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file .258 Hideo NOMO【野茂英雄】

2008-07-31 | MNO
【英雄】
Hideo NOMO

1989年オフ、8球団からの指名を受け
抽選の結果、バファローズに入団した野茂。
身体を半回転させて投げる、いわゆる「トルネード投法」から繰り出される
速球と鋭いフォークボールでパ・リーグの打者を圧倒、
防御率2.91、18勝、287奪三振など、
投手8部門で1位となり、シーズンMVPと新人王をダブル受賞、
鮮烈なデビューイヤーを飾った。

以降、4年連続の最多勝、最多奪三振など、
快刀乱麻の活躍を続け、日本球界を代表するエースとなった。

93年オフ、最大の理解者であり後ろ盾であった仰木彬監督が退団すると
野茂を取り巻く環境が一変する。
新監督の鈴木啓示は、これまで野茂が取り組んでいた
合理的なトレーニングを否定。
トレーナーの立花龍司を遠ざけ、自身の精神論を押し付けた。
その結果なのか、野茂は右肩を痛め、この年、17試合の登板にとどまり、8勝に終わる。

94年オフ、契約問題などで球団とこじれた野茂は、
任意引退の形をとり、バファローズを退団。
メジャー・リーグ挑戦の意向をあきらかにする。

95年、ドジャースとマイナー契約を交わした野茂。
日本のマスコミ、識者の多くが「我が儘」「無謀」と評する中、
5月にメジャーデビューを果たすと、この年、
防御率2.54、13勝、236奪三振をマーク、
最多奪三振に加え、新人王に輝いた。
さらに6月の月間MVP受賞やオールスター戦での先発登板など、全米を席巻。
スト問題などで人気低迷が叫ばれていたメジャー・リーグを再び盛り上げるのに一役買い、
さらに、日本でも社会現象になるほどの大フィーバーを演出した。

96年には、ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成するなど活躍し
防御率3.19、16勝、234奪三振。
97年は防御率4.25ながらも14勝、233奪三振をマークし、
メジャーを代表する投手として、その地位を確立した。

98年シーズン途中でメッツへ移籍し、2球団で6勝。
99年からはブルワーズ、タイガースとチームを変え、
2001年、レッドソックスへ移籍、
防御率4.50、13勝、リーグトップの220奪三振をマーク、
初登板のオリオールズ戦では二度目となるノーヒットノーランを達成し、
再び、全米の注目を集めた。

2002年、FAでドジャースへ復帰すると
この年、防御率3.39、16勝、193奪三振の好成績。
翌2003年も防御率3.09、16勝、177奪三振....と
古巣で安定した投球を続けた野茂であったが、
2004年、不調に陥り、防御率8.25、4勝に終わると、
2005年、移籍先のデビルレイズでも思うような活躍が出来ず
その後、2年間はメジャーの試合で投げる事は無かった。

今日、多くの日本人選手が
メジャーリーグの舞台でプレーしているが、
彼らに道を切り開いたのは、間違い無く野茂である。
日本でのメジャーリーグ人気に火を付けたのも言うまでもなく野茂である。
また、カル・リプケンJr.と子供野球教室を実施したり、
ノモ・ベースボール・クラブを結成し、
社会人野球を盛り上げようと奮闘するなど、
ベースボールに対する真摯な姿勢は、多くの尊敬を集めている。

2008年、ロイヤルズで、
3年ぶりにメジャーのマウンドに立った野茂。
3試合で9失点を喫すると
7月、「悔いが残る」現役引退を発表した。

メジャー通算320試合、123勝、109敗、防御率4.21、1915奪三振。
パイオニアが残した堂々たる数字である。

file .257 Clete BOYER 【クリート・ボイヤー】

2008-07-29 | ABC
【名手、日本へ】
Clete BOYER

名三塁手ケン・ボイヤーを兄に持つクリート・ボイヤーは、
18歳の若さでメジャーデビュー。
アスレチックスで47試合に出場し打率.241をマークした。

ブレークしたのは1960年、
ヤンキースへ移籍してからであった。
この年打率.242、14本塁打、46打点、
打撃は荒いものの、ケンと同じ三塁手として、
兄を凌ぐ守備力を見せ、チームのリーグ優勝に貢献した。

1961年、球界がロジャー・マリスの『61』に湧いた年、
ボイヤーは打率.224、11本塁打、55打点をマーク。
明けて62年は打率.272、18本塁打、68打点と
勝負強い打撃を見せ、ヤンキースの2年連続の
世界一に大きな貢献を果たす。

