『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1299】「自分が存在する」ということは、それ自体が時空を超越している、

2008-02-10 06:01:13 | 思索
『暮らしの哲学』は、池田氏の最後の著書であり、
今後、池田氏の著作の内容について、このブログで深く触れることはないと思いますので、
もう少し書きます。といっても、全体を書き写すことは出来ません。(^^;ゞ

独善的な簡単な見出し(?)を作りましたので、興味のある方は、書店でごらんください。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★言葉を持っている「私」は無限である。(p48)

★「観念」は、個人の思い込み
 「概念」は、普遍的絶対性の「考え」を指します。(p51)

★つまり、「私が」無限なのだと、必ず気づかざるを得ないのです。

★人を救うことができるのは言葉であって、その意味で、
 言葉こそが命なのだと、私は言うわけです。

この言葉の力とは何なのか。今さらながら私には、不思議でしかたがないのです。(p56)

★自分を見ている目も、自分の目である。
 地上の私を見ているこの眼もまた、必ず私なのだ。(p134)

なぜ、「自分を客観的に見るという眼(想念)」があるのかが不思議。
この眼(想念)があるので、人間は、たとえば「宇宙と自分の関係」を考えることができる。(知足)

★人間を衝き動かす、「好き嫌い」の不可解
 人間の「嗜好性」は、どこからきたのか?(p146)

★「自分が存在する」ということは、それ自体が時空を超越している、
 もしくは、時空を内在している出来事なのだと気づくなら、
この世の時系列に沿った生まれ変わりの物語など、
文字通り「物語」でしかなくなります。(p202)

★人は、「死(無になること)」を恐れているのではなくて、
 「わからない」ことを恐れているのです。(p206)

【1298】「死後」は観念である。生きている自分の「思い」である。

2008-02-10 04:47:25 | 思索
池田晶子さんの最後の著書である『暮らしの哲学』(毎日新聞社刊)を読みました。
 昌美氏の著作についても言えることなのですが、「読むたびに勇気付けられて、
自由で新しい境地に立たされる」と思えるのは、双方とも「真理が語られている」からだと思うのです。(^^;ゞ

ただ私は、「哲学的な考察全体と、宗教的な考察全体の、どちらが、より真理に近いのか?」と考えがちでして、(^^;ゞ
そのあたりに迷いがあります。(^^;ゞ

双方の扱う対称はどちらも「人間存在」です。

それを「偶然」と捕らえるのか、「必然」と捕らえるのかの違いが、
哲学と宗教の違いです。(^。^?

心情的には、「存在は必然」と思うのですが、(^^;ゞ
「疑い、考えることの心地良さ」(哲学)には、捨てがたいものがあります。(^^;ゞ

現実的な行動として、どちらかを選ぶ場合の指針としては、
「どちらを選べば、自分の人生をより豊かにできるのか?」という問いを自分に発して、
「答え」を得るようにしています。(^^;ゞ

『暮らしの哲学』は、『サンデー毎日』に連載されたコラムなので、平易で読み易いです。

「精神世界」と「死後」と「死」について、哲学的に考察された文章がありますので、
興味のある方は、書店でご覧ください。P195~P209です。

タイトルを書いておきます。
【精神世界ブームなんて】(P195)
【「死後」は何処にあるか】(P200)
【「死」は怖いものか?】(P205)

 いまだに、「哲学か?宗教か?」とゆれている私(笑)であり、
池田氏の著書を通じて、自分にその問いを投げかけていました。(^^;ゞ

池田氏の著書のすべてに目を通したのですが、ついに「解答」を得ることができませんでした。(^^;ゞ

ただすくなくとも、「哲学には、アセンション(次元上昇)に、対応する方法がない」と思うのです。