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file.075 Dick ALLEN【ディック・アレン】

2006-05-18 | ABC
【クラッシュ】
Dick ALLEN

メジャーリーグ史において屈指の名投手トム・シーバーは言った。
「自分が一番恐れた打者は、ディック・アレンである」

1960年、フィリーズ傘下のマイナーチームと契約したアレン、
フィリーズは、アレンの潜在能力を高く評価していたが、
地元のファンはアレンの入団に対し抗議活動を行った。
今だ黒人選手が容易に受け入れられなかった時代だったのだ。
にも関わらず、アレンは63年にメジャーデビューすると
翌64年には打率.318、29本塁打、91打点の
見事な成績をおさめ、新人王に輝いた。

以降、フィリーズの主力打者に君臨したアレン。
66年、打率.317、40本塁打、110打点をマークするなど
H・アーロン、W・メイズ、
F・ロビンソン、W・マッコビーら
殿堂入りの大打者たちと凌ぎを削り、
1966年には、60年代において上記の4人以外で唯一、
長打率リーグトップに輝いている。

パワフルな打撃を維持するための努力は怠らず
かのテッド・ウィリアムスも使っていたという
バットスピードを速めるための軽いバットをあえて使用せずに
重いバットを振るべく、腕力を徹底的に鍛えたという。

また、アレンは我が儘で気難しい性格でも知られ、
監督やチームメイトと、しばしば揉め事を起こし、
自チームのファンにまで強烈なブーイングを浴びた。
練習は適当、チームメイトと喧嘩し深手をおわせる、
乱暴運転で警察に連行され、試合に遅れるなど、
度重なる乱行が続き、70年、ついにフィリーズは
アレンをカージナルスへ移籍させる。

70年にはカージナルスへ移籍、
この年、打率.279、34本塁打、101打点の好成績。

その後、ドジャース、ホワイトソックス等に移籍をくり返し、
72年にはホワイト・ソックスで打率.308、37本塁打、113打点、
リーグMVPにも輝いたアレンだが、
77年のアスレチックスを最後に現役を引退した。

通算1848安打、本塁打351本を積み重ねたが
彼本来の能力であったら、もっと数字をのばせたであろうと言われている。

アレンは人工芝の球場に対しある名言を残している。
「馬も食わねえ芝の上で野球なんかできねえよ」

file.074 Will CLARK 【ウィル・クラーク】

2006-05-12 | ABC
【ザ・スリル】
Will CLARK

1984年、ロス五輪の代表メンバーとして銀メダル獲得に貢献し
さらに翌年、大学野球においても最優秀選手に選ばれるなど、
85年のドラフトの目玉だったクラークは、
全米2位でサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、
86年、メジャー初打席でノーラン・ライアンから
ホームランを打つ派手なデビューを飾る。

若くして積み上げた実績からくる自信と、生まれ持った闘争本能は
一時、「横柄で生意気な奴」との評判をもたらしたが、
クラークは、チームに勝利をもたらすクラッチヒットを打ち続け、
サンフランシスコのファンから絶大な支持を得る事になる。

87年に打率.308、35本塁打、91打点を放つと、
88年、打率.282、29本塁打、109打点で打点王、
89年には.333の高打率に加え、23本塁打、111打点を稼ぎ、
チームのリーグ優勝に貢献、
カブスとのチャンピオンシップでは
第5戦で、ミッチ・ウィリアムスから決勝タイムリーを放つなど、
打率.650、2本塁打、8打点の大活躍。
が、ワールドシリーズでは、打率.250打点0に終わり、
チームも0勝4敗でアスレチックスに敗れ去る。

その後も、91年、打率.301、29本塁打、116打点をマークするなど
勝負強い打撃が冴え渡り、
チームの中心選手としての地位を揺るぎないものにする。
当時のチームメイト、ボブ・ブレンリーは
クラークを『ザ・スリル』と呼び、
これは彼の最も有名なニックネームとなった。

92年以降、ホームランの数こそ減少するが
勝負強い安定した打撃は変わらず、
94年からレンジャーズ→オリオールズ→カージナルスと、
活躍の場を移しても、そのクラッチ・ヒッターぶりを存分に見せつけた。
98年は打率.305、23本塁打、102打点。
キャリア最後の年となった2000年は、
89試合でリタイアしたマグワイアの代役としてカージナルスに移籍、
移籍後の51試合で打率.345 12本塁打 42打点の大活躍、
マグワイアの穴を埋めて余りある活躍をみせチームを地区優勝に導き、
選手生活の終わりを華々しく飾った。

