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15944、シリア問題はレバノンのヒズボラと連動、シリアの崩壊はイスラエルの願望?

2012年02月06日 19時11分35秒 | thinklive

この記述はイスラエル支配そのものの分析不足は否めないが、イスラエル、シリアの敵対関係は分かる

レバノン情勢とシリア、イスラエル情勢のリンケージ

 レバノンは三方を地中海とイスラエル、そしてシリアに囲まれている。だから、レバノン国民が望むと望まずに関わらず、シリアおよびイスラエル・パレスチナをめぐる情勢は、もろにレバノン情勢に影響してくる。1943年の建国以来、そのことは幾度となく証明されてきた。イスラエルが建国され、パレスチナ地方がアラブ世界から孤立したことによって、当初レバノンは利益を得た。パレスチナの富裕層の投資がレバノンに流れ込んだからだ。またレバントにおける主要貿易港の地位はハイファ港からベイルート港に移った。一方この時期、シリアが社会主義経済体制をとったため、シリアの資金もレバノンに流れている。1970年代前半まで続くレバノン経済の繁栄の条件はこうして整ったのである。

 しかしものごとは良い方向ばかりには進まない。1967年の第三次中東戦争後、パレスチナ・ゲリラの活動が活発になると、ゲリラの拠点となったレバノンはとばっちりをくらうようになった。ゲリラがイスラエルを攻撃してはレバノンがイスラエルの報復攻撃を受ける。ゲリラを支持する声と、ゲリラの取り締まりを求める声との間で、レバノン世論は分裂した。そこに様々な国内対立も重なり、とうとう1975年からレバノンは泥沼の内戦・政府不在状態に陥ってしまった。

 これがようやく収拾されたのは実に15年後の1990年になってからである。それまでシリアによるレバノン支配を許さなかった米国とイスラエルが態度を翻したからだ。第一次湾岸戦争でシリアが反イラク多国籍軍に加わるのと引き換えに、米国はシリアによるレバノン実効支配を認めた。イラクのクウェート侵攻から2ヶ月強が経過した1990年10月13日、シリア軍は最後まで大統領府にこもって抵抗を続けるアウン将軍派の部隊に総攻撃を加え、アウンはパリに亡命を強いられた。それまでレバノン領空へのシリア空軍機の飛来を許さなかったイスラエルは、米国とともにこの成り行きを黙認した。こうしてシリアのレバノン実効支配が完成したのである。

そのシリアの実効支配が終焉した2005年11月の現在。レバノンは再びシリア情勢の進展を、息をひそめて見守っている。

 ハリーリ・レバノン前首相暗殺事件に絡むシリア人高官の事情聴取問題では、進展があった。メヘリス捜査団長が回答期限と定めた11月25日になって、それまで強硬姿勢を貫いてきたシリア側が突然折れた。高官5名を事情聴取のためウィーンに派遣することに同意したのである。シリアに捜査への全面協力を求める安保理決議1636号が採択されてからほぼ1ヶ月。29日にようやく事情聴取が実現する見通しが立った。

 シリアが土壇場で折れたのは、サウジやロシアの強い説得があったからだ。特にロシアは、「もしメヘリス捜査団が事情聴取後に5人を容疑者と認定したとしても、オーストリア国内では逮捕させず、いったんシリアに帰国させる」という保証をシリアに与えた模様だ。

シリアは「事情聴取はシリア国内で」という要求を引き下げた。一方メヘリスの側は、「事情聴取はベイルートの捜査団本部で」という要求と、「6人の事情聴取」という要求を引き下げたことになり、いわば双方の痛み分けのかたちで妥協がはかられたのである(なお、今回の事情聴取から除外された1名が誰かは公表されていないが、アサド大統領の義兄アーセフ・ショウカト軍情報機関長官ではないかとする見方が有力)。

行き詰まりはとりあえず打開された。しかし、メヘリス捜査団の任期が満了する12月15日までに捜査が完了する可能性は低いし、今後シリアが捜査団側の要求に唯々諾々と応じる可能性も極めて低い。ハリーリ暗殺事件をめぐるシリアと国際社会の間の緊張はまだまだ続きそうだ。

イスラエル政局の急展開 一方、イスラエル政局は今月に入って誰もが予想しなかった速度で急変しつつある

ことの起こりは、10日に労働党の党首選でアミール・ペレツがシモン・ペレス副首相を破ったことだった。モロッコ系移民で労働総同盟議長のペレツは、ロシア・ポーランド系ユダヤ人が指導部を握るエリート政党労働党の中では、目立たぬ存在だった。国際的にもほとんど無名に近い。対するペレスはイスラエルの核開発計画推進者にしてオスロ合意の立役者、故ラビン首相、故アラファト議長とともにノーベル平和賞をもらった世界の名士である。

