【英雄】
Hideo NOMO
1989年オフ、8球団からの指名を受け
抽選の結果、バファローズに入団した野茂。
身体を半回転させて投げる、いわゆる「トルネード投法」から繰り出される
速球と鋭いフォークボールでパ・リーグの打者を圧倒、
防御率2.91、18勝、287奪三振など、
投手8部門で1位となり、シーズンMVPと新人王をダブル受賞、
鮮烈なデビューイヤーを飾った。
以降、4年連続の最多勝、最多奪三振など、
快刀乱麻の活躍を続け、日本球界を代表するエースとなった。
93年オフ、最大の理解者であり後ろ盾であった仰木彬監督が退団すると
野茂を取り巻く環境が一変する。
新監督の鈴木啓示は、これまで野茂が取り組んでいた
合理的なトレーニングを否定。
トレーナーの立花龍司を遠ざけ、自身の精神論を押し付けた。
その結果なのか、野茂は右肩を痛め、この年、17試合の登板にとどまり、8勝に終わる。
94年オフ、契約問題などで球団とこじれた野茂は、
任意引退の形をとり、バファローズを退団。
メジャー・リーグ挑戦の意向をあきらかにする。
95年、ドジャースとマイナー契約を交わした野茂。
日本のマスコミ、識者の多くが「我が儘」「無謀」と評する中、
5月にメジャーデビューを果たすと、この年、
防御率2.54、13勝、236奪三振をマーク、
最多奪三振に加え、新人王に輝いた。
さらに6月の月間MVP受賞やオールスター戦での先発登板など、全米を席巻。
スト問題などで人気低迷が叫ばれていたメジャー・リーグを再び盛り上げるのに一役買い、
さらに、日本でも社会現象になるほどの大フィーバーを演出した。
96年には、ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成するなど活躍し
防御率3.19、16勝、234奪三振。
97年は防御率4.25ながらも14勝、233奪三振をマークし、
メジャーを代表する投手として、その地位を確立した。
98年シーズン途中でメッツへ移籍し、2球団で6勝。
99年からはブルワーズ、タイガースとチームを変え、
2001年、レッドソックスへ移籍、
防御率4.50、13勝、リーグトップの220奪三振をマーク、
初登板のオリオールズ戦では二度目となるノーヒットノーランを達成し、
再び、全米の注目を集めた。
2002年、FAでドジャースへ復帰すると
この年、防御率3.39、16勝、193奪三振の好成績。
翌2003年も防御率3.09、16勝、177奪三振....と
古巣で安定した投球を続けた野茂であったが、
2004年、不調に陥り、防御率8.25、4勝に終わると、
2005年、移籍先のデビルレイズでも思うような活躍が出来ず
その後、2年間はメジャーの試合で投げる事は無かった。
今日、多くの日本人選手が
メジャーリーグの舞台でプレーしているが、
彼らに道を切り開いたのは、間違い無く野茂である。
日本でのメジャーリーグ人気に火を付けたのも言うまでもなく野茂である。
また、カル・リプケンJr.と子供野球教室を実施したり、
ノモ・ベースボール・クラブを結成し、
社会人野球を盛り上げようと奮闘するなど、
ベースボールに対する真摯な姿勢は、多くの尊敬を集めている。
2008年、ロイヤルズで、
3年ぶりにメジャーのマウンドに立った野茂。
3試合で9失点を喫すると
7月、「悔いが残る」現役引退を発表した。
メジャー通算320試合、123勝、109敗、防御率4.21、1915奪三振。
パイオニアが残した堂々たる数字である。
Hideo NOMO
1989年オフ、8球団からの指名を受け
抽選の結果、バファローズに入団した野茂。
身体を半回転させて投げる、いわゆる「トルネード投法」から繰り出される
速球と鋭いフォークボールでパ・リーグの打者を圧倒、
防御率2.91、18勝、287奪三振など、
投手8部門で1位となり、シーズンMVPと新人王をダブル受賞、
鮮烈なデビューイヤーを飾った。
以降、4年連続の最多勝、最多奪三振など、
快刀乱麻の活躍を続け、日本球界を代表するエースとなった。
93年オフ、最大の理解者であり後ろ盾であった仰木彬監督が退団すると
野茂を取り巻く環境が一変する。
新監督の鈴木啓示は、これまで野茂が取り組んでいた
合理的なトレーニングを否定。
トレーナーの立花龍司を遠ざけ、自身の精神論を押し付けた。
その結果なのか、野茂は右肩を痛め、この年、17試合の登板にとどまり、8勝に終わる。
94年オフ、契約問題などで球団とこじれた野茂は、
任意引退の形をとり、バファローズを退団。
メジャー・リーグ挑戦の意向をあきらかにする。
95年、ドジャースとマイナー契約を交わした野茂。
日本のマスコミ、識者の多くが「我が儘」「無謀」と評する中、
5月にメジャーデビューを果たすと、この年、
防御率2.54、13勝、236奪三振をマーク、
最多奪三振に加え、新人王に輝いた。
さらに6月の月間MVP受賞やオールスター戦での先発登板など、全米を席巻。
スト問題などで人気低迷が叫ばれていたメジャー・リーグを再び盛り上げるのに一役買い、
さらに、日本でも社会現象になるほどの大フィーバーを演出した。
96年には、ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成するなど活躍し
防御率3.19、16勝、234奪三振。
97年は防御率4.25ながらも14勝、233奪三振をマークし、
メジャーを代表する投手として、その地位を確立した。
98年シーズン途中でメッツへ移籍し、2球団で6勝。
99年からはブルワーズ、タイガースとチームを変え、
2001年、レッドソックスへ移籍、
防御率4.50、13勝、リーグトップの220奪三振をマーク、
初登板のオリオールズ戦では二度目となるノーヒットノーランを達成し、
再び、全米の注目を集めた。
2002年、FAでドジャースへ復帰すると
この年、防御率3.39、16勝、193奪三振の好成績。
翌2003年も防御率3.09、16勝、177奪三振....と
古巣で安定した投球を続けた野茂であったが、
2004年、不調に陥り、防御率8.25、4勝に終わると、
2005年、移籍先のデビルレイズでも思うような活躍が出来ず
その後、2年間はメジャーの試合で投げる事は無かった。
今日、多くの日本人選手が
メジャーリーグの舞台でプレーしているが、
彼らに道を切り開いたのは、間違い無く野茂である。
日本でのメジャーリーグ人気に火を付けたのも言うまでもなく野茂である。
また、カル・リプケンJr.と子供野球教室を実施したり、
ノモ・ベースボール・クラブを結成し、
社会人野球を盛り上げようと奮闘するなど、
ベースボールに対する真摯な姿勢は、多くの尊敬を集めている。
2008年、ロイヤルズで、
3年ぶりにメジャーのマウンドに立った野茂。
3試合で9失点を喫すると
7月、「悔いが残る」現役引退を発表した。
メジャー通算320試合、123勝、109敗、防御率4.21、1915奪三振。
パイオニアが残した堂々たる数字である。