GUMBO

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file .312 LaMarr HOYT【ラマー・ホイト】

2014-01-12 | GHI
【一瞬の栄光】
LaMarr HOYT


アパラチアリーグで活躍したのち、
1973年にヤンキースからドラフト指名を受け入団。
一度もメジャーに上がれないまま、
77年にホワイトソックスにトレード移籍したホイトは、
79年、ようやくメジャー初登板を成し遂げると、
80年に防御率4.57 9勝をマーク、頭角を表すに至った。

抜群のコントロールを武器に
キレのあるカーブ、スライダー、チェンジアップを投げ分け、打者を翻弄。
82年には防御率3.53 19勝で最多勝。
83年は防御率3.66ながら24勝をあげ、チームを地区優勝に導き、
最多勝とサイ・ヤング賞を受賞。
木こりのような風貌のムサい髭男が輝かしい栄冠を手中におさめた。

84年、防御率4.47 13勝をマークするも18敗を喫し
85年にはサンディエゴ・パドレスに移籍。
ホイトは新チームでキャリアハイの防御率3.47と好投、
16勝をあげサイ・ヤング勝投手の面目を保つ。

が、終焉はいきなりやってきた。
86年の初頭、2度に渡り麻薬所持の現行犯で逮捕されると
防御率5.15 8勝と低迷。
シーズン終了後の12月、三たび麻薬所持でお縄を受け、
そのままメジャーのマウンドに立つ事なく現役を終えた。

file .309 Ken GRIFFEY Jr.【ケン・グリフィー ジュニア】

2014-01-03 | GHI
【the KID】
Ken GRIFFEY Jr.


ビッグレッドマシーンの一員である
ケン・グリフィーを父に持つサラブレッドのジュニアは、
高校時代に2度の最優秀選手に輝くなど、
天賦の才を遺憾なく発揮。
シアトル・マリナーズから1位指名を受け入団する。
1989年、19才でメジャーに昇格したジュニアは、
打率.264 16本塁打 61打点で新人王投票3位に付ける活躍を見せ、
90年には打率.300 22本塁打 80打点でセンターのレギュラーに定着。
早々とブレークを果たす。

しなやかで美しいフォームから力強い打球を放ち、
走れば俊足、守れば広い守備範囲でスーパープレイを連発。
やんちゃなルックスと、天真爛漫かつ、華やかな佇まいも相まって
若くして当代きってのスーパースターの座に座る事となった。

また90年には現役を続けていた父がマリナーズに入団。
史上初となる親子でスタメン出場を果たし、
更に2者連続本塁打を記録、野球ファンに爽やかな感動を提供した。

91年には打率.327 22本塁打 100打点、
史上最小年齢での100打点をマークすると、
その後も着実にステップアップ。
93年、打率.309 45本塁打 109打点、
ストライキにより8月にシーズンが終了した94年は
打率.323 40本塁打 90打点で本塁打王を獲得、
ストライキが無かったら60本超えも夢では無かった。

フォトジェニックなグリフィーのトレードマークは、
練習中などに帽子を後ろ前に被るスタイルだ。
一部のお堅い関係者からは批判めいた発言もあったが、
グリフィーは、気にする事なく、逆に94年オールスターのホームラン競争で
帽子を後ろ前に被ったスタイルで優勝。
その実力をまざまざと見せつけ周囲を黙らせた。

スーパープレイの代償で左手首を骨折した95年は、
怪我の影響で打撃も鈍り打率.258と調子を落とすも
96年は打率.303 49本塁打 140打点と負傷前よりパワーアップ。
さらに翌97年は打率.304 56本塁打 147打点でチームを地区優勝に導き、
本塁打・打点の二冠王とシーズンMVPを獲得。
ジュニアは父を超え、メジャーリーグを代表する超一流のスーパースターに登り詰めた。

98年、56本塁打。99年、48本塁打と97年も合わせて3年連続で本塁打王に輝いたグリフィーだったが、
自らトレード志願し、2000年からかつて父が在籍したシンシナティ・レッズに入団。
マリナーズファンから脅迫めいた手紙が届くなど、大騒ぎとなった。

レッズ移籍後、30才になっていたグリフィーは、
長く人工芝の球場でプレーしていた所為か、足の故障に苦しめられ、
2000年こそ打率.270 40本塁打 118打点となんとか面目を保つが
01年、打率.286 22本塁打 65打点(111試合)。
02年に至っては、70試合の出場で打率.264 8本塁打 23打点と低迷する。

