合格してもいけないだろうとは思っていたが、それでも、そのことがO先生にとって、生涯の思い出になる出来事だったようだ。
 結局、国立大学の一期に合格して、そこに行くようになった。
 当時は、奨学金が月額2,800円だった。これだけでは、学業を続けるの不可能で、今のようにアルバイトをするのが当たり前という時代ではなかった。

 そのような話を女性の先生から聞いて、初めてO先生の身の上話みたいなものを知ってしまったが、当のO先生自身からは、その後も、そのような身上話は聞くことがなかったのである。

 


" O-sensei,again " ( O先生、つづき )

2013-07-05 20:56:00 | 懐かしい人たち

 

 (4)

 

( トシの美術館 )

 O先生には、リーダーの教科書を習っていたが、教科書以外の副読本も習っていて、そちらのほうが印象的な授業だった。
 トーマス・ハーディ、サマセット・モーム、ジェイン・オースティン、O・ヘンリーなどで、英語を読む楽しみを教えられて、その後大学に入ってからも、自分で洋書を買い求めて、様々な英語の書物に親しむきっかけを作ってくれたように思う。
 授業中よく小テストを行っていて、そんな時生徒たちは、机に向かって前かがみに答案用紙に没頭していたが、先生は、生徒たちの机の間を歩き回りながら、時々答案用紙をのぞき込んでいた。

 コトコトと歩く先生の足音が、トシの机のところで止まる気配がした。
 答案用紙を見ているのかと思ったら、
 「ヤマダ!オマエの顔にひげが生えているぞ!」と先生が言った。
 シーンと静かな教室にこだますような声で、生徒たちが一斉に笑った。
 顔に薄くひげが生えだしているのは知っていた。
 友達が、「一度剃ると、癖になって毎日剃らなくてはいけないようになるぞ!」と言っていたので、面倒くさいからと敢えて剃るのを控えていたのである。

 家に帰って母親にそのことを言うと、次の日に、母は、どこからか貝印の細長い髭剃りを買ってきた。
 朝、顔に石鹸をまぶして、恐る恐る剃ってみた。上から下に向けて剃刀を下げるはずが、斜めに、あるいは横向きに剃ってしまったのか、あちこちの傷ができて、そこから血がにじんできたのである。
 急遽、母親がメンソレータムを持ってきて傷口に塗ってくれた。
 学校に着き教室に入ると、トシの顔の異変に気づいた友達が、「オマエ!傷だらけじゃないか!」とか言って、周りにいたみんなが大笑いした。
 家に帰ると母が女性用のフェイスクリーム「マダムジュジュ」を買ってきてくれていた。男性用化粧品など売っていないころである。

 ある時、放課後に図書館で、国語の女性の先生と話をしていて、O先生の個人的なエピソードを聞いてしまった。
 その頃はまだ戦後の混乱の時期を脱しきっていないころで、日本全体が、何か暗く打ちひしがれていた。
 国民は何事にも自信を持ちえないころだったが、そのような時、みんなを元気にしてくれるような明るい話題があった。
 一つは、湯川秀樹さんが、日本人として初めてノーベル賞をもらったこと、もう一つは、「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進さんが、水泳で立て続けで世界新記録を出していたこと、また一つが、石坂洋二郎さんが、「青い山脈」など、ことさら暗い世相にあって、明るい小説を書き続けていたことである。
 
 石坂洋二郎の描く舞台は、東北の高校だった。
 当時、東京などの大都会では、一人一人が生きていくために、獅子文六の小説の主人公のようにお茶の水で「モク拾い」(たばこの吸い殻)をしながら生きていた。
首相になった鳩山一郎さんでも、屋敷に畑を作って、人糞を肥料に野菜を育てていたのである。
 「蛍雪時代」を発行していた旺文社の赤尾社長も巻頭言の中で、いまどき羽振りのいい若者を見たら「ヤミ屋の息子と思え!」と言っていたの今でも覚えている。
 そのような中で、東北の田舎の高校で、健気に、逞しく、そして明るく生きていく若者たちの青春群像を新聞の連載物として描いていた小説に人々は熱狂したのである。
 「青い山脈」が映画化された時、みんなが映画館に押し寄せた。
 あの懐かしい原節子、池辺良、杉葉子、若山セツコ、小暮実千代などそうそうとした俳優たちが出ていた。

 「O先生は、石坂洋二郎のファンなのよ!」とその女性の国語教師が教えてくれた。
 O先生自身は、あまり個人的なことを授業中に話さなかったので、石坂洋二郎が好きだというのは、初めて知ったのである。興味があったので、もっと詳しいことも訊いてみた。
 
