GUMBO

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file.043 Graig NETTLES 【グレイグ・ネトルズ】

2005-11-27 | MNO
【スーパーボール・バット??】
Graig NETTLES

ゴールド・グラブ受賞は2回にとどまるも、
ブルックス・ロビンソンと共に、
その名が出てこない事はない名三塁手である。

ブルックス・ロビンソンは
MVPを獲得した70年のワールドシリーズで
レッズ打線のヒット性の当たりをたびたび、
その攻守でアウトにし、
オリオールズの世界一に多大な貢献をしたが
ネトルズも77年のワールドシリーズ、
果敢なダイビングキャッチで
ドジャースのヒットをいくつも奪い取っている。

1970年、26本塁打、62打点でインディアンズの
正三塁手となったネトルズ。
翌71年も打率.261、28本塁打、86打点と活躍するが、
73年、ヤンキースへ移籍。
移籍一年目、打率.234ながら、22本塁打し、
パンチ力を見せつけると、以後、
7年連続で20本塁打以上。
77年、打率.255、37本塁打、107打点で
チームの世界一に貢献すると、
78年も、打率.276、27本塁打、97打点をマークし、
2年連続で世界一の美酒に酔いしれた。

ネトルズと言えば、74年の『事件』が有名だ。
9月のタイガース戦、ヒットを放ったネトルズが「アウト」を宣告される。
タイガースの捕手ビル・フリーハンがネトルズの割れたバットの中に
おもちゃのスーパー・ボールが
詰め込まれているのを発見したからである。
「俺は知らなかった。シカゴにいるヤンキースファンが
幸運をもたらすバットだと言ってこれをくれたんだ。」
とネトルズは否定したが、真相は薮の中である。
で.....このネトルズだが、有名な、ジョージ・ブレットの「パイン・タール事件」で、
ヤンキース監督のビリー・マーチンにブレットのバットに塗ってある松ヤニが
違反である.....とチクった張本人である。
『いけしゃーしゃー』とは、こういう事を言う。

ネトルズは43才までプレーを続け、
88年、通算390本塁打、1314打点の数字を残し引退した。

file.042 Darrell EVANS 【ダレル・エヴァンス】

2005-11-26 | DEF
【神様からのプレゼント?】
Darrell EVANS

メジャーリーグに在籍すること21年、
が、打率や安打数、本塁打数など、
決して殿堂級の選手ではない。
エヴァンスが21年の長きに渡って
メジャーでプレイできた秘訣....、
それは四球の多さと堅実な守備、
すなわち献身的な
チームプレイではないだろうか。
通算打率.248に対し、出塁率は.361にも達している、
21年間で1605の四球が
エヴァンスの勲章だといえるだろう。
守備面でも主にサードを守り、
手を抜かない堅実なプレーが売りで、
最多捕殺を3度記録するなど投手陣を支えた。

72年にブレーブスでレギュラーの座を獲得したエヴァンス、
73年には打率.281、41本塁打、101打点の大活躍を見せ、
ハンク・アーロン、デイブ・ジョンソンと40発トリオを形成する。
74年4月8日、四球で出塁したエヴァンスは、
アーロンの715号目を塁上で目の当たりにする事が出来た。
静かなるホームラン・キングとプレーした数年間は
エヴァンスにとっても大きな財産となった。

76年シーズン途中でジャイアンツへ移籍、
84年からはタイガースでプレーするが
かつて40本を打った破壊力は影を潜め
勝負強く、出塁率の高いクラッチ・ヒッターとして
活躍を続けた。

85年、38歳で40本塁打を放ち、
キャリアで唯一のタイトルとなる本塁打王を獲得、
それはチームの勝利のために努力と忍耐を続けたエヴァンスに
神様が贈ったプレゼントだったのかもしれない。

87年には40歳にして34本塁打、99打点、100四球をマーク、
年齢を感じさせない活躍ぶりを見せるが
89年、42歳で21年に及ぶ選手生活にピリオドを打った。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=113935
※御意見、御感想 等ございましたら、j_rollins11@yahoo.co.jp までご連絡下さい。

file.041 Lenny DYKSTRA 【レニー・ダイクストラ】

2005-11-25 | DEF
【突貫小僧】
Lenny DYKSTRA

小柄でズングリした体型ながら、
闘志ムキ出しのハッスルプレーで
活躍した名リード・オフマン。

81年、メッツにドラフト入団するが、
同期のチームメイトには
ダリル・ストロベリーや
「マネー・ボール」でおなじみのビリー・ビーンがいた。
ビリー・ビーンはダイクストラの物怖じしない性格と
野球に取り組む姿勢を目の当たりにして、舌を巻いたという。
86年、レギュラーセンターの座をつかみ取ると、
打率.295 盗塁31を記録し
チームを優勝に導いたばかりか、
ワールドシリーズでも2ホーマーの大活躍。
チームの世界一に大きく貢献した。

