カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

麗華

2011年03月27日 | 大阪
「忘却でしか、得られない。」

とても嫌な事があったから、そういう訳ではないけれど、
忘れる事、それは、とても重要な事だと、常々、カゲロウは考える。
眼には見えない何か、それを、自分のものにしようとする場合、
それを取り込み、一旦、意識上から、なくしてしまい、それでも無意識に、それが己から表出する、
それでこそ、その要素が本当に自分のものになったと言えるのであって、
その段階のひとつとして、忘却という状態があり、そこに至る手順として必須だからである。

ただ、その副作用として、単に、物覚えが悪い、憶える気がない、何事にも消極的である、
最悪の場合、記憶力がないと、周りの人間から思われてしまう、
それは、表裏一体の現実で、実際、それ故の困った出来事というのも、往々に起こるべくして起こり、
一緒に居る妻に負担をかける事、それも、少なくはない。
しかし更に言うと、個人的には、それ故の、嬉しい出来事というのも、
稀に、なくはない。

何か素晴らしいものに出会った時、これまでで一番良いと思える瞬間というのは、
おそらくは、標準的な記憶力の人間と比較して、かなり多いであろう事は、
意図せずとも、自然な成り行きである。
これまで食べた中華料理の中で、この麗華は、もしかすると一番かも知れない、
そう思ったのは、経験的な事実ではないかもしれない。
しかし、いずれにしろ、本人的には、それは本心であって、
それが実際には、自分にとっての最高峰の中華料理店の、それでも何軒かの内の一軒に過ぎなかった、
そうだとしたところで、何の不都合があろうか。

辛さや濃度、素材やその鮮度だけに頼らない、本当の意味でのバランス感覚、料理センス、
それが、この麗華の料理にはある。

2度訪れた、日替わりのアラカルト・メニュウ、
海老と茄子のチリ・ソース炒め、そして、セロリと牛肉の黒胡椒炒め、
その2品からは、特に突出した印象、所謂、マジックの印象を受けた。
セロリなど、人によっては、苦手とする場合もあり得る類の食材ではあるが、
だからこそ、この組み合わせでなければ生まれ得ない風味というのが、この完成形には存在する。
その料理が旨いかどうか、それは食材単体の風味に因るのではなく、やはり、そのバランスなのである。

坦々麺も、辛さだけに頼るものでは勿論なく、
天津飯、炒飯に至っては、一品でボリュームは軽く2人前、
味だけではなく、量的サービスも、充分以上、十二分である。

サーブの面を見ても、料理の出来に対する自信が、はっきりと給仕に出ているように思え、
取り皿の提供、お冷の継ぎ足しなど、出し惜しみなく、
そこはやはり、この料理の値打ちがわかる客にならば、
どうぞどうぞと言わんばかりである。

お店の立地や外観以上に、店内は上品で完成されていて、
賑やかな小物にも、統一感とセンスがあり、
何より夜ともなれば、料理が映える光線の加減、それが絶妙で、
お得感のあるランチにこだわる事で、お昼にしか訪問しないというのは、
ひとつ損をしていることになるであろう事、それはある面、事実である。
実際、一回の夜の食事に、メイン、ご飯もの、汁物、点心系、
これらを一品づつ、ふたりでシェアして、満腹以上の状態で、3,000円に納まっている。
つまり、結果的に、これだけの料理を戴いて、
1,500円/一人に満たない価格であったのには、本当に驚いた。

こんな言い方もどうかとは思うが、この価格で、この内容、この風味、
本当に、何処に出しても恥ずかしくない中華、そういう評価さえ相応しいと思える、
単純ではない、しかし、上品過ぎもせず、遠慮なく食せる中華料理店、
それがこの麗華である。

知識、その他の蓄積、それは、その存在に対する偏りというものに他ならず、
物事の真実を、平らに観る為の邪魔になる場合が、多々ある。
中華料理というジャンル、それだけの土俵ではなく、価格帯で測るというのでもなく、
過去の己の記憶にある何かと比較するのでもない。
今、絶対的に、旨いと感じるかどうか、それに気付けるかどうか、
その為に、蓄積された何かは、本来、必要ではない。

明確な何かの記憶を呼び起こされる事なく、他の何かと比較する必要もなかった、
その事の幸せを、カゲロウは、ここ麗華で感じる事が出来た。
それは、おそらくは、人として、無上の喜びであろう。


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