 O先生は、石坂洋二郎と同じように慶応大学を出て高校の先生になりたかったようである。
 石坂洋二郎は、青森県の弘前で育った。
 慶應大学を出て、地元の女学校に奉職した後、秋田県横手の女学校に移って、さらに横手高校で教えた。
 彼が描く世界は、東北のこれらの地方での彼自身の教師としての実体験がもとになっていた。
 
 

 


" O-sensei " ( O-先生のことも )

2013-07-01 08:19:28 | 懐かしい人たち

 

(3)

 

( ウイスコンシン大学にて )


 高校を卒業してから後、F先生に再び「会った?」のは十数年後だった。
 トシが研究発表する機会があって、それには、アメリカ人など外国人も参加するということだったので、日本語でなく英語で発表することになった。
 その時F先生が参加されていたようだが、後部座席に座っていて、トシは、全く気付かなかった。そのことを後になって知ったのである。
 ある時同僚が、雑誌をもってきて、「あなたのことが載っているよ!」と言ってきた。読んでみると、F先生が書いたもので、トシの研究発表について書かれていたのである。
 「かつての教え子のY君の研究発表会に参加した・・・・・」のように書き始めていて、同時に研究発表の内容についての論評もあり、かなり好意的なものだった。

 びっくりしたのは、先生の教え子は、数えきれないほどいたはずなのに、その中のたった一人の自分のことを覚えてくれていたことだけでもうれしい気持だったのである。
 先生は、いくつかの高校を転勤して、女子大の助教授になる前は、県下でも有数の進学高で教えていたようだった。
 先生が、長年英語教育に尽くしてきたこと、研究書、論文、学会発表、それにフルブライトでアメリカに留学したことなどが認められて女子大に招請されたのだろう。

 そのようなことがあっても、お互い会って話をすることなどなかったのだが、ある時、先生にお会いする偶然の機会が訪れたのである。
 トシが女子大に講師として招かれたことがあった。
 女子大だから、女子ばかり目立つのは当然だが、そんな中、研究室に向かって廊下を歩いていると、女性たちに混じって、向こうから男性の明らかに教授という感じの人が歩いてきた。
 何気なく会釈をした時、その方が、「アッ!」と小さく声を出して立ち止まった。
 「ヤマダクン?」と言ったような気がした。
 その人がF先生だったのである。この瞬間は、お互い教える立場の教師であることを忘れ、「恩師と教え子」の対面であった。
 思わず「気ヲツケ!」の姿勢で身を正して、「ハイッ!」と言ってしまった。

 その当時、F先生は、50歳を超えていたと思うが、若い時と同じように端正な顔をしていて、すらっとした姿勢であった。
 先生は、トシが習っていたころ、剣道部の顧問をしていて、放課後体育館で生徒たちに剣道を指導していた。
 ご自身かなりの有段者で、剣道具に身を包んで生徒たちと練習に励んでいるとき、ひときわ目立って、さっそうとして見えた。
 その先生が、数十年の時を経て目の前にいたのである。

  O先生のこともよく覚えている。
 O先生は、難関の国立大学で英文学を専攻して、卒業と同時に新米の先生として赴任してきた。
 トシが通っていた学校は、江戸時代から続く藩校を引き継いだ高校で、長い歴史と伝統を誇っていた。
 4月の学年の初めに、講堂で新任の先生たちが全校生徒の前で紹介された。
 校長の紹介を受けて、O先生が挨拶をした時、「このような歴史や伝統に恵まれた学校に赴任できたことはうれしい・・・・」みたいなことを言ったのを覚えている。
 O先生は、単身で、学校の近くの民家に下宿していた。
 休日には、近隣の史跡、歴史的謂れのある場所、旧家、名のある人たちの墓、五重の塔、旧街道、寺院などを散策するのが楽しみのようだった。
 時には生徒たちに声をかけて、誘ったりしていたのである。当時はカメラなどなく、先生は、もっぱらノートにスケッチしたりメモを書いたりしていた。
 墓碑銘などを丹念に写し取ったりしていて、それを授業の時に持ってきて生徒たちに説明したりしていたのである。
 
 トシの学校は、3人の先生から英語を教わっていた。一人の先生が英文法を、もう一人が英作文、さらにもう一人が英語の読解、つまりリーダーの先生だった。
 一週間に、作文が一コマ、文法が一コマ、リーダーは3コマだった。
 O先生は、リーダーの先生だった。テキストのほかに、副教材として「サマーセット・モーム」なども習った。