その後も故障で03、04年と二桁試合数にとどまり、かつての輝きを失ったジュニアは
05年、打率.301 35本塁打 92打点、
07年は、打率.277 30本塁打 93打点とややしばし成績を持ち直すも
足の状態は良くなる事はなく、
08年シーズン途中にホワイトソックスへ、
09年は古巣のマリナーズに戻り、
10年、現役を引退した。

マリナーズ時代は、11年連続オールスター出場に加え、
10年連続ゴールドグラブ賞を受賞。
華々しいキャリアのイメージは大半がマリナーズ時代のものである。
が、ジュニアが90年代最高のスーパースターだった事に異論を持つ者は皆無だろうし、
なんといってもステロイドをはじめとした薬物の噂とは無縁でクリーンだった事実が
グリフィーの価値を大いに高めている。

イチローをはじめとして、多くのメジャーリーガーの憧れの存在であり、
殿堂入り確実な、歴史に残る偉大なレジェンドである事に間違いない。

通算2671試合、打率.284 630本塁打 1836打点 184盗塁。

file .308 Hideki MATSUI【松井秀喜】

2014-01-02 | GHI
【Godzilla】
Hideki MASTUI


読売ジャイアンツでの10年で、1390安打、332本塁打、889打点をマーク、
日本を代表するホームランバッターだった松井が海を渡ったのは2003年。

俊足巧打タイプのイチローが既にスターの仲間入りを果たしていたメジャーリーグに
初のパワーヒッターとして挑戦する事となった松井は
名門ニューヨークヤンキースに入団する。
本拠地の開幕戦で満塁本塁打を放ちファンを熱狂させた松井だったが、
日本時代のような豪打は影を潜め、
ゴロでの凡打が多かった所為で『ゴロキング』などと揶揄される事もあった。
が、結果として打率.287 16本塁打 106打点。
本塁打こそ期待した数字には及ばなかったものの、100打点をマーク。
ポストシーズンでも活躍。
勝負強い打撃はファンの心を掴み、
その穏やかで真摯な物腰の所為かNY記者の投票による『グッドガイ賞』に輝いた。

2004年は一転長距離打者の片鱗を見せつけ
打率.298 31本塁打 108打点。
今のところ日本人野手で唯一となる30本塁打超えを果たす。
勝負強い打撃にも磨きがかかり、
名門ヤンクスの中軸打者としての地位を確立した。

05年は打率.305 23本塁打 116打点。
本塁打こそ減りはしたものの、打率、打点は前年より上昇。
フォアザチームに徹したクラッチな打撃を披露し、
チームメイト、ファンから絶大な信頼を得るに至った。

06年、5月、好調な打撃を見せていた松井だったが
好事魔多し、左翼守備の際に左手首を骨折するアクシデントに見舞われ、
日本時代から続けていた連続試合出場も1768で途切れてしまう。
治療とリハビリを終え、9月にスタメン復帰した折には
ファンからの大きなスタンディング・オベーションで迎えられた。

07年も打率.285 25本塁打 103打点と、勝負強い打撃を披露した松井だったが、
08年は今度は、膝の故障で思うようにプレー出来ず、93試合の出場に留まる。

が、09年、松井はキャリア最高の瞬間を迎える。
シーズン打率.274 28本塁打 90打点でチームを地区優勝及びリーグ優勝に導いた松井は
フィリーズとのワールドシリーズで脅威の大爆発。
1試合6打点を含む打率.615 3本塁打 8打点(6試合)をマーク、
シリーズMVPにも選出され、名門ヤンキースの歴史にその名を英雄として残す事となった。

シーズンオフ、FAとなった松井だったが、
ヤンキースとは契約の折り合いが付かず、
10年、エンゼルズに移籍。
移籍後、初のヤンキースタジアムの試合では、
ファンからのスタンディング・オベーションで迎えられる感動の一瞬もあったが、
数字の方は、打率.274 21本塁打 84打点と、まずまずといったレベル。
期待された数字には至らなかった。

11年はアスレチックスに移籍し打率.251 12本塁打 72打点
衰えを隠せない松井は12年、レイズで34試合に出場したのみで現役引退を表明した。

メジャー通算1236試合、1253安打、打率.282 175本塁打 760打点。
日本時代の松井の数字を考えれば、メジャーでの成績は少々物足りないようにも見える。
だが、その無類の勝負強さと名門ヤンキースにピッタリな穏やかで紳士な佇まいは、
ニューヨークのファンの心に刻み込まれている。
ポストシーズンの通算成績は56試合で、打率.312 10本塁打 39打点。

