歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

伊勢崎市・雷電神社跡古墳(消失) 馬に乗った武人の埴輪を復元 

2009年06月21日 | Weblog
 群馬県立歴史博物館(高崎市)は20日、伊勢崎市で56年前に発掘された、古墳時代の武人が馬に乗った埴輪が復元されたと発表した。帽子や刀の部分など細部の装飾にこだわった珍しいもの。
 群馬大で古代史を専攻していた大林寺住職が1953年、前方後円墳とみられる雷電神社跡古墳が土砂採取のために壊された際に出土した複数の埴輪の破片を見つけ、自宅に持ち帰り保存していた。復元には7年かかり、3年前に復元した。
 埴輪は高さ111cm、長さ110cm。古墳時代の6世紀後半に作られたとみられる。馬は脚を真っすぐに伸ばし、武人は刀や弓などを身に着けている。馬にも飾りがつけられている。
 人が馬に乗った埴輪の復元は全国でこれまで数例しかなく、武装した人物は前例がないのではとしている。
 復元された埴輪は、博物館の開館30周年記念展で7月4日~8月30日まで一般公開される。
[参考:毎日新聞、共同通信]
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山口県上関町・田ノ浦遺跡 2日目の発掘調査で多量の土器が出土

2009年06月20日 | Weblog
 今年1月末より2回目の発掘調査を行っている田ノ浦遺跡で、奈良・平安期のものとみられる柱の穴の跡や、縄文期の土器片などの遺物が見つかっている。県埋蔵文化財センターは「土器の発掘量が豊富で、あらためて県内有数の遺跡と判明した」としている。
[参考:中国新聞]
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 本遺跡地は中電の上関原発建設予定地のため、今回の発掘調査が最後か。

過去のニュース・情報
  2009.1.27
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鎌倉市大町6丁目 「伝北条時政邸跡」北条時政邸跡ではなかった

2009年06月19日 | Weblog
 鎌倉幕府の初代執権北条時政の館があったとされていた場所は、時政の邸宅跡ではなかったことが市教育委員会の発掘調査でわかった。
 名称も「大町釈迦堂口遺跡」に変更された。
 調査では鎌倉時代の寺とみられる新たな遺構を発見。国の史跡指定を目指す。
 時政邸跡とされていたのは、鶴岡八幡宮の南東の衣張(きぬばり)山(120m)の麓で、周辺には、源頼朝の殺害を計画たとされる源義仲の家来の娘、唐糸(からいと)を閉じ込めたと伝わる横穴や、邸の裏門とされた切通もある。
 地元の研究家が「吾妻鏡」などに記された時政の「名越邸」跡と推定し、その後、中国の宋時代の青磁の鉢3点(いずれも国重要文化財)が発見されたことなどから、市もこの見解を尊重し、「北条時政邸跡」としていた。
 だが、昨年7~11月に発掘調査したところ、最も古い遺構でも13世紀後半で、13世紀前半に没した時政の邸宅としては矛盾することが判明した。
 発掘では、火葬痕跡や、周辺に複数の建物跡や「やぐら」と呼ばれる横穴が新たに見つかった29基を含め計64基確認されるなど、遺跡は未知の廃寺の可能性が高いと分かった。市は土地を買い取って一般公開することも検討するという。
[参考:読売新聞]

過去のニュース・情報
 2008.12.9

北条時政邸跡ではなかった…名称変更、地図も書き換えへ(読売新聞) - goo ニュース
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仙台市・大野田官衙遺跡 西溝が出土し、役所跡の規模が判明