内野の要として
王朝ヤンキースを支えたボイヤー、
64年には、兄ケンの在籍するカージナルズとワールド・シリーズで相まみえ、
惜しくも世界一は逃したものの、
第7戦で兄弟アベックホームランを達成した。

67年、ブレーブスへ移籍、
この年、打率.245、26本塁打、96打点をマーク。
以降も、同僚の大打者ハンク・アーロンらと共に、
攻守にわたって、チームを支えた。

が、そんなボイヤーに大きな転機が訪れる。
1971年、チームを批判する発言をかましたボイヤーは、
シーズン途中で解雇されてしまい、
他球団からの誘いも無く、
ハワイの独立リーグでプレーする事になってしまったのだ。

そんなボイヤーに熱い視線を送っていたのが
日本のホエールズの海外スカウト牛込惟浩氏であった。

牛込氏からスカウトされたボイヤーは
72年からホエールズ三塁手としてでプレー。
4年間で打率.257、71本塁打、218打点をマークすると共に
卓越した守備力で多くの選手、ファンをうならせた。
現役引退後も日本に残り、その技術を後身に伝授した。

その後、アスレチックスやヤンキースのコーチを勤め、
2007年、アトランタにて死去。

メジャー通算1396安打、162本塁打、654打点、打率.242。


file .256 George BELL【ジョージ・ベル】

2008-07-26 | ABC
【ドミニカンは気難し屋】
George BELL

1978年、フィリーズと契約を交わしたベルだったが
80年のオフ、ブルージェイズへ移籍、
81年メジャーデビューを飾った。

その才能が開花したのは84年。
この年、打率.292、26本塁打、87打点をマーク、
同い年のロイド・モスビー、ジェシー・バーフィールドと共に
フレッシュな外野陣を形成した。

85年は打率.275、28本塁打、95打点、21盗塁で
チームの地区優勝に貢献。
86年、打率.309、31本塁打、108打点と
さらに成績を上げ、
87年には、打率.308、47本塁打、134打点で
打点王とシーズンMVPを受賞。
リーグを代表するスラッガーへと成長を遂げた。

神経質で気難しい性格のベルは、
いわゆる「陽気なドミニカン」では無かった。
87年、チームが、あと少しで地区優勝..という
シチュエーションになった時は
勝負のラスト10試合ほど、考え込みすぎて大スランプに陥り、
性格が災いして、地元マスコミとの関係も良くは無かった。

88年、24本塁打、97打点を叩きだすも、
前年に比べ大きく成績を落とし、
89年も18本塁打..と
絶頂時の87年に比べ、数字が落ち始めたベル。

91年カブス、92年からはホワイトソックスとチームを変え、
93年に現役を引退した。

通算1702安打、265本塁打、1002打点、打率.278

file .255 Bob ALLISON 【ボブ・アリソン】

2008-07-20 | ABC
【ツインズ創成期の英雄】
Bob ALLISON

大学時代は野球に加えてフットボールでも
花形選手だったアリソン。
プロ入りに際し、野球の道を選んだアリソンは
ワシントン・セネターズと契約を結ぶ。

1959年、レフトの定位置の座を得たアリソンは
打率.261、30本塁打、85打点の堂々たる成績で
オールスター出場及び新人王獲得と
最高のルーキーイヤーを送る。

61年には29本塁打、105打点、
62年は打率.266、29本塁打、102打点、
チームがミネソタに移り、ツインズとなっても
その豪打は相変わらずであった。

長いメジャーリーグの歴史の中では、
多くのパワーデュオが存在した。
ルース/ゲーリック、メイス/マッコビー、アーロン/マシューズ
カンセコ/マグワイア、オーティズ/ラミレス.....etc
そして、ミネソタにおいては、
通算573本塁打の「キラー」こと
ハーモン・キルブリューのデュエットパートナーが
このボブ・アリソンであった。

巨漢の強打者でありながら、抜群の選球眼、
積極的な守備と巧みなベースランニングも持ち味。
地元では、親友のキルブリューに次ぐ人気を誇った。

63年、打率.271、35本塁打、91打点
64年、打率.287、32本塁打、86打点...と
安定した強打者ぶりを発揮していたアリソン、
65年にはチームのワールドシリーズ進出に貢献し
シリーズ弟2戦では、逆シングルで、難しいフライを好捕、強い印象を残すも
結局、ドライスデール、コーファックスを擁する
ドジャースを破るには至らなかった。

