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21483、山口県、鹿児島県、両県にある田布施町の不思議

2013年03月26日 20時38分11秒 | thinklive

*以下の記事は偶然出会ったものであるが、小泉元首相が鹿児島の田布施の出身系とは知らなかった、

*ブログサイト、ある方から、政治家、権力者を多く輩出した謎の地域という命題を頂き
検索をした事があるので、 ここで結果を記録としてアップしたい。
しかし、現在人口僅かに16000人強の町から、是ほど多くの人物を出したというのが驚きであったが、それは序の口だったとは後で深く感じたのだった。
 
 謎の地域とは、山口県熊毛郡田布施町
 
*熊毛郡と田布施町は鹿児島県にも存在したのは、両県にあったのは偶然の一致ではないだろうが
 ① まずは、山口県熊毛郡と田布施町を見る。 
山口県熊毛郡田布施町は 2010年8月1日現在で人口僅か16,044人の寒村でもとは同じ熊毛郡束荷村であった光市と柳井市に囲まれて、
北朝鮮の被差別といわれている。
 以下のデ-タは検索と検証を加え下記サイトを参照。

*鬼塚英昭は大分出身の、民間の歴史家、「日本のもっとも醜い日」、現代史、昭和天皇の歴史を裏事実を含めて、正直に、論理的に納得できる筋書きで構築している、
 
田布施町出身有名人、山口県出身の人物一覧
 
大室寅之祐=明治天皇
熊毛郡、田布施町麻郷南朝の末裔というより北朝鮮被差別の出で、後の明治天皇。
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父、大室庄吉の兄は大室寅之祐(東京明治天皇)
 
伊藤博文 (林家) 熊毛郡東束荷村 (光市束荷字野尻) 生まれ
6歳まで過ごした家は田布施町に残り、大室家とは隣接地にある。
(吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が大室某を養育していた)
難波八助、宮本顕治(日本共産党)は伊藤家の一族で
木戸幸一も系図の中に入り、京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇(玖珂郡岩国町)も一族。
 
岸 信介  熊毛郡田布施町
大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家がある。
(この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。)

松岡洋右(元外相)は岸の一族である。

 佐藤 栄作 熊毛郡田布施町岸、安倍とは同族。 
吉田茂(高知出身、横浜、吉田家に養子)にも縁戚関係がある、
安倍晋三 (本籍地: 山口県大津郡で現在の長門市、生まれは東京、新宿)  その父(岸信介の娘婿)晋太郎は朝鮮人で 統一教会に縁が深い。  
                                
安倍源基 熊毛郡曽根村(平生町)
終戦内閣の最後の内務大臣  大室寅之助の生家の近くにある。
宮本顕治  山口県光市((旧熊毛郡束荷村)伊藤博文の一族
 
 ② 鹿児島、熊毛郡と田布施町
鹿児島県熊毛郡は屋久島、種子島を含む。県南部にあった田布施町(現在の加世田市金峰町)はやはり被差別である。
 
小泉前首相の父・純也氏は鹿児島の田布施朝鮮人出身の朝鮮人である。後に、ヤクザ(稲川会)の婿養子となり、小泉姓を名乗る。
 
東郷茂徳 終戦時の外相で、本名、朴茂徳朝鮮人の出身 (朝鮮人陶工の子孫、秀吉の朝鮮役の際,島津氏が連れて帰った陶工の一族、島津家では士族身分)、4歳時、東郷家(平八郎家ではない)に養子、
 
山口県熊毛郡田布施町であり、鹿児島県の田布施町も同様。
 
鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。
阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。)

東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体:東茂、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。朝鮮人陶工の子孫。
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。

*鹿児島出身の東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。東郷家に養子、入籍、

旧制の第七高等学校造士館に進学。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は東京帝国大学文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。

*ウキペディアに詳細を極めた、東郷の伝記がある、秀才であり、学友というか、仲間には、階層的に皇族、貴族層との縁が深い、と見るべきであろう、東条と並んで昭和天皇の信頼は厚かった、日本と朝鮮半島の絆は極めて深い、上記の記述には朝鮮蔑視のニューアンスがあるが、ボクにはない、旧山口高校時代、親友に、北朝鮮の友人もいた、そういえば、金という性で、金日成氏に似ているようにオモイ出す、

 


 


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池口恵観、高野山清浄心院住職に?_ 仏教仏教美術日々2 (高野山清浄心院住職に)
2020-08-21 14:42:31
池口恵観、高野山清浄心院住職に?_ 仏教仏教美術日々2
http://ragaraja2.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-91c8.html

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