2009年06月19日 | Weblog
 大野田官衙遺跡(仙台市太白区大野田)は、昨年度の調査で、大型の掘立柱建物跡(6棟)が規則的に配置されていることがわかり、古代(8世紀前半)の役所跡(官衙)であることが明らかになった。役所跡は、周囲が幅約3mの溝で囲まれ、大きさは南北250m以上、東西180m以上と発表されていた。ただし、北、東、南側の溝が出土したが、西側の溝は出土していなかったため、今回発掘調査された。
 仙台市教委は18日、大野田官衙遺跡で、遺跡の規模を確定する西側の大きな溝の跡2ヶ所(幅2.3~2.8m、深さ0.8~0.9mと幅2.6m、深さ1.15m)が出土したと発表した。役所は溝で四方を囲まれた長方形で、全体の大きさは南北約259m、東西約196mと分かった。
 遺跡の北東約1・5kmには、多賀城が724年に築かれる前の初代・陸奥国府とされる郡山遺跡がある。郡山遺跡の最初の役所(7世紀中頃)には、政治、住居、倉庫の機能がすべてそろっていたが、7世紀末頃、敵対していた蝦夷に大和朝廷の力を示すため、藤原宮(奈良県)を模して全面改築した。行政の施設は充実させたが、住居や倉庫は外されていたことが分かっていた。大野田官衙遺跡の中心部の建物の配置や方角から、倉庫機能を持つ「一種の分庁舎」として、ここに移された可能性があるという。
 市教委は20、21の両日、午前11時から現地(仙台市太白区大野田字竹松・宮脇地内、大野田小学校校庭の南側)で遺跡見学会を開く。
 また両日は大野田コミュニティーセンターでは出土品などを展示する「大野田展」(9時~16時、入場無料)が開催される。
[参考:河北新報、読売新聞、仙台市教育委員会文化財課HP]

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 2008.8.1



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奈良市平城宮跡・大極殿院 「礫敷き」遺構が出土、6/21現地説明会

2009年06月19日 | Weblog
 奈良文化財研究所が18日、平城宮跡で、天皇が貴族らの祝賀を受ける元日朝賀などに使ったとされる第1次大極殿院の内庭広場から、長方形の穴と、小さい石を敷いた「礫敷き」遺構が3層見つかったと発表した。
 1959年度から半世紀に及んだ同大極殿院の発掘調査は、今回で終了する。
 同大極殿院の南東隅約1560㎡を調査。穴は東西約22m、南北約17mで、深さ約20cm。恭仁京(木津川市)などに遷都し、平城京に都が戻った745年以降に掘ったとみられる。昨年の調査では、西約120mの対称位置でも同様の穴が見つかっている。目的は不明。
 3層の礫敷きは、いずれも時期が異なり、造営当初と都が戻ってきた時期などに敷かれていた。
 このほか、平城宮跡では2例目となる中国・唐の銅銭「乾元重宝(けんげんじゅうほう)」(直径2・3cm、758年発行)や楼閣の隅木にかぶせた瓦などが出土した。
 現地説明会は20日午後1時30分から行われる。 (第一次大極殿の南。小雨決行。)
[参考:読売新聞]


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雲仙市・守山大塚古墳 発掘調査結果、九州で最古級の前方後円墳

2009年06月19日 | Weblog
 雲仙市は18日、「守山大塚古墳」(同市吾妻町)の発掘調査結果、古墳時代初期(4世紀前半)に築造され、前方後円墳では九州最古級と分かったと発表した。市教委は築造時全長80m以上、直径50m、高さ約8mあったと推定している。
 古墳周囲を巡る堀「周溝」から出土した祭祀用の壺や高坏などから築造時期を判断した。
 葺石は、後円部の外縁から約2.5-3m離れた地点で見つかっており、墳丘の裾に積み重ねられていたり、深さ約0・7~2mの堀の中に崩落した状態で出土した。
 墳丘を覆う葺石同士の隙間を細かい石で埋めていることなどから、築造当初は緻密な構造をしていたとみられるという。
 同古墳は、県内最大級の前方後円墳で、「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平氏によって1960年代に発見された。現存部分は全長約70m、後円部の直径約40m。
 調査は市道拡幅工事に伴い、6月一杯にかけて後円部の西側約70㎡を対象に行う。
 21日午後1時から、現地説明会が行われる。
 また、展示会「島原半島の古墳時代展」が下記のとおり開催されている。
平成21 年6 月1 日(月)~30 日(火) 9:00~17:00 (土曜日休館、入場無料)
 場所 雲仙市国見神代小路歴史文化公園 歴史民俗資料館
 内容 前述の調査にあわせて、島原半島の古墳出土の資料を中心に展示をおこなう。古墳や遺跡出土の土器や鉄製の武具、金・銀製の装飾品や勾玉などの副葬品も展示。
[毎日新聞、西日本新聞、読売新聞、雲仙市HP]

