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file .305 Ben Chapman【ベン・チャップマン】

2013-07-08 | 2013年映画『42』
【野次】
Ben Chapman

1930年代前半のヤンキースにおいて、
俊足巧打の外野手として名を馳せたチャップマン。
31年から3年連続で盗塁王を獲得。
100打点を2度マーク、クラッチヒッターぶりもみせつけ、
41年にホワイトソックスを最後に引退するまで、
オールスターにも4度の出場を果たした。

引退後、45年にフィリーズの監督に就任。
その年、ドジャーズでジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューを果たした。
チャップマンはドジャースとの試合で、
口汚い侮辱的罵詈雑言をジャッキーに対して野次った。
ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーから、
怒りを押さえる事を固く約束させられていたジャッキーはただ黙っている。
その時、ジャッキーに冷たい態度を取っていたドジャースの選手が
フィリーズベンチに向かって野次を返す。
「うるせえ! 口答え出来る奴に野次りやがれ! 臆病者め!」
ドジャーズベンチが一体になった瞬間であった。

ジャッキー・ロビンソンをめぐるストーリーにおいて、
チャップマンは何かと悪役を強いられる。
が、南部のテネシー州出身のチャップマンからしてみれば
致し方ない事だったのかもしれない。

チャップマンは疑う余地のない名選手だ。

ジャッキーの一件も、悪いのは人種差別であって、
チャップマンでは無いのだ。

file .240 Branch RICKEY【ブランチ・リッキー】

2008-02-29 | 2013年映画『42』
【名GM】
Branch RICKEY

1905年、捕手として、セントルイス・ブラウンズに入団したリッキー。
1914年まで現役を続けたが、選手としては芳しい成績を残すには至らなかった。

が、現役メジャーリーガーとしてプレーする傍ら、
ミシガン大学で法律の勉強や、野球部の選手を指導していたリッキーは、
スカウトとしての眼力や監督・コーチとしての才能を育み、
1914年、プレーイング・マネージャーとしてブラウンズの指揮を司る事になる。

監督となったリッキーは、
画期的な練習方法(例えばバッティング・ケージ内の打撃練習)や、
選手への講義など、当時としては斬新な試みに挑戦するものの
成績面では結果を残す事が出来ず、
1919年、今度はカージナルスの監督に就任する。

名選手・ホーンズビーらを要するカージナルスだったが
当時は弱小球団であった。
リッキーはチーム強化のため、監督とGMを兼任し、
メジャーとは全く別の組織だったマイナーリーグのチームを買収し始める。
独立したリーグだった筈のマイナーチームを
自球団の育成機関にするためである。
安い資金で大勢の有望選手を囲い込み、育てる.....。
リッキーの作戦は功を奏し、レッド・シェーンディーンストや
ディジー・ディーン、スタン・ミュージアル、マーティー・マリオン、イノス・スローター等の
名選手を次々と輩出。
カージナルスは1928年から34年まで4度のリーグ優勝に輝いている。
当時のコミッショナー、ケネソー・ラウンディスは、
マイナーリーグのファーム化に懸念を示したが、
強豪・ヤンキースなどがカージナルスに追随したため、
結局、独立したマイナー・リーグは消滅。
完全にメジャーリーグの選手育成機関に成り下がってしまった。

1942年、リッキーはドジャースのGMに就任する。
ここでも彼は、当時としては考えられなかった改革を推し進める。
........黒人選手との契約である。

おりしも、黒人選手のメジャー入りに強く反対していたケネソー・ラウンディスは、コミッショナーを退任。
替わって、就任したハッピー・チャンドラーは黒人へ門戸を開く事をたからかに宣言しており、
舞台は整っていたのである。
リッキーは早速、ジョージ・シスラーらに、黒人選手のスカウティングを命じ、
かのジャッキー・ロビンソンを発掘。

かくして、ブルックリン・ドジャースに黒人メジャーリーガーが誕生、
リッキーからの『ひたすら耐えろ』という過酷な命令を忠実に守ったロビンソンの大成功によって、
ジャイアンツをはじめ、各球団がドジャースの後に続き、
メジャー・リーグは新時代へ突入する事になるのであった。

