恋人は日本茶☆東京茶業青年団

もう日本茶しか愛せない東京のお茶屋若旦那衆「東京茶業青年団」の恋人(日本茶)を紹介する日記です。

日本茶の「勘所」~あの香りはどこへ行った~を拝読して、読書感想文を書いてミマスタ。

2015-10-28 13:25:54 | Weblog

  秋ですね~、お茶の季節ですね~、食欲の秋ですね~、読書の秋ですね~

 

なんだかまったりとする今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

東京茶業青年団のしんがり、捨て駒団員です。

 

以前、会社の上司から「勉強のために読んだら」と渡された書籍「日本茶の【勘所】~あの香気はどこへいった?」飯田辰彦著を、ようやく読了いたしました。

 

お茶に携わる<達人>たちの取材を通して、著者が茶業界、現在のお茶の在り方に提言しながら書かれたものです。

 

茶業者ならぜひご一読され、先人のお茶作りの熱き思いを感じることが出来れば、私たちのお茶に対する熱意の添加剤になる良書ではないかと思います。

 

しかし、私個人の意見としては、著者の主張があまりにも短絡的で偏っていて、この書籍を鵜呑みにすれば、大きな誤解を招きかねないと危惧するので、

 

僭越ながら「言論の自由」というエヴァンゲリオン初号機を発動し、一筆啓上してみたいと思います。まあ、ただのいち団員のぼやきですが・・・

 

 

まず、この著者は今の茶業界において相当な憤りがあられるようで「消費者不在の殿様商売」などと、度々厳しい言葉で断罪し、茶業界の怠慢を色々な角度から批判されています。

 

この著者の言う「香気」とは、「萎凋香」を指し、これを欠点としてしまった「全国茶品評会」の制度の在り方、

 

全国品評会を頂点とする他の品評会の在り方や「胸やけしてたくさん飲めない、とても飲む気になれない「やぶきた深蒸し」」一辺倒などなどが

 

「消費者不在」の日本茶離れの原因ではないかと書いています。

 

そこで、茶所に生まれ育った著者が、むかしのおいしい煎茶の「勘所」を追求していく流れ、ストーリー展開になっています。

 

私の結論から言えば、この書籍は「日本茶の勘所」ではないと感じました。私がタイトルをお付けするとすれば、

 

著者の「思い出のお茶探しの旅~あの香りを求めて~」が妥当だと思います。

 

まずこの著者は「萎凋香」が大好きであり、ふるさとの茶畑から消えた香りを、中国茶、高地の紅茶に求め、そういったものを嗜好していると公言しています。

 

そこまでいくともう日本茶の話ではないですね。「母を訪ねて三千里」歩いているうちに「ドラゴンボール」を探し始めてしまったくらいの印象です。

 

そもそもお茶の作り方が違うので、でしたら引き続き紅茶や中国茶を楽しく飲んでくださっていればいいですね。

 

紅茶・中国茶と比べて、日本茶に「香りがない」というのは、なんの香りのことを言われているのでしょうか?

 

日本茶(煎茶)は、基本熱湯で淹れないので、香りの立ち方も違うのはもちろんです。しかし日本茶に限って言えば、言わんとしている主張の真意はわからなくはないです。

 

紅茶と中国茶と比べて「香りがない」と断罪するは早計だと思うのです。 そもそもが違うので。

 

寿司を食べて、「生臭いから焼いてくれ」と言っているようなもので、だったら最初から焼き魚を食せばいいではないか?ということです。

 

確かに、昔は在来品種を萎凋させた「いい香り」のお茶があったと聞いていますし、昨年、「日本茶アワード2014」において、四国の山間地で栽培された在来の、

 

その手のお茶が出ていた時は、「これはうまいお茶だな~」と感じ入ったものです。お茶の見た目は悪かったが、非常に美味しかった。

 

だからと言って、これが「本来のお茶か?」と聞かれれば、正直よくわかりません。そもそも「本来のお茶」とは何であろうか?もはや哲学的問いだと思います。

 

この著者が言う、【本来のお茶(むかし著者が飲んだお茶】その原点に返れという論調になっていますが、この本にも登場しますが、

 

手もみ茶主流から機械式に製茶方法が変わった時、従来の手もみ茶の茶師から「機械で仕上げるなんてお茶じゃね~」と茶師からは相当な批判があったであろうとは容易に想像がつきます。

 

また手もみ茶にも流派があり、「うちが本当のお茶だ!」と、皆さん、こだわりを持ってやっていたことだろうと思います。

 

そういった視点から見れば、著者の時代のお茶ですら、もうすでに「本来のお茶」ではないと言えるのではないでしょうか?