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 2008.11.12



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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 蘇我氏邸宅の石垣延長部(城柵?)見つかる  

2009年06月17日 | Weblog
 奈良文化財研究所は17日、大化の改新/「乙巳の変」(645年)で滅びた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣が新たに見つかったと発表した。
 今回見つかった石垣は高さ最大1m、長さ約19mで、平成19年に出土した石垣の南側に延び、途中で1.6mほど東に曲がり、再び南へ延びていた。過去の出土分と合わせると全長約34mになる。東岸谷地(幅約8m、深さ1・2m以上)の急勾配の東斜面に一辺20~40cmの河原石を張り付けるように積み上げていた。南端部では50度の勾配があり、高さは1m。屈折部や谷へ下がる階段状の石列、開口部20cmの水口施設があった。
 甘樫丘の蘇我邸について、同研究所は日本書紀644年の記述(注1)により、石垣は邸宅の防御施設の一部だった可能性があるとしている。
 似たような石垣は、白村江の戦(663年)で日本とともに敗れた百済の亡命技術者の指導で九州や瀬戸内海沿岸などにつくられた朝鮮式山城に例があるという。時期はこれよりも少し古い。
 石垣は蘇我氏が滅亡した後、650~660年代に埋め立てられていた。同遺跡でこれまでに出土した武器庫とみられる建物や塀の跡なども、ほぼ同じ時期に壊されたことが分かっている。
 調査区域の東隅(石垣の東の尾根裾)では幅1.5~3m、長さ8~9mの石敷き遺構も見つかった。谷側に底石のない溝を造り、山側は端を直線的にそろえた縁取り状。尾根に沿って遺構が広がることが予測される。入鹿邸との関連が注目される。 調査地周辺では、焼けた壁土や木材、倉庫など小規模な建物跡が見つかっている。
 そのほか、7世紀中ごろの土師器や須恵器がほぼ完全な形で出土した。
[参考:共同通信、産経新聞、東京新聞、奈良新聞]

(注1) 日本書紀・皇極天皇三年(644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘樫岡に双べ起(た)つ。大臣の家を呼びて、上の宮門と曰う。入鹿が家をば谷の宮門と曰う。(略) 家の外に城柵(きかき)を作り、門の傍に兵庫(つわものぐら)を作る。門毎に、水盛(い)るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて、火の災いに備う。恒に力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。(「岩波文庫」より)

蘇我氏邸宅の「城柵」か 奈良・甘樫丘で石垣出土(共同通信) - goo ニュース

現地見学会6月21日(日)
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徳島市・川西遺跡 川跡の川岸から鎌倉時代初期の国内最古の護岸遺構

2009年06月17日 | Weblog

川西遺跡出土巴文軒平先瓦。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影
12世紀末~13世紀前半のものという。 左流水巴文といったらよいのだろうか。神田明神のものとは方向が逆である。


<川西遺跡・大規模護岸跡の現地説明会に510人が参加>
 14日の現地説明会には約510人が参加した。
 護岸の築造開始は鎌倉初期で、応仁の乱の頃まで約250年間存続し、背後には寺院関係の重要な建物があったはずという。
 昨年11月の調査開始後、同遺跡では約8万点の遺物が出土して、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(とっこしょ)」の鋳型、軒丸瓦などの瓦も見つかっており、寺院関係の施設が存在したことは確実なようだ。ところが、そのような寺院の記録は残されていない。関係があるかもしれないものを探すと、下記があげられるという。
■ 川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期が不明の寺があったと、地元の村史に記されている。
■ 近くに、寺の場所は分からない「西光寺」の地名が残る。
■ 約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。この近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。この寺の実態は謎に包まれているが、1935年の「八万村史」は「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」と紹介。天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたと伝えている。
 寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるという。金剛光寺が広い範囲に寺の建物を分散させていた可能性もある。
 川西遺跡の出土遺物は、6月16日から7月26日まで「2009発掘とくしま」(県立埋蔵文化財総合センター)で展示される。
[参考: 読売新聞]