2013年7月28日、ヤンキースは松井と1日契約を結び、引退セレモニーを開催、
その功績に対し、おおいに報いた。

日本が誇る『ゴジラ』そして『ワールドシリーズMVP』である。

file .299 Jim GILLIAM【ジム・ギリアム】

2011-09-30 | GHI
【ジュニア】
Jim GILLIAM

1951年、ニグロリーグの
ボルチモア・エリートジャイアンツから引き抜かれ、
ブルックリン・ドジャースと契約したギリアム。

53年にデビューすると
打率.278 6本塁打 63打点 21盗塁、
さらに100四球 出塁率.383と抜群の選球眼を発揮。
見事、新人王に輝いた。

54年も打率.282 13本塁打 52打点 出塁率.361と
安定した働きでチームに貢献、
『ジュニア』の愛称で呼ばれファンに愛された。

非力に加え、決してスピードスタータイプでも無い。
が、ギリアムはフォア・ザ・チームに徹したプレーで
ブルックリンの個性派集団の一翼を担っていた。
三振は少なく、四球は多い粘っこい打撃スタイル。
守備でもユーティリティぶりを発揮し、
二塁を中心に内外野を転々としたが
どこを守っても堅実な守備を見せた。
野球偏差値のレベルが高いプレーヤーであったといえよう。

55年、打率.249 7本塁打 40打点 出塁率.341で
チームのリーグ優勝に貢献すると、
宿敵ヤンキースとのWSでも
打率.292 出塁率.469(!)、
7試合で8つの四球を選ぶいぶし銀の働きでヤンクス撃破に大きく貢献。
勝利の美酒に酔い痴れた。

翌56年は打率.300 6本塁打 出塁率.391とキャリアハイの成績を残し、
オールスターにも出場。

58年にチームがブルックリンからL.Aに移ってからも
世界一に輝いた59年にリーグトップの96四球(打率.282 3本塁打)を選ぶなど、
貴重な脇役として活躍した。

打率282 6本塁打 49打点 19盗塁 出塁率.354をマークした63年、
チームはサンディ・コーファックスの活躍で世界一に輝いたが、
レギュラーメンバーの中で、
55年にブルックリン・ドジャースとして活躍した選手はギリアム一人となっていた。

結局66年までプレー、65年にもWS制覇に貢献し
14年のキャリアで4度の世界一を経験した。

現役引退後はアフリカ系黒人としては初のコーチとして
チームを支えていたが、78年のシーズン中に急死した。

通算1889安打 65本塁打 558打点 打率.265 203盗塁
通算四球数1036、出塁率.360。

フォア・ザ・チームの化身とも言うべき名選手であった。

file .293 Kirk GIBSON【カーク・ギブソン】

2011-04-02 | GHI
【ザ・ホームラン】
Kirk GIBSON

大学時代は野球/アメフトの両方で
八面六臂の大活躍を見せていたアスリートだったギブソン。
78年のドラフト時にはアメフトを蹴り、野球の道へ進む事となった。

そのポテンシャルの高さから
『ネクストマントル』の異名を戴いたギブソンは
79年にはメジャーデビューを果たし、
徐々に力を付け、83年にはレギュラーに定着。
84年、打率.282 27本塁打 91打点 29盗塁をマーク、
ワールドシリーズでも.333 2本塁打 7打点 3盗塁と大暴れ。
タイガースのリーグ優勝及び世界一に大きく貢献した。
85年、.287 29本塁打 97打点 30盗塁。
87年は.277 25本塁打 79打点 26盗塁で
地区優勝に貢献するなどチームの主軸として活躍していたギブソンだったが
88年、ドジャースにFA移籍、
.290 25本塁打 76打点 31盗塁と看板通りの活躍を見せ、
チームはリーグ優勝。
アスレチックスとのワールドシリーズに臨む事となった。

このシリーズ、ギブソンは折からの足の故障を悪化させ
まともに歩く事もままならない状態で迎える事になり、
ベンチ入りは果たしたものの、
スターティングラインナップにその名は連ねる事はどだい無理な事だった。
第1戦、チームは4-3と一点ビハインドのまま9回を迎えた。
アスレチックスのマウンドにはデニス・エカーズリーが
そのワイルドな風貌をたたえてドジャースに立ち塞がった。
たちまち2アウトを取られ、敗戦濃厚なムードが漂う中、
マイク・デービスが執念の四球で歩く。
次打者は投手のペーニャ。
当然代打の場面だが、その瞬間、
ドジャースタジアムの観客は信じられない光景を目の当たりにする。
手負いのギブソンがびっこを引きながら代打の打席に立ったのである。