が、その成功の裏で、ニグロ・リーグは衰退を極め、
1960年頃には完全に消滅してしまった。
ブランチ・リッキーはその後も、ドン・ニューカムやロイ・キャンパネラ等の
名黒人選手を発掘するが、ニグロ・リーグには何の補償も行わなかった。

その後、
ドジャースを辞めたリッキーは、
古巣カージナルスへの復帰などを経て、
1965年、84歳で死去、
67年に野球殿堂入りを果たした。


file.137 Happy CHANDLER【ハッピー・チャンドラー】

2007-01-12 | 2013年映画『42』
【歴代最高のコミッショナー】
Happy CHANDLER

1945年、第2代コミッショナーに就任したチャンドラー。
初代コミッショナーのケネソー・ランディスは、
歴代コミッショナーの中でも最高レベルに劣悪な
人種差別主義の独裁者であったが、
チャンドラーはその「名」の通り、
ハッピーな足跡を、メジャーリーグのみならず、
アメリカの歴史に残した。

1946年、ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーが
黒人選手であるジャッキー・ロビンソンと契約した。
チャンドラーは、ドジャースを除く、
全てのチームのオーナーの反対を押し切り、
ロビンソンとの契約を承認。
黒人選手に門戸を開くのに大きく貢献した。

1951年、一期限りで退任したが、
1982年、晴れて野球殿堂入りを果たした。
この年、同時に殿堂入りを果たした選手の中には
ハンク・アーロンやフランク・ロビンソンら
偉大な黒人選手が交じっていた。
アーロンは、チャンドラーと同時に殿堂入り出来た事を
名誉に思ったという。

チャンドラーは言う。
『何故、黒人はメジャーリーガーになれないのか?
 そう問われた時、“彼等が黒人だからさ”
 というのは理由にならないよ。』

file.068 Jackie ROBINSON 05 【ジャッキー・ロビンソン 05】

2006-03-14 | 2013年映画『42』
【引退後】
Jackie ROBINSON

引退後のジャッキーは、
製菓会社チョック・フル・オー・ナッツの副社長を務める傍らで
公民権運動や政治活動にも熱心に関わった。
NAACP(全米黒人地位向上協会)の活動を皮切りに
数々の団体に呼ばれ、そのネームバリューを活かし
全国を講演して回った。
ニューヨーク知事のネルソン・ロックフェラーに請われ
彼の片腕として共和党党員になると
チョック・フル・オー・ナッツを退社し、
より深く政治に関わり合いを持つようになる。
1965年には、ロックフェラーのもと、
リンドン・ジョンソン側のスタッフとして大統領選を戦い、
ジョンソンの勝利に多大な貢献をし、
ハーレムに出来た、初の黒人経営による銀行の設立の際には
初代会長に就任した。

マルコム・Xとは対立の立場をとり、
書簡で互いの意見をぶつけ、
マーティン・ルーサー・キング牧師とは、
互いを認めあいながらも、
ベトナム戦争の是非をめぐり
新聞のコラム上などで議論を戦わせた。
ブラック・パンサー党との接触も持ったという、
黒人の運動家にとって、先駆者ジャッキーはやはり
無視できない存在だったのである。

人種の壁を破った偉大なプレーヤーとして、
引退後も精力的に動き回るジャッキーであったが
その長男、ジャッキー・ジュニア.は、大きすぎる父親の存在に押しつぶされ、
次第にその生活が荒れていった。
学校は長続きせず、家出をくり返し、
ベトナム戦争へ出征した後は麻薬に手を染めた。
ついには、麻薬所持で逮捕されてしまう。
約一年の更正施設での生活を経て、ようやく立ち直った
ジュニアだったが、1971年自動車事故により
24才の短い生涯を閉じた。
自分を立ち直らせてくれた更正施設で働く事に
生き甲斐を見つけた矢先の出来事であった。


そして、ジャッキー自身もその一年後
1972年に心臓病でこの世を去るのである。

モハメド・アリ、タイガー・ウッズ、マイケル・ジョーダン......
野球以外にも、偉大な黒人アスリートは多く存在するが、
その道を切り開いたのがジャッキーを始めとする
当時のマイノリティ選手達である。
そして、その中でもジャッキー・ロビンソンは、より特別な存在である。