(注1) 全て中国銭(宋銭・明銭)で、53種、3699枚が出土。鎌倉時代の終わり頃埋められたものとみられる。
(注2) 金剛光寺に関する文献は残っておらず、伽藍等も不明であるが、京都市左京区花脊の峰定寺所蔵の梵鐘には「阿波國以西郡八万金剛光寺鐘 願主三部阿闍梨耶実秀 永仁四年(1297) 歳次丙申十月五日 大工内蔵範頼」の銘がみえる。戦国期に長宗我部元親が阿波に侵攻した際、焼失し廃寺になったといわれている。
[徳島県埋蔵文化財センター年報/vol.15 2003年度 「寺山遺跡」より]


<2009.6.12掲載分>
 県教委は11日、川西遺跡(同市上八万町川西173-1他)にある河川跡の川岸から、鎌倉から室町時代にかけて修理や拡張を繰り返しながら構築された石積み護岸遺構が見つかったと発表した。
 護岸遺構は川に沿った東西45m、南北10m、高さは最大1・5m。川岸の斜面に眉山周辺から切り出した青石を積み上げ盛り土を行い、石留め杭などで護岸施設を補強。川の中洲に向けて東西5・5m、南北15m以上と推測される突き出し部も確認された。中世以前では珍しい川湊の可能性がある。
 築造開始は鎌倉初期で、河川の同様の護岸としては国内最古とみられる。治水技術の発達を考える上で重要としている。
 周辺からは、寺院建築に見られる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦のほか、将棋の駒、漆器椀なども出土。木製品の中には製作途中のものも含まれ、木製品の生産工房や木材の加工場を統括する寺院勢力が遺跡近くに存在し、製品の出荷や物資集積のために石積み護岸を整備、船着き場として利用していたことが考えられるという。
 現地説明会は14日午前10時~正午と午後1~3時。雨天決行。
[参考:産経新聞、共同通信]
過去のニュース・情報
 2009.3.13川西遺跡の川跡から将棋の駒「本横」出土



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静岡市・尾羽西山遺跡 横穴式石室や石棺のある古墳など4基の古墳が見つかる

2009年06月17日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターが今年1月から発掘調査を行っている清水区横砂の尾羽西山遺跡で、横穴式石室や石室の中の石棺の跡がはっきり分かる古墳群が見つかった。
 現場は静清バイパス横砂北交差点から山側に約200m。丘陵地の南側に広がる場所で、清水港まで見渡せる。
 同センターによると、出土した土器や馬具、腕輪などから6、7世紀にこの地域を治めていた豪族の古墳とみられる。古墳は4基で、横穴式石室の跡は3カ所で確認されている。うち1カ所の石室には石棺も原型をとどめる状態で発見された。墳丘を巡る大きな周溝の跡も残っている。
 見学会は21日午前10時から正午まで行われる。(雨天中止)。
[参考:静岡新聞]
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韮崎市・隠岐殿遺跡 杭列の跡、勝頼の重臣が塀設置か

2009年06月14日 | Weblog

隠岐殿遺跡出土品。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 市教委が発掘調査を進めている戦国時代末の隠岐殿遺跡(同市中田町中条)で、杭列の跡が出土した。新府城主・武田勝頼の重臣の屋敷跡とみられる。
 杭列跡は昨年出土した礎石建物の東側、掘っ立て柱建物の南側から見つかった。穴の直径は約10cmで、東西7・7mに11本、南北18・6mに20本、60~70cm間隔で出土した。杭列が途切れ、杭より太い柱跡が出土した部分もあり、敷地全体の出入り口だったとみられる。 列から外れた杭や柱の跡も約20本見つかった。
 昨年出土した遺構の礎石や柱跡の中心を結んだ軸線と杭列の軸線が揃っていることから、建物と同時期に存在したとみられる。
[参考:山梨日日新聞]

過去の関連ニュース、情報 
 2009.2.11・隠岐殿遺跡
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桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定

