GUMBO

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file.166 Chuck KNOBLAUCH【チャック・ノブロック】

2007-02-28 | MNO
【ブロック・ヘッド】
Chuck KNOBLAUCH

1989年、ドラフト1位でツインズに入団したノブロック。
91年に打率.281、25盗塁で新人王に輝き、
プレーオフでも大活躍。
メジャー1年目にして、チームの世界一を牽引する働きを見せる。
ワールドシリーズでは、守備でファンを沸せた。
決勝の第7戦、無死一塁のピンチの場面.....、
左中間を破る長打を打たれたにも関わらず、
セカンドゴロを処理するような動きを見せて一塁走者のロニー・スミスを幻惑。
進塁を遅らせ、失点を食いとめる...というトリッキーなプレー(?)を披露。
ツインズ勝利の立て役者になった。

その後もツインズのリードオフマンとして安定した働きを見せたノブロック。
その脚力だけでなく、選球眼と全方向に打ちわける打撃も大きな武器で、
94年.312、95年.333、96年.341と、3年連続で高打率を残した。
97年には打率.297に加え、62盗塁を決めるが、盗塁王には至らなかった。

98年、ヤンキースへトレード移籍。
打率.261、17本塁打、31盗塁の成績で
チームのリーグ優勝に貢献。
プレーオフの守備では、審判への抗議中にランナーがホームイン、
決勝点を許す...というチョンボを犯してしまい、
そのプレーは、ボーンヘッドならぬ『ブロック・ヘッド』などと揶揄されたが、
ワールドシリーズでは第一戦の同点弾を含む打率.375をマークし
チームの世界一に貢献、汚名を返上した。

99年も打率.292、18本塁打、28盗塁の好成績。
ワールドシリーズでも打率.312の活躍で
2年連続でヤンキースの世界一に貢献したノブロック。
が、この年、ノブロックを謎の送球難が襲った。
ファーストへの送球がそれるようになり、
リーグ最多の26失策を記録。

2000年もチームは世界一に輝くが、
送球難はおさまらず、シーズン終盤は、DHの出場が主になった。

2001年からは、外野へコンバート。
慣れない守備の所為もあってか、ノブロックの打撃は鈍った。
この年、打率.250でヤンキースから放出、
02年、ロイヤルズで再起をはかるも、打率.210しか打てず
33歳の若さで現役を引退した。

90年代を代表するリードオフマンでありながら、
名前が出てくるのは、カズ松井やA-Rodらのイップス騒ぎの話題の時のみ...
なんとも寂しい話ではある。

実働12年で通算1839安打、407盗塁。

file.165 Tom HERR【トム・ハー】

2007-02-27 | GHI
【勝負強い名脇役】
Tom HERR

1974年にドラフト外でカージナルスに入団したハー。
81年には、103試合に出場し、セカンドの定位置を獲得する。
名手/オジー・スミスと二遊間コンビを形成し、
堅実な守備が売りだったハーだが、打撃面では非力ぶりを露呈。
79年のデビューから、135試合に出場した82年まで
ホームランは0のままであった。

82年、チームの世界一に貢献したハーは、
83年、89試合の出場に終わるも打率.323、2本塁打と
打撃面で成長を見せた。
翌84年は、キャリア初の500打席以上をクリアし
打率.276、4本塁打、49打点の成績を残した。

85年、チームにパワーヒッターのジャック・クラークがやってくると
ハーゾグ監督は、快速のヴィンス・コールマン/ウィリー・マッギーの1、2番コンビと
4番のクラークをつなぐ3番打者として、
非力ではあるが、チャンスに強くバットに当てるのが上手いハーを指名。
このオーダーは効を奏した。
塁上のコールマン(110盗塁)とマッギー(56盗塁)を、
3番のハーが2塁打(38個でリーグ3位)で返すパターンが炸裂。
ハーは、打率.302、8本塁打、110打点.......ひと桁本塁打で100打点以上という
脅威の打点マシーンぶりを発揮する。
また、チーム2位の80四球を選び、31個の盗塁を決めるなど、
「つなぎの3番打者」として最高の働きを示し、
チームの地区優勝に多大な貢献を果たした。

翌86年は、打率.252、2本塁打で64打点、
87年も、打率.263、2本塁打で83打点.....と
変わらぬ勝負強さを見せたハーだったが、
88年シーズン途中でツインズへトレード移籍。