 

7200年前にさかのぼり、山野を駆け巡られた<神農帝>か<陸羽>にでも「本来のお茶」って何ですか?と、定義をぜひとも拝聴したいものです。「どらえもん」がいればですが・・・

 

また、なぜか著者は「全国茶品評会」について非常に批判的です。しかし、書籍の中では、この全品(全国品評会の略)で農林水産大臣賞一等一席を取った茶師を評価して書いて取材しています。

 

この茶師の方は、末席の我々でもお名前を聞くことのある有名なお茶師で、お茶作りの情熱は大変なものだと尊敬をさせて頂く方です。

 

そういった方々をも、「全品=悪」と書いて片づけてしまうのでしょうか?この文脈・文章にも矛盾と憤りを感じます。

 

そもそも、全国品評会がピラミッドのトップで、全国で行われている各品評会がその右に倣えとなっている、とは、完全に取材不足であるといえます。

 

ちなみに我々の「東京都茶業組合主催優良茶品評会」は、45回を数え、「味本位」の審査基準で、全品とは一線を画しています。

 

全品批判の矢面にある萎凋は、日本茶にとっては行き過ぎた場合、やはり欠点であります。(嗜好があるので欠点とは言い切れないが、飲んだらやはり「マズイ!」というレベルがある。)

 

しかし「ある程度の萎凋は評価するように!」と組合審査長が毎回口を酸っぱく注意点として挙げておりますし、これは、業界や行政の品評会を審査する先生方も耳にされており、

 

そういった事実からも、「今の茶業者は勉強不足で萎凋を知らない」と言い切る記述に関しては、ハッキリと「否」と言っておきたいと思います。

 

また、全品で出品されているお茶と、各地の品評会で出品されるお茶は、審査員も違えば上記の東京都の品評会の様に基準も違います。

 

各地の品評会では、特徴があるお茶が出品、審査され、そこでしか出合えない素晴らしいお茶があります。

 

だから、我々茶業者は、わざわざ全国各地に出向いてお茶を買いに行くわけです。逆に全部が全国品評会で済めば、ハッキリって効率的でとても楽だとは思いますが。

 

そして「消費者不在」とよく登場しますが、なんのことでしょうか?この多種多様な時代に、嗜好をおおざっぱに「消費者」と括ること自体ナンセンスではないでしょうか?

 

もし仮に、この著者が提唱するお茶づくりが100%かなえられる世界が来たとしたら、万事解決、茶業界はますます隆盛し、その不在の消費者は諸手を上げて喜ぶのでしょうか?

 

茶の栽培・製造には手間がかかる分、お茶価格はかなり跳ね上がるでしょうし、全体のお茶の生産量は著しく減り、それに反して素晴らしい「本来のお茶」が増える。

 

「素晴らしい萎凋だ!私たちはこれを待っていた」と、みんな急須を買い、お茶の葉を買い、ペットボトルは衰退し、もちろん粉末茶やティバックも世界記憶の遺産に、

 

一億総日本茶時代が、ついにやってくるのでしょうか?どうでしょうか?ぜひ想像してみてください。

 

 

ちなみに、私の知る狭い世界では、生産家・農家の方は、同世代の若手は本当に真剣に、情熱的に、「自分たちのお茶を作るんだ!」と取り組んでいます。 

 

 

またその生産家に対して、農業的な問題、添加物などかいつまんで取り上げていますが、正直それの一つ一つが深すぎて、それを茶業だけに負わせるのは非常に無理があると感じました。

 

これは、社会全体の問題、日本という国の仕組みの問題になります。しかし、その中で茶業がどういうスタンスでいるかということは大変重要であります。

 

 

また、有識者などの言葉をいくつも引用しておりますが、なんと著者がそれを加筆しています。

 

(傍点著者)という表記になっていますが、我々は、行間を読むことこそが大切であって、そこに著者の誘導的加筆は全くもっていらないのであります。

 

最後には、素晴らしい言葉なので<天の声>だと思って心して読んでくれ!と、その先人の言葉にも加筆しています。

 

著者はさしずめ、茶業界に金言を垂らす「神」なのでしょうか?。驚きを禁じえません。

 