2009年06月14日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は13日、「玉垣跡」とみられる柱穴列が見つかった桜井茶臼山古墳で、遺体を安置した木棺が、コウヤマキの木で作られていたと発表した。
 竪穴式石室は、昭和24年の調査によって、長さ6・8m、幅1・3m、深さ1・6mの規模と判明し、木棺の底板が長さ5・2m、幅70cm分見つかった。当時の分析では、マツ科の針葉樹「トガ」と鑑定されていた。
 同研究所が、木棺を納めた竪穴式石室周辺を発掘したところ、長さ数cmの木の破片100点以上が出土。木棺の一部とみられ、顕微鏡で詳細に観察した結果、細胞の形などからコウヤマキと特定した。
 古墳の木棺は通常、石室内に流入する土砂などによって腐食して残らないことが多いが、初期大和政権中枢部に築かれた前方後円墳の大和天神山古墳(同県天理市、全長103m)や前方後方墳の下池山古墳(同、全長120m)などでは木棺が残っており、いずれもコウヤマキ製だった。
[参考:産経新聞]
過去のニュース・情報
 2009.6.12桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡
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徳川13代将軍家定の正室・澄心院の墓所に八角覆堂の遺構が見つかる

2009年06月13日 | Weblog
 昨年、6月9日付け、「徳川12代、13代将軍の正室・浄観院と澄心院の墓誌が見つかる」の記事について、ある新聞社では上野・寛永寺としているが、同寺・谷中霊園であることがわかった。
 さて、寛永寺谷中徳川家近世墓所調査団(名誉団長・坂詰秀一立正大名誉教授)が、昨年6月に墓誌が見つかった寛永寺谷中霊園の徳川将軍家墓所をさらに調査を進めた結果、「澄心院の墓など7基それぞれの宝塔を保護する八角覆堂(おおいどう)の跡とみられる柱穴や礎石が出土した」との記事が11日付けで記事が掲載されていた。
 八角覆堂の遺構が見つかったのは同寺では初めてであるが、江戸時代の墓所で八角覆堂が確認されているのは増上寺(芝公園)にある2代将軍秀忠の墓のみ(1945年の戦災で焼失)。将軍家では、秀忠の葬儀や墓が、後のモデルになったとされており、家康、秀忠の葬儀に影響を与えた天台宗の天海大僧正(1536?~1643年)の思想が受け継がれたとみられている。寛永寺の将軍家墓所を含め、八角覆堂は一つも現存しておらず、いつ失われたかは分かっていない。将軍家の葬送思想を解明する貴重な手がかりという。
 遺構は、7基のうち6基が柱穴、1基が礎石で、それぞれ2~3m間隔でほぼ正八角形に配置されている。柱穴はいずれも直径約1mで、深さは約1m半。
[参考:2009.6.11読売新聞]
寛永寺の将軍家墓所に八角覆堂の遺構…異例にして貴重(読売新聞) - goo ニュース

過去の情報・ニュース
 2008.6.9浄観院と澄心院の墓誌が見つかる
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桜井市・桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 