以後、91年までプレーを続け、ジャイアンツを最後に現役を引退した。

タイトル獲得歴はゼロ、オールスターも1度きりの出場にとどまったが、
古くからのカージナルスのファンにとっては、ハーは忘れられない、いぶし銀の
名プレーヤーであり続けるだろう。

file.164 Geroge FOSTER【ジョージ・フォスター】

2007-02-26 | Big Red Machine
【ビッグ・レッド・ホームラン・マシーン】
Geroge FOSTER

1969年、ジャイアンツに入団したフォスターだったが、
71年シーズン途中でレッズに移籍。

ようやく真価を発揮したのは75年、
ビッグ・レッド・マシーンの中核打者として活躍。
この年、打率.300、本塁打23、78打点の成績を残し、
レッズのリーグ優勝に貢献。
レッド・ソックスと覇を競ったワールド・シリーズでも
打率.276、2打点の活躍でチームを世界一に導いた。

76年、打率.306、本塁打29、121打点。
打点王を獲得する活躍で、チームの2年連続リーグ優勝を牽引したフォスター、
シーズンMVP投票では、チームメイトのジョー・モーガンに次ぐ2位に終わるも
ワールドシリーズでは打率.429、4打点を叩きだす活躍をみせ、
前年に続くレッズの世界一に貢献した。

77年は打率.320、本塁打52、149打点と大爆発。
本塁打50以上は、65年にウィリー・メイズが放った52本塁打以来12年ぶり、
また、チームの優勝こそならなかったが
フォスター自身は本塁打王、打点王、シーズンMVPに輝いた。

78年も40本塁打、120打点を記録、
2年連続の本塁打王と4年連続の打点王を獲得し、
リーグを代表するスラッガーにまで登り詰めたフォスターは
75年から81年まで7年連続で20本塁打以上の安定した活躍を続ける。

82年にメッツへ移籍。
83年から85年まで3年連続で20本塁打、70打点以上をマーク、
新天地でも期待を裏切らない活躍を続けるが、
高額のサラリーに見合った大爆発には至らず、
86年、ホワイト・ソックスで現役を引退した。
通算本塁打348本、1239打点。

独特の顔だちと、モミアゲ........、
殿堂入りこそ果たしていないが、
オールスター5回出場の人気選手であった。

file.163 Reggie JACKSON【レジー・ジャクソン】

2007-02-24 | JKL
【ミスター・オクトーバー】
Reggie JACKSON

強い自己顕示欲.....歯に衣着せぬ物言い、傲慢でエゴイスト.....。
長いメジャーリーグの歴史の中でも
一、二位を争う程の個性派プレーヤー、レジー・ジャクソン。
通算563本塁打に加え、
三振は歴代ワーストの通算2597を記録している。

ジャクソンは、66年にアスレチックスに入団。
68年に29本塁打を放ち、その実力を示すと、
翌69年には、47本塁打をマーク。
早くもチームの主砲として頭角を表した。

71年、32本塁打、80打点でチームを地区優勝に導くと、
73年、32本塁打、117打点で二冠王とMVPを獲得。
ワールドシリーズでも打率.310、6打点と活躍し
怪我で出場出来なかった72年のワールド・シリーズの鬱憤を晴らし
アスレチックスを2年連続の世界一に導いた。

74年もポスト・シーズン合計10打点を叩きだし、
3年連続ワールドシリーズ制覇に大きく貢献。
押しも押されぬチームの顔となったジャクソンは、
この頃から、傲慢な性格が顔を出すようになる。

この頃のアスレチックスのトレードマークであった
『ヒゲ』も、元々はジャクソンが発端。
当時はメジャーでは御法度だった『ヒゲ』も
今ではすっかり定着している。

アスレチックスで2度の本塁打王を獲得し、
球界を代表するスラッガーとなったジャクソンは、
76年のオリオールズを経て、77年、FAで高額契約し、ヤンキースへ移籍。
この年32本塁打、110打点をマークし、チームをリーグ優勝に導いたジャクソンは
ワールド・シリーズで空前絶後の大爆発。
第6戦は3打数連続の本塁打を叩き
前日の試合から4打数連続の本塁打をスタンドにブチ込んだ。
結局、このシリーズは5本塁打、8打点、打率.450の
ワンマンショーで、文句無しのシリーズMVPに輝いた。
シーズン中、イニング途中の守備交代を巡って、
ジャクソンと試合中にベンチで激しい口論を交わした監督のビリー・マーチンも
笑って認めざるをえないド派手な大活躍であった。
(マーチンとはその後も衝突を繰り返し、二人の関係はますます悪化する)

