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明日香村・小山田遺跡 石張りの巨大な掘割を発掘 7世紀中頃の未知の古墳か

2015年01月16日 | Weblog
奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が15日、明日香村川原(かわはら)の県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴う小山田(こやまだ)遺跡の発掘で、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)の約50mにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかったと発表した。
同遺跡は、甘樫丘の南端で、伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡(飛鳥宮跡)の西約1kmに位置する。 西にある菖蒲池古墳(7世紀中頃)とは200mも離れていない。
遺構は東西方向に幅7~3・9m、長さ約48mの掘割で、北側斜面は40cm大の石英閃緑岩(せんりょくがん)を張り、底面は15~30cmの石材を敷き詰めていた。南側斜面は2段目まで緑色の緑泥片岩の板石を積み、その上に奈良県東部産の「榛原石(はいばらいし)」の板石を階段状に積み上げ、最高10段の板石積みが残っていた。 橿考研は、未知の古墳の掘割(濠)とみて、墳丘裾部は蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る一辺50~80m程度の方形だったと推定している。 墳丘はすでに失われているが、板石が裾部の表面を飾った可能性が高いとみている。
『日本書紀』巻二四皇極天皇元年(642)十二月の条に、
○壬寅(21日)。葬息長足日廣額(舒明)天皇于滑谷崗。
○十二月是歳。((蘇我大臣蝦夷)、又盡發舉國之民并百八十部曲。預造雙墓於今來。一曰大陵。爲大臣墓。一曰小陵。爲入鹿臣墓。
と記されており、橿考研は、規模や立地、特異な構造から、大化改新の中大兄皇子(天智天皇)や壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)の父である舒明天皇(593~641)が最初に葬られた滑谷岡(なめはざまのおか)陵とみている。その後、日本書紀では、舒明天皇の遺体はその9カ月後に「押坂陵(おしさかのみささぎ)」(宮内庁が段ノ塚古墳(桜井市)を舒明天皇陵に指定)に改葬された。
 一方、一帯は蘇我氏の本拠地のため、蘇我氏の関連とし、特に馬子の子、蘇我蝦夷の墓とみる識者もいる。日本書紀の同じ皇極天皇元年十二月の条に「双墓」を造り、大陵(小山田遺跡に比定)は蝦夷の墓、小陵(菖蒲池古墳に比定)は入鹿墓とみるわけである。 最近、蝦夷の祖父、稲目の墓説もある石を階段状に積み上げた特異な大型方墳・都塚(みやこづか)古墳が見つかったばかり。
 ほかに、皇族の居館や苑池(えんち)の可能性を指摘する識者もいる。
 現地説明会が18日(日)午前10時~午後4時に開かれる。
[参考:時事通信、共同通信、朝日新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、東京新聞]

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キーワード: 小山田遺跡、小山田古墳
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