2009年06月12日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が12日、初期大和王権の大王級の墓とされる桜井茶臼山古墳(前方後円墳全長200m、3世紀末~4世紀初め)後円部で、石室上部を取り囲んで丸太をすき間なく並べたような巨大な垣の一部とみられる柱の痕跡が見つかったと発表した。
 同研究所は「丸太垣」と名付け、神聖な空間として区画したとみている。古墳から木造構造物跡が出土したのは初めてという。ただし、前方後円墳など定型化した古墳が出現する古墳時代以前では、弥生時代の墳丘墓上から柱穴が出土した例がある。
 同古墳は1949~50年に調査され、同研究所が09年1~3月に改めて学術調査した。
 後円部中央石室の上部に盛り土をして造った「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構(東西9.2m、南北11.7m、高さ約1m)の周囲98㎡を調べた。方形壇の周囲4カ所から幅約1mの溝が見つかり、いずれにも丸太がすき間なく並んだとみられる柱穴(直径30cm)が計10個あった。柱が埋め込まれた深さは1.3mで、通常はこの2倍程度が地上に出るとされる。未発掘の部分も含め当時は全体を、地上高2.6mの約150本の柱が「丸太垣」として、方形壇を四角に囲っていたらしい。着色塗料は検出されず、柱は白木だったとしている。
 このほか、壇の上には縁に沿って被葬者に供物を捧げることを象徴した二重口縁壺が置かれ、葬送儀礼の後、垣で一帯を完全に塞いだらしい。
 埴輪で埋葬施設を囲む儀礼の原型とみられ、同研究所は「被葬者を邪気から守り、聖域を示した結界だろう」とする。
 この古墳に続いて築かれた同市内のメスリ山古墳の方形壇は、直径50cm~1mの円筒埴輪を密接させ二重に並べる。「丸太垣」は、メスリ山の埴輪列の前身とみられる。
 古墳時代初期の大王墓の形態や、葬送儀礼の実態を示す一級の成果。
 新たに三角縁神獣鏡などの銅鏡の破片153点も出土した。昭和24、25年の調査で見つかった20枚近くの鏡と合わせると、計40~50枚を副葬したとの推測もできる。国内最多の40枚が出土した福岡県前原市の平原(ひらばる)1号墓(弥生時代後期、)を上回る可能性も出てきた。鏡の破片は竪穴式石室周辺から出土し、大半が数cm大に割れていた。
 石室周辺からは大量の炭も出土し、被葬者の遺体を石室に埋葬したのち、火を使った儀式が行われたことも判明。玉垣跡のすぐ外側には、長さ1m前後の平らな石で塞いだ溝状遺構も2カ所で確認され、今後さらに調査を進める。現地はすでに埋め戻され、今回説明会は行われない。
 同研究所は8月から竪穴式石室を再発掘し、その後に現地説明会を行う予定という。

■桜井茶臼山古墳
 奈良盆地東南部に6基が集中する古墳時代前期(3世紀中ごろ~4世紀初め)の大型前方後円墳の一つ。石室を特殊な壺で囲んでいるのが特徴。石室は盗掘されているが、碧玉製品や武具など副葬品は豊富。被葬者は分かっていない。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞]

桜井茶臼山古墳で石室囲む巨大垣 奈良県立橿原考古学研が発表(共同通信) - goo ニュース
後円部に柱列で囲んだ「聖なる空間」…奈良・桜井茶臼山古墳(読売新聞) - goo ニュース
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明日香村・甘樫丘東麓遺跡 現地見学会6/21

2009年06月11日 | Weblog
甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第157次調査)現地見学会開催のお知らせが、奈良文化財研究所から発表されました。

【日時】 平成21年6月21日(日) 11時~15時  ※小雨 決行
【場所】 高市郡明日香村大字川原 (国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区内) 発掘調査現場



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沖縄県恩納村塩屋地区・塩屋貝塚 6000年前の爪形文土器などが出土

2009年06月11日 | Weblog
 塩屋貝塚(注1)でこのほど、約6000年前の爪形文土器(注2)を含む、1800年前までの土器片などが発掘された。同遺跡ではこれまで1800年前の遺物が確認されていたが、それより古い出土物は初めて。
 今回見つかった遺物は、6000年前の爪形文土器片1点、3000年前の縄文土器、1800年前の甕形や壺形の弥生土器など計2000点以上のほか、1800年前のジュゴンや動物の骨、貝殻(注3)、貝輪など1トン以上。 今回発掘された遺物から、6000年前の人々が同地区で狩猟や採取による生活をしていたことが推測される。
 また、九州との交易を示す弥生土器や貝輪はや奄美諸島周辺に生息している貝で作られた貝輪などが出土している。
 発掘作業は、村博物館が主体となり、3~4月にかけて実施された。
(注1)塩屋貝塚は1958年に発見され、県内で初めて弥生土器が発見された貝塚。
(注2)爪形文土器は嘉手納町の野国貝塚などで約6500年前の物が見つかっている。
(注3)シャコガイ、サラサバティ(タカセガイ)、ヤコウガイなど
[参考:琉球新報、広報おんな平成21年5月号]
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