全国区のスーパースターとなったジャクソン、
その尊大な性質にはますます磨きがかかり、
『レジー・バー』なるピーナッツとキャラメルをチョコで包んだ
本人の濃いキャラクターそのもののお菓子が発売されたり、
「J・ロビンソン以降、一番重要な黒人選手は俺だ!」と
全く的外れな迷言を言い放ったり、チームのキャプテン、サーマン・マンソンを中傷したりと、
やりたい放題、言いたい放題で、絶える事なく話題を振りまいた。

以降も、豪快なスイングで2度の本塁打王を獲得したジャクソン、
78年は、ヤンキース2年連続の世界一に大きな貢献を果たし
82年から、エンゼルス、アスレチックスとチームを変え、
87年41歳で現役を引退した。

93年、殿堂入りを果たし、アスレチックス時代の『9』と
ヤンクス時代の『44』は、それぞれのチームで永久欠番となっている。

file.162 Kent HRBEK【ケント・ハーベック】

2007-02-23 | GHI
【パケットと並ぶ主砲】
Kent HRBEK

ツインズ一筋14年、通算293本塁打、1086打点。
実績の割には日本での知名度は極めて低い。

ハーベックは、78年ツインズに入団。
82年に140試合に出場し、メジャーに定着、
打率.302、23本塁打、92打点という
ルーキー離れした成績を残した。
新人王投票ではカル・リプケンJrに
大差を付けられ2位に甘んじたが、
下馬評では、ハーベックを推す声も高かった。

84年には打率.311、27本塁打、107打点の好成績だったが、
MVP投票では、またしても2位に終わる。

以後、カービー・パケットと並ぶチームの主砲として活躍、
84年から8年連続の20本塁打以上をマークし、
特に87年は、34本塁打、90打点でチームのリーグ優勝に貢献、
カージナルスと争ったワールドシリーズでは
第6戦で満塁本塁打を放つなど計6打点と活躍。
ツインズの世界一に大きな貢献を果たした。

91年も20本塁打、89打点と安定した働きで
チームを世界一に導いたハーベック。
94年に現役を退くが、地元においては
パケットに次ぐ人気を誇ったフランチャイズヒーローである。
背番号14は当然ながらツインズの永久欠番である。

file.161 Edgar MARTINEZ【エドガー・マルチネス】

2007-02-21 | MNO
【ミスター・マリナーズ】
Edgar MARTINEZ

『ミスター・マリナーズ』エドガー・マルチネスは、
82年、マリナーズに入団。
サードのレギュラーを獲得したのは、90年。
この年、144試合に出場し、打率.302、11本塁打をマーク、
27歳にして、ようやく掴んだ定位置であった。

92年、打率.343、18本塁打で初の首位打者を獲得、
初のオールスター出場も果たし、ケン・グリフィーや、
ジェイ・ビューナーといった選手と並んでチームの主力選手となる。

92、93年は怪我の影響で調子を落としたマルチネスだったが、
指名打者に徹し始めた95年から、その打棒が火を噴く事になる。

95年、打率.356、本塁打29、打点113で、
2度目の首位打者を獲得し、
マリナーズ初の地区優勝に大きく貢献したマルチネスは、
2001年まで7年連続の打率3割以上を記録し、その安定感を見せつけ、
6度の100打点以上を叩き出し、無類の勝負強さを見せつけた。
特に2000年は、37歳にして、
打率.324に加え、37本塁打、145打点と、大爆発。
打点王を獲得し、チームのプレーオフ進出に貢献した。

ケン・グリフィーや、ランディ・ジョンソン、A-Rod、イチローなど
キラ星のごとく輝くスター選手が多く在籍したマリナーズだが、
マルチネスは、そういった選手の入団、退団を横目に、
自身はマリナーズのために、持てる力を存分に発揮し続けた。
チーム初のフランチャイズヒーローであり、人格者、
選手生活晩年、地元では誰よりも大きく、暖かい声援を受けていた。

また斜視という目のハンデを背負いながら、
通算2247本の安打と1283もの四球を記録した
努力の人でもあった。

2004年、現役を引退したが、
この年、ロベルト・クレメンテ賞を受賞。
幼い頃からプエルトリコで育ったマルチネスにとって、
この賞の受賞は、何よりも嬉しかったに違いない。

dedicate to Mr.K.............so long!!

