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22798、ケネディ家、米国では王朝?尊敬される理由、充分に犠牲は払った!

2013年09月20日 18時04分30秒 | thinklive

*ケネディ大統領の父親、ジョセフ.P.ケネディのいくつかの伝記につぃては読んだ記憶があるが、ウキペディアのジョーの記録は、禁酒法時代のケネディについてはマッタク触れていない、意図的に削除したと考えたくなるほど、とにかく、以下、

1888年、ボストンにアイルランド系政治家の子として生まれたジョセフ・P・ケネディ・シニアは、ボストン・ラテン・スクールからハーバード大学に進み、金融業につくと株式市場を利用して莫大な財産を築いた。この財産を元手にさまざまな資産を運用するようになった。第一次世界大戦中、ケネディはベスレヘム・スチール社の造船部門の支配人補佐となり、海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルトと知り合った。その後、映画産業に食指を動かし、いくつかの映画会社を統合してRKOを設立する過程で一財産築いた。さらに1933年に禁酒法が廃止されると、ルーズベルト大統領の長男と組んでサマセット社という会社を設立、ジンとスコッチの輸入を一手にとりまとめさらなる富を生み出した。1945年には建設当時世界最大のビルだったシカゴのマーチャンダイズ・マートビルを買い取ったことでも有名になった。
しかし外交官および政治家としての活躍は唐突に終わる。1940年11月、バトル・オブ・ブリテンのさなかに行われたボストン・グローブ紙のインタビューで「英国で民主主義は終わった。米国にはまだあるかもしれない」と発言したことが大問題となったためだった。以後ケネディは表舞台には出ず、豊富な資産を運用して息子たちの政界進出を強力にバックアップした。しかし豪腕で知られたケネディも、1961年に73歳で脳梗塞の発作を起こし、言語と身体が不自由になると第一線を退き、1969年11月18日に家族にみとられながら世を去った。

 「王朝」存在感まざまざ=うるさ型議員も遠慮-ケネディ氏・重要政策対応、なお課題

【ワシントン時事】キャロライン・ケネディ氏の次期駐日米大使起用をめぐる19日の上院外交委員会公聴会は、うるさ型の野党共和党議員まで厳しい質問を控えるなど、圧倒的な知名度と根強い人気を誇る「ケネディ王朝」の存在感をまざまざと見せつける場となった。ケネディ氏が日本だけでなく米国内に向けても強い発信力を持つことを改めて証明した形だが、個別の重要政策では理解不足を露呈した。

 「近い将来、国民の税金を使って日本を訪れ、あなたに会えるのを楽しみにしている」。公聴会の終盤、質問に立った共和党の重鎮マケイン議員が軽口をたたきながら発言を締めくくると、委員会室は爆笑に包まれた。
 人事案に関する米議会の公聴会は法廷のような緊張感が広がるのが通例。特にマケイン氏はオバマ大統領の人事に反発し、候補者をつるし上げたケースがたびたびある。
 公聴会でケネディ氏は政権の対日政策に沿った無難な答弁を繰り返すと同時に、沖縄県・尖閣諸島をめぐる日中対立や沖縄の米軍基地問題など微妙なテーマで追加の質問を受けると「さらに勉強したい」を連発。それでもマケイン氏は苦笑するばかりで、中には1回も質問を発せず、ケネディ氏を激励しただけの共和党議員すらいた。
 大統領や上下両院議員を輩出したケネディ家は、王室のない米国で「ロイヤル・ファミリー」に例えられる特別な存在。大使人事の公聴会はほとんど記事にしない米メディアもこの日は一斉に報道し、関心の高さを見せた。
 ケネディ氏は駐日大使起用が表に出た今年春ごろから米政府当局者らの説明を受け、準備を重ねてきた。それだけに今回の答弁ぶりは「外交の素人」とやゆされるケネディ氏に課題が残っていることを示したと言える。ある日本政府関係者は「日本の立場を好意的に理解してもらう取り組みが重要になる」と語った。(2013/09/20-14:25)


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