 

しかし、この本は、いろいろな意味で刺激を与えてくれます。先人の思い、著者の主張などなど。しかし、事実と違える部分は、ハッキリと言っておきたいと思います。

 

著者も最後に「熱い議論を重ね、赤裸々なニーズを探そう」と締めくくっているので、その言葉に甘えて、私の感想を書かせて頂きました。ま、議論ではない感想レベルですが。

 

正直、「香りがない」という言葉は、あながちわからないわけではありませんし、身につまされる指摘や発見もあります。

 

しかし、かなり主張に偏りがあり、それこそ胸やけを起こして呑み込めないのが、率直な意見です。

 

 

「消費者」という言葉が度々出て登場します。確かに、業界全体、お茶に対して、いろいろな改善点があることは聞き及んでいます。

 

しかし、北海道でのお茶と沖縄でのお茶では嗜好が違うと思います。著者と深蒸し党でも違うと思います。あなたと私でも違うと思います。

 

だからこそ、お茶屋があるんです。それも全国にたくさん。

 

全国品評会の順位上からお茶に値段がついて、お茶屋に配給されるわけではありません。各店舗の主人が嗜好を突き詰め、提案しているのがお茶屋です。

 

二軒お茶屋が並んでいても、その実、内容は全く違う商品なのがお茶屋です。好きな店で買えばいいんです。そこになければ隣町でもいいですし、それがお茶屋です。

 

著者の嗜好は否定しませんし、良いと思ういます。しかし、私が一番許せないのが「やぶきたの深蒸し」のお茶を好きな人たちを、

 

何も知らない消費者と言わんばかりの、人の嗜好を馬鹿にする上から目線です。

 

お茶が好きで、そのお茶によって幸せになったり、癒されたり、体を健やかにされている「消費者」がたくさんいらっしゃるのも事実です。

 

 

そして、著者が一番知らなくてはならないのは、その「消費者」はとても賢く、自ら取捨選択して選んでいるという点にあります。

 

そういった意味で、お茶の業界はたくさんある飲み物・飲料の中で「選ばれる」ように努力しないといけないのは、当たり前のことで、

 

著者より選ばれていない事実を「怠慢」と言われれば、反省して今からでも改善していかなくてはならなりません。

 

もう一歩言えば、もはや「業界」という括りすらどちらでもいいのかもしれません。

 

ノートルダム清心学園の渡辺理事長のお言葉を借りれば、「置かれた場所で咲け」ばいいのだと思います。

 

自店が今ある場所において、お客様の為に咲き、その周囲のお客様をお茶で幸せに出来ればそれが何よりであり、

 

それこそが人を幸せに出来る「本来のお茶」「本当のお茶」ではないでしょうか?

 

その「咲く」ために、深蒸し茶なのか、萎凋したお茶なのか、また別のお茶なのかは一生懸命お客様とともにコミュニケーションをとり、

 

お茶屋は仕入れを、生産家さんとともにお茶づくりを一緒になってして考えていくしかないと思います。

 

そしてそれは、日々精進して色々な角度からお茶を追求していく、お茶様との窓口であるお茶屋の務めでもあるともいえます。

 

 

過日の青年団主催の全国茶審査競技大会での来賓あいさつをしてくださった、茶業中央会の専務理事のお言葉に大変感銘を受け胸に刻まれましたので、

 

最後にご紹介したいと思います。

 

「今までの遺産は食い潰してもいい。これからあなた達が遺産を作っていきなさい」

 

 

大変失礼な書き方になってしまい、また長文になってしまいましたこと、お詫びさせて頂きます。

こういった書籍を通して、改めて考えさせて頂く機会になったこと、この著者に感謝を致したいと思います。

ということで、この書籍をおすすめいたします!

 

 


第一回 新・急須デザインコンテスト

2015-10-07 16:47:52 | Weblog

【第一回 新・急須デザインコンテスト】

 

茶業界の若手有志の方々が、今年から始めた、全く新しい急須をデザインするプロジェクトです。

 

我こそはと思うデザイナーの方、また「こんな急須があったらいいな~」と考えてる主婦の方、

 

そしてロッケンロールな若者も是非とも応募してみてください。(パクリはやめてね)

 

主催者曰く「こんなの売れるの?製品に出来るの?っていうもの大歓迎」だそうです。

 

詳しくは「新・急須デザインコンテストホーム」ページ