file.160 Willie DAVIS【ウィリー・デイヴィス】

2007-02-20 | DEF
【3-dog】
Willie DAVIS

1960年代を代表する快速選手。

デイヴィスは、1960年にドジャースでメジャーデビュー、
62年には、打率.282、21本塁打、32盗塁の好成績を残す。
チーム内では、モーリー・ウィルスに劣らないスピードを誇り、
主に3番打者として活躍。
ラインドライブヒッターのデイヴィスは、
ウィルスが塁上にいる時はポイントゲッターとして
走者無しの時はチャンスメーカーとして、
状況に応じた積極的な打撃を展開した。
さらに、スピードを活かした広い守備範囲も大きな武器で、
走・攻・守、全ての面でドジャースの『守りの野球』を支えた。

63年、デイヴィス自身は打率.245と低迷するも
チームはワールドシリーズを制覇し世界一に。
64年は打率.294、12本塁打、42盗塁と復調。
65年は調子を崩したデイヴィスだったが、ドジャースはリーグ優勝、
デイヴィスは、ワールドシリーズでも打率.238に終わるが
3盗塁を決め、チームの世界一に貢献した。
66年もチームをリーグ優勝に導くが、
ワールドシリーズではオリオールズの前に敗れ去った。

69年、打率.311、59打点、24盗塁、初の打率.300以上をマークすると、
71年まで3年連続で3割以上を打ち、打撃に安定感が出たデイヴィス。
70年には打率.305、8本塁打で93打点を叩き出し
勝負強さを発揮、以降74年まで5年連続で70打点以上をマークする。

サンディ・コーファックスらが現役を退いた後は
キャプテンとして精神面でもチームを牽引。
トミー・ラソーダ監督とは良好な関係を築けず、
74年、モントリオールにトレードされたデイヴィスだったが
打率.295、89打点の好成績を残し、新天地でも変わらぬ
勝負強さを見せつける。

結局、79年、6球団目のエンゼルスで現役を引退。
通算2561安打、398盗塁、ゴールドグラブ3度受賞。

77年、ドラゴンズ、78年クラウンズと、
2年間に渡って日本でも活躍。
特にドラゴンズ時代は、
狭い名古屋球場で、ジャイアンツの西本から
ランニングホームランを放ち、
そのパワーとスピードを大いに見せつけた。

殿堂入りは適わなかったが、
未だに熱狂的なファンが多い選手である。

file.159 Sam JETHROE【サム・ジェスロー】

2007-02-19 | JKL
【JET】
Sam JETHROE

サム・ジェスローは、1942年から、
ニグロ・リーグのバックアイズで7年間活躍。
通算打率.340を打ち、2度の首位打者を獲得、
45年にはチームを世界一に導く活躍を見せるなど
リーグの花形選手であった。

32歳になった1950年、ブレーブスに入団。
球団初の黒人選手としてプレー。
オールド・ルーキーのジェスローはこの年、
打率.273、18本塁打、35盗塁の大活躍。
盗塁王と、史上最年長の新人王を獲得し、
一躍地元のスター選手となる。
2年目の51年も打率.280、18本塁打、65打点、35盗塁と結果を残し、
そのスピード感溢れるプレーぶりに、ファンから『ジェット』の
ニックネームで呼ばれるようになった。

が、52年に打率.232と低迷するとマイナーへ送られ、
そのまま試合に出場する事なくブレーブスを退団。
54年にパイレーツで復帰するも、2試合しか出場できず
そのまま現役を引退した。

マーク・フィドリッチやジョー・シャーボノーと並ぶ
メジャーリーグ史を代表する一発屋選手であるが、
20代の全盛期にメジャーでプレー出来ていれば、
あるいは、ジャッキー・ロビンソンやラリー・ドビーを
上回る活躍を見せていたかもしれない。

file.158 Whitey FORD【ホワイティ・フォード】

2007-02-18 | DEF
【白ん坊のフォード】
Whitey FORD
通算236勝、高い勝率を誇り、
頭脳的なピッチングで
ヤンキースの黄金時代を支えたエース左腕。