騒然となるスタジアムだったが、
ギブソンはさらに魅せた。
なんとギブソンはエカーズリーから
奇跡の代打逆転サヨナラホームランを放ったのだ。
ガッツポーズを決めながら、
ヨタヨタと足をひきづりながらダイアモンドを回るギブソン、
チームメイト/ファンは狂喜乱舞。
そしてこの奇跡の一打の効能は絶大だった。
勢いづいたドジャーズはアスレチックスを破り、
ワールドシリーズの覇者となった。
このシリーズにおいてギブソンの出番はこの1打席のみ。
が、この活躍の印象のおかげもあってか
ギブソンは88年のシーズンMVPを獲得する事となった。

その後のギブソンは故障に苦しめられ、
ロイヤルズ~パイレーツ~古巣タイガースとチームを変え、
結局95年に現役を引退した。

通算1635試合 打率.268 255本塁打 870打点 284盗塁。
殿堂入りには程遠い通算成績だが
大舞台での勝負強さと件の『ザ・ホームラン』。
印象度においては堂々の殿堂選手といえよう。



file .289 Nomar GARCIAPARRA【ノマー・ガルシアパーラ】

2010-03-19 | GHI
【スーパースターの早過ぎる落日】
Nomar GARCIAPARRA

1994年、ドラフト1位指名で
レッドソックスに入団したガルシアパーラ。

96年にメジャーデビューを果たし、
翌97年、2年目にしてリーグトップの209安打
打率.306 30本塁打 98打点 22盗塁という
素晴らしい成績を残し、新人王を獲得する。

98年も打率.323 35本塁打 122打点、
MVP投票で2位にランキングされるほどの活躍ぶり、
24歳にして、リーグを代表するスーパースターの地位を確率した。
当時、ア・リーグには、
ガルシアパーラの他、
マリナーズのアレックス・ロドリゲス、
ヤンキースのデレク・ジーター・・と
実力とカリスマ性を兼ね備えた大型スター遊撃手が3人も君臨しており、
この3人は、並び称される事が多かった。

99年、ガルシアパーラはさらなる飛躍を見せる。
この年、打率.357 27本塁打 104打点で首位打者を獲得。
さらに2000年は打率.372 21本塁打 96打点で2年連続の首位打者。
26歳にして、古豪レッドソックスの『顔』に成長を遂げた。

打撃のみならず、守備もゴールドグラブ級。
さらに端正でハンサムな顔だち。
バッターボックス内では、せわしなく動き回り、
1球ごとに外しては、プロテクターやバッティンググローブを締め直す。
スター性に加え、上記のようなユニークな仕草を見せる
キャラクターの立ったスーパースターであった。

2001年、本来ならこの年にメジャー入りしたマリナーズのイチローと
激しい首位打者争いを繰り広げてもおかしく無かった筈だが
手首の怪我で、シーズンのほとんどを棒に振ってしまう。

復活を期した2002年は打率.310 24本塁打 120打点、
2003年も打率.308 28本塁打 105打点をマークしたが
守備面での衰えが見え始め、
2004年、契約問題で揉めた球団は、
シーズン途中にガルシアパーラを放出してしまう。

以後は、怪我に泣かされた。
2004年~2009年の6年間、
100試合以上の出場を果たしたのは2度だけ、
2006年(チームはドジャース)こそ打率.303 20本塁打 93打点をマークするが
その後は、泣かず飛ばず。
チームを移籍しても注目を浴びる事もほとんど無く、
2010年春・・・、
古巣レッドソックスとマイナー契約を結び
レッドソックスの選手として現役を引退した。
35歳・・・怪我さえ無ければ、まだまだ溌剌とプレー出来たであろう。

通算1434試合、1747安打 打率.313 229本塁打 936打点

かの大テッド・ウィリアムスは
初めてガルシアパーラをテレビで目の当たりにした際、
旧友のドム・ディマジオに電話をかけている。
「おい、お前さんガルシアパーラを知ってるか??
 奴を観てると誰かを思い出さないか??
 わからんのか! ディマジオだよ!
 奴は、あのジョー・ディマジオを彷彿とさせるじゃないか!!」

file .286 Ellie HENDRICKS【エロルド・ヘンドリックス】

2010-03-06 | GHI
【最強オリオールズの頭脳】
Ellie HENDRICKS


1969年~71年にかけて
アール・ウィーバー率いるオリオールズは
3年連続でリーグ優勝を果たした。
(ワールドシリーズ制覇は70年)
チームには、ブルックス/フランクの両ロビンソンを筆頭に
ブーグ・パウエル、デイブ・ジョンソンなど
名選手がズラリと並んでいた。

また、投手陣においては、
71年に、ジム・パーマーやパット・ドブソンら4人が20勝以上するなど
まさにオリオールズ史上、最強の布陣であった。
その最強投手陣を牽引したキャッチャーが
エリー・ヘンドリックスである。