『人生というものは他の人の人生に少しでも意味を与えた時に、始めて本当の意味を持つ』
ジャッキー・ロビンソンの墓石にはこう刻まれている。

file.067 Jackie ROBINSON 04 【ジャッキー・ロビンソン 04】

2006-03-05 | 2013年映画『42』
【引退】
Jackie ROBINSON

1951年、ブランチ・リッキーに変わり、ウォルター・オマリーが
ドジャースのオーナーに就任した。
最大の理解者リッキーと違い、オマリーは
ジャッキーを「ブランチ・リッキーのお姫さま」と呼び、毛嫌いしていた。
当然、ジャッキーとオマリーは衝突した。
例えば、チーム全員で審判に悪態をついた時
オマリーに呼び出され注意を受けたのはジャッキー一人だった。

また、1954年に監督がチャーリー・ドレッセンから
ジャッキーを嫌うウォルター・オルストンに変わると、
ジャッキーと球団との関係はますます悪くなるのだった。
オルストンとジャッキーは起用法などを巡って
殴り合い寸前の口論をしばしば起こした。
55年にはワールド・チャンピオンになる至福の瞬間もあったが
この頃には、ジャッキーの心は野球ではなく
その他の仕事や運動に向けられていた。
自分の野球選手としての能力が衰えている事にも気付いていた。

56年のオフ、ドジャースは、ジャッキーをジャイアンツにトレードすると宣告した。
ジャッキーは多くのファンの声に応え、プレーを続ける事も考えたが、
結果、引退した。

ジャッキー・ロビンソンが引退後に選んだ仕事は
製菓会社への役員就任であった。

file.066 Jackie ROBINSON 03 【ジャッキー・ロビンソン 03】

2006-02-27 | 2013年映画『42』
【生意気なニガー】
Jackie ROBINSON

波瀾のデビュー・イヤーを終え、
選手としてのジャッキーはますます冴えを見せるようになる。
49年には.342の高打率をマークし、首位打者を獲得、
また好機に強い打撃も披露、ホームラン16本にして
打点124を荒稼ぎした。
チームもジャッキーに牽引され、2年ぶりのリーグ優勝を飾った。
以降、6年連続して3割以上を打ち その間、毎年.400以上の出塁率も記録した。
ポジションは一塁から二塁に変わり、遊撃のピー・ウィー・リースと
無敵のダブルプレー・コンビを結成した。

フィールド上では、その実力を遺憾なく発揮していたジャッキーであったが
それ以外ではまだまだ暗雲は立ち去っていなかった。

1950年、ジャッキーの恩人たるブランチ・リッキーは
ジャッキーに対し「もう、一人立ちしていいぞ」と告げた。
それは、本来のジャッキー・ロビンソンに戻っていいぞ...という意味であった。
要するに、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」ジャッキーではなく
「言われたら、言い返す。やられたら、やり返す」ジャッキーに戻る...という事だ。
ジャッキーは自分の言い分をハッキリと言い、審判の、納得のいかない判定には
バットを叩き付けて激昂した。

白人に対し「大人しい・従順」な態度を見せて
認められる事はジャッキーの本意では無かった。
力と自尊心を持って白人社会と同等に共存する......。
それがジャッキーの思うところの「本当の自由」であった。

が、このジャッキーの変化に対し、『生意気なニガー』というレッテルを
貼られるまで時間はそうかからなかった。
どちらかというと大人しく、波風をたてない
同僚の黒人捕手ロイ・キャンパネラとの確執を取り沙汰される事もあった。
キャンパネラとは、関係が冷えた時期があったのは事実であったようだが、
それらの外部からの雑音はジャッキーのプレーには
何ら、影響を与える事は無かった。

file.065 Jackie ROBINSON 02 【ジャッキー・ロビンソン 02】

2006-02-24 | 2013年映画『42』
【1947年】
Jackie ROBINSON

1947年、晴れてメジャーデビューし、
黒人で初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン。
72年に心臓病で53年の生涯を終えるが、
その人生は想像以上に波瀾に満ちたものであった。