1950年、防御率2.81、9勝をあげメジャーデビューしたフォード。
この年のワールドシリーズでも先発し、1勝、世界一に貢献する。

51、52年の兵役義務を経て、
53年には防御率3.00、18勝をマーク。
エース級投手となり、チームを世界一に導いた。
以後、65年まで安定したピッチングで
55年、防御率2.63、18勝で、最多勝。
61年、防御率3.21、25勝でサイ・ヤング賞を獲得。
63年も、防御率2.74、24勝するなど、
13年連続の二桁勝利、サイ・ヤング賞1度、
最多勝3度、最優秀防御率2度を記録した。

また、ワールドシリーズには11度出場、
宿敵ドジャースや、カージナルスと数々の名試合を演じ、
6度の世界一に輝き、10勝7敗、防御率2.71の好成績を残した。
33イニング連続無失点のシリーズ記録保持者でもある。

1960年頃から、球威の衰えを感じたのか
不正投球に身を染める様になったフォード。
唾をつけるスピット・ボール、
ボールの縫い目に泥をすり込むマッド・ボール、
ボールに何らかの傷を刻み付けるカット・ボール......。
あらゆる球種(?)を駆使し、打者を幻惑した。

この時期フォードは、打たれて負けると
「刻みが足らなかったぜ」と悔しがったという。
また、右手の指に自ら開発・製作した、
ヤスリを溶接した指輪をはめたり、
キャッチャーのエリー・ハワードに
レガーズの金具でボールに傷をつけさせたり、
様々な手を使ってチェックの目をかいくぐった。

ともあれ、フォードが、ヤンクスの歴史に燦然と輝く大投手に変わりはない。
数々の名選手を生んだヤンクスだが、殿堂投手となると、
レフティ・グローブとフォードの二人しかいないのだから。
フォードが殿堂入りを果たしたのは74年、
奇しくも、夜遊び仲間の親友、ミッキー・マントルと
一緒の年であった。

file.157 Bret SABERHAGEN【ブレット・セイバーヘーゲン】

2007-02-17 | STU
【Sabes】
Bret SABERHAGEN

70年代中盤から80年代中盤まで
リーグ屈指の強剛チームだったロイヤルズ。
1985年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げるのだが
その時のエースが、無類のコントロールを誇る
ブレット・セイバーヘーゲンである。

セイバーヘーゲンは、84年に20歳でメジャーデビュー、
一年目にして防御率3.48、10勝をマーク。
翌85年には防御率2.87、20勝と大ブレークし、
ジョージ・ブレットらと共に、チームをリーグ優勝に導いた。
ワールドシリーズでも2試合に登板し
オジー・スミス、ウィリー・マギー、ジャック・クラークらを擁する
カージナルズ相手に防御率0.50で2勝。
18イニングでわずか1四球と、コントロールが冴え
第7戦では完封勝を収め、世界一に大きく貢献。
サイ・ヤング賞とワールドシリーズMVPに輝き、
キャリア最高の年となった。

86年は7勝に終わるも、87年は18勝、
89年には防御率2.16。23勝をマークし、
最多勝と二度目のサイ・ヤング賞に輝いた。

その後、メッツ~ロッキーズ~レッドソックスとチームを移り
94年、メッツで14勝、98~99年はレッドソックスで
2年連続の二桁勝利を飾るなど、安定した投球を続けた。
91年には8月のカブス戦でノーヒット・ノーランを達成した。

2001年、通算167勝で現役を引退。

記者に漂白剤をかけた事があるなど、
マスコミ嫌いでも有名だった。

file.156 David CONE【デヴィッド・コーン】

2007-02-16 | ABC
【99年7月18日の奇跡】
David CONE

1981年、ロイヤルズに入団したコーンは、
86年、メジャーデビュー、11試合に登板し、
0勝に終わったコーンは、
この年のオフ、メッツに放出される。

87年、21試合で5勝と、まずますの成績を残したコーンは
88年、防御率2.22。20勝の好成績でブレーク。
初のオールスター出場も果たした。

以降、7年連続で10勝以上をマーク。
90年、233奪三振、91年、241奪三振で
2年連続の奪三振王にも輝いた。
特に91年は、10月に一試合19奪三振もマーク、
92年途中からブルージェイズ~ロイヤルズ~ブルージェイズと
チームを変わるが、キレのあるスライダーやカーブ、カットボールを
巧みに操る投球で打者を翻弄し続けた。
92年にはブルージェイズのリーグ優勝に貢献、
チームを世界一に導く活躍を見せた。

95年シーズン途中でヤンキースに移籍、
96年は怪我の影響で7勝止まりだったが、
チームは世界一、コーンもブレーブスとの
ワールドシリーズで好投を見せ、
2度目の世界一の美酒に酔いしれた。