クラークの父親はプロのハスラーである。
彼は、勝負師だった父親の遺伝子を見事に受け継いでいたのである。

file.073 Kirby PUCKETT 【カービー・パケット】

2006-05-07 | PQR
【星になったカービー】
Kirby PUCKETT

「カァァァビィィィィィ・パケエエッ!!!!」
派手な場内アナウンスを受け、パケットが打席に入る時、
ファンは、惜しみない声援と溢れんばかりの尊敬の念を彼に送った。
そしてパケットは十二分に、その期待に応えた。

シカゴのスラムに育ったパケットは、
82年ドラフト1位でミネソタ・ツインズに入団、
84年にメジャーデビューする。
最初の二年間は、打率も三割に満たず、
本塁打も計4本にとどまるが
86年爆発。
.328、31本塁打、96打点を放ち
シルバースラッガー賞に輝く。
身長170cm程度でずんぐりした体格ながら、
身体能力に優れ、この年、盗塁20に、ゴールド・グラブ受賞と
走攻守に秀でた所を見せつけた。
また愛嬌溢れる笑顔と謙虚な性格で、
ミネソタのファンにこの上なく愛された。

87年、打率.332、28本塁打、99打点、
88年、打率.356、24本塁打、121打点...と
その安打製造機ぶりを見せつけていたパケット。
86年~89年、4年連続の200安打、
87年から3年間は最多安打、
89年には打率.339、85打点で、首位打者獲得と、
ミネソタの英雄のみならず、
メジャーリーグを代表する選手となる。

この後も安定した活躍を続け、
オールスターには10回出場、
12年で2304本のヒットを放ち、
守備面でも計6度のゴールドグラブを獲得する。

87年、91年はワールド・シリーズでもチームの2度の世界一に貢献、
特に91年は、第6戦、ホームラン性の当たりを
もぎ取る超ファインプレーを披露したばかりか
延長戦にケリをつけるサヨナラホームランを放つ
八面六臂の大活躍ぶりを見せつけ、ツインズを牽引した。

92年、打率.329、19本塁打、110打点、
94年、打率.317、20本塁打、112打点
95年、打率.314、23本塁打、99打点.....と
高いレベルでの安定感を誇っていたパケットであったが
96年のキャンプ中、緑内障で右目の視力が悪化、
結局、95年限りで、早すぎる引退を余儀なくされた。

引退後は、離婚騒動や、婦女暴行の疑いをかけられるなど、
様々なトラブルに巻き込まれるが、
2001年、堂々の殿堂入りを果たす。

2006年3月6日、脳卒中で倒れ死去。
プレーヤーとしてのキャリアだけでなく
人生においても、早すぎるピリオドとなってしまった。

ミネソタは最大のスターの死に、悲しみにつつまれ、
NBAウルブズのスター選手ケヴィン・ガーネットは
『PK34』と書き込んだシューズを履いてプレー、
そして球場は多くの献花で溢れるのであった。

file.072 Dock ELLIS 【ドック・エリス】

2006-05-07 | DEF
【LSDノーヒッター】
Dock ELLIS

その日、ピッツバーグ・パイレーツのピッチャー、ドック・エリスは
休日をガールフレンドと過ごしていた。
新聞を読んでいる彼女がいきなりエリスに向かって叫んだ、
「今日はアンタが投げる日よ!!!」
飛行機に飛び乗って何とか試合前に球場に辿り着いたエリスだったが、
彼は重大な問題を抱えていた。
エリスは朝から、ガールフレンドと一緒にLSDをたっぷり服用していたのである。

ボールの大きさが変わる。
キャッチャーが見えたり消えたりする。
打者が打ったライナー性の打球を取ろうとジャンプしたら
ただのキャッチャーゴロだったりする............。

エリスは完全にトリップした状態で投げていたのだ。
しかも、その試合、エリスはノーヒット・ノーランを達成する..........。
1970年6月12日のことである。

68年に23才でメジャーデビューを果たしたエリス、
69年に11勝をマークすると、
71年には防御率3.06、19勝、
チームも世界一に輝き、サイ・ヤング賞で4位にランクされるなど
その活躍は高い評価を受ける。
72年も防御率2.70、15勝でリーグ優勝に貢献した。

エリスはその後、76年にヤンキースへ移籍、
早速、防御率3.19、17勝をマーク、チームのリーグ優勝に貢献するも、
ワールド・シリーズでは、レッズの打線にメッタ打ちにあい、
チームも1勝も出来ずにあっさり敗れ去った。

1979年、古巣パイレーツで、現役を引退する。
通算138勝、防御率3.46。

引退後はしれーっと、麻薬撲滅運動に携わっている。

派手なファッションに身を包み、
球場にパーマをあてる為のヘア・カーラーをつけたまま
現れるなど、奇行も多かったという。