歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

藤田嗣治 渡仏前、22歳の絵(婦人像)を発見

2009年06月26日 | Weblog
 フランスや日本で活躍した画家藤田嗣治(1886~1968)が学生時代に描いたとみられる油絵が見つかったことが25日、分かった。
 作品は、東京都内の個人が昨年、東京芸術大学に寄贈した、椅子に座った和服の女性の後ろ姿を描く油絵(縦約60cm、横約45cm)。
 キャンバスの右上にフランス語風の「T.Foujita」の署名と1909年5月の日付があり、藤田が東京美術学校(現東京芸術大)の学生だった22歳のときに描いたとみられる。
 鑑定した古田亮東京芸術大准教授によると、フランスに渡った後に確立した独特の乳白色の画風はまだ見られず、指導を受けていた黒田清輝(1866-1924)の影響がはっきりと表れているという。藤田は黒田に反発していたとされるが、当初は黒田の影響を受け、その後画風を大きく変えていった過程が明らかになったと話している。
 これまでに確認されている作品の中で最も古いとされ、藤田がパリに渡る前の作品については不明なことが多く、画家の出発点を示す貴重な発見として注目される。
 作品は7月4日から8月16日まで東京芸術大学大学美術館の「コレクションの誕生、成長、変容-芸大美術館所蔵品選」で一般公開される。
[参考:共同通信、産経新聞]

■藤田嗣治の渡仏までの略歴
1886年 東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まる。
1905年 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学
1910年 東京美術学校を卒業。
1912年 結婚(1年余りで破綻)
1913年 渡仏


2018.9.15追記
 東京都美術館で開催されている、「没後50年 藤田嗣治展」で、本作品が展示されている。 本作品のモデルは、最初の妻となる鴇田とみ(ときたとみ)に面立ちが似ている。 作品の年記1909年5月は、藤田が22才の夏、房総への写生旅行の際、とみと出会った数か月前であり、とみであるとは断定できない。

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大津市・近江国府跡 国庁北側から建物跡が出土、役所跡か

2009年06月26日 | Weblog
 市教委は25日、近江国府跡(同市大江3丁目)の発掘現場から、奈良時代後期から平安時代初期の掘立柱建物跡が見つかったと発表した。約100年間で3回建て替えられており、古代の役所関連の建物とみられる。
 市教委は、近江国庁跡の北側からの発掘成果は少ないため、国府の全容を知るうえで貴重な資料としている。
 調査地は、国庁跡(同市大江6丁目)の中心から北約370mの宅地造成地で、100㎡の調査範囲から、直径10~20cmほどの約150個の柱穴が見つかった。
 柱穴の大きさや形状、配置などから、柱と柱の間隔がそれぞれ3mから2・2mの4棟の建物跡が確認され、同じ場所に重なっているため、8世紀後半から9世紀後半にかけ繰り返し建て替えられたとみられる。
 同時に瓦が出土していることや柱穴の間隔から、近江国庁関連の役所跡とみている。ただ、いずれも調査地の外側にまたがっており、建物全体の規模は確定できていない。
 調査地内からは大量の土器(灯明皿?)や硯、瓦も見つかっており、北東端の井戸からは、墨で「曽麻呂」と人名とみられる文字が書かれた須恵器もみつかった。
 現地説明会は27日午前10時半から行われる。(雨天決行)
[参考:京都新聞、中日新聞]

過去のニュース・情報
■2008.12.11 中路遺跡/近江国府跡、勢多(瀬田)唐橋につながる東西一直線の道路跡を確認

■2007.3.17 政庁の「中門」発見 築地塀も確認 大津・史跡近江国庁跡
 滋賀県教委は14日、史跡近江国庁跡から、政庁の正面玄関にあたる「中門」や門を囲う築地塀とみられる遺構が見つかったと発表した。
 近江国庁は奈良時代(8世紀)から平安中期(10世紀)まで政治、経済の中心的な機能を果たした。
 遺構が発見されたのは、政庁前殿から南へ約40mの地点。門の基礎部分にあたる基壇(東西約13・5m、南北約8・4m)の一部と門前方の礎石の据え付け柱跡4カ所があった。基礎部分は雨水で崩れないように瓦を敷き詰め、強度を高めた「瓦積み基壇」。柱跡は東西に並び、中心の2本の間隔は約3・9m、左右両側の間隔は約3mあった。
門の東側で確認された築地塀の幅は約3mあった。2度改修されており、当初の幅は約1・8mで、60cmずつ拡張した跡が確認された。
中門の南約100mのところには当時の主要街道「東山道」があったとされる。
[参考:京都新聞]


キーワード:近江国府跡・国庁跡
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佐賀市・三重津海軍所跡 世界遺産暫定リスト入り実現を目指し追加調査