メジャーデビュー(68年)は27歳と遅い。
69年にレギュラーに定着し、打率.244 12本塁打 38打点。
チームはリーグ優勝を果たすも、
ワールドシリーズではミラクルメッツの引き立て役となってしまった。

70年もチームはリーグ優勝。
ヘンドリックスは、ジム・パーマーなど
名投手をリードしつつ、打率.242 12本塁打 41打点。
レッズとのワールドシリーズでも
打率.364 1本塁打 4打点と活躍、
チームの世界一に大きく貢献した。

71年は、パーマー、ドブソン、クェイヤー、マクナリーの4人が20勝以上をマーク。
ヘンドリックスは、この豪華投手陣の女房役として奮闘し
打率.250 9本塁打 42打点をマークした。

その後、72年にトレードでカブスへ移籍したのを皮切りに
古巣オリオールズに戻ったり、出たりを繰り返しながら
79年までプレー、同年、現役を引退した。

ヘンドリックスがレギュラーだったのは、
オリオールズ黄金期の1969年~1971年の3年だけである。
メジャー史上屈指の名捕手・・・というわけにはいかないものの、
この輝ける3年間はヘンドリックスの栄光であったに違いない。

2005年、死去。

感情を抑えられないウィーバーや
プライドの高いパーマーの間に入って
淡々と、自分の仕事をこなしていただけあって
ヘンドリックス自身は温厚そのものであった。
ウィーバーと犬猿の仲で知られる名物審判のロン・ルチアーノは
自身の著書で、
「ヘンドリックスのクレームの付け方は、
 メジャーでも随一のスマートさを誇っていた」
と書いている。

file .283 Gil HODGES【ギル・ホッジス】

2009-12-20 | GHI
【ミラクルメッツ】
Gil HODGES


19歳でメジャーデビューを果たしたホッジスが
その後、兵役を得て
本格的に、そのキャリアをスタートさせたのは1947年。
この年は、かのジャッキー・ロビンソンの
メジャーデビューの年でもあった。

47年はキャッチャーとして
24試合に出場、打率.156で終わるが、
翌年、ロイ・キャンパネラの入団に伴い
一塁手にコンバートされると、49年、才能が開花
打率.285 23本塁打 115打点をマーク。
オールスターにも出場を果たすなど、
チームの主力打者としてブレークした。

以降、7年連続で100打点をマーク、
その間、オールスターにも毎回出場し
リーグを代表するスラッガーとして名を馳せたホッジス。
49年、打率.283 32本塁打 115打点、
52年、打率.254 32本塁打 102打点、
53年、打率.302 31本塁打 122打点....と活躍、
チームをリーグ優勝に導くものの、
ワールドシリーズではヤンキースにどうしても勝てず、
特に52年のシリーズでは、21打数無安打....と
屈辱を味わった。

55年、打率.289 27本塁打 102打点と、
相変わらずの打棒でドジャースのリーグ優勝に貢献したホッジスは、
この年のワールドシリーズで打率.292 1本塁打 5打点をマーク、
勝負どころでクラッチな活躍を見せ、
チームのワールドチャンピオンに大きく貢献。
5度目の挑戦にして、ようやくヤンクスを打ち破った。

その後も、ドジャースの主力打者として活躍するが
年齢と共に、成績も下降。
1962年にはメッツに移籍し、
63年、現役を退いた。

打撃だけでなく、一塁の守備でも好守を見せ、
ファンの人気も絶大。
ブーイングを浴びた事が無いとまで言われている....。

ホッジスが現役引退後、
再び脚光を浴びるのは1969年の事である。
68年にリーグのお荷物球団メッツの監督に就任したホッジスは、
1969年、チームを奇跡の逆転優勝に導き、
ワールドチャンピオンの座まで押し上げた。
俗にいう、ミラクルメッツの指揮者は、ホッジスである。

1972年、心臓発作で急死。

現役通算2071試合 打率.273 370本塁打 1274打点。
監督としての成功もありながら、
野球殿堂入りは果たせていない。

監督時代、
橋から飛び降り自殺を計ろうとした選手を説得し、
自殺を思いとどまらせた事もるという。

file .272 Bill GULLICKSON【ビル・ガリクソン】

2009-01-21 | GHI
【インスリン投手】
Bill GULLICKSON

高校時代、2年で23勝をあげ、
ノーヒットノーランを3度も達成する怪童ぶりを見せつけ、
1977年、ドラフト1位指名で
モントリオール・エクスポズに入団したガリクソン。
80年、21歳の時に本格的なメジャーデビューを果すと、
この年、防御率3.00、10勝5敗の好成績で
新人王投票2位に付ける活躍を見せ、
チームのローテーション投手の座を獲得する。