98年、20勝をマーク、健在ぶりを見せつけたコーンは、
99年7月18日、エクスポズ戦で完全試合を達成。
この日の試合は、56年のワールドシリーズで
完全試合を達成したドン・ラーセンとヨギ・ベラのコンビが
バッテリーを組み、始球式を行う...という
まさに奇跡としか言い様のない一日であった。
また、チームも世界一に輝き、コーンにとって、
良い事づくしの1年となった。

2001年、レッドソックスを最後に
一度はユニホームを脱いだと思われたコーンだったが
200勝を目指し、2003年、メッツでメジャーに復帰、
が、結局1勝に終わり、通算194勝で現役を退いた。

file.155 Orel HERSHISER【オーレル・ハーシハイザー】

2007-02-15 | GHI
【bulldog】
Orel HERSHISER

79年にドジャースに入団したハーシハイザーは、
84年、11勝をマークし、メジャー本格デビューを飾る。
85年には19勝3敗、防御率3.49の好成績を残し、
チームの主力投手の地位を確固たるものにした。

その闘争心剥き出しのピッチングスタイルで
いつしか『ブル・ドッグ』と呼ばれるようになったハーシハイザー。
が、実は、抜群の制球力を大きな武器に、
速球/シンカー/カーブ/チェンジアップを
内に外に投げ分ける、頭脳的な投球が持ち味であった。

86年、14勝......87年、16勝とコンスタントに
勝ち星を稼いだハーシハイザーだったが、
1988年は、キャリアで最高の年となった。
奇跡のような、59イニング連続無失点記録を樹立し
防御率2.26、23勝をマーク、チームを地区優勝に導き、
リーグチャンピオンシップでは4試合に登板し1勝1セーブ、
ワールドシリーズでも完封勝利を含む2完投で2勝、
チームの世界一に大きく貢献した。
プレーオフでMVP、ワールドシリーズでもMVP
さらにサイ・ヤング賞も受賞....と、
他に何も望めないようなシーズンを過ごしたのであった。

85年から5年間にわたり230イニング以上を投げたハーシハイザーは
その激投がたたったのか、90年、91年のほとんどを
怪我の治療に費やす事になる。
92年に10勝をあげ復活するが
以前のような圧倒的なピッチングは見られなかった。

95年、野茂英雄の入団の煽りを受け
インディアンズに移籍すると16勝をマークし
チームのリーグ優勝に貢献。
ワールド・シリーズでは、同じようなニック・ネームを持つ
グレッグ・マダックスと2度にわたり
白熱した投手戦を演じ、1勝1敗。
惜しくも世界一はならなかったが、
存在感を見せつけた。

以後、ジャイアンツ、メッツ等を渡り歩き、
2000年、通算204勝で現役を引退する。

以後は、コーチやテレビの解説など、
その理論を武器に精力的に活動している。

file.154 Bobby VALENTINE【ボビー・ヴァレンタイン】

2007-02-14 | VWX
【名将かウザキャラか??】
Bobby VALENTINE

ヴァレンタインは、68年にドラフト1位でドジャースに入団。
内外野を守れるユーリティリー・プレーヤーとして活躍、
72年には打率.274、32打点とまずますの成績を残す。
73年からは、エンゼルスに在籍。
74年に打率.269、39打点をマークするが、
足の故障と、打撃面の非力さの所為か、
以後は年間100試合以上の出場を果たせず、
79年、マリナーズで現役を引退する。

その後、メッツのコーチに就任を経て
85年シーズン途中にレンジャースの監督に就任、
35歳の若き指揮官は、85年最下位だったチームを
翌86年には2位にまで浮上させる。
が、レンジャースでは優勝に至らず
95年に日本の千葉マリーンズの監督に就任。
その明るいキャラクターと統率力で
万年Bクラスだったチームを2位にまで引き上げ
一躍人気監督となる。
が、当時チームのGMだった広岡達郎と衝突し
1年でチームを追われてしまう。

96年から、今度はメッツの監督となったヴァレンタイン、
2000年には、メッツvsカブスの日本での公式戦で来日、
大きな声援を受け、改めて日本での人気の高さを立証した。
また、この年はメッツをリーグ優勝に導き、
ワールド・シリーズ進出を果たしたが、
世界一には届かなかった。