89年途中でフィリーズに移籍。
90年打率.325、60打点、33盗塁...
と過去最高のシーズンを送り、
93年には、打率.305、19本塁打、66打点、
さらに37盗塁を決め、四球・得点・安打数でリーグトップ、
これ以上求める物が無い様な、
最高のリードオフマンぶりを見せつけた。
が、過度のウェイト・トレーニングの影響か故障が多くなり
8シーズン在籍したフィリーズでは
100試合以上の出場がわずか2度しかなかった。

96年、33歳の若さで引退したダイクストラ、
ポストシーズンに強く、通算で打率.321、本塁打10をマークしている。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=DYKSTRA

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file.040 Willie STARGELL 【ウィリー・スタージェル】

2005-11-24 | STU
【パップ】
Willie STARGELL

64年パイレーツで21本塁打、78打点をたたき出し
レギュラーに定着したスタージェル、
65年は27本塁打、107打点、
66年は33本塁打、102打点をマーする。
67年、68年は調子を崩し、打撃成績もやや伸び悩むが
69年打率.307、29本塁打、92打点と復活、
当時、脂が乗り切っていた
ロベルト・クレメンテとのコンビでチームを牽引した。

特に71年、スタージェルが
リーグ最多の48本塁打を放ち125打点をたたき出せば
クレメンテも.341の高打率をマーク、
チームの世界一に大いに貢献した。

翌72年、クレメンテが無念の死を遂げると、
スタージェルはチームリーダーとしての自覚に目覚める。
もともと誰からも愛されるキャラクターの持ち主であるスタージェルは
いつしかパップ(親父さん)と慕われ、
ファミリーと呼ばれたパイレーツの精神的支柱となっていた。
73年には44本塁打、119打点を打ち、
71年から3年連続の100打点以上をマークする。
さらに、クレメンテの遺志を継ぐかのように
慈善事業にも積極的に取り組み、
74年にはロベルト・クレメンテ賞を受賞している。

79年、39歳のスタージェルは、
打率.281 32本塁打 打点82という特別凄いわけでもない成績ながら、
そのリーダーシップが評価されMVPを獲得。
さらに同年のプレイオフ、2本塁打でMVPを勝ち取ると
ワールドシリーズでは7戦に決勝打を含む3本塁打を放ち、
ここでもMVPに輝き、
合計3つのMVPを獲得する最高のシーズンを送った。

82年、通算2232安打、475本塁打、1540打点の成績を残し引退。
88年には野球殿堂入りを果たしている。

スタージェルは言う――――――――

人生は列車のようなもの。
時に遅く走ることは予測のうちだが、
脱線だけは困る。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=stargell

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file.039 Joe CHARBONEAU 【ジョー・シャーボノー】

2005-11-24 | ABC
【Super Joe】
Joe CHARBONEAU

世界中どの分野にも『一発屋』と呼ばれる人間が存在する。
メジャー・リーグの歴史においてはジョー・シャーボノーが
その代表格であろう。

80年、インディアンズでメジャーでビューしたシャーボノーは、
131試合に出場し、打率.289 本塁打23 打点87という好成績で
新人王を獲得する程の活躍を見せる。
また、髪の毛を妙な色に染めてみたり、
鼻からストローでビールを飲んでみたり、
眼窩でビールビンを開けてみたり...
その奇行も相まってクリーヴランドでは「スーパー・ジョー」と呼ばれ
「ゴー!! ジョー・シャーボノー」なる歌が作られるほどの大人気ぶりであった。
狂信的なファンにボールペンで刺される程であったというから物凄い。
が、シャーボノーが「スーパー・ジョー」ぶりを発揮したのは80年のみであった。
81年打率.210で低迷するとシーズン途中にはマイナーへ送られ、
翌82年も22試合の出場にとどまり、この年でメジャー・リーグの世界から
姿を消してしまった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=Charboneau

file.038 Mark LEMKE 【マーク・レムキー】

2005-11-23 | JKL
【小型ミスター・オクトーバー】
Mark LEMKE

通算安打795 打率.246 本塁打32本
はっきり言って平凡以下の選手であろう、
守備は堅いがレギュラー選手としては弱い、
しかし、そんな選手がポストシーズンになると
手がつけられない強打者になる事があるから驚きである。