その後、
82年防御率3.57、12勝、
83年は防御率3.75、17勝をあげるなど
エクスポズの主力投手として活躍。
80~85年の6年間、200イニング以上登板が3度、
10勝以上が5度、防御率は3点台を切った事はなく、
絶対的なエースとは言わないまでも、
ローテーションをきっちり守る、
優秀なイニング・イーターぶりを発揮する。

86年にはレッズに移籍するが、
ここでも防御率3.38、15勝をマークし、
87年はレッズとヤンキースで14勝をあげた。

88年、日本のジャイアンツへ通算101勝の実績をひっさげてFA移籍。
1年目は、防御率3.10、14勝をマークして
前年に現役を引退した江川卓の穴を埋める活躍を見せるが、
2年目は怪我に泣き、思うような成績を残せず、退団する。

アメリカに戻ったガリクソンは、
90年、アストロズで防御率3.82、10勝の成績を残すと、
翌91年はタイガースで防御率3.90、20勝。
キャリア唯一のタイトルとなる最多勝を受賞する。

その後、2年連続で10勝以上をマークし、
94年に現役を引退。

通算398登板、162勝、防御率3.86。

現役中は糖尿病を患っており、インスリンを打ちながら投球を続けた。

ジャイアンツ(日本)時代にチームメイトだった桑田真澄とは
固い友情で結ばれ、息子のミドルネームを『クワタ』とした程。


file .262 Al HRABOSKY 【アル・ラボスキー】

2008-10-02 | GHI
【狂えるハンガリー人】
Al HRABOSKY

その魁偉な長髪・髭面と、
独特な投球時の儀式、
加えて、ハンガリーの家系の生まれである事から
『マッド・ハンガリアン』のニックネームで親しまれた
名物ピッチャーである。

1969年、カージナルスと契約し、
70年に、20歳の若さでメジャーデビューを果たしたラボスキーは
73年、中継ぎ投手として44試合に登板し、防御率2.09と結果を残す。

74年には、65試合で防御率2.95、8勝1敗9セーブの好成績をマークし
サイ・ヤング賞レースで5位に入る活躍を見せた。

荒々しい風貌から繰り出される豪速球で
相手打者を封じ込めたが、
その速球よりも、打者に嫌がられたのが、
ラボスキーの投球スタイルである。
まず、投げる前に打者に背を向け、
何やらブツブツとつぶやきながら、セカンドベース方向へ歩き出す。
精神集中を終えると、ようやくマウンドに戻り投球する........。

1球ごとにこれをやられたら、
打者としては、たまったものではない。

ビル・マドロックなどは、
ラボスキーが投げる準備を終えた頃合いをわざと狙って、
独り言を言いながら
バッターボックスから自軍ベンチの方へ歩いていく....という物真似で
ラボスキーに対抗したほどである。

が、このカラフルなリリーフピッチャーは、
前述の活躍が示す通り、キャラクターだけの色物では無かった。

75年、65試合、防御率1.66、13勝3敗22セーブで
サイ・ヤング賞投票3位の大活躍を見せると、
ロイヤルズへ移籍した78年には、
58試合で防御率2.88、8勝7敗20セーブで
チームの地区優勝に貢献。

82年にアトランタで現役を退いたラボスキー、
実働13年での通算成績は、545試合、64勝、97セーブ、防御率3.10。

現在は解説者の傍ら、
レストランやバーを経営している。

file .249 Oscar GAMBLE 【オスカー・ギャンブル】

2008-04-24 | GHI
【アフロ】
Oscar GAMBLE

三振の少ない、勝負強い打撃が持ち味の
メジャーリーグ史上、屈指のフォトジェニックな外野手である。

ギャンブルは若干19歳にして、
カブスでメジャーデビューを果たした。

レギュラーに定着したのは、73年、
チームはフィリーズを経て、インディアンズに変わっていた。
この年、打率.267、20本塁打をマーク。
トレードマークのアフロヘアもこの頃からデカくなりはじめている。

翌74年も打率.291、19本塁打、59打点と、
徐々に打撃に安定感が増して来たギャンブルだが、
ますますデカくなるアフロヘアとは対照的に
この後、2年間ほど、成績は伸び悩む。

77年、ホワイトソックスへ移籍、
ここに来て、ようやく打撃面での急成長が見られ、
打率.297、31本塁打、83打点をマーク。
アフロヘアも絶好調で、
いよいよスラッガーの仲間入りかと思われたのだが、
78年、パドレスへ移ると、7本塁打、47打点と
大きく成績を落とす事になる。