そのペレスがペレツに苦杯を喫した理由はふたつ。ひとつは、連立与党の一部として、リクードの政策に従属するばかりの指導部に対し、党内の反発が強まったことだ。もうひとつは経済政策である。安全保障問題優先のシャロン政権下で、失業率がかつてなく高まるなどイスラエル経済は苦しい。労働者のための政党という党の原点に回帰しようとする党内の声が無視できなくなっていた。党内のこういった雰囲気の変化が、無名のペレツを党首の座に押し上げたのだ。

 党首となったペレツは公約どおりにリクードとの連立解消・クネセット(イスラエル国会)選挙前倒しを求めた。これにより、シャロン内閣の崩壊・選挙の早期実施は不可避の情勢になる。

 ここで今度は老獪なシャロンが行動を起こした。何と、リクードを割って出て、新党を立ち上げたのである。軍から政界入りして以来、一貫してリクードの枢要幹部として活躍してきたシャロンが、惜しげもなく党を捨てるという奇策に打って出たのだ。

 シャロンが8月に強行したガザ撤退政策は、元来大イスラエル主義(旧英国委任統治領パレスチナ全土をイスラエル領と見なし、入植や併合を推進する立場)によって立つリクードを震撼させた。ネタニヤフ前首相を中心とする党内右派の抵抗は激しく、最近のシャロンは党内の反発によって閣僚人事も自由に進められない状況に陥っていた。

早期選挙が不可避となった以上、これ以上リクードの枠に固執していては労働党に負けるかもしれない。仮に勝てたとしても、党内で足を引っ張られていては自らの信ずる政策を遂行できない……そう読んだシャロンは、リクードを捨てて新党を立ち上げるという奇手に打って出た。21日にシャロンはカッツァーブ大統領と会談し、クネセット早期解散・総選挙前倒しを要請。その日の夜には記者会見を開き、中道新党「国民の責務」設立を宣言した。

イスラエルの主要日刊紙複数が行った世論調査結果では、全120議席のうち、シャロン新党は30議席前後を獲得する反面、リクードの獲得議席はその半数程度にとどまる。労働党は25、6議席前後。どの調査結果も、シャロン新党が第一党となって、労働党あるいは宗教政党、左派・中道政党などとの連立与党を構成し、シャロンが首相三選を果たすと予測している。

パレスチナ側では来年1月25日に、1996年以来実に10年ぶりの自治評議会選挙が実施される。そしてその2ヵ月後の3月28日、今度はイスラエル側で総選挙が実施される。そうやってイスラエル・パレスチナ双方の新指導部が発足する4月以降まで、和平交渉にはほとんど動きがないだろう。

ヒズボッラー、イスラエル軍と大規模交戦

さて、イスラエル政局がシャロン新党騒ぎで大混乱する最中の21日、イスラエルとレバノン国境付近の広範な地域で、シーア派武装組織ヒズボッラーとイスラエル軍の間で大規模な交戦が起き、ヒズボッラー側のゲリラ4名が戦死、イスラエル軍兵士1名も死亡した。

 空爆や迫撃砲でヒズボッラー側拠点を攻撃するイスラエルに対し、ヒズボッラー側はカチューシャ・ロケットと迫撃砲でイスラエル領内に砲弾の雨を降らせ、国境に近いイスラエル側の町では住民が地下シェルターに避難する騒ぎになった。2000年5月にイスラエル軍がレバノン南部から撤退した以降では、最大規模の交戦である。

 一方、ヒズボッラーのナスラッラー書記長は25日に行われた戦死者の葬送集会で、衝突に先立ちイスラエル側が度重ねてレバノン領土・領空・領海侵犯を行っていたことを指摘。ヒズボッラーの反撃を正当防衛であると弁護した。

 イスラエル軍兵士拉致を企てたかどうかは明言しなかったが、「拉致は犯罪ではない。レバノン人捕虜が未だにイスラエルの獄中にある限り、そしてイスラエルから譲歩を引き出すには力を行使する以外ないというのが現実である限り、イスラエル軍兵士の拉致はヒズボッラーの権利、いや義務である」と断言、「イスラエルに死を!アメリカに死を!」と連呼する大群衆から喝采を受けた。



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