2009年06月26日 | Weblog
2009.6.26
■工場跡などの産業的な痕跡を見つけるため、追加の発掘調査を開始
 佐賀市教委と県教委は、「三重津海軍所跡」(同市川副町、諸富町)で25日、工場跡などの「産業的な痕跡」を見つけるため、追加の発掘調査を始めた。
 調査場所は、現在は佐野記念公園の一角になっている早津江川河川敷の一角約600㎡。
 1920年頃に作製されたとみられる絵図には、「製罐所」と記載され、エンジンの一部を作った「製罐所」や、ドックにあたる「船渠」などがこの場所にあったと記されている。旧川副町が2001~03年度、同公園の整備工事などに伴って調査した際には、幕末に鉄や銅の加工などを行っていたとみられる炉の跡が見つかった。
 初日の調査では、旧川副町の調査で確認された鍛冶場の炉の跡が姿を現した。一枚岩3枚をコの字形に組んでおり、さらに発掘を進める。
 ほかに、柱の跡や加工された石を確認した。23日までの事前作業では、海軍所用に焼かれたと推測される「船」と書いた磁器片も見つかっている。
 調査は7月末まで。その後は、大工小屋やドック跡の調査に入る予定。
 文化庁は佐賀藩の近代化史跡を「自力で西洋技術の導入を進めたことを示すため必要不可欠」としており、佐賀藩史跡を含めて世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」としても注目される調査になる。
[参考:佐賀新聞、読売新聞]

過去のニュース・情報
2009.5.29掲載分
 地下探査

2009.5.23掲載分
 市教育委員会は、三重津海軍所跡について、追加の発掘調査をする方針を固めた。
 ボイラー工場の遺構など軍船建造の証拠を集め、世界遺産暫定リスト入りを目指し、土地を所有する国土交通省の了承を得て6月上旬から着手する。
 古絵図でボイラー工場、船大工小屋、ドックがあったと記された場所の計約1200㎡で、01~03年発掘調査した際、鍛冶遺構やドックの痕跡が出土した。今回は建物遺構の発見を目指す。
[参考:2009.5.22 毎日新聞]

2009.4.21
 幕末佐賀藩の近代化史跡の世界遺産登録を目指し、佐賀市は20日、県と合同で日本初の近代海軍基地「三重津海軍所」跡(佐賀市川副町、諸富町)で本格的な発掘調査を始めた。
 三重津海軍所は1858(安政5)年、長崎警備を担当した佐賀藩が軍港として開設。西洋式のドックを備え、国内初の本格的蒸気船「凌風丸」を建造したほか、藩士の学習施設だった海軍寮もあったとされる。[西日本新聞]

2009.5.1
 佐賀藩三重津海軍所跡で、掘っ立て柱跡7本や礎石が確認された。[参考:佐賀新聞]

2009.5.13
 市教委は12日、「三重津海軍所」跡で、海軍所の遺構とみられる2棟の建物跡(柱跡8本と礎石痕跡4個)を確認したと発表した。柱の跡や広範囲な造成形跡があり、周辺から1820-60年代の磁器の染付皿などがあったことで時期を特定した。 [参考:佐賀新聞、西日本新聞、読売新聞]
「兵学校の可能性」 三重津海軍所跡 2棟の建物跡確認 佐賀市諸富町(西日本新聞) - goo ニュース

[参考]
佐賀藩 三重津海軍所
■安政4年(1857) 佐賀藩から幕府の長崎海軍伝習所に送られていた佐野常民は「佐賀藩海軍創設建白書」を藩主直正に提出。
■安政5年(1858) 三重津に「御船手稽古所」が設けられた。航海や造船の教育を行った。(明治初期に閉鎖されたとみられる。)
■安政6年(1859) 海軍寮が設置された。この年、長崎海軍伝習所が閉鎖されたので、佐賀藩では、幕府の長崎海軍伝習所一期伝習生を教官として、ここで伝習をした。(佐野常民が監督となり、同じく長崎海軍伝習所に通っていた石井忠亮や中牟田倉之助らを教官として海軍伝習が続けられた。)
■文久元年(1861) 三重津海軍所と改称。この年に製鑵所を設置する。
■文久3年(1863) 日本最初の国産蒸気船凌風丸(りょうふうまる、全長18.2m 船幅3.3m、10馬力)の建造を開始する。(1865年完成) 幕府注文の蒸気鑵を製作する。
[参考:佐野常民記念館HP]


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淡路市・垣内遺跡 保存のため埋め戻し始まる

2009年06月26日 | Weblog
 弥生時代後期(1世紀中頃~3世紀初め)の国内最大の鍛冶工房跡が出土した淡路市黒谷・垣内(かいと)遺跡で、遺構を埋め戻し保存する作業が始まった。
 市教委は早ければ2年後の国史跡申請を目指している。
 現地には25日、見学に訪れる人らのため遺跡の概要を記した看板(縦0・9m、横1・8m)が主要地点を見下ろす高台に設置された。播磨灘を見下ろす丘陵地で23棟の竪穴建物跡、うち11棟の鍛冶工房跡が見つかったことなどを紹介し、出土した鉄製品や工具の写真もつけている。
[参考: 読売新聞]

過去のニュース・情報
 2009.4.4垣内遺跡/淡路市 国内最大の弥生後期の鉄器工房


キーワード: 五斗長垣内遺跡
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