79年、レンジャーズ~ヤンキースで
計100試合に出場、
打率.358、19本塁打、64打点と、
今度はヒットマシーンの仲間入りかという好成績を残したギャンブル。
肝心のアフロヘアは、「俺、もう30だし」と思ったのか、
もしくは、ヒゲ+グラサン+小アフロの同僚、レジー・ジャクソンから
「俺より目立つんじゃねえ」と脅されたのか、
大分小さくまとまってしまったが、
この後、84年までヤンキースで活躍。
82年には108試合で打率.272、18本塁打、57打点をマークするなど
随所に勝負強さを発揮するも、
85年、ホワイトソックスで、現役を引退した。
引退時、アフロはもはや、アフロとは呼べないくらいに
小さく縮小していた。

通算打率.265、200本塁打、666打点。


file .239 Goose GOSSAGE 【グース・ゴセージ】

2008-01-24 | GHI
【ガチョウのゴセージ】
Goose GOSSAGE

1970年、ホワイトソックスに入団したゴセージ。
72年、メジャーデビューを果たし、36試合に登板、
7勝1敗、防御率4.28...とまずますの成績をおさめる。

その後も、主にリリーバーとしてマウンドに立つが、
ブレークしたのは75年。
この年、62試合を投げ9勝8敗26セーブ、防御率1.84の好成績、
サイ・ヤング賞レースでは6位にランクされ、オールスターにも出場した。

翌76年は、先発投手にスイッチ、
9勝をマークするも、17敗を喫し、防御率は3.94。
シーズン終了後は、パイレーツへ放出されてしまう。

パイレーツで11勝26セーブ、防御率1.62...と
意地を見せたゴセージは、78年、ヤンキースへFA移籍。
ここからゴセージの黄金時代の幕が上がった。

ロン・ギドリー、キャットフィッシュ・ハンター、
レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン...といった個性派集団の中でも
全く埋もれることなく、快投を披露。
豪快かつ、躍動感溢れるフォームから豪速球を繰り出し、
相手打者を手玉に取り、
63試合で10勝、27セーブ、防御率2.01をマーク。
チームをリーグ優勝に導くと、ワールドシリーズでも3試合に登板し1勝。
ヤンクスの世界一に多大な貢献を果たしてみせた。

以降、ヤンキースの絶対的なストッパーとして活躍。
80年、6勝、33セーブ、防御率2.27(MVP投票、サイ・ヤング賞投票、共に3位)
81年、3勝、20セーブ、防御率0.77(MVP投票9位、サイ・ヤング賞投票5位)
....と絶好調。
30歳になった82年も4勝、30セーブと安定した働きを見せると、
83年は13勝、22セーブ、防御率2.27。
リーグを代表するストッパーとして、
その名をおおいに高らしめた。

84年、パドレスへFA移籍。
10勝、25セーブ、防御率2.90をマーク。
チームをワールドシリーズへと牽引するが、
大舞台で『ストッパー殺し』カーク・ギブソンに手痛い一発を見舞われるなど、2試合で4失点。
世界一の美酒に酔う事はかなわなかった。

その後、84年~86年まで3年連続で20セーブ以上と安定したピッチングを続けるゴセージだが、
徐々に、往年の勢いは失われていった。
88年からカブス、ジャイアンツ、ヤンキースとチームを変えるもパッとせず、
90年は日本のホークスに入団、
ここでも28試合で2勝、8セーブ、防御率4.40...と結果を残すには至らなかった。

91年、レンジャーズでメジャー復帰し、
以降、アスレチックス、マリナーズと球団を変えるが、
炎のストッパーに返り咲く事なく
94年、現役を引退した。

通算で1002試合に登板し、1809.1/3イニングで124勝、310セーブ、防御率3.01
2008年、悲願の野球殿堂入りを果たしている。

ちなみにニックネームの『グース(ガチョウ)』だが、
いうまでもなく、佇まいがガチョウに似ている事からつけられたものである。


file.181 Dick GROAT【ディック・グロート】

2007-03-27 | GHI
【1960.NL.MVP】
Dick GROAT

大学時代は、バスケで全米代表としてプレー経験があるグロート。
52年、パイレーツに入団すると、マイナーを経ずに
遊撃手として、即メジャーデビューを果たした。
この年、95試合に出場したグロートは、
打率.284、29打点と結果を残し、新人王投票では3位にランクされた。

53~54年は、兵役で試合には出場せず、
55年、復帰。
57年に、打率.315、7本塁打、54打点をマーク。
弱かった打撃力が、ようやく開花した。

スピードは無かったが、野球頭脳に優れており、
状況に応じた打撃が持ち味、
ヒット・エンドランの達人であった。
守備面でも、堅実なグラブさばきと、
的確なポジショニングで投手を助け、
名手、ビル・マゼロスキと鉄壁の二遊間を形成した。

