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file .234 Billy RIPKEN 【ビリー・リプケン】

2007-12-31 | PQR
【兄弟で二遊間】
Billy RIPKEN

言わずと知れた
カル・リプケンjr.の実の弟である。

ビリー・リプケンは、1987年の7月、
父カル・リプケン率いるオリオールズでデビュー。
怪我で試合出場が出来なくなった、
二塁手のリック・バールソンの代役としてのメジャー昇格であったが、
ここに、兄カルとビリーの兄弟二遊間、
及び、監督・父、息子2人が選手....というシチュエーションが実現。
メジャー史上発の快挙と相成った。

結局、この年は58試合で打率.308、2本塁打、20打点と好成績をマーク、
兄同様の堅実な守備だけでなく打撃でもチームに貢献を果たした。

が、翌88年は打率.207と成績が急降下、
父も開幕からわずか数試合で監督を解任させられてしまい、
ビリーとしては、喜ばしくないシーズンとなってしまった。

その後もレギュラー二塁手としてプレーしたビリー。
高い守備率を誇る堅実さに加え、
カルとの息の合った連携プレーにも磨きがかかり、
守備面では文句無しの働きを見せたが、
打つ方は、打率.291をマークした90年以外はパッとせず、
93年、レンジャーズへ移籍。
新天地での新たなスタートとなったが、
レギュラーに定着する事は適わず、
98年、タイガースを最後に現役を引退。

通算674安打、20本塁打、打率.247。

「兄のような選手にはなれない....と人は僕によく言うが、
 きっと皆、僕の事を身の程知らずだと思ってるんだね。
 自分と兄の違いは自分が一番よく知ってるよ。
 兄はスーパースターで、僕はそうではないけれど、
 良い選手を目指している....という点では変わらない筈だよ」

現在はラジオのキャスター等をこなしながら、
兄カルと共に、マイナー球団の運営に携わっている。

file .233 Pete REISER 【ピート・ライザー】

2007-12-28 | PQR
【悲運の激突男】
Pete REISER

名将レオ・ドローチャーは言った。
「ウィリー・メイズには全てが備わっている。ピート・ライザーには運だけが欠けていた。」

セントルイス生まれのライザーは、1940年、
21歳の若さでブルックリン・ドジャースの外野手としてデビュー。

2年目の41年、打率.343、14本塁打、76打点の好成績で
首位打者に輝き、チームのリーグ優勝に貢献。
MVP投票でも2位に付け、オールスターにも出場するなど
最高の一年を送った。
素質の塊のようなライザーには輝けるスーパースターへの道が
開かれているように見えた。

42年、外野への飛球を追ってフェンスに激突。
担架で運び出されると、2日間意識不明の状態となる。
間もなく戦列に復帰するも、.383あった打率は最終的に.310へ下降、
それでも64打点、20盗塁(リーグトップ)をマークするなど、
オールラウンドな活躍ぶり。
2年連続のオールスター出場にMVP投票6位....と
前年に劣らぬプレーを見せた。

その後、3年間の兵役を経て
46年にチームに復帰。
打率こそ.277と大幅に下げたが、
11本塁打、73打点...とクラッチヒッターぶりを見せつけ、
34盗塁で2度目の盗塁王に輝いた。

が、「迷うな」がスローガンだったというライザーは、
度々、守備中のハッスルプレーが災いして怪我を連発。
47年には、やはりフェンスに激突し、シーズン途中で戦列を離れるハメに.....。

結局、この時の怪我の影響からか、
48年以降は、往年の輝きを取り戻す事無く、
ブレーブス~パイレーツ~インディアンズとチームを渡り歩いたが、
レギュラーに定着する事は出来ずに終わってしまった。
52年現役を引退。

通算786安打、58本塁打、87盗塁、打率.295。
10年の選手生活で100試合以上出場は4度、
余りある才能を持ちながら、それをフルに発揮する事は適わなかった。

守備中に担架で運び出された回数は
キャリアで11回にものぼる。
恐らく不滅のメジャー記録なのではないだろうか???

file .232 Jesse OROSCO 【ジェシー・オロスコ】

2007-12-18 | MNO
【馬車馬】
Jesse OROSCO

史上最多の1252試合に登板、
24年間投げ続け、8チームを渡り歩いた息の長いリリーフ投手。

オロスコは78年ツインズにドラフト2位入団するが、
デビューは79年のメッツであった。

メジャーに完全に定着したのは82年。
この年54試合に登板し防御率2.72、
4勝をあげるも10敗を喫してしまい、
イマイチ信頼感に欠く内容となってしまった。

が、83年に62試合、防御率1.47、13勝/17セーブと
素晴らしい成績をマークすると、
翌84年は60試合、防御率2.59、10勝/31セーブ。
チームの信頼を得るに至った。

左腕から繰り出されるムーブするストレートとシンカーを駆使し打者を翻弄。
83年以降は引退するまで全てリリーフ登板であった。

86年は58試合、防御率2.33、8勝/21セーブで
チームの地区優勝に貢献。
プレーオフ/ワールドシリーズでも、8試合に登板し
3勝2セーブを記録するなど、メッツの2度目の世界一に大きな役割を果たした。

88年、ドジャースへトレードされると
55試合、防御率2.72、3勝/9セーブをマーク、
自身2度目の世界一の美酒に酔いしれた。

89年、インディアンズへFA移籍、
その後もブルワーズやオリオールズ等で
セットアッパーとして活躍。
目立たないながらも、安定感のある働きを見せ、
95年~99年は5年連続で60試合以上登板。
40歳になった97年は、キャリアハイの71試合、防御率2.32、6勝をマーク.....と
見事なまでの馬車馬ぶりを発揮した。

2003年、現役を引退。
通算防御率3.16、87勝、144セーブ。
1970年代~2000年代...と4ディケードを黙々と投げ抜いた、
メジャー史上屈指の仕事人投手である。