その後もキルブリューや、トニー・オリヴァといった面々と共に
チームを支えたアリソンだったが、
30歳台半ばに差し掛かったあたりで、
攻守にわたり、満足のいくプレーが出来なくなり
70年、現役を引退。
引退後は、コカコーラ社に席を置き、
95年、死去。

通算1281安打、256本塁打、796打点、打率.251。


file .254 Bucky DENT【バッキー・デント】

2008-07-19 | DEF
【Mr.October in 1978】
Bucky DENT

70年、ドラフト1位でホワイトソックスに入団したデントは
73年、メジャーデビュー。
74年には遊撃のレギュラーを獲得し打率.274、5本塁打、45打点、
同年の新人王投票で2位に入る活躍を見せた。

打撃面では、非力で出塁率も低く、多くを望めない選手だったが
堅実な守備でチームを支え、甘いマスクで女性人気も高かった。

1977年、ヤンキースへ移籍。
レジー・ジャクソンやグレイグ・ネトルズ、サーマン・マンソンといった
個性溢れる選手に混じってプレーし、
打率.247、8本塁打、49打点、
9番遊撃としてワールドシリーズ制覇に貢献し、
勝利の美酒に酔い痴れた。

バッキー・デントといえば、
なんと言っても1978年であろう。
この年、ヤンクスとボソックスは同率首位で
レギュラーシーズンを終えた。
そこでワンデイ・プレーオフとなるわけだが、
コイントスの結果、試合はフェンウェイで行われる事になる。
同年、デントは打率.243、5本塁打、40打点に終わっており
相変わらず打撃では活躍を期待できない選手だったが、
この日は違った。
ヤズの本塁打などでボソックスがリードしていた7回、
デントはマイク・トーレスからグリーンモンスターを超える
会心の3ランホームランを放ちチームの勝利に多大なる貢献を果たす。
その後もデントの勢いは止まらず、
ドジャースとのワールドシリーズでは
6試合で打率.440、7打点と大爆発。
同じく大活躍だったレジー・ジャクソン(打率.391、2本塁打、8打点)を抑え、
見事シリーズMVPに輝く。
この年に限っては、Mr.オクトーバーはデントであった。

その後、デントはレンジャーズ、ロイヤルズとチームを変え、
84年に現役を引退。
古巣ヤンキースの監督を務めた事もあったが、
結果を残すに至らなかった。
通算1114安打、40本塁打、423打点、打率.247。

ヤンキースでは5年間にわたり、遊撃のポジションを守ったが、
デント以降、このポジションは選手が定着せず、
95年のデレク・ジーターの登場を待たなくてはならなかった。


file .253Wally MOON【ウォーリー・ムーン】

2008-07-12 | MNO
【Moon shots】
Wally MOON

1954年、プロ初打席を場外ホームランで飾ったムーン、
この年、24歳のムーンは151試合で
打率.304、12本塁打、76打点、18盗塁と大活躍。
スタン・ミュージアルやレッド・シューンディーンストらと共にチームを牽引、
同年デビューのアーニー・バンクスやハンク・アーロンらを抑え、
見事、新人王を獲得した。

翌55年も打率.295、19本塁打をマークし
デビューイヤーがフロッグで無い事を証明すると、
以後、カージナルスの主力選手として攻守にわたり活躍。
57年にはキャリアハイとなる24本塁打を放ち、
スラッガーとしての更なる成長を見せた。

58年オフ、
この年絶不調に終わったドジャースは、
名門復権のキーマンとしてムーンに白羽の矢を立てた。
結局、トレードでドジャースに移籍したムーンは、
見事その期待に応え
打率.302、19本塁打、74打点。
勝負強い打撃と好守を見せ、
リーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでもホームランを打つなど活躍し
チームを世界一に導いた。
MVP投票では4位に終わったが、チーム内での得票数では
ホッジスやスナイダーといった名だたる名プレーヤーの上を行っており
その活躍ぶりがいかにクラッチだったかが証明された。

60年、打率.299、13本塁打。
61年、打率.328、17本塁打、88打点.......と
以降もドジャースの主力打者として活躍を続けたが、
61年をピークに年々成績が落ちていき、
65年、53試合で打率.202、1本塁打に終わると、
この年のワールドシリーズ優勝を土産に
現役から退いた。

通算1457試合、打率.289、142本塁打、664打点。