47年、ドジャースの一塁手として
打率.297を打ち、29盗塁を決めて盗塁王、
さらにこの年から新設された新人王を獲得、
一見華やかなデビューであったが、
人種差別による様々な嫌がらせを受けながらの成功であった。
同僚、観客、相手チームのベンチ、新聞記者....etc.....。

が、ドジャースのオーナーでありジャッキーをメジャーデビューさせた
張本人、ブランチ・リッキーは本来血の気の多いジャッキーに
あらゆる野次や迫害に対し、沈黙を持って耐えろ...と命じていた。
それは、当時黒人が受け入れられるのに最良の方法であった。

ジャッキーは耐えながら、ゲームでは遺憾なく
その実力を発揮、次第にチーム・メイトから認められるようになる。

また、敵チームから容赦なく浴びせられる
強烈かつ下品な野次は、ドジャースのチームを
一丸とさせる最高の要員にもなっていた。
ジャッキーが入団した当時、反感を持っていた選手達が
対戦相手チームの野次に対し、何も言えないジャッキーを庇って
野次り返すようになっていた。

デビューして数年、ジャッキーは
ひたすら「耐えて」いたのであった。

file.048 Pee Wee REESE 【ピー・ウィー・リース】

2005-12-30 | 2013年映画『42』
【生涯の友】
Pee Wee REESE

40年代~50年代のブルックリン・ドジャース黄金期において、
名遊撃手として、チームのキャプテンとして、
絶大な人気と影響力を持っていた選手である。

40年にメジャーデビューを果たしたリースは
41年に152試合に出場し、
ドジャースの遊撃手のポジションを手にした。

43年~45年は兵役でチームを離れるが、
46年に復帰、打率.284、5本塁打、15盗塁をマークした。
47年には、打撃にパンチ力が付き、
打率.284、12本塁打、73打点と、
この年に入団したジャッキー・ロビンソンから
刺激を得たかのようなブレークぶりを見せた。
49年には、打率.279、16本塁打、73打点、
51年には、打率.286、10本塁打、84打点.....と
勝負強いクラッチヒットと堅実な守備でチームを支え、
41年~53年の間、5度のリーグ優勝に貢献したが、
ワールド・シリーズでは、いずれもヤンキースに敗れる...という
屈辱を味わった。

55年、リースは、36才のベテランになっていたが
打率.282、10本塁打、61打点でチームのリーグ優勝に貢献、
ワールド・シリーズでは、打率.296、2打点をマーク、
ドジャース念願の、ヤンキースを破っての世界一に大きな役割を果たした。

オールスターに出場すること10回、
盗塁王と得点王を一度ずつ獲得している。
通算安打数や通算打率など、特に突出した数字を残したわけではないが、
チームの勝利に貢献した印象度が高かったのか、84年に堂々の殿堂入りを
果たしている。

1947年、ニグロ・リーグから
ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグ入りを果たす。
ジャッキーは他球団の選手・監督のみならず、
同僚からも嫌がらせや反発を受けた。
ジャッキーのポジションは遊撃手、下手をすると
黒人選手に定位置を奪われるかもしれないリースは
当然ジャッキーの入団に反発するものと思われた。
しかし、リースは
「彼が自分よりも才能がある選手なのだったら仕方が無いね。
チャンスは誰にでも平等にあるものだよ」
と平然と言ってのけた。
ジャッキー入団後も、リースは彼をかばい続け、助けた。
アトランタで行われたある試合、
敵軍ベンチやスタンドから容赦ない罵声がジャッキーに浴びせられる。
ジャッキーはファーストの守備位置でジっと耐えていた。
すると、リースがスタスタとジャッキーに歩み寄り、
腕をジャッキーの肩に回し、たわいのない話を始めた。
その時の会話の内容は、ジャッキー自身も覚えてないような、
本当にたわいのない話だったのだが、
その行為には大きな意味があった。
リースは観客や相手チームのベンチに
「こいつは俺の仲間なんだ」と
アピールしたのだ。
罵声は一瞬のうちに消えた――――――――。

ジャッキーはこの時、リースを生涯の親友と決め、
二人の友情は生涯変わらなかった。

ジャッキー・ロビンソンは、1972年のオールスターゲームの記念スピーチで
「個人的な話で恐縮ですが....」と前置きし、
会場にいたリースに感謝の念を述べたのだった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=121010