2004年から千葉マリーンズの監督に復帰。
05年にはチームを31年ぶりの日本一に導き
日本での評価を絶対的なものとした。

メッツ時代の1999年、
退場をくらったのにも関わらず、
ヒゲメガネで変そうしてベンチ入りをしたり、
コーチ時代は、相手投手の集中力を乱すべく
3塁コーチャーズボックス内で変な動きをしてみせたり...と
ユニークなエピソードが多いヴァレンタイン。
日本でも、キャラクターで絶大な人気を誇るが、
本国ではトミー・ラソーダと共に
『ウザい目立ちたがり屋』キャラ扱いされる事もしばしばある。

file.153 Fergie JENKINS【ファージー・ジェンキンス】

2007-02-14 | JKL
【Fly】
Fergie JENKINS

その輝かしい実績の割に、
日本ではほとんど知られていない殿堂投手である。
通算284勝。
殿堂投手の中で唯一、3000奪三振を奪いながら
1000四球未満しか与えていないコントロール・アーティストである。
ちなみに、現役ではカート・シリング、グレッグ・マダックスの二人が
3000奪三振・1000四球未満を継続中である。
(ペドロ・マルチネスも2007年には仲間入りをするだろう)

1965年、フィリーズでメジャーデビューしたジェンキンスは
66年シーズン途中、カブスに放出される。
65~66年の2年間、8勝しか出来なかったジェンキンスは、
67年、いきなり防御率2.80で20勝し、ブレーク。
翌68年も20勝をあげ、結局72年まで、
6年連続の20勝以上をマーク、
特に71年は、24勝で最多勝、サイ・ヤング賞に輝く大活躍。
ムーブする速球と、鋭いスライダー、シンカーを武器に
一躍リーグを代表する投手へと変貌を遂げ、
アーニー・バンクスやビリー・ウィリアムスらと共に
カブスの屋台骨を支えた。

73年、14勝16敗と、やや低迷したジェンキンスを
カブスはレンジャースへ放出。
30代を迎えたジェンキンスは新天地で意地を見せ、
74年、25勝、防御率2.82と華麗に復活、
サイ・ヤング勝は惜しくも投票順位2位で逃すが、
まだまだ充分働ける事を立証した。
その後、レッドソックス~レンジャース~シソックスと渡り歩き、
ナ・リーグで149勝、ア・リーグで135勝し、
史上4人目の『両リーグで100勝』を達成した投手となった。

1980年シーズン途中、税関でコカインとマリファナ所持が発覚し、
出場停止処分を課せられ、晩節を汚してしまうが、
結局83年、40歳までプレーし、91年に殿堂入りを果たしている。

惜しまれるのは、バンクスやビリー・ウィリアムス同様、
ポスト・シーズンでの登板が一度も無かった事だろう。
華やかなワールド・シリーズで、
彼等の溌溂としたプレーが見られなかったのは残念というしか無い。

file.152 Ron GUIDRY【ロン・ギドリー】

2007-02-13 | GHI
【ルイジアナ・ライトニング】
Ron GUIDRY


名門ヤンキースの永久欠番は16人、
全球団で最も多い人数である。
が、その内訳は、野手が12人、投手2人、監督2人...と
かなりの打高投低ぶりを見せている。
そんな中、ホワイティ・フォードと共に
顔を連ねている投手がロン・ギドリーである。

ギドリーは、71年にヤンキースに入団、
75年にメジャーデビューを果たし、
77年に16勝、防御率2.82の好成績をあげ、
ワールド・シリーズでも1勝、
チームの世界一に貢献し
一躍、リーグのトップクラス投手の仲間入りを果たす。

78年は、25勝・防御率1.74、
共にリーグ1位を記録しサイ・ヤング賞受賞。
10月2日のレッド・ソックスとの優勝決定戦でも
6イニングを2失点で勝利投手。
チームのリーグ優勝に大きく貢献し、
ワールドシリーズでも好投、2年連続でチームを世界一に導いた。

翌79年も18勝に加え、防御率2.78はリーグトップ。
速球とキレ味抜群のスライダーを武器に
77年から、83年の21勝と85年の22勝を含む、
9年連続の10勝以上をマークし、
サーマン・マンソンやレジー・ジャクソンらと共に
大黒柱としてチームを支えた。

また、守備も上手く、
通算で5度のゴールドグラブ受賞を果たしている。

1988年、通算170勝で現役を引退、
14年間の選手生活は、全てヤンキースに捧げられた。