91年、パイレーツとのプレーオフで
決勝打のきっかけを作るヒットを放ち
この後も打撃好調を維持。
ツインズとのワールド・シリーズでは
敗れはしたもののレムキーは絶好調、
第3戦でサヨナラ打、第4戦は決勝の犠飛を呼ぶ三塁打、
結局24打数10安打5打点の大活躍であった。

96年のチャンピオンシップ・シリーズでも
27打数11安打と、魔法は解けてはいなかった。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=lemke

file.037 Dave STEWART 【デイヴ・スチュワート】

2005-11-23 | STU
【大逆転】
Dave STEWART

78年、ドジャースでデビューしたスチュワート、
いまいちパッとしない投球が続き、
83年にレンジャーズへトレードされるが、
この年2チーム合計で初の10勝をあげる。
が、7勝にとどまった84年を経て、
85年、デイヴに試練が与えられる。
売春で逮捕されてしまったのだ。
これだけならまだしも(?)
相手が男性だった事がこの事件を
スキャンダラスなものに変えてしまった。
保釈後、ファンやチームメイトからも冷たい視線を浴びせられ、
結局85年は1勝もあげる事が出来なかった。
日本のジャイアンツ入りの話もあったが
この件が原因でキャンセルになってしまったという。

が!!
87年にトニー・ラルーサ率いるアスレチックスに拾われると
スチュワートは人が変わったような快投を見せ始める。
この年、20勝をあげると、
88年から21勝、21勝、22勝....と
90年まで4年連続20勝を記録、
堂々、チームのエースとして
アスレチックスの3連覇に大いに貢献する。
89年にはワールド・シリーズでも2勝をあげMVP、
90年にはノーヒット・ノーランも達成する。
結局、アスレチックスでは、
87年~92年の6年間、連続して10勝以上をあげ、
チームを支えた。

一時はドン底まで堕ちた男の起死回生の大逆転劇であった。

93年、トロントに移籍、
この年、12勝をマークし、健在ぶりを示したスチュワート。
94年7勝に終わると、
95年、最も慣れ親しんだアスレチックスで
その現役生活にピリオドを打った。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/stats/historical/individual_stats_player.jsp?c_id=mlb&playerID=122775

file.036 Willie MAYS 03 【ウィリー・メイズ 03】

2005-11-12 | willie mays
【ザ・キャッチとバスケット・キャッチ】
Willie MAYS

1954年、メイズの在籍するニューヨーク・ジャイアンツは
インディアンズとのワールドシリーズに臨んだ。
結局、ジャイアンツがシリーズを制する事になるのだが、
このシリーズでメジャーリーグ史に燦然と輝くスーパープレーが演じられた。
『ザ・キャッチ』である。
内容はいまさら記すまでもないだろう、
緊迫した試合の終盤――同点、無死1・2塁、打席には強打の5番打者、
メイズの信じられないようなプレーにより、
インディアンズは絶好の機会を逃し、
ジャイアンツは最悪の危機を脱した。


51年に新人王を獲得し、メジャーリーグに
華々しくデビューしたメイズだったが
その後2年兵役に就き、52年は34試合出場、
53年は1年、まるまるプレー出来なかった。
しかしこの兵役の間、メイズはあるプレーを収得する、
それが『バスケット・キャッチ』だ。
現役時代の映像を見ると、メイズは、平凡なフライに関しては、
ヘソの前でグラブをお椀を持つように構えて捕っているのがわかる。
メイズによると、ベルトのバックルあたりで打球を捕ると、
体が自動的に正確になり、一番無理のない楽な姿勢になるのだという。
メイズは兵役の間、プロ野球の選手でもなんでもない戦友から
この捕球法を会得した。
ある試合では、センターの守備位置から何十メートルも激走し、
難しいテキサスヒット性の当たりを『バスケット・キャッチ』で好捕したという。
もちろん、この捕球法は誰がやっても楽なプレーでは無い。
メイズの尋常ならざる打球に対する勘と、
類い稀なるセンスの賜物である事に疑いの余地は無い。

