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奈良市・新薬師寺旧境内 焼けた瓦が入った溝が見つかる

2009年06月24日 | Weblog
 奈良教育大学は22日、新薬師寺旧境内(同市高取町、同大学構内)で、奈良時代中ごろの瓦が入った溝跡などが見つかったと発表した。
 調査地は昨年見つかった金堂とみられる基壇の南側約50m。地形などから中門が想定されていたが、中門や回廊の遺構はなく、伽藍がさらに広いか、金堂だけだった可能性が浮上した。
 溝(幅約2m、深さ0・4m)は建物跡の南約20mの場所から南に伸び、さらに南にあって東西に流れていた水路か川の跡(幅約5m)につながっていた。
 溝の中には、興福寺で造営当初(710年)に使われたのと同じ型の軒丸瓦(8世紀)や焼けた瓦などが大量にあった。「東大寺要録」などによると、新薬師寺は光明皇后が夫の聖武天皇の病気平癒を祈って天平19年(747)に建立。壮大な寺院だったが、応和2年(962)の大風で主要建造物が倒壊した。今回見つかった瓦は、この時に起きた火災で焼けて、溝に落ち込んだらしい。
 以前の調査で見つかった金堂付近の瓦は焼けておらず、金堂も同じ大風で倒壊したが、火災には遭わなかったらしい。焼けた瓦は、金堂とは別の建物のものとみられる。
 奈良時代に鋳造された神功開宝(765年発行)と隆平永宝(796年発行)も各1点出土、漆の付着した土器片もあった。
 中門や左右に接続する回廊が見つからないことについて、担当した金原正明准教授(古文化財科学)は
(1) さらに南に存在した
(2) 金堂南側のスペースがせまく、調査地の北側で閉じていた
(3) 回廊がなく、金堂だけが建っていた
 の3つを挙げる。
 調査地が金堂の中軸線上にあたることから、溝は参道側溝の可能性もあるという。東大寺山堺四至図(756年)には「新薬師寺堂」として仏殿1棟だけが描かれている。
 金原准教授は「金堂跡の瓦は焼けておらず、別の建物が近くにあったと考えられる。伽藍の特異性を検討する必要が出てきた」と話している。
 現地説明会はない。7月にも隣接地を発掘し、さらに調査する方針という。
[参考:奈良新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞]

過去のニュース・情報
 2008.12.31 出土の壺は薬壺?
 2008.11.24 金堂跡がさらに大型と推定
 2008.8.2 塼が出土

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