60年、グロートは打率.325、2本塁打、50打点の成績で
チームのリーグ優勝と、世界一に大きく貢献。
シーズンMVPを獲得する。
リーダーシップを買われての受賞だったが、
同僚のロベルト・クレメンテが、
打率.314、16本塁打、94打点という好成績を残していたために
このMVP獲得は、人種差別問題として、物議をかもした。

63年にカージナルスへ移籍。
移籍一年目で打率.319をマークすると、
64年、打率.292、70打点でチームのリーグ優勝及び
ワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たした。

その後、
フィリーズ、ジャイアンツとチームを変え、
67年、現役を引退した。

通算2138安打、打率.286。

file.175 Bob HORNER【ボブ・ホーナー】

2007-03-15 | GHI
【赤鬼】
Bob HORNER

アリゾナ州立大学で通算56本塁打.....の実績を引っさげて
78年、全米1位指名でブレーブスに入団したホーナー。

マイナーでプレーする事なく、即メジャー入りを果たした超エリート、ホーナーは、
5月16日のデビュー戦、バート・ブライレーヴンから本塁打を放つ活躍で、
大器の片鱗を大いに見せつけた。
結局この年、打率.266、23本塁打、63打点で新人王を獲得。
翌79年は、打率.314、33本塁打、98打点の好成績、
21才にして、リーグを代表するスラッガーに成長する。

80年も35本塁打を放ち、MVP投票で9位にランクされる活躍を見せたホーナー、
86年には1試合で4本塁打の離れ業を演じるなど、
78年から86年まで7度の20本塁打以上をマークした。

86年のシーズンオフにFA宣言をしたホーナーだったが、
高額のFA契約を敬遠したい各球団のオーナー陣の共謀に遭い、
どのチームからも獲得の声はかからなかった。
足許を見たブレーブスは、減棒での再契約を提示していたが、
ホーナーは、これを拒み、年棒3億円で日本のスワローズと契約、
87年、海を渡った。

現役バリバリのメジャーリーガー、ホーナーは、日本で暴れまくった。
5月5日、タイガース戦で挨拶代りの一発を放つと、翌日には3本塁打。
結局、初めの4試合で6ホーマーの大活躍を見せ、その力を大いに見せつけた。
日本球界は騒然となり、『赤鬼』『ホーナー旋風』....の文字が
連日のように新聞各誌をにぎわせた。

結局、怪我もあり93試合の出場に終わったホーナーだが
打率.327、31本塁打、73打点は堂々たる数字であった。

が、相手投手陣の執拗な四球攻めや、チームの練習方法、追い回すマスコミなど、
日本球界に嫌気がさしていたホーナーは、
『ベースボールとは、とても呼べないようなスポーツをプレーするために
 地球を半周もさせられた』....と捨て台詞を残し帰国。
翌88年、カージナルスでメジャーに復帰した。

カージナルスでは60試合に出場し、わずか3本塁打しか打つ事が出来なかったホーナー。
30才の若さながら、この年限りであっさりと現役を引退してしまった。

file.174 Phil GARNER【フィル・ガーナー】

2007-03-14 | GHI
【scrap iron】
Phil GARNER

71年、ドラフト1位でアスレチックスに入団したガーナー。
75年にはセカンドのレギュラーとして160試合に出場、
76年は打率.261、8本塁打、74打点に35盗塁を記録。
勝負強い打撃と俊足を見せつけた。

77年に複数トレードでパイレーツに移籍すると長打力が開花、
この年、打率.260、17本塁打、77打点、32盗塁をマーク。

79年は、打率.293、11本塁打、59打点。
守備面でも、二塁で83試合、三塁で78試合、遊撃で12試合する
ユーリティリーぶりでチームに貢献。
『ファミリー』の一員として、
ウィリー・スタージェルやデイブ・パーカーらと共に
チームをリーグ優勝に導いた。
ワールドシリーズでは、打率.500、5打点と大暴れし
パイレーツ世界一の原動力となった。

ガーナーの真骨頂は、そのハッスル・プレーであろう。
いつもユニホームを砂や泥で汚しながらプレーする姿に
いつしか『scrap iron(鉄クズ)』というニック・ネームで
呼ばれるようになった。

81年シーズン途中でアストロズへ移籍。
82年には13本塁打、83打点と、
変わらないクラッチヒッターぶりを見せつけた。

88年、5球団目となるジャイアンツで現役を引退。
通算1594安打、738打点、225盗塁を記録している。

引退後は、92年からブリュワーズ、
2000年から2001年までタイガースの監督を歴任。
2004年からは、古巣アストロズの監督に就任し、
05年、チームをリーグ優勝に導いている。