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file .284 Barry BONDS【バリー・ボンズ】

2009-12-31 | ABC
【最強のプレーヤー】
Barry BONDS


1985年、パイレーツからドラフト1位指名を受けたボンズは
86年にはメジャーデビューを果たし、
打率.223 16本塁打 48打点 36盗塁をマーク。

その後は、やや伸び悩むも
90年、打率.301 33本塁打 114打点 52盗塁と
その果てしない才能が開花。
92年にも打率.311 36本塁打 103打点 43盗塁をマークするなど
トリプル3は当たり前クラスの
球界を代表する5ツールプレーヤーとして
その名を全米に轟かす事となった。

1993年、父ボビー・ボンズも所属した
ジャイアンツへ移籍。
ゴッドファーザーのウィリー・メイズの背番号「24」を希望したが
さすがに永久欠番だったため諦め、父の「25」に収まった。

選球眼が良く三振は少ない。
バットを長く持つ事はせず、
並外れたスイングスピードでコンパクトに振り抜く、
確実性とパワーを兼ね備えた、ボンズにしか出来ない完璧な打撃。
加えて、ゴールドグラブを8度獲得するなど左翼の守備も抜群。
さらに通算514盗塁でも証明されている走塁のセンス。
ジャイアンツ移籍1年目の93年も
打率.336 46本塁打 123打点 29盗塁。
圧倒的な成績で本塁打/打点の二冠を獲得した。

以後も90年代最高のプレーヤーとして
好成績をマークし、史上初の400本塁打/400盗塁を記録するなど
快走を続けるボンズだったが、
マリナーズのケン・グリフィーや、
98年に本塁打狂騒を巻き起こしたマグワイア/ソーサなどに比べると
その評価は正当とは言い難く、全米クラスの知名度で見ると
上記スター選手よりも低い位置にいると言わざるを得なかった。

が、そんなボンズが一気にスーパースターの座に登り詰めたのが
2001年であった。
2000年も、打率.306 49本塁打 106打点という好成績だったボンズだが
2001年、打率.328 73本塁打 137打点。
98年にマグワイアが記録した年間最多本塁打70をあっさりと更新。
2002年には打率.370 46本塁打 110打点でキャリア初の首位打者を獲得、
さらに出塁率は.582...と、本塁打こそ減ったものの
圧倒的な存在感を示した。

2004年には打率.362 45本塁打 101打点に加え
120の敬遠を含む232の四球を選び、出塁率は脅威の.609。
守備/走塁に衰えは隠せなかったが、打撃では比類無き力を見せつけた。

が、この頃からボンズに「薬物使用疑惑」の影が忍び寄りつつあった。

あらゆる記事や暴露本によって、
ボンズの薬物使用は決定的となり、
アウェーの試合では、観客の激しいブーイングを受け、
グラウンドに注射器が投げ込まれた事もあった。
2007年にはハンク・アーロンの通算本塁打755を抜き去るも
疑惑の所為で全米のファンの歓迎を受けたとは言い難い状況になってしまった。
また、この年限りでジャイアンツとの契約が切れると、
その後、契約を結ぶ球団も現れず、
2009年現在、実質引退の形となっており、
数年後の野球殿堂入りの投票でも苦戦が予想されている。

父ボビーが甘やかして育てた所為か、
従兄弟にレジー・ジャクソンがいる...という血の所為か
若い頃から不遜な性格でチームメイトから孤立し、記者の受けも悪かったボンズ。
さらに薬物疑惑の影響も加わって、
バリー・ボンズといえば、メジャーリーグ史上
トップクラスのヒール.......というイメージが固まってしまっている。
また、その華々しいキャリアも、薬物の力を借りた物として
疑問視する声も多い。

しかしながら、多くのメジャーリーガーが
ボンズの打撃成績は、薬物使用が事実でも、その価値が損なわれる事は無いと語っているように
私的な考えながら、通算打率.298、762本塁打、1996打点、514盗塁、出塁率.444という輝かしい数字は
彼がメジャー史上最高のプレーヤーの一人だという事を如実に物語っていると思う。

file .283 Gil HODGES【ギル・ホッジス】

2009-12-20 | GHI
【ミラクルメッツ】
Gil HODGES


19歳でメジャーデビューを果たしたホッジスが
その後、兵役を得て
本格的に、そのキャリアをスタートさせたのは1947年。
この年は、かのジャッキー・ロビンソンの
メジャーデビューの年でもあった。

47年はキャッチャーとして
24試合に出場、打率.156で終わるが、
翌年、ロイ・キャンパネラの入団に伴い
一塁手にコンバートされると、49年、才能が開花
打率.285 23本塁打 115打点をマーク。
オールスターにも出場を果たすなど、
チームの主力打者としてブレークした。

以降、7年連続で100打点をマーク、
その間、オールスターにも毎回出場し
リーグを代表するスラッガーとして名を馳せたホッジス。
49年、打率.283 32本塁打 115打点、
52年、打率.254 32本塁打 102打点、
53年、打率.302 31本塁打 122打点....と活躍、
チームをリーグ優勝に導くものの、
ワールドシリーズではヤンキースにどうしても勝てず、
特に52年のシリーズでは、21打数無安打....と
屈辱を味わった。

55年、打率.289 27本塁打 102打点と、
相変わらずの打棒でドジャースのリーグ優勝に貢献したホッジスは、
この年のワールドシリーズで打率.292 1本塁打 5打点をマーク、
勝負どころでクラッチな活躍を見せ、
チームのワールドチャンピオンに大きく貢献。
5度目の挑戦にして、ようやくヤンクスを打ち破った。

その後も、ドジャースの主力打者として活躍するが
年齢と共に、成績も下降。
1962年にはメッツに移籍し、
63年、現役を退いた。

打撃だけでなく、一塁の守備でも好守を見せ、
ファンの人気も絶大。
ブーイングを浴びた事が無いとまで言われている....。

ホッジスが現役引退後、
再び脚光を浴びるのは1969年の事である。
68年にリーグのお荷物球団メッツの監督に就任したホッジスは、
1969年、チームを奇跡の逆転優勝に導き、
ワールドチャンピオンの座まで押し上げた。
俗にいう、ミラクルメッツの指揮者は、ホッジスである。

1972年、心臓発作で急死。

現役通算2071試合 打率.273 370本塁打 1274打点。
監督としての成功もありながら、
野球殿堂入りは果たせていない。

監督時代、
橋から飛び降り自殺を計ろうとした選手を説得し、
自殺を思いとどまらせた事もるという。