『ザ・キャッチ』も、メイズのグラブはお椀を持つような形になっている、
「俺はただフライを捕っただけさ」試合後、メイズはさらりと言った。
案外メイズにとってこのプレーは、本当にその程度だったのかもしれない。

file.035 Bill FREEHAN 【ビル・フリーハン】

2005-11-11 | DEF
【キャッチャーの価値】
Bill FREEHAN

殿堂入りの名捕手カールトン・フィスクは、
捕手の価値が打撃で判断される傾向を嫌っていたという。
そして、デトロイト・タイガースのある選手の名を挙げ
捕手の価値を説いた。
ビル・フリーハン―――――。

フィスク曰く、
フリーハンの脚力は普通、速くも無ければ遅くも無い。
肩が特別強いわけではなく、また弱いわけでもない。
攻撃面においても、際立った活躍をしたわけではない。
しかし、デニー・マクレーンやミッキー・ロリッチといった
投手陣を見事にリードし、チームを勝利に導いた。
この素晴らしい仕事を数字で測る事など出来ない.................と。

ビル・フリーハンは、15年間タイガース一筋で活躍し、
1963年から75年まで13年もの間、100試合以上に出場、
タイガースのホームベースを守り続けた。

67年、打率.282、20本塁打、74打点で
MVP投票3位にランクされる程の活躍ぶりを示し、
68年は、打率.263、25本塁打、84打点と
クラッチな活躍を見せ、MVP投票では2位に付けた。

通算1591安打、200本塁打、758打点、
『強打の捕手』と言っていい数字を残している。

ゴールド・グラブ5回、オールスター出場11回の
メジャーリーグの歴史を飾る名捕手のひとりである。


http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=FREEHAN

file.034 Mark McGWIRE 【マーク・マグワイア】

2005-11-05 | MNO
【涙のビッグ・マック】
Mark McGWIRE

バリー・ボンズやラファエル・パルメイロといった
現役の大物選手までを巻き込んだステロイド問題。
政府によって行われた公聴会には既に引退している
マーク・マグワイアの姿もあった。
“この公聴会で、他の家族が悩みから救われることを祈っている。
私だけでなく、他のどの選手にテレビの前で
ステロイドを使ったかどうか質問しても、問題解決にはならない”
目に涙を浮かべていたマグワイアのコメントとその姿に、
パワフルなバッティングでファンを魅了した
スーパースターの面影は無かった。

マーク・マグワイアはプロ入り以前から
栄光の野球人生を送っていた。
名門、南カリフォルニア大学時代は新記録となる
シーズン32本のホームランを放ち、
オリンピックでは銀メダルを獲得した。

86年、オークランド・アスレチックスに1位で指名されると
87年に打率.289、49本塁打、119打点で
本塁打王と新人王の2冠に輝く。

以後、打率は低いもののコンスタントにホームランを重ね、
「チャンスに弱い」などと言われていた時期もあったが、
ホセ・カンセコと共にチームの看板選手として活躍する。

88年から90年まで3年連続で30本以上のホームラン、
91年、スランプに陥り22本塁打75打点と低迷するが
92年、打率.268、42本塁打、104打点と復活。

93、94年は怪我でシーズンのほとんどを棒にふってしまったが
95年39本塁打をマークし再び復活。

96年に打率.312、52本塁打、116打点と、過去最高の数字を残し、
2度目の本塁打王に輝き、
97年に敬愛するトニー・ラルーサの元でプレーすべく
シーズン途中でカージナルスに移籍する。
この年、両リーグ合計で、打率.274、58本塁打、123打点。
ロジャー・マリスの記録にあと3本に迫る大爆発ぶりを示した。

そして翌98年、ライバル サミー・ソーサとのデットヒートを制したマグワイアは
打率.299、70本、147打点で、ロジャー・マリスの記録をついに更新した。
ホームベース近くで息子のマシュー君を抱き上げるその姿や、
ソーサと健闘を讃えあう様子は、ファンの感動を誘った。
翌99年も打率.278、65本塁打、147打点と猛打ぶりを発揮したマグワイアだが
2001年、打率.187に終わると「年俸に見合うだけのプレーがもう出来ない」と引退を決意。
静かにバットを置いた。

殿堂入りも確実と見られていたマグワイアだが、
自身が服用していた筋肉増強剤が販売禁止になるなど
楽観視できない状況になっている。

http://mlb.mlb.com/NASApp/mlb/mlb/stats_historical/mlb_player_locator_results